街に、春がやってきた。
四月初旬の週末、国立代々木競技場第一体育館に凱旋を果たしたルビーたち新生B小町は、絶対的とも言える熱狂の渦をそこに作り出して、全国ツアーライブの有終の美を飾った。
全会場の合計動員者数は延べ十一万人を超え、全ての会場でチケット申込の競争倍率は十倍を上回った。潜在的な動員可能数は重複分を差し引いて考えても五十万人を下らない。ファンクラブの会員数も十万人の大台を突破し、ファンクラブの年会費収入のみで彼女たちは苺プロに一億円を上回る収益をもたらしている。
つまるところ、新生B小町というアイドルユニットは、名実ともにトップアイドルの仲間入りを果たしていた。動員可能数という定量的指標でのみ評価するのならば、彼女たちのそれはかつてのアイのB小町を上回ってさえいる。
無論、それをもってルビーがアイの背中に追いついたと、それを追い越したと言えるものではない。揃えた三枚の看板がどれも強力無比である新生B小町にとって、現状とは未だ想定の範囲内であるとさえ、言えるのであろうから。
故に、全ては次に懸かっていた。誰もが、次に目を向けていた。
すなわちそれこそが、苺プロ全員にとっての結実であり、また一つの夢でもある、「東京ドームライブの実現」に他ならない。
壱護社長は、「今度こそ誰一人として憂いのない形で、ライブを実現させること」を。
ミヤコは、「かつて壱護社長が自らに約束したそれを、今度は全員で見届けること」を。「あの日その場に来れなかった、それを見ることを叶わなかった双子と、あの場所の熱気と熱狂を分かちあうこと」を。
そして――きっとアイは、「あの日、ああいう形でしか立つことのできなかった舞台に、望みを、夢を持って上がる
そういうものを、きっと全員が目指していた。そういう夢を、持っていた。
状況が、立場が変わったのは、無論B小町だけではない。
季節が一つ巡る。その自然の営為は必然に、時の流れが作り出す不可逆な変化の存在を内包している。
その、きっと最も大きなものこそが、有馬かなと、そして黒川あかねの身の上に起きたことだろう。
つまり――B小町全国ツアー中の三月下旬、かなは無事陽東高校を卒業した。
式の場でのことは、アクアもよく憶えている。
かつて芸能科の中にいると言えども華々しい『表の世界』にいるとは言い難かった彼女は、しかし今や全国区のアイドルユニットの一員として衆目を集める存在へと変貌していた。
昨年末にあった帝劇ミュージカルの成功は、「女優・有馬かなここにあり」という大きなメッセージを、芸能関係者に向けて打ち出すことと等価だった。
バラエティ、CM、そして映画。かつての栄光に近づき、あるいはそれさえも上回るかもしれない眩い光を放ち始めている彼女は、陽東高校を巣立って行く芸能科の卒業生の中で、その中央に座するに相応しい存在感を示していた。
彼女の選んだ進路は、その選択は、すでに聞いていた。たしかそれは、今より半年以上前、B小町の武道館ライブが無事盛況のうちに終わった十月ごろのことだった。
「大学には行かない。私はこの世界に骨を埋める」。アクアと、そしてルビーを前に、苺プロのあの事務所の応接ブースのソファに座って、彼女はそう宣言した。「だって、時間は限られてるもの」と、笑いながら。
「じゃあ、高卒になるってこと? 先輩。あれだけ私には進学しろしろうるさく言ってきたのにさぁ」
「うるっさいわね……!」
ルビーからのいつもの通りの軽口に半ば歯軋りしながらも、しかし彼女は腕を組み、天井を見上げる。
「演技しかないの。この世界の外で生きていくイメージが、私にはつかない。でも、それでいいって思う。思えるようになった」
どこか清々しい表情と共に、かなはアクアの方を流し目で一瞥した。
「アンタのおかげよ、アクア。あと、まあまあムカつくけど、ルビーもね」
彼女の言葉からは、そして態度からも、自身の決心に対するハッキリとした覚悟を、アクアは感じ取る。
そうであるのならば、それに対してアクアが何を言うことも、きっと野暮でしかないということも。
「一言余計だなー先輩」
「余計はどっちよ! 一々煽んなきゃ気が済まないわけアンタは!?」
もっとも、そのあと更に茶々を入れてきたルビーとかながまたじゃれ合うように喧嘩を始めたことは、ご愛敬としたものだろうけれども。
いずれにしても、かなは晴れて「高校生女優兼アイドル」から、「女優兼アイドル」へと自らの立場を変えた。
その選択によって、ルビーたちに先んじて自らの裁量の幅を広げたかなは、事務所に相談の上で精力的に仕事を取ってくるようになりつつある。
例えば、夏にあるとある舞台の主演の仕事は、その一つだ。かつて「板の上で金にならない仕事をしても」と、おそらく多分のやっかみ交じりに黒川あかねの仕事の仕方を腐していた彼女の姿は、もうそこにはない。
そしてもう一つ、秋クールのプライム帯に放映される連ドラでも、かなは見事主役の座を勝ち取っていた。曰く、彼女がその前に地上波のドラマで主役を張ったのは干支の一回り分は前のことであったというのだから、かな自身の中でその感慨は一入に違いない。そう、アクアは思わされていた。
脳裏に映し出す記憶が、そこで入れ変わる。
高校を卒業したのは、かな一人だけではない。同い年であるあかねもまた同じだ。しかし彼女はかなと違って、大学へと進学する道を選んだ。
勿論、彼女としても役者稼業を辞めるつもりはさらさらない。かなに比べて、役者に対する熱意の部分で劣っているわけでもない。
だからその理由は、ともすれば単純なものだった。
何を隠そう、それを彼女に奨めたのは、他でもないアクアだったのだから。
黒川あかねは、まごうことなき才媛である。特に頭脳を働かせることにあっては、『前世』などというズルをして二十代後半の産医の記憶を持ち越しているアクアと比較してさえも、時に凌いでいるのではないかと思わせるほどだ。
こと彼女に関しては、将来に対する可能性を狭めてしまうことはあまりに勿体ない。本心から、アクアは思っていた。
確かに、大学などいつからでも入れる。あかねほどの頭脳があるのならば、一度役者の道を一途に追い求めて、そこに一区切りをつけてから学問を志すことだって、容易ではあるのだろう。
だからある意味それは、アクアにとってはエゴだったのかもしれない。彼女ほどの能力、彼女ほどの才能がありながら、一つの可能性だけにそれを偏らせてしまうことを、口惜しいと思ったその感情は。
それでも、結局あかねはアクアのその勧めを受け入れた。
強要したわけでは、断じてない。ただ、あかねと交わしていた世間話の中で、彼女から訊かれたあかね自身の将来展望について、自らの本心を語っただけだ。それも丁度、かなが自らの進路についてアクアに宣言したのと同じぐらいの時だっただろうか。
その時、アクアの勧めを受け容れたあかねが浮かべていた、あの何とも表現の難しい晴れがましい笑顔が一体どのような感情から来るものであったのか、アクアは未だによく分かっていない。
ともあれ、いずれにせよ彼女たちは、かなとあかねの二人は、自らの進む道を己の意思によって選び取った。
それはきっと、確かに喜ばしいことなのだろう。そう、アクアは素直に信じられた。
そうなれば、残るはアクア自身のことである。つまり、今の自身にとって目下最大の関心事である、「15年の嘘」の進捗についての話だ。
映画の撮影は、順調に進んでいた。新生B小町全国ツアーのさなかにやってきた宮崎でのロケも、天候に恵まれたことで非常にいい画が撮れていた。
かの地において行われたのは、劇中における時計の針をやや戻し、アイが十三歳の五月、準メジャーデビューのような形で一時期B小町が活動の幅を広げようとしていた頃の、全国十都市を回る初の全国ツアーを巡る一幕のロケだった。
アクア――というより吾郎にとっては、それはあまりに忘れ得ぬ記憶と共にあるライブだった。ただ当然、この作品を作り上げる中においては、如何に助監督とはいえ、脚本担当とはいえ、そこに私情を挟んではならないことは十二分に理解していた。
だから、それでもこの宮崎をロケの対象に選んだ事情は、アクアの個人的な拘りとは別のところに存在する。
それは大きく分けて、二つだった。
一つは、出資者の意向である。今回の映画に出資を申し出てくれた企業の中の一つに、宮崎県に拠点を置く公共交通を業とする会社が存在した。
担当者は女性だったらしいが、ともかくその彼女は鏑木に対し、出資に当たって一つの条件を付けてきたという。それがつまり、「宮崎を『聖地』に出来るような内容の描写を盛り込んで欲しい」という要望であった。
無論、彼女のその要求を断り、代わりの出資者を探すこともできはした。しかし、鏑木は結果としてそうはしなかった。そこに絡むのが、理由の二つ目に他ならない。
その二つ目というのが、「彼女たちにとって宮崎という地は初の地方巡業先であった」という事情だ。言い換えれば、あの場所はB小町が初の全国ライブを敢行するにあたって最初に足を踏み入れた土地だった、ということである。
それは「15年の嘘」という物語を作る上で、非常に意味のある要素だ。
アクアは、そして五反田監督もまた、「B小町初の全国ツアー」というイベントを、映画の中におけるストーリーの一大転換点として定めていた。
宮崎のロケで撮影するエピソードの中心となるのは、アイと壱護社長の二人だ。役者としては、あかねと大輝である。勿論、他のB小町のメンバー――そこには当人たちのツアーライブもあって現地に入っていた新生B小町の三人も当然に含まれる――にも多少の出番はあったにせよ、エピソード全体の中核をなすのがその二人であったことに違いはない。
そこまでの部分で描かれていたアイは、超越的な才能と絶対的な存在感によってグループの中心をあっという間に占め、しかしそれが軋轢と衝突を生む、どちらかと言えば「しくじり」の、「失敗」の面が強調された姿だった。彼女自身の生い立ちや、グループ加入の経緯も併せて、どちらかというと陰鬱な空気を漂わせるエピソードが、その前半には集中している。
「アイ」という個人の不完全性を、歪みを、そして弱さを表現するためには、それは必要な描写だった。
けれども、そればかりではいけないのも事実である。「15年の嘘」は、アイというアイドルの事実と真実を世に知らしめるためのドキュメンタリーであると同時に、れっきとした商業映画、つまりエンターテインメント作品であるからだ。
今回の映画の予定上映時間である二時間十分もの間、鬱々とした人間模様を延々と流し続けて、観客がついてくるはずもない。物語にはメリハリというものが必要で、それはつまり視聴者への『報酬』だ。
うまくいかない現実からの、抑圧され続けた描写からの解放の兆しが、必要だった。そしてアクアはそのポイントを、この宮崎のライブ、ひいてはB小町の全国ツアーに求めた。
映画の舞台の一つとしてかの地を定めることを決めたのは、むしろそういう「作劇上の都合」という面の方が大きかったかもしれない。だから新生B小町がそこから全国ツアー先に同じ宮崎を選んだのは偶然の一致で、しかしアクアたちが撮ろうとしている映画の構造から考えたときには、天の配剤にも思えるほどにお誂え向きの流れでもあった。
これはアクアが壱護社長から聞いた話ではあるのだが、この全国ツアーを始める半年ほど前に、アイは一度B小町を辞めようとしていたらしい。
アイの存在を理由とするB小町の中の不仲が決定的なものとなり、物理的な害となってアイに現れるようにもなった。例えばステージ衣装はおろか普段着までズタズタにされてごみ箱に捨てられていたりとか、私物を隠されたりであるとか。言葉を選ばずに言うのならば、幼稚なイジメである。
映画においては、その下手人が誰であるかの直接的な描写は避けていた。そこを掘り下げることに意味はないからだ。ただ結果として、アイは自らがB小町にいることそれ自体を誰にとっても不幸なことであると考えるようになった。故に、彼女はそのタイミングでB小町を抜けようとしていた。
結局その時は、壱護社長がどうにかアイのことを説得してそれを押し留めたわけなのだが、その時に彼がアイに向かって言ったことは、ある意味今回の映画のテーマの一つにさえ、重なるものだった。
彼はアイに、ファンから送られてきたファンレター全てにもう一度目を通してみないかと、そう提案した。
『嘘だと思っても、ずっとそれを続けていれば、いつか嘘じゃなくなるかもしれねえ。お前にとって、誰かに「愛してる」って言うことがそれだってなら、向き合うべきだよ、お前は』
本当に、一言一句違うことなく彼自身がそう言ったのかどうかは、アクアは知らない。しかしいずれにせよ、あの映画において、アクアは壱護社長にそれを言わせた。
『「推し」ってのも、まあ一種の愛情表現だからな。こういうこと正面から言うのは、ちぃっとばかし恥ずかしいが』
頭の後ろを搔きつつ、しかしその表情は真剣に。
『けど、お前にとっては勉強だ。アイドル辞めるってんならそれでいいけどよ、でもその前に全部に目を通すのは、絶対損にならねえと思うぜ』
それはつまり、今より二十年前の壱護社長が見せた、若さゆえの情熱でさえあったのかもしれない。
アイは、壱護社長のその提案に従った。
『母親のこと』のせいで見ることが億劫になっていた、臆病になっていた幾つもの便箋を開けて、その中に書かれた言葉に目を通した。
そこに書かれていた、純粋な『推し』への応援の言葉を、一つ残らずアイは読んだ。
そのとき、本当の意味で如何なる心理がアイの心に生じたかは、分からない。故に、描写することもしなかった。けれどもその結果として、アイはその全てを読み終えたあと、苺プロの会議室の中で唐突に壱護社長に切り出した。
『社長。私、やりたいことができたんだよね』
突然のその宣言に、怪訝そうに首を傾げた彼に向かって、アイは笑みを浮かべる。
『私もさ、あんな風になりたいって思ったんだ。ああ、あのファンレターの話』
それが、彼女の出した答えだった。
綴られたファンレターに込められていた思いの丈の全てを、確かにアイは受け取った。
それはアイという『個人』に対する強い執着だ。『推し』という対象も、『推す』という行動も、他者への並々ならぬ興味と、そして強い思い入れがなければ決して成り立たない。
『そういうの、いいなって。「愛してる」って、まだ全然よく分からないけど。でも誰かを「推す」っていうことがそれに近いんだったら、まずその「推す」をできるようになってみたいなって、思ってさ』
言葉を並べるアイが見せているのは、いつもの通り奔放で、歌うようで、本気とも嘘ともつかない声色で、振る舞いだ。けれどもその目だけは、いつにもまして爛々と輝いていた。
『どうせだったら、私は日本中を「推して」みたい。せっかくだし、目標はビッグにさ?』
浮かべる笑顔も、いつもの『求められた』それとは確かに違う明るさを、温度を帯びている。
『日本中を推して、日本中から推される。そういうの、いいじゃん』
ね? と、まるで念を押すようにぱちりと片目を瞑って見せたアイのことを、壱護社長はどこか呆然とした面持ちで眺めるばかりだった。
つまり、彼女は翻意した。アイドルを辞めるという自身の言葉を、撤回した。それが、たった一つの事実だった。
壱護社長はその日のやり取りから、B小町というアイドルの次なる一手を考える。すなわちそれこそが、「B小町の初となる全国ツアー」だった。
そこにあったのは『アイドルグループ・B小町の商業的躍進』を目論む思惑ばかりではない。企画の源流にあるのはアイの抱いた遠大とも言うべき目標で、そしてそれに壱護社長が共感したからこそ、件の企画は立ち上げられたし、成ったのだと言えた。
B小町にとっても、アイにとっても、それははっきりとしたターニングポイントである。なればこそ、この全国ツアーは「15年の嘘」の物語の中で確かな役割を持っていたし、その最初の公演場所であった宮崎という地は、ロケ地として選ばれるに足るだけの必然性を持っていた。
――いや、それだけではない。断じてそれだけではない。
同時にこの宮崎という場所は、アイという少女の物語にとって、一つの「伏線」が存在する場所でもある。
B小町の全国ライブがここで行われてより僅か二年半ののち、彼女は再びこの地を訪れることになるのだから。言わずもがな、妊婦として。
アクアにとって、それはこの映画における「最大の分岐点」だった。
アイの真実を明らかにする、その本当を公のものとするのであれば、彼女の『これ』――すなわち妊娠と出産のことは、本来ならば決して避けてはならない。
そこを隠せば、その部分については『嘘』になる。そしてこの嘘の存在は、のちのアイの内面を、変化を描く上で、必然的に、そして致命的な矛盾を生む。
それを良しとしたくないのであれば、本来的には選択肢などないのだ。たとえ映画の公開後にアイが世間からどういう目で見られようとも、逃げることは許されない。そこをどうリカバリするのかは、壱護社長の手腕に任せるよりはない。アイにしても、そしてルビーにしてもである。
けれども、アクアにとってそれは本末転倒にも等しかった。
アイの夢を絶たせない。ルビーの道を汚さない。二人の未来を、何としても保障する。そのための「15年の嘘」だ。カミキヒカルの対処というのは、ある意味ではそのための構成要素の一つに過ぎない。
であるというのに、この映画の存在が彼女たちの将来に対する最大の障害となるようでは、この作品など撮らないほうがよほどマシというものだろう。
ならば、アクアはどうするべきなのか。どの道を進むべきであるのか。
それは脚本を構成する時点からアクアにとってまさに最大と言ってもよい悩みであって、そして結局アクアは、曲がりなりにも一つの結論へと到達していた。
時が、今へと戻る。四月の終わり、ゴールデンウィークがあと一週間ほど先に見えてきたこの日、撮影現場となるスタジオには、映画「15年の嘘」の主要キャストのほかに、更に二人の人物の姿があった。
人物、という大上段からの表現が正しいかどうかは、いささか難しいところもある。何となればこの場にいるその二人とは、幼い子供であるのだから。
「え!? この子達が『私たち』なんだ!」
現場の中、これから始まる撮影の為に先代B小町のアイドル衣装を身に纏った、金紗の髪の少女――ルビーが、その「彼ら」に視線を合わせるかのように、床にしゃがみこむ。
「えーかわいー! なんかちょっとテンション上がっちゃうなー!」
既にお揃いの金のウイッグをつけて並んで立つ二人に、きらきらと輝くような視線を、彼女は向けた。
つまり彼らとは、子役だ。ともに齢僅か三歳、役の上では「二歳から三歳のクリスマスまでの間のアクアとルビー」を演じることになる、二人だった。
その日のことは、幼児期健忘によって曖昧なものとなりつつある昔日の記憶の中にあって、今なお朧気ながらに覚えている。
あれは確か、販促ライブにおいてルビーと共謀してサイリウムを振り回してオタ芸を打った悪ふざけの一件の、いくらか後のことだったはずだ。時期としては一歳半ぐらいの頃の話である。
兎も角その辺りで、一度アクアとルビーの二人は、壱護社長とミヤコの間に生まれた子供として、当時人気急上昇中であったB小町の、ライブ直後の楽屋に入ったことがあった。
記憶だけではない。その時撮られた写真は、今もなお苺プロの事務所に、そしてアクアたちの住む家のリビングの写真立てにも飾られている。
ステージ衣装を身に纏った、B小町のうちの三人が、まずそこには映っている。中央にてしゃがみこむのは言わずもがな、赤の衣装のアイだ。
その向かって左側で中腰の姿勢をとっているのが、檸檬色の衣装を纏ったきゅんぱんである。そして反対側の右側には、二人と同じデザインの菫色の衣装で、ピースサインをカメラに向けているありぴゃんが立っていた。
そして、アイがその両腕に抱きかかえている二人の幼子こそが、アクアとルビーに他ならない。そこに加えて、きゅんぱんとありぴゃんの更に両脇に立つ斉藤夫妻を合わせた七人が、フレームの中には納まっていた。
現実においては一歳半あたりに起きたそのエピソードを、この映画においては半年ずらして二歳のこととして扱う。「そう何人も子役を起用したくない」という撮影の都合上の問題もありはしたが、結局これもまた、アクアの考えた『結論』に連なる決断の一つだった。
『え、すごーい! めっちゃきゃわー!!』
ライブ直後の楽屋の中に、社長夫妻とともに現れた二人の幼子の姿を見つけて、きゅんぱんが目を輝かせる。
『これ社長のお子さんですか!? え、ほんとに!?』
『ねー! 可愛すぎ! ミヤコさん似?』
『失礼だなお前ら……いやまあ、別にいいけどよ』
途端にそちらに駆け寄り、きゃいきゃいと黄色い声を上げはじめたきゅんぱんとありぴゃんの後ろで、アイが心なしか胸を張る。
『でしょー!』
まるで肩で風を切るようにして、アイがきゅんぱんとありぴゃんの二人の間に割り込んだ。すっと腰を下ろして、二人の幼子と視線を合わせる。その瞳が、照明の光を受けてきらりと瞬いた。
『「でしょー」じゃねえだろ。お前の子供じゃねえんだから』
『えー、いいじゃん別に。可愛いの可愛いって言ったってさ。ねー、
壱護社長の掣肘をものともせずに、そのふわふわとした蜂蜜のような髪色の双子の幼児に語り掛けていたアイが、はたとその顔を上げる。
『そだ。社長、写真撮らない? せっかく二人がここに来たんだしさ』
『あ? 写真だ?』
『そ、写真。いいでしょ? こんな機会ないんだし』
ね、と左右にいるきゅんぱんやありぴゃんに意向を尋ねてみれば、彼女たちも名案だとばかりに大きく頷く。
『さんせー! じゃほら、アイちゃん真ん中行ってよ。その子たちも』
快活な声と共に手を挙げたきゅんぱんに促されるようにして、アイを中心とした構図が組まれていく。その場を通りかかったスタッフにスマホを渡して、斯くしてそこで一枚の写真が撮られた。
実際に苺プロの事務所に飾られているそれと瓜二つの情景が、その場には再現されていた。
つまりアクアは、今回の映画におけるアクアとルビーの描写については、努めて第三者的目線からのそれを徹底した。対外的に「壱護社長とミヤコの間の子供」として扱われている双子の実際を、否定も肯定もしないことにした。彼らと交流するアイの様子さえも、ありのままに描いた。時折『自爆』しかけていた当時のアイの危なっかしさも、全て引っくるめてである。
この映画において描くべきは、アイの本質だ。アイの人間関係でもなければ、その『ブラックボックス』を開くことでもない。秘さなければならない『双子』とアイとの関係は、それを大っぴらにしないことも、また「本物の彼女」を描くという方向性には合致する。そういう風に、アクアは自らのことを納得させた。
しかし同時に、この双子の登場は、「15年の嘘」という作品、「アイの物語」の中において、二つ目のターニングポイントとして機能していた。
この双子との一幕ののち、劇中におけるアイの振る舞いが、少しずつ変わり始める。
ライブにおけるパフォーマンスもそうだ。アイが浮かべる笑顔が、明確に感情の色を帯びるようになる。それは必要に駆られて演じられた笑顔ではない、はっきりと誰かに向けるために形作られた笑顔だった。
メンバーとの関係性も、次第に変化していく。元々比較的仲の良い方だったきゅんぱんとありぴゃんの二人とは、件の一件から更に色々な話を交わす仲へと次第に深化していった。
それはライブの中身や進行、パフォーマンスの話だけではない。互いのプライベートに関するあれやこれやも、アイはためらわずに打ち明けるようになり始めていた。
アイの役を務めるあかねは、この頃のアイの繊細ともいうべき表情の作り方の変化の軌跡を、非常に巧みに再現した。
少しずつ、嘘が本当に変わっていく。アイが求めていた探し物が、彼女の中で確かな形を帯びていく。
それがはっきりしていけばいくほど、アイのスター性もまた磨き上げられていった。ブレイク寸前の地下アイドルというべき立場に甘んじていたB小町もまた、ドラマに映画、バラエティ番組にCMと、そこから確かなスター街道を駆け上がっていた。無論、その中心に常にアイがいたことは、変わらなかったけれども。
その辺りから少しずつ混ざり始める現実の側のドキュメンタリー映像も、映画全体の描写に説得力を与える。というより、アクアと五反田監督はそれを企図して映像づくりをしていた。
少しずつ大きくなっていくライブの規模と、メンバーとの談笑のショットが増えてゆくアイの姿。二つの循環が、映画の中のB小町の躍進と歩調を合わせるかのように、希望に満ちた将来展望を映し出してゆく。
しかしそれは、同時に一定の含みをも内包していた。
つまり――事態が順転していくきっかけとなったあの双子の存在は、ならばアイにとって一体何なのだろうか、と。
「元々比較的近かったきゅんぱんやありぴゃんとの距離が、双子との一件によって更に縮まり、そこからアイは次第に、そして改めてグループに溶け込んでいけるようになった」。双子、すなわちアクアとルビーの存在は、結局のところただの呼び水、触媒以外の何物でもない。そういう解釈も、出来なくはない。出来るように、作ってある。
けれども同時に、この一連の描写の裏に何があるのかは、『見る人』が見れば自ずと察せられるようにもなっていた。
アイをこうまで変えたのは、なんなのか。というよりも、誰なのか。その、意味するところを。
そこに解釈の余地を与えることで、アクアはこの映画における絶対的な前提を守ろうとしていた。
「嘘をつかない」という、「本物を撮る」という、もともとはアイと五反田監督との間に交わされた誓約のようなものだ。けれども同時に、アクア個人にとってもそれは欠かしてはならない要件の一つだった。
アクアには、自らの発するメッセージを必ず届けなければならない相手がいる。その『誰か』に、アクアがこの作品に潜ませた意図を、正確に読み取ってもらわなければならなかった。
アイは、星野アイは、どういう人間だったのか。何を志していたのか。そして、どう変わったのか。
それを伝えることで、いや、思い知らせることで、アクアは自らの狙いの前提となる条件を整えようとしていた。
そしてその中、ある意味一つの転換点とも呼ぶべきシーンが、訪れようとしている。
すなわちそれはこの映画における中盤の山場、「B小町の東京ドームライブ」と、その時彼女の身に起こった、あの事件の話だった。
「結構、クるね、これ。ドライのときは、まだあんまり実感わかなかったんだけど」
マンションの玄関を模したセットの中、件のカットのランスルーを終えた現場の中で、不知火フリルがアクアに向かって話しかけてきた。
このカットそのものには、ありぴゃん役として出演しているフリルの出番は当然ながら存在しない。
彼女は今日、こことは別に用意されたセットにおいて、このシーンの前後に位置するカットを撮るためにこの場にいた。つまり今この瞬間におけるフリルの立場とは、純粋な「見学者」ということになる。
「こういうの訊くのあれかもだけどさ。この話、本当?」
訊ねてくる彼女の目の中には、どこか痛ましささえ帯びているような、それでいて「信じられない」と主張しているような、尋常ならざる光が見えている。
アクアはそれに、ただ頷いた。
「……俺が刺されたのは、本当」
「刺された場所も?」
「ああ。あんまり見せるものでもないけど、右脚の付け根、まだ傷がある。多分一生消えないだろうな」
瞬間、フリルがはっきりとその表情を歪めた。
アクアたちが目線を向けているこのマンションのセットの床の上には、つい先刻まで「アクア」が倒れていた。あの時の、つまり四歳――正確には三歳と八か月ほどではあるが――のアクアが、その身にナイフを突き立てられた状態で、モノのように転がっていた。
本番ではないために、まだ本格的な小物の出番ではない。しかしこの後にやってくる実際のテイクにおいては、この床の上はまさに血の海と化す。絵面としては、きっともっと凄惨だろう。
あの時の自分の姿をこうして客観的に見ると、「よくもまあ生き残ったものだ」と思わずにはいられない。
そしてきっと、そういう思いを懐いたのはアクアだけではなかった。
フリルを傍に置きつつも、助監督としての立場から、映りのチェックも兼ねてモニタの中のランスルーの映像データをもう一度確認しようと覗きこんでいたアクアの背後に、影が差した。
空気の揺れが、その「誰か」が背後、ほど近くの場所に立っていることを、アクアに知らせている。必然に、アクアを相手にその距離まで身を寄せることに躊躇いのない相手とは、誰であるのかも。
映像の再生を止める。後ろを振り向けば、そこにはアクアの予想の通りの人物がいた。
伏せられた顔を、はらりと垂れた金糸の束が遮っている。けれども、それを誰何するまでもありはしなかった。
「おいで」
アクアの口からそれが出ると同時に、まるで待っていたかのように、彼女はアクアの身体めがけて飛び込んできた。
ふわりと舞った彼女の髪が、アクアの視界をほんの一瞬だけ遮る。そしてそれごと、アクアはその少女の、ルビーの身体を、しかと腕の中に抱き留めた。
甘えるかのように擦り付けられた頭を、ただ無言で撫でる。
彼女にかけるべき言葉を、アクアは持たなかった。
この場面を映画の中に取り入れることを決めたのは、五反田監督ではない。アクア自身だった。
それがいかなる影響を生むかを理解した上で、それでも敢えてアクアはこれを作品の中に再現することを選んだ。
ならば、その余波を受け止めることもまた、アクアの役割である。あの日あの時、あの不知火フリルをしても「クるものがある」と言わしめた情景を、臭いさえも目と鼻の先で知覚したルビーのことをケアすべきは、自身を措いて他にはいないと、アクアは理解していた。
いや、そういう意味では、ルビーに関してはまだ「マシ」でさえあるのかもしれない。
「普段ならさ」
そう、横から声がする。フリルの声だ。アクアはそちらに顔を向けなかった。
「『美形兄妹のカラミとか、視力0.8は上がる』とか言う場面なんだけど。流石にそういうテンションにはなれないかな」
「……いや、言っただろ今」
「……バレた?」
思わず横を向けば、フリルが本気とも嘘ともつかないいつも通りの無表情で、アクアのことを見ている。
しかし、もう三年目になろうとしている彼女との多少の交友関係が、今フリルが身に纏っている空気の意味するところを、アクアに伝えていた。
軽く混ぜっ返すような言葉遣いこそしてはいるものの、今のフリルは確かに、茶目っ気を発揮しようとする浮ついた気分ではないらしい。
「でも、茶化すべきじゃないのは分かるよ。アクアさんも、ルビーも。……アイさんも」
アイの名前が出た刹那、半ば無意識のうちに、アクアはルビーのことを抱きしめる腕の力を強めていた。
アイは今日、この現場にやってはこなかった。
この世界における最上級のタレントの一人である彼女は、当然に未だ多忙を極める身の上だ。しかしこれまでルビーが「きゅんぱん役」として現場に出てきた日は、前後の仕事を無理にリスケしたり巻いて終わらせたりしてでも、アイは「15年の嘘」の現場にやってきていた。そういう気合を、ずっと見せ続けてきていた。
偏に、ルビーの雄姿を己の目で見届けるためだろう。色々な意味で、「隠す気はあるのか」と問いたくなるような振る舞いであるとさえ、言えはする。
そして今日もまた、ルビーの撮影は予定されていた。「ありぴゃん役」であるフリルとのカットだ。
東京ドーム公演に臨むB小町のメンバーとして、午前中から現場に詰めて準備を進めていたところを、午後一ギリギリで滑り込んできたアイの姿に、そしてその目に宿る壮絶なまでの「覚悟の光」に、理由を尋ねることなく、しかし呼応するかのように覚悟を決める。
「伝説のドームライブ」と呼ばれることになったあのB小町の東京ドームライブの直前の一幕を、ルビーは今日演じることになる。
けれども今日、彼女はここにいない。「来ることを選ばなかった」というよりは、むしろ「来ないことを選んだ」のだろう。
その理由は、問うまでもない。
『あの日』ののち、日常生活においてさえ刃物一般を極端に忌避するようになったアイのある種の後遺症は、そこから十年近くも続いた。言い換えれば、アクアたちが中学校二年生ぐらいの頃までということになる。
ルビーが包丁を持っても、その姿をつきっきりで見ていることを条件にギリギリ許せるようになったのが、アクアたちが家庭科実習を始めるようになった小学校四年生ごろのこと。そこから更に二年、小学校卒業の直前辺りで、やっとアイは自分自身で刃物類を取り扱えるようになった。
けれどもそこから更に二年の時が経つまで、アイはアクアに対して刃物を触らせることさえ許さなかった。包丁どころではない、鋏でさえもである。
いや、正確には今でも、アイはアクアに刃物を握らせることを決して良しとはしない。ドラマや映画の撮影の場において刃のついていないプロップのナイフを持つことまでは流石にダメとは言わないが、それにしたって決していい気分はしていないだろうことも、態度で分かる。
アイが、アクアも、ルビーでさえも、あの日のあのマンションの玄関に少なからず自分自身の一部を置き忘れたままというのは、つまりはそういうことなのだ。
けれども、だからこそ、このシーンは必要なものだった。
その日、早朝どころか未明からB小町のドームライブの為に動き始める斉藤夫妻は、この日一日だけは面倒を見られないからと、アクアとルビーの双子をアイに託していた。
それが、悲劇を生む。部屋の中に響いたインターホンの相手をアイが確認しようとするより先、その近くにいた双子の一人が、アクアが、玄関口の方へと歩いて行ってしまう。
それを制止しようとしたアイの動きも間に合わず、アクアは背を伸ばして扉の鍵を開けてしまった。チェーンロックのかかっていなかったドアはそのまま外からの力で乱雑に開けられ、そしてそこに、『死神』がやってきた。
本当に起こったこととは、寧ろ真逆に近い筋書きだ。
だからこの日起こった一部始終に関してだけは、アクアは明白に嘘を吐いた。
アクアたち三人のほかに、その場における真実を知る者はいない。それを告げる必要があるとも、思わなかった。
「死神」――菅野良介のこともそうだ。アイに対する明白な殺意を持ってその場に現れた彼は、あのときアクアの身体を刺すつもりでナイフを振るってはいなかった。
しかし、「15年の嘘」では違う。もともとアイへの逆恨みによってこの場に現れた良介――劇中では「貝原亮介」という偽名に差し替わっているが――は、扉を開けてその場にいきなり現れた少年の姿を見て、完全に逆上した。
――ガキまでこさえてやがったとはな、この
そのまま、何のことかわからず怯えた表情で自身のことを見上げるアクアの身体に、完全に殺すつもりでナイフを振りかざした。
逃げようとするアクアが、しかし足をもつれさせて転んでしまう。それを庇おうとして駆け寄ったアイは、しかしギリギリで間に合わなかった。
アイが引き寄せようとしたアクアの身体の、その脚の付け根に、殺意を込めて振り下ろされたナイフが深々と突き刺さった。アイの、目の前で。
溢れ出したどす黒い血が、アイの手を、足を、服を、床を、零れてゆく命の色で塗り潰してゆく。
どうして。そういう表情を、アイは浮かべた。自分の身に、アクアの身に起きたことが一体何なのか、受け止め切ることさえできていないような。
勢いよく振り下ろしたナイフが深くアクアの脚に食い込んだせいで、それを手放す形になってしまった亮介が、しかし未だ溢れる殺意をそのままに、アイに手を上げようとする。
しかし――その直前、アイは顔を上げた。アクアを抱えたまま、寧ろその場で彼のことを庇うように亮介に背を向けながらも、しかしその顔は、目だけは、決して逸らさなかった。
双眸の中の光が、彼の動きを止めた。
『ごめんね、リョースケ君』
発されたのは、そのたった一言だけだった。けれども、それだけで男は、亮介は一歩後ずさる。
広くなった視野が、隅に光っている一つのオブジェの姿を、僅かに捉える。そちらの方に視線を流して、亮介は目を見開いた。
桜色の星の砂の入った、砂時計型のオブジェだ。フラッシュバックする記憶の中、握手会の場でそれを彼女に渡したいつの日かの出来事が、亮介の脳裏に浮かぶ。
『私、結局嘘つきだから。君が何に怒ってるかもわからない』
故に、そうやって淡々と紡がれてゆくアイの言葉は、しかしあまりの力強さで、彼の胸を抉っていく。アイの方に視線を戻した彼の瞳が、呼吸と共に大きく収縮した。
『君が推してくれてた私は、私じゃなかったのかもしれない。みんなを推せるようになろうって思ってたけど、リョースケ君には届かなかったのかもしれない。だけど』
それは、確かにアイの本音だった。
嘘ではない。アクアはそれを、他でもないアイ本人から聞いていた。彼女にした、唯一の「取材」だった。
ここは、ここだけは、アイ本人の心の中にあのときあった「本当の言葉」が、どうしても求められていた。そうでなければならなかった。
『それでも私は、君のことだって、推そうと思ってた。推せてると思ってたんだ」
静かに、しかし決して逃れることを許さぬように、目で、言葉で亮介のことを束縛して、アイは言葉を吐き出し続ける。
『でも、違ったんだね』
その一息の長台詞の最後、アイの目が僅かに伏せられる。身を挺するように、守るようにアクアを抱きかかえた腕に、僅かに力が籠る。
せめてもの止血にと押さえた刺し傷から流れ続ける血が、彼女のもう片方の手を、赤褐色に染め上げていた。
『教えてよ、リョースケ君。……どうしたら、よかったのかな』
たとえそれがあの日本当に起きたこととは遠くかけ離れていても、あの時本当にアイが発した咄嗟の一言は、「どうして」というただその一言は、その内側にこれほどの心情を内包していた。
そんなアイの気持ちの全てを正面からぶつけられ、耐えきれなくなった亮介はその場から逃げ出す。
虚ろな空気ばかりが残ったマンションの床の上で、アイは弾かれるように動き出した。携帯を取り出して救急車と警察を呼び、そのまま必死にアクアの名前を呼びかけながら、タオルを使った止血を始めた。
その懸命の応急処置と、迅速にやってきた救急隊員の努力の甲斐あって、アクアはすんでのところで一命を取り留めることとなる。
そして――その日の夕方から始まったB小町の東京ドームライブにて、アイはとうとう完全なる覚醒を果たすに至った。
そこに何が作用していたか、映画は詳しくを語らない。
けれども、これはアクアが映画の中に込めた、強烈な一つのメッセージだった。
「アイとアクアたちが親子であることを知っている誰か」であれば、絶対に読み解くことのできるメッセージだった。
――アイを変えたのは、お前だ。
――アイを『普通』に向かって大きく後押ししたのは、他でもないお前自身の決断だ。
――『特別』ではない、『普通』に。彼女がなりたかった『普通』に。
故にこれはアクアからの、カミキヒカルに対する第一の『挑発』であり――そして同時に、アクアが己の本懐を遂げるための、仕込みの第一歩でもある。
終局へと至るビジョンが、そこに敷かれた筋道が今、形作られ始めていた。
本作においては、アクアは「アクアとルビー」の二人をアイの子供だとは明かさないことにしました。
当然、焦点も殆ど当たりません。ツクヨミを呼ぶ必要もありませんでした。