天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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1-7. ここから始まる

 瞼を、光が刺激する。急激に鮮明化していく意識と共に、アクアはその目を見開いた。

 視界はぼやけている。飛び込む光は眩いばかりで、しかし曇った世界は何物も映すことがない。

 どうしたのだろう。何が起きたのか。そもそもここはどこか。いつもの家のそれとは違うような。

 頭の中に疑問が駆け巡って、しかし直後、()()()()()()()に感じた引き攣るような痛みとともに、アクアは全てを思い出した。

 

 ドーム公演当日の早朝。飛び込んできた凶刃と、決死の抵抗と。その末に我が身に起こったことの、その顛末を。

 

 そうなれば、今の自身の境遇も自ずと理解できる。

 即ちここは、救急――小児救急の搬送先だろう。大きいとはいえ、ナイフ刺創とそれによる出血性ショックに対する措置の手術を終えたぐらいの患者に転院措置は不要だろうし、病床のキャパシティの問題はあるが、救急科から外科への転科で十分であろうから。

 意識を手放す直前の、元医師としての思考に引っ張られてそんな職業病のような考えばかりがぐるぐると頭を巡って、だからアクアは自らを取り巻く環境に対してまで、理解が及んでいなかった。

 

 がたり、と音がする。未だ焦点が定まらぬ視界には像が結ばれることなく、それ故にアクアはぼんやりと、その音の聞こえた方へと顔だけを向ける。

 一際大きい、息を呑む音が聞こえた。

 

「ぉ、にい、ちゃん……?」

 

 声がする。震える声だ。その主は誰か、その呼び名で自らのことを呼ぶ者が一体誰なのか、アクアはそれを一人しか知らない。

 

 ――ルビー、か?

 口にしようとして、しかし出てきたのは掠れ切った、声になどなりそうもない空気の音だけだった。

 筋肉が萎縮している。喋ることすらもままならないならば、意識レベルが低下したことによる安静臥床の期間はどれほどのものだったのであろうか。

 

 いや、違う。またも「そちら側」に引っ張られそうになる思考を追い出して、アクアはゆっくりと頷く。

 話せないなら、身振りで伝える。今確かに、自分は起きたのだと。生きているのだと。

 

 腹に、衝撃が伝わる。右の脚に鈍い痛みが走って、表情が歪んだのを自覚する。

 飛び込んできたのだ。恐らくはルビーが、自分の身体目掛けて。それに気づいたのと、ルビーの嗚咽と号泣の声がアクアの鼓膜を揺さぶったのは、ほぼ時を同じくしてのことだった。

 

 

 

 どうやら自分は、三週間もの間意識不明の状態であったらしい。アクアはそのことを、ルビーに連れられてやってきたミヤコ夫人から聞かされた。

 救急科に搬送された時点では昏睡状態にまで意識レベルが低下していたアクアだったが、しかし受傷からかなり早い段階で必要最低限の応急処置が為されていたことが幸いしたか、血管吻合と輸液を含む緊急手術が終わって三十六時間後までの間には、意識レベルの改善が見られたという。ただそこから完全な覚醒状態までにはなかなか至ることなく、結果としてそれほどの期間、アクアは半昏睡の状態で臥せっていたらしい。

 当初考えていたより、自分は色々な意味で瀬戸際にいたのだと、アクアは今更ながらに恐怖した。もう少し出血性ショックへの処置が遅れていれば、自分の脳は不可逆な損傷を受けていたのだ。言語機能や認知機能に後遺症が出ていてもおかしくなかったし、最悪、遷延性意識障害*1を生じていた可能性さえあったかもしれない。

 自分の見立てが甘かった。運がよかったのだ。アクアはそのことを、誰に対してでもなく感謝した。

 

 幸い意識が回復した今、思考能力に関しては明瞭だ。判断能力が低下している兆候も見られない。脳機能障害については、あまり心配の必要はないだろう。そうアクアは自己分析する。

 ただし、それ以外の部分はかなり深刻だった。

 年齢にもよるが、一般に三週間の安静臥床は、人間の筋力を五十パーセント低下させる。これは医学的には常識レベルの話だ。そしてそれは、あらゆるものに対して及ぶ。

 すなわち今のアクアは、不随意筋である内臓筋や心筋以外のあらゆる筋肉が、それこそ眼筋や口腔筋の類に至るまで、著しく萎縮していた。

 

 目の焦点が合わない。喋ることができない。身体も満足に動かせない。まるでもう一度、赤ちゃんにでもなった気分である。

 故にそのあたりの運動機能がまともに回復するまでのおよそ二週間、アクアは見舞いにやってくるアイやルビー、そしてミヤコ夫人に壱護社長の誰に対しても、まともに応答することができなかった。

 

 だからアクアは、自分の身体に取り縋りながら嗚咽の声を上げて、何度も何度も謝罪の言葉を口にするアイに対してさえ、何を言うこともできなかったのだ。慰めることすらも。

 

 

 

 その後、アクアは会話能力や視力の回復を待ってリハビリに入ったが、その全てを終えて退院するまでには半年ほどの期間を要した。

 更に言えば、それでもなお入院前の水準まで筋力は戻り切っておらず、最終的に維持期リハビリを合わせてアクアは九か月もの間、病院の世話になり続ける羽目になった。

 刺されて病院に運ばれてからの期間を考えれば、十か月以上である。つまりアクアは実質的に、四歳の一年間丸々を空費する憂き目に遭っていた。当然にというか、一応「苺プロ所属の子役」であるアクアには幼稚園に通う以外にもぽつぽつと子役の仕事が入ってはいて、少ないながらも家計の補助を担っていたのだが、それらはすべてキャンセルになった。幼稚園も無論のことながら休園だ。結果的に、久方ぶりにアクアは「外界から隔絶された生活」へと逆戻りしていた。

 

 もっとも、『その程度』のことでアイの命が贖えたのであれば、それは随分安い買い物であっただろうことには違いない。「もっとうまくやれただろう」という後悔こそ根強く抱えているが、自分がとった行動それ自体に対しては、アクアは一つとて悔いてはいなかった。

 

 なぜなら、生きているからだ。アイも、ルビーも。それに勝る喜びはないだろう。アクアはそう、本気で信じていた。

 

 

 

 ただ一方で、アクアたち家族の関係は、あの事件を経て変わった。変わってしまった。

 

 まずは、ルビーのことだ。アクアが最初にそれに気づいたのは、回復期リハビリのためにリハビリ病棟に移った時のことだった。

 外科病棟で臥せっていた時は、目がまともに見えないせいで昼夜すらはっきりしない生活が長く続いていたから意識することがなかったが、リハビリに伴ってある程度規則的な生活を送るようになれば、嫌でもわかる。

 つまり毎日、それこそ面会可能時間のほぼ全てにわたって、自分の傍にはルビーがつきっきりになっていたのだ。

 

 本当に、片時も離れない。朝九時、朝食の時間とともにルビーは病室に現れて、そして面会時間の終わる夜の八時まで、ずっとアクアの傍に居続けている。

 本来ならば見舞客は立ち会うことができないはずのリハビリの時間すら、ルビーは医師や看護師に拝み倒すようにして、本当に一瞬たりともアクアから目を離そうとはしなかった。

 

 

 

「あのさ、ルビーその……幼稚園は、どうしたんだ?」

 

 リハビリを始めてから何日か経って、アクアはそう訊ねたことがあった。毎日この場所にいるということは、幼稚園は欠席を続けているということだろう。それを案じてのことだった。

 しかし当のルビーは、あっさりとした調子で答える。

 

「休園してる。お兄ちゃんと同じだよ」

 

 思わず、アクアは絶句していた。

 

「休園って、お前……」

 

 宜なるかなだろう。間違っても、そんなあっけらかんとした口調で言っていいものではなかった。

 背筋が冷える。自分はもしかして、取り返しのつかないことをしてしまってはいないか。声の端が震えた。

 

「友達、たくさんできたって、言ってただろう。なんで……」

 

 しかし、ルビーは動じない。

 

「そりゃそうだったけど。でもお兄ちゃんの方が大事だし。だってさ、」

 

 そこで言葉を切って、ルビーは外に視線を向けた。

 アクアのいるこの病室からは、中庭の植え込みの緑が鮮やかに見える。その風景を目にして、ルビーは目を伏せた。

 

「お兄ちゃんは、『独りぼっち』だもん。あんなに頑張って、それでケガして。ママもミヤコさんも、忙しくて」

 

 ルビーが、アクアの方に向き直る。ベッドの中のアクアの右手を取り出して、彼女は自らの両の手で握ってきた。

 目を伏せたまま、真剣な声色で、言葉が続いた。

 

「独りぼっちって、『寒い』から。だから今度は、私が」

 

 顔が上がる。視線が合う。見えた双眸に宿った光は、込められた覚悟を映しているように、アクアには見えた。

 何も、言えなくなった。

 

()()()()()()()()()

 

 発されたその言葉に含まれる意味はきっと幾重にも絡み合っていて、一言で解き明かせるものではないのだろう。

 けれども、向けられた意志の強さに、アクアはただ首を縦に振るしかない。

 ――こんな表情を、するようになったのか。あのルビーが。そんなことも考える。

 

「……無理だけは、するなよ。それは、絶対だからな」

 

 だからせめてもの抵抗としてそう念押しするぐらいが関の山で、アクアはルビーのその決心を、認めるほかなかった。

 何となれば、今のルビーの存在は、確かにアクアの心の支えだったからだ。隣で自分に向かって笑みかけて、常に横でこちらのことを鼓舞して、励ましてくれる妹の姿が。その献身が。

 あさましいと思わずにはいられなくても、自らの気持ちに嘘はつけなかった。

 

 

 

 そしてもう一つが、アイのことだ。

 「あの日のドーム公演以降、アイは変わった」。そう、人々は口にするようになった。

 それまでのアイは、見るものすべてを惹きつける笑顔も、その輝きも、あどけなさを帯びた少女性と、天真爛漫なる軽やかさが印象としては先行する、一言でいえば「ポップな印象」を人々に抱かせるタイプのアイドルだった。生い立ち故の無教養さがいわゆる「おバカキャラ」のパブリックイメージとなっていたことも、理由の一つだ。

 しかしあの日以降のアイは、そんないつも通りの振る舞いのどこかに、時折いっそぞっとするような情念のオーラを覗かせるようになった。ふとした時に纏う雰囲気が、アイという偶像(アイドル)の中に強烈なまでの「女性性」を感じさせるようになった、と言ってもよいかもしれない。

 アクアが生まれてからこのかた、アイは何度かの羽化、進化を経てアイドルとしての魅力を磨き上げてきたが、今回はそれとは全くベクトルの違う進化をしたと言ってもよい。むしろ「変化」、「変異」と言うべきなのかもしれないほどに。二十歳という節目を迎え、「女性性」という新たな一面を開花させたアイには、もはや単なるいちアイドルとしての仕事を飛び越えた、女優業をはじめとする単独での仕事が回ってくることが増え始めていた。その方針転換を、世間は歓迎した。

 

 

 

 斯くて世間は、「無敵のアイドル」アイはあの「伝説のドームライブ」をきっかけにして、とうとう完成の域に至った、と言う。

 そこには、東京ドームライブの翌日に表沙汰になった一つのニュースの存在も作用していた。

 「ドームライブ直前の朝、アイは彼女の熱狂的なファンの男に襲われ、しかしギリギリで難を逃れた」。そのニュースは、ドームライブにおけるアイの絶対的なまでのパフォーマンスと合わさって、アイに対して「どんな逆境に置かれてもアイドルとしての輝きを失わない、本物のプロフェッショナル」という新たなキャラクター性を植え付けていた。

 

 しかしアクアは知っている。身をもって理解している。あの日以降のアイに、一体何が起こっているのかを。

 

 あの日の出来事は、アイの心に未だ癒えぬ傷を残している。そのことを意識したのは、アクアがリハビリ病棟から退院して、アイと生活を共にするようになってからのことだった。

 まず、アイたちはあの日事件が起きたあの部屋から退去して、別のマンションに移り住んでいた。

 前のものよりも更に厳重なセキュリティが施された物件だ。オートロックは共用部の玄関のほかに各階にも施されていて、今度はコンシェルジュも二十四時間常駐している。故にあの時のように悪意を持った人物が共連れで侵入してくる可能性はかなり低い。至極当然の選択ではあるだろう。

 

 しかし、それだけではない。無事退院の日を迎え、アイたちの新居へと移ったアクアの見たものは――包丁の握れなくなった、アイの姿だった。

 

 ――どうしても、ダメなんだ。そう言って、アイは自嘲を含んだ笑みを浮かべた。

 あの日、息子の右腿に突き立ったナイフを見て以降、アイは刃物の類を一切受け付けなくなった。

 見るのも嫌なのだ。料理のために握るなど、以ての外である。一番酷かったときは鋏すら満足に扱えなくなっていたのだから、彼女の心にあの日のことが落とした影が一体どれほどの濃さで、深さであったのかと、アクアは思わずにはいられない。

 

 果たしてアイは、それまでなんということもなくやれていたはずの料理のかなりの部分を、まともにこなせなくなってしまった。

 当然、代わりに子供たちに包丁を握らせるなど彼女にしてはもっとあり得ないことなわけで、必然的にその日以降、星野家の食卓にはスーパーやデパートの惣菜が並ぶことがほとんどになった。

 

 そんなテーブルの有様を見て、「ダメなママでごめんね」と呟いたアイの姿は、アクアにとって余りにも(むご)く、そして居た堪れないものだった。ルビーと二人、「そんなことはない」と強く抱きしめても、アイの中にある自罰的な感情そのものを癒すには、あまりにも力が足りていなかった。

 

 アイを蝕んでいるものは、そればかりではない。彼女の中に眠る傷が最も表へと出てくるのは、夜のことだった。

 アクアがアイたちと再び暮らすようになってからというもの、それまでアクアたち双子と別々の部屋で寝ていたはずのアイが、一転して同じベッドで眠ることを強く求めてくるようになったのだ。

 

 直接に言われることはなくとも、態度で分かる。分かってしまう。夜の闇の中、アクアたちの姿がどこにも見えないことが、手の届くところにその温もりを感じることができないという現実が、彼女にはもはや耐えられないのだと。

 夜眠りにつくとき、「両手を握ってほしい」とか細く乞うた母の弱々しい姿を、アクアは今もなお忘れられずにいる。

 

 そうだ。母の、アイの心の中で、あの日起きた事件はきっと、まだ何一つ終わってなどいない。

 朝起きたとき、彼女の腕の中に閉じ込められていたことなど、両手両足の数では足りないぐらいなのだ。そして恐らくその数だけ、アイは悪夢に苛まれている。

 

 あの日の廊下の、血の海に沈むアクアの姿が何度でも思い浮かんで、それに抗うように、藻掻くように目を覚まして、必死で我が子の姿を探して、隣で穏やかな寝息を立てている息子に思わず縋りついてしまう。

 アクアが寝ている間の出来事ゆえにこれは想像に過ぎないが、そう的外れではないだろうと、アクア自身考えていた。そしてそんな母の心労をできる限り和らげるべく、アクアは自分からアイの身体に抱きつくようにして眠ることも少なくなかった。

 

 

 

 アクアは思う。これほどまでにアイのことを苦しめる悪夢の根源は、畢竟自分自身にあるのだ。

 どうしても、後悔は残る。もっと自分は、うまくやれたはずなのだ。できることは、あったはずなのだ。

 あの朝、玄関のチャイムが鳴った時に十秒早く違和感に気づけていれば、アイのことを止められていたのだから。

 あるいは、オートロックがあるからと慢心することなく、普段からドアチェーン越しの応対をしてさえいれば、それが習慣づけられていれば、そもそも事件すらも起こらなかったのではないか、と。

 

 あれだけずっと、アイのことを守ってみせるのだと誓っていたのに。それこそが、自分がこの場所に、アイの息子として生を享けた理由であるはずなのに。身体は、命は守れても、心を守れていないではないか、と。

 結局、詰めが甘いのだ。本当に、あまりにも。

 そんな、先に立たない後悔を、アクアはずっと抱えていた。抱えざるを得なかった。

 

 同時に考える。ならば自分には、何ができるのか。これからの自分は、アイの、ルビーの精神に不可逆な影響を与えてしまった自分は、どうやってそれを贖っていくべきなのだろうか、と。

 そう考えたときに、一つの事実が、アクアの中に浮かび上がった。

 

 

 

 あの日、アクアたちの居所を襲撃してきたあの「リョースケ」なるファンの男は、その後行方を晦ましたのち、自宅と思しき場所で発見され、そのまま搬送された病院で死亡が確認された。発見当時の現場の状況――首を吊った状態で発見された――から、警察はその死因を自殺であると認定し、事件性はないとしてそれ以上の捜査を打ち切った。

 つまりあの「リョースケ」という男それ自体が、もう一度アクアたちのところに害を加えようとやってくることは、もはやない。

 しかし一方で、やはり謎は残る。

 すなわち、五年前のアイの出産予定日のことにせよ、一年前の襲撃にせよ、襲ってきた人間は何故かアイの個人的な情報を知っていた。というより、あの時病院の前で吾郎に見つかって、最終的に吾郎のことを崖から突き落とした人物も、今から考えればそのリョースケなのだろう。あの時は夜も遅く、吾郎はあの時の不審な人物の容貌について詳しくは確認できていなかったが、最低でも背格好は似ていた。「あれもまたリョースケの仕業だった」と言われて、それを否定する材料は持っていない。

 ただいずれにせよ、単なる一介のファンでしかなかった、そして報道によればただの学生であったリョースケに、あそこまでの情報を自分で収集する能力はないはずなのだ。アイの出産のときと同じように。

 

 つまりそれは、アクアがアクアとしての自己認識を初めて持ったときに考えていたことへと帰着する。

 ――協力者がいる。最低でもアイの内部情報をどういうわけか知っていて、それを害意を持って利用しようとする者は、未だこの国のどこかに必ずいる。

 宮崎の時だけならば、疑うべき範囲はあまりに広く、候補を絞っていくことは困難だった。

 しかし今は違う。二度もアイの個人情報を把握し、しかも今回に関しては引っ越したばかりのアイの新居の情報を、その「協力者」は掴んでいた。

 

 なれば、範囲は限られる。どこにか。アイの交友範囲の中にだ。

 アイは、バラエティ番組の中で自虐するほどには交友範囲が狭い。それは多分に彼女自身の生い立ちが影響していたし、十六歳という若さから芸能界のスター街道を瞬く間に登って行ってしまったことによる弊害でもあるだろう。

 ただいずれにせよ、それほどまでの親密さで彼女の内部事情に詳しい相手など限られているのだ。

 

 疑いをかけるべき人物の候補は、いくつかある。

 例えば、苺プロ内部の誰か。具体的には壱護社長やミヤコ夫人。これはあり得ない。論ずるにも値しない。自分の事務所の稼ぎ頭、看板アイドルであるアイの身を危険に晒すようなマネを、いくら何でもするはずがない。

 B小町の他のメンバー。これはあるかもしれない。アイの存在は、B小町の中で際立っている。特にアクアが幼稚園に入園した頃からの二年間に関しては、B小町というよりはアイ個人に振られる仕事というものが増えていて、それはつまりB小町の中でもアイにだけスポットライトが当たる状況が長く続いていたことを意味する。嫉妬の情が縺れきった結果の凶行、というセンだ。

 しかしこれにも疑念が残る。アイの出産に際しては、おそらく壱護社長はB小町内部に対してもその事情を伏せていたはずで、したがって他のメンバーはアイの休養をあくまでも体調不良だと認識しているはずだ。それを妊娠出産に伴う入院であると看破してみせた、とは流石に考えづらい。

 故にアクアは、最後の可能性に行きつく。すなわちそれは、アクアたちの血縁上の父親――アイと性交渉を行い、彼女を妊娠させた人物だった。

 

 人間は単為生殖が不可能な生物である以上、必然的に当該の人物は存在している。アイが精子バンクから精子の提供を受けて体外受精したのであれば話は別だが、いくら何でも当時十五歳の少女がそんなことをするはずがない。

 そしてアイは、頑なにその存在をアクアたちに隠し続けてきた。最低でも、アクアにはそう見えた。無論そんな男の存在そのものがスキャンダルの元だからという事情はあるが、いずれにせよアクアは、そしてルビーも、自分たちの父親に該当する人物のことを何も知らない。

 

 為人を知らないから、疑っているのだ。そういう話ももちろんある。自分の危惧は、単なる杞憂に終わるかもしれない。しかし今の時点において、アイの秘すべき個人情報が漏れるとすれば、その人物から以外の可能性は考えづらいこともまた事実だった。

 

 

 

 アクアは誓っていた。次こそは失敗しない。今度こそ自分はアイの、そしてルビーの、すべてを守り切ってみせる。あの日、意識を喪う寸前に懐いていた強烈な感情を、母に向けた情動の奔流を「愛」と呼ぶのなら、自分はそれを遂げねばならない。いや、何としても遂げたいのだ。

 ずっと探し続けて、手を伸ばし続けてきたものへの手がかりが、やっと得られたかもしれないのだから。

 

 ならばどうする。アクアは自問する。

 ――探さねばならないのだろう。自分は、己の父親のことを。そう、アクアは結論付けた。

 

 無論、直接的にそのことをアイ自身に訊くという方策も考えはしたが、彼女がアクアにそれを明かすとはどう考えても思えなかった。そしてアクアがそれを知りたがる理由を感づかれでもしたら、すべてご破算だ。最悪、座敷牢だろう。そういう危うさを、今のアイは持っている。

 同じ理由で、これはルビーに対しても明かすことは難しい。そうアクアは直感していた。つまり身内の協力を得ることは期待できない。

 

 精々、あるとすれば壱護社長とミヤコ夫人に助力を求めることだろうが、これも実質的には不可能であるアクアは考えていた。

 

 というのも、どうにも最近、アイと壱護社長との距離が近いのだ。

 無論、それは決して男女の仲がどうこうという話ではない。ただああいうことが起きたからだろうか、アクアが退院してからこのかた、壱護社長はかなりアイとのコミュニケーションを綿密に取るようになっている。

 アイの方もアイの方で、あの事件までならば明らかに壱護社長のことを茶化して煙に巻いていたに違いないだろうに、彼女にしてはあり得ないほどの真剣な表情で壱護社長と何かを話しているところを、アクアは見たことがある。壱護社長にとっても、そして当然にアイにとっても、思うところは多かったということなのだろうか。

 

 ただその状況と言うのは、正直なところアクアにとって大変に都合が悪い。何故なら壱護社長が関知した情報については、おそらくそのままアイに流れていると見た方がよいからだ。ならばそれは、アイに直接話しているのと何も変わらない。

 だったら彼らに全て任せることができるかと言えば、正直なところそれはそれであまりにもリスクであると、アクアは考えていた。自身が関与し得ないところで彼らに下手な嗅ぎ回り方をされて、結果アイやルビーに危険が及ぶのでは、文字通りの本末転倒なのだから。

 

 つまり今アクアがやろうとしていることは、独力によってのみ成就されなければならない。それ以外に道はない。

 ならば、どうすべきか。幸い、手がかりはある。アイの交友関係から考えて、その相手はほぼ確実に芸能界にいる。ならば自分のなすべきは、アイの半生をなぞるように芸能界に立ち入って、その中で自分の立ち位置を確保しながら情報を集めていくことになるだろう。

 

 時間的猶予は、どのぐらいか。幸い、あの事件があってからアイの身辺の警戒はかなり厳重になっている。個人情報に関しても口外することは固く禁じられていて、さらに念には念を押す形で、アクアとルビーは戸籍の上では壱護社長とミヤコ夫人の養子となっていた。アイのプライベートは、世の中に対して徹底的に秘匿されることになった。

 ただ、いつかは綻びがやってくる。この世界において、隠しきれる情報というものはそう多くないのだ。特に交友関係が広がっていけば広がっていくほど、リスクは高まる。

 その時にボトルネックとなるのは、恐らくは自分たちだ。そう、アクアは考えていた。よってそこから、実質的な「期限」を逆算する。

 

 恐らく、現実的なタイムリミットはアクアたちが十八歳になるまで。それ以降は、主に大学の交友関係を中心にアクアたちの情報は世の中に広がってゆく。そうなれば、制御することは困難だ。

 よってそれまでには父親の情報に辿り着いている必要がある。もし仮に自分たちの父親がアイに対して害意を持っていた場合、そこに至るまでに集めた「材料」から先手を打つことも可能となるだろうから。

 

 

 

 斯くして、アクアは以降の人生における方針を定めた。幸い、それまでにいくつかやってきた子役としての経験から、アイに対して「役者の道に進みたい」と申し出ても、特段怪しまれることはなかった。ついでにルビーが「じゃあ私はアイドルやりたい」と手を挙げていたが、それもまたよしだろう。いつかアイと一緒にB小町の曲を踊った時の経験がルビーにそんな決心をさせたというのなら、アクアは彼女の選択を尊重することについては全くやぶさかでなかった。

 唯一懸念があるとすれば、アクアは通常の子供にとって最も運動能力の発達が見られる四歳から五歳にかけての一年をほぼリハビリに費やしていたために、ほかの子供に比べて運動機能の発達が圧倒的に遅れていることだ。幸い骨格の成長自体は問題なく、身長が伸びきらない可能性はあまり考えなくてよいが、成長した後もスポーツのような激しい動きができるようにはならないだろう。

 しかし、だからと言って役者になれないかと言えば、全くそんなことはない。役を多少選びはするだろうが、キャリアを諦める理由にはならない。故にアクアは、自らの方針のもとに先に進むことを決めた。

 

 そしてその最初の取っ掛かりは、ほかならぬアクア自身の手の内にある。

 アイの子供として、最初に入った現場の中、自分のことを目にかけて連絡先を共有してくれたその人物に、アクアは一本の連絡を入れた。

 

 ――お疲れ様です。星野アクアです。ご無沙汰しております。

 ――この度、僕は本格的に役者の道を志すことにしました。ついては僕に対して役者としての演技を教えて下さいませんか、五反田監督。

 

 

 

 運命の歯車が、静かに動き始める。それは幼年期の終わりにして、「星野アクア」という激流の如き物語の、始まりの一歩であった。

*1
いわゆる植物状態のこと。




第一章終了です。

アイの生存により、アクアの行動指針が変わります。
また「復讐のために他人を利用する」という大義名分がなくなるので、アクアの性格や行動も原作からは大きく乖離していきます。



そしてそれは、決してアクアだけの話に留まりません。
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