アクアにとっての「15年の嘘」は、それを作る営為は、その第一義においては間違いなく、「終わらせること」にあった。
十五年に及ぶ因果を閉じ、いつやってくるとも分からぬ危険の根を断ち切って、アイを、ルビーを、あのドームの朝の悪夢から、自由にする。
過去を終わらせ、未来を創る。そのための道具であり、武器でもあった。
またあるいは、アイに捧げる『肯定』でもあった。
不完全な少女であった星野アイは、しかし不完全であるからこそ、『普通』ではないからこそ、曰くの「普通の人間」が考えもしていない当たり前に、深く切り込んでゆく力を持っていた。
彼女の疑問は、苦悩は、挫折も、無意味ではなかった。
彼女の生涯は、無価値ではなかった。
彼女の旅路は、たとえどれほどの困難に見舞われていたのだとしても、確かな祝福に満ちたものであった。この先の、未来においても。
そういう人間がいたことを、そういう物語があったことを、世に広く届けんとする意味も、間違いなくあった。
母に、アイにそれを示すことが、アクアの役割の、『使命』の一つであるとさえ、信じていた。
けれども、こうして映画を撮っていく中で、物語を紡いでいく中で、同時にアクアは気づかされる。
映画の中で問われていたものは、それに対して与えた答えは、アイだけに向けられるべきものではなかったと。
「15年の嘘」の制作は、そこに至る過程は、『答え』に至る道筋を一つ一つ辿っていく作業にも等しかった。
その『答え』には、形がない。
その『答え』には、
その必要を、感じてさえいない。
だからきっと、この作品をアクアが手掛けることに、意味はあったのだ。
あまりに不遜な物言いだとは理解していても、これはきっとアクアでなければ、作れない映画だった。
彼女と同じ悩みを抱えたことのない人間に、彼女と同じ視座で、彼女の世界を描き出すことなど、出来はしなかっただろうから。
当たり前を疑う心に、寄り添えなかっただろうから。
だからそれは、アクアにとっても意味のあることだった。必要な作業だった。
それを今、アクアは痛感している。
目の前に座る三人の少女たちが、今まさに一つの映像を作り上げようとしている、その後ろ姿に。
「ここは先輩の見せ場でしょ! ダメだよこの画角じゃ。もっと先輩を前に出すこっちの映像にしようよ」
「バカね。そしたら画としてのバランスが悪くなるじゃない。ここは声だけ入ってりゃいいの、私は。総花的なカット割りは逆に全員の印象を弱めるわ。映像には押し引き、メリハリが大事なのよ」
「相変わらず演出にはうるさいねぇかなちゃん。でもルビーちゃんの言うことも分かるかなぁ。ここはもうちょっとかなちゃん主張したほうが『三人横並びのグループ』っていうアクたんの画作りには合ってると思う」
MEMちょの自室にて、彼女が常用している動画編集ソフトを前に、新生B小町の三人が額を突き合わせるようにして盛んに意見を交わしている。
アクアが用意したオフライン編集用の低解像度クリップを縦横無尽に動かして、ああでもないこうでもないと、互いに遠慮のない言葉を向け合っていた。
とにかく全員の顔が見える画で、誰一人として蔑ろにすることなく、「新生B小町三人全員の活躍と結束」を前面に押し出したいルビー。
当事者より一歩引いた演出家の目線で、「より全体の印象を強める画」を追求しようとするかな。
双方の意見を尊重しつつ、折衷した落としどころに「配信者としての確かな画作りのセンス」を見せるMEMちょ。
全員が、らしく振る舞っていた。誰もが自己を押し殺すことなく、時には揶揄い、時にはぶつかり、けれどもその底に流れている相互の絶対的な信頼感を、見るものに意識させるかのような。
もはや、このやり取りそのものをカメラで切り取ってしまいたかった。
手を入れる必要などない。それだけで、アクアが主張したいメッセージの何より強い裏付けにさえなっている。思わず、そう考えてしまうほどに。
アクアの目の前に見えるこの光景は、ルビーたち三人の善性の為せる業であることは間違いなくとも、断じてそれのみによって成り立つものではない。
つまり彼らは、同じ轍を踏まなかった。アイも、壱護社長も。
アクアの助力がそこになかったとは、決して言わない。けれども、最低でも彼らは、強い決意をもって新生B小町というユニットを育てた。
――自分たちがした後悔を、次代には決して持ち越さない。
――同じ苦しみを、彼女たちには味わわせない。
人気あるものが取り上げられ、劣るものは同じグループの中でさえも無慈悲に透明化される。それが芸能界という、数字に支配された世界の論理だ。
著名なお笑い芸人コンビの、たった二人の間でさえ、「じゃない方」などとという差別的な呼称が当然視され、またそれが笑いにまで転化される。
人と人との間にいとも簡単に差が生まれ、扱いが変わり、誰もそれを疑問にさえ思わない。
年末年始の恒例となっているあの『格付けのバラエティ』などは、言ってしまえばその
しかし、それでも、そんな冷酷な現実の中を、アイは、壱護社長も、確かに泳ぎ切った。彼女たちを、導いてみせた。
今、全国ツアーを成功させてまた一つステージを上へと登った新生B小町の三人は、そのファン層ですらほぼ均等に三分割されている。センター格ということで僅かにルビーのファンが全体に占める割合の中で多くはあるが、それでも十のうち四には届いていない。
ルビーたち三人がここで無邪気に「かけがえのない仲間、友達」としての関係を謳歌しているその裏に、どれほどの緻密な計画とそれを裏付ける努力があったか、その全てを見通すことは、アクアにはできない。
けれども、一端については理解していた。
今ならばわかる。アイがルビーたちを、決して自分のバーターに使うこともなく、そしてB小町の名を、その威光を振りかざした強引な案件の確保を、たった最初の一回、JIFの出場権の確保のほかには、一切行わなかった理由を。
ルビーとアイとの間の関係を邪推されないためだとばかり、アクアは思っていた。
あの時点ではルビーは未だ駆け出しのアイドル未満のような存在で、その時点で彼女がアイの娘であることを世の中に知られたならば、ルビーの夢は、「アイのような、そしていずれアイを超えるようなアイドルになってみせる」という夢は、間違いなく露と消えていただろうから、と。
無論、それもありはした。けれども、違うのだ。主眼となっていたのは、そこではなかった。
もしそうなった場合、着目されるのは確実にルビーだったからだ。
MEMちょと有馬かなという、まさに一線級の容姿を持つ二人を左右に置いてなお、飛び抜けた美貌とダンスのセンスを持ったルビーの存在は、容姿におけるアイとの共通項など慮外においてなお、「アイドル・アイの再来」と称揚されるに足るだけの下地を持っていた。
ならばその先にあるのは、過去の二の舞だ。
アイが嵌まったものと同じ陥穽に、ルビーもまた落ちてしまう。そういうことに、なっていただろう。
だから、アイは辛抱強く待った。ゆっくりと彼女たちを育てた。
自分の仕事を無理やりにでも切り上げて、ライブ前のレッスンには必ず駆け付けた。
フォーメーションの組み方、ライブ演出の在り方にも、事細かに口を出していた。
その一部始終を、アクアのカメラは確かに納めていた。ドキュメンタリーとして取り上げようとしている、映像の中においても。
それは、「新生B小町のプロデューサー」という肩書を嘘にしないためではある。
生来の完璧主義が如何なく発揮された結果の産物でもあろう。
けれども、それにもまして、彼女はどこまでも真摯に、ルビーたちと、新生B小町と向き合っていた。
まるで自分の全てを、三人に継がせるかのように。託すかのように。
その果てに、今のルビーたちがいる。
中堅事務所の単独アイドルとしては異常とも言える絶対的な人気を背景に、まさに今東京ドームライブを半年後に控えている、新生B小町がいるのだ。
だったら、それは何なのだろう。そういう彼女の在り方は、どう言い表すのが相応しいだろうか。
いや、言うまでもない。
ずっとずっと、アクアが心の中でさえ言い淀んできた言葉は、この為にある。
これ以上、濁すこともない。それは『答え』だった。
アイにとっての、確かな『愛の成就』だった。
娘としてのルビーに向ける母親としての愛だけではない、娘の友でいてくれる二人の、言い方を選ばなければ『他人』に対する思いだって、間違いなく愛だ。それ以外に形容すべき言葉など、きっとありはしない。
だから今ここで、ようやく彼女は辿り着いたのだろう。いや、辿り着くのだろう。
新生B小町の東京ドームライブを、確かに見届けることで。自分の立っていた場所から、更に先に一歩を踏み出してく少女たちを、目に焼き付けることで。
かつて不完全な少女だったアイが、あの宮崎の星空の下で心に抱いた、目指すべき場所に。
ならばそれは、アクアにとってもきっと、理想に近しい光景だった。
不治の病に身体を侵され、理不尽と不条理に苛まれて、夢を持つことさえも許されなかったあの日の少女が、自分の本当に欲しかったものを、かけがえのない友を、愛すべき、愛されるべき母を手に入れて、もはや尽きることのない夢に生きることができている。
周りにいる友も、少女たちもまた、等しく夢を追う存在だ。共に手を携えて、希望を謳って、憂いのない明日を、これからもきっと生きてゆくのだろう。
完成された景色だった。もっと先を求め、矯めようとして、そのあまりに毀してしまうことなどあってはならない、尊い理想だった。
アイも、ルビーも、かなやMEMちょも。彼女たちが生きている、こうして生きている、現実も。
――ならばこれ以上の光景は、必要ない。ここから先は、蛇足だ。
そう、きっとアクアは心のどこかで満ち足りてしまっていたのだろう。
これに勝る望みなんて、ありはしないと。
だって、アクアもまたアイと同じように、『答え』を得たのだから。得てしまったのだから。
だったらもう、
たとえわずかでも、一瞬であっても、アクアは考えてしまった。意識をそこに、向けてしまった。
だから、なのだろうか。アクアが、『それ』を見たのは。
――沈んでいる。水の中だ。
何故。分からない。
寒い。ただずっと、どうしようもなく凍えて、どこから来るかもわからない痛みが脳天を散々に掻き回し、総身を粟立たせる苦しさが、思考の全てを奪ってゆく。
ノイズ。ノイズ。ノイズ。考えることなど、出来るわけもない。
意味をなさない言葉の断片ばかりが身体を駆け巡り、本能の抵抗が、「生きたい」という身体の叫びが、醜い藻掻きを強いる。
溺れていた。冬の凍てつく海の中に。
けれどもそこに、そんな自分のことを俯瞰する自分もいた。
『彼』の心の中を支配していたのは、どす黒い情念だった。
あまりに強く、深く塗り籠められて、その中身を分解して取り出すことさえも難しい。
けれども、理解している。『彼』は『俺』で、『俺』は『彼』だ。
だから、『彼』――『アクア』の中にぐちゃぐちゃに詰め込まれたものを、『俺』――アクアは取り出せた。
後悔があった。東京ドーム公演の日の朝、『身を挺して庇っていれば』。そうすれば、『アイが死ぬことはなかった』。
――死んでいないはずなのに。今も彼女は、生きているはずなのに。
憎悪があった。自分から、妹から、『母のことを奪い去ったあの男』に、父に、カミキヒカルに、生まれてきたことを後悔させるほどの報復を、必ず遂げてみせると。
――彼に対する計画は、全く違う動機にあるというのに。
罪悪感があった。そんな手前勝手な復讐心のために、黒川あかねのことを散々に振り回し、利用し、『切り捨てて』、信じ切ることも出来ずに、恩すらも返せずに、こうして今もまた、彼女のことを
――彼女との関係は、まだ続いているのに。彼女と結ばれている
失望があった。利用したのも、身勝手を押し付けたのも、後始末を投げ棄てたのも、全員に対してだ。許されざる不義理を働く自分自身のことを、愚かな道化だと理解していた。
違った。何もかもが違っていた。それが『自分』の持てる情動であると心が強く訴えているのに、アクアはそんな手遅れな思いを、取り返しのつかない想念を、心に抱いたことなどなかった。
断じて、そのはずだった。
けれども、それは間違いなくアクア自身だった。
アクアと同じものを、『自分』は抱えていた。それは、主観であると同時に客観でもあった。
母の命を踏み潰して産まれてきたことへの、原罪にも似た罪の意識も。
自らの進路を医大に決めたときの、祖母の笑顔も。必要とされることで初めて意味が持てる気がして、だから流されることしかできなかった、そんな自分自身の選択も。
分かりもしない『愛』を求めて、来る者は決して拒まず、求められたから応え続けただけで、だから去るものを追いかける根性もなくて、その末に『女遊び』という結果だけが残った、空しい過去のことも。
そして――言葉として表すことなど不要だとさえ思える、『あの日の女の子』のことも、また。
無限に引き延ばされた時間の中に、ただ走馬灯を見る。
アイが死んだ日、殺された日に誓った、復讐の計画。
四年の時をかけて手当たり次第に解除を試した携帯電話のロック。
十五歳の誕生日に、死したアイが望んでいた通りにアクアの手に渡った、あのDVDも。
そこに見つけた手がかりから、まるで導かれているかのように、アクアは復讐の道をひた走ってゆく。
見覚えのある光景もあれば、目新しい景色もあった。
知っている人間は多くとも、知らない誰かの姿もあった。それでも同時に『アクア』である自分は、彼らのことをよく知っている。
知っている人間でも、知らない歴史を歩んだ人もいた。
世捨て人になっていた壱護社長も、アクアたちの母代わりとなってくれていたミヤコも。
それだけではない。ルビーもあかねも『
知っている相手との、知らない記憶。
『自分』の中にある、自分とは違う記憶。
けれども同時に、無から生まれたものとは到底思えないほどに、実感と実体を帯びた記憶だ。
だから、そこでアクアはようやく気がついた。
今自分が見ているこれは、つまり夢であるのだと。
歌が、聞こえる。どこか遠い場所、ステージの上に、三人ともに腰掛けて、何かを口ずさんでいる。
ルビー、かな、MEMちょ。どこまでも楽しそうに。そして軽やかに。音ではない何かとして、頭を、心を、揺さぶっていく。
瞬間、アクアの全てを塗りつぶしていた、生を望む肉体の悪足掻きが齎す苦痛が、ふっと剥離した。
理解する。アクアは『アクア』と分かたれていく。喪われてゆく知覚に別れを告げながら、アクアは今まさに別個の存在として、どこか満足げな表情で目を閉じた『彼』のことを、俯瞰していた。
「『彼』は、自らの生き方を全うした」
声がした。己の他に誰もいないと思っていたこの場所に、誰かの存在を知覚した。
「『母親』の仇を討つこと。『妹』を守ること。『彼』はそれを、自分の使命だと理解して、遂行してみせた」
舌っ足らずな言葉だった。聞き覚えのある、少女の声色だった。
「そのために、全てのものを犠牲にした。誠実さを薪と焚べた。正しさを焼き尽くした。幸福を屠った」
いつの間にか真白き光に覆われた視界の中に、その姿を見る。
白銀の髪、蘇芳の瞳、漆黒のドレス。
「仕上げに、自分の命を贄とした。そうすることで、『彼』は責任を取った。未来を遺した」
時空から切り離され、固着したかのような不変さを見せるその白い少女は、振り返ったアクアの立つ場所に目掛けて、一歩、また一歩と近づいてくる。
「この世界に、もう自分の存在は不要であると。歪んでしまった、破綻を来した亡霊は、ただ消え去るのみだと。そんな取るに足らないものでも、妹の未来の為に使えるのなら、一片の意味ぐらい、残っているはずだろうと」
姿はまだ遠いのに、声だけはこれほどまでに近くに聞こえている。
いや、もう彼女はアクアのすぐそばにまで近寄っていた。
見上げる瞳も、長い睫毛も、初雪の白さを帯びた髪も肌も、幼気ながらも蠱惑的な顔立ちも、声さえも。
すぐそばに見え、目の前から聞こえ、そこで少女はすっと、自らの腕を掲げた。
指が伸びる。真っすぐに、アクアのことを指していた。
「分かるかい? 星野アクア。
突きつけられた指先と共に発されたその言葉は、しかしどこか糾弾のような色さえも、帯びているように思えた。
「アンタの仕業か、これは」
問いかけたアクアに視線を向けて、少女は肩を竦めてみせる。
「そろそろさ、その『アンタ』って言うの、やめてくれないかな。私にも名前があるんだから」
返ってきたのは、混ぜっ返しの文句だった。アクアは嘆息する。
「あんな源氏名がか?」
「……『源氏名』とは、随分不敬なことを言ってくれるじゃないか」
途端に不機嫌な様子を隠そうともしなくなった少女の分かりやすさに、思わず小さく笑っていた。
「悪かった。……『ツクヨミ』、それじゃ改めて訊かせてくれ。これは君のやったことなのか?」
これまでの数度の邂逅の中で、彼女が言われてもないのに告げてきたその不遜なまでの名乗りを用いて、もう一度問う。
そうすれば、彼女はあっさりと頷いた。
「最低でも、これは君の逞しい想像力の産物なんかじゃないよ。安心していい」
相も変わらず、可愛げの全く存在しない皮肉な言葉遣いをする少女だ。しかしそれもまた、彼女の浮世離れした美しさと、同時に纏うただならぬ存在感によって、風格さえ帯びたもののように錯覚してしまう。
いや、違う。そうではない。首を振る。
問うべきことが、アクアにはあった。
「そうか。なら、何なんだ、これは」
これほどまでの実感を帯びた、まるで明晰夢の如くの、現実と見まごうほどに鮮明な夢の正体は、何だというのか。
アクアの視線の向こうで、少女――ツクヨミが、くるりと後ろを見る。後ろ手に組んで数歩進み、アクアから少し離れたその場所で、顔だけ振り返った。
「夢だよ、君にとっては。でも、私には違う」
そこに宿っていたのは、今までのどこか軽妙さを含んだ空気ではなかった。
「『世界』とはどこにでもあって、けれどもどこにもないものだ。観測によって定義される、一つの虚像。淀みの上に浮かぶ、泡のようなものだよ」
もう一度、同じ場所で踵を返してアクアと向き合った彼女と、正対する。
「『方丈記』か。あれは坊主が書いたものだろう。自称神様の君とは無縁なんじゃないか?」
「そんなものは人間が勝手に作った境界だよ。『本地垂迹』なんて言って二つの間を繋げたのも、時代が下ったあと、そこに線を引いたのもね」
超然と笑い、軽く目を瞑って、糸を紡ぐように、唄うように、言葉を返す。
ゆるりと、両腕を広げる。もう一度近づいて、彼女の小さな体躯が、そばにあった。
「だから、『世界』もそうだ。君の生きる現実は、あくまで君から見えている断面だというだけのことさ」
朱き瞳が、アクアを見据える。彼女はもう、笑ってなどいなかった。
「だったら、君はどう思うのかな? あれもまた『世界』だと言うなら。あれもまた『君』なんだとしたら」
どこまでも見通すような深く透明な眼差しを伴って、彼女は今アクアに、偽ることなど許されぬ問いを、投げかけてきていた。
沈黙が、降り積もる。もはや口を開くつもりもなく、こちらの答えをただ待つように、静かに眼前に佇む白銀の少女を前にして、アクアは少しだけ目を閉じた。
「……あれが、『俺』だって言うなら」
自らに言い聞かせるように、向けられた言葉を継ぐ。目を開けば、彼女は未だに眼前の人物のことを見定めるが如くの視線を、神の如き視線を、アクアに向けていた。
捉えらえた視界の中に、答えを探す。共鳴していた心を、確かに『彼』であった少し前までの己自身の胸の中を浚って、言葉へと変えた。
「君の言うとおりなんだろう。責任を取ったっていう、ことなんだろう」
言った瞬間に、腑に落ちていた。
「もう、取り返しなんてつかなかった。『復讐』なんて、そんなものを選んだ時点で、道はそれしかなかった。だったら、多分俺だってそうしただろう。あの『俺』と、同じ立場になったんなら」
共感だった。知らぬ記憶であるのに、懐いたことなどない絶望であるのに。
理由はなかった。理屈もなかった。
「そうやって、
いや、そうではないのかもしれない。
何となれば、これほどまでに、それは等しいものであるからだ。アクアが心の内に、ずっと抱えていたものと。
アイの願いを遂げようとして、ルビーの明日を繋ごうとして、それこそが、それだけが今の自分がここにいてもよい理由なのだと、「死に損ない」が「死に損ない」として現世に留まっても許される根拠なのだと、ただその『信仰』に縋って生きているばかりの彼に、『自分』に、アクアは引き寄せられていた。共鳴していた。
心象を、重ね合わせていた。
ふっと、吐息の音が聞こえる。その出元を、アクアは見ていた。
僅かに伏せられた顔が、垂らされた前髪が、少女の双眸を覆い隠す。等しく覆われた唇から、どこか投げやりな笑いと、そして声が届いた。
「そうだね。考えてみれば、当然か」
顔が上げられる。そこにあったのは、声に違わぬ笑みだった。
ともすれば、諦めにも似た色さえ、帯びているような。
「『彼』と君は、同じなんだから。どこまでいっても、『彼』は君だし、君は『彼』だってことなのかな」
アクアはそれに、何も言うことができない。明確な確信を持って語る彼女の真意が、アクアには分からなかった。
今まで散々投げかけられてきた彼女からの謎めいた言葉に比べてなお明白な差異を持った、「ツクヨミ」を名乗る少女の口ぶりは、アクアに言葉を差し挟む余地さえ与えなかった。
そんなアクアに、彼女は説く。まるで何かの種明かしをするかのような、神妙な表情だった。
「言っただろう。『世界』なんてものは、所詮淀みに浮かぶ泡沫だって。だからそれは、ほんの小さな齟齬でいくらでも色を変える。例えば、そうだね」
腕を掲げ、指を向ける。アクアのことを指さして、ツクヨミはどこか勿体付けたように、再び口を開いた。
「とある男の子がいたとする。母親の顔を知らない男の子だ。この世に生まれ出でると同時に、母親を喪った男の子だ」
敢えてその名を呼ぶことなく、それでも真っすぐに、彼女はアクアの目を覗いている。
「引き取られた先は、母方のおじいさんとおばあさんの家だった。その男の子が世に生まれ出でたことが、自分たちのたった一人の娘を死に追いやる直接の原因になった、そんな一組の老いた夫婦の家だった」
見合った瞳の中に見える光は、その色は、如何なる感情からくるものなのだろうか。
遠くに思いを馳せるようで、近くを見ているようで。アクアを見ているようで、別の誰かを見ているような。
「そこでもし、男の子のおじいさんが『彼』にかけた言葉が、ほんの少しだけ鋭かったとしたら」
――お前が生まれてくるために、人が一人死んだんだ。血まみれになって、たった一人で。
――母親の命と引き換えになったんだよ。そういう生まれなんだ。
――
「もしその言葉を、その男の子がずっと、心の奥に刻み込んで生きていたとしたら」
彼女が口にするその『男の子』が、アクアか、それとも『アクア』のことを指しているのか、真意は分からない。
けれども、心のどこかで直感していた。彼女の口にする、荒唐無稽な『世界の論理』を受け容れるのであれば、つまりそれが、差異だったのだろう。今のアクアにとっての、たった一つの差分点だったのだろう。
ただそれでも、もしあの『原風景』の果てにこそ今が、彼女が、アイが生きている今日があるのだとすれば、あの日の
「だからそれは、『可能性』だということさ。でも、『本質』は変わらない。訊くだけ野暮な質問だったということかな」
自己完結するかのように吐き捨てて、彼女はしばしアクアから視線を外す。
「だったら。いや、だからこそ君には、知る義務がある」
けれどもそれは、本当に一瞬のことだった。戻ってきた少女の瞳は、その光は、今までとは一線を画す鋭さでもって、アクアのことを捉えていた。
「『この先』のことだ。『君』の選択の先に、何があるのか」
更に一歩の距離を詰め、少女の小さな手が、アクアの左手を握る。
瞬間、視界が変わった。
見えたのは、誰かの家だった。
いや、アクアはこれを知っている。苺プロの事務所の、その反対側に据えられた玄関扉の先の場所だ。
壱護社長と、ミヤコの住む家だ。
そこに、『ルビー』がいる。母親代わりであるミヤコの家に、彼女は住んでいるのだろう。
朝も早い時間だからだろうか、彼女を送り出す者の姿は見えない。
いや、違う。ルビーはそれを、永久に失ったのだ。
靴箱の上に飾られた、もうこの場には、この世にさえいない彼女の『家族』の写真が、その事実を突きつける。
彼女が今そこで浮かべている、そしてこれからの彼女がステージの上で浮かべるであろう、笑顔も。
それは悲しみを隠す、嘘の笑顔だ。
眩いほどの燐光で塗り潰して、瞳に鮮烈な輝きを浮かべて、確かにそれは誰をも惹きつけてやまない一番星の煌めきではあるのだろう。
だから星野ルビーは、確かに完成へと至ったのだろう。先の見えない暗闇にさえ光を照らすことのできる、『本物のアイドル』になったのだろう。
けれども、そこにあるものを救いだなどと、胸を張って言えるだろうか。
「あの子は、確かに立ち上がった。でも、それは立ち直れたことを意味はしない。背負うしかなくなっただけだ。進む以外に、道がなくなっただけだ。『君』も、アイのことも」
耳元に聞こえる少女の囁きと共に、景色が再び入れ替わる。
夕暮れに沈みつつある街の中、見慣れた場所に、あの歩道橋に、一人の少女が佇んでいる。
いや、もう少女ではない。その佇まいは、成熟した女性のそれだ。一時期伸ばしていた、微かに蒼の色を潜ませた濡れ羽の黒髪を肩の辺りで切り揃えた彼女が、黒川あかねが、誰かと対峙している。
相手も、アクアは知っている。今まさに、この場所でともに幻影を見ている少女だ。ツクヨミだった。
俄かに長じ、「臈長けた」と評するのが適当であろうとさえ思う真白の少女と向き合うあかねの表情は、彼女が明白に「この場にいない誰か」の影を追い続けていることを、アクアに知らしめている。
重なるように、像が結ばれる。
彼女の自室に、一人暮らしのマンションの部屋の中に散らばる、資料の山が。
その中に何故か交ざっている、「雨宮吾郎の白骨死体発見」に関する、地方紙の縮刷も。
「彼女はまだ、『君』がいなくなったことを受け入れられていない。納得できていない。自分を納得させるために、手を出してはならない領分にまで手を伸ばそうとしている。もう死んでしまったはずの『君』に、縛られたままだ」
もう一度、見えるものが変わった。
そこは、墓地だった。灰色と黒の石の立ち並ぶ一角に、一人の青年の姿が見える。
彼の立つ場所の手前に見える墓碑銘を、アクアは目にする。
――『姫川家之墓』。
瞬間、察した。
その墓石と対面する彼を、姫川大輝を、もう一度見る。
彼はただそこに、呆然と立っていた。
眼鏡の奥に見える紫紺の瞳は、澱み切っていた。光さえ、見えなかった。
また、何かが重なる。
スマホの中、空を背景に連ねられるメッセージが、不意に目に飛び込んだ。
『俺も死んどくかって思った』
『何度も思った』
『だけど一人だけ家族が残ってた』
『だから生きてる』
『生きる』
それを投稿したのが誰かなど、言うまでもない。
「『あの映画』のせいで、自分が出た映画のせいで、弟が死んだ。この世に唯一残っていた、そう思ったはずの、弟が。もう一人だけ残った家族の為に彼は生きることを決めたけど、君のことで負った傷は、罪の意識は、もう一生消えることはないだろう」
気づけば、隣に少女が、ツクヨミがいた。
至近より見上げる瞳は、まるで詰るような鋭さを伴ってアクアのことを貫いている。
「確かに私は、『君』の選択を責めることはできない。あの責任の取り方を、『使命』を全うした『君』を、否定する権利は私にはない。しようとも思わない。けれど」
違う。これは「ような」ではない。
「『君』がした選択というのは、こういうことだ。これが、『君』が去った後の世界だ」
その語気も、掌に伝わる少女の身体の小さな震えまでもが、アクアに伝える。
「いいのかい? 星野アクア。君は、これで」
彼女は今、明確にアクアのことを糾弾していた。問い詰めようとしていた。
「『同じ立場になったら、同じことをする』。まだ、そう言うつもりかい」
逸らすことさえ許さない双眸の引力でアクアを縛りつけて、彼女は握っていたアクアの手を、そこでようやく離した。
険しい表情で、凍てつく視線でアクアのことを見上げて、少女は一つ、息をする。
「今の君は、逃げているだけだよ。恐れているだけだ」
次に出てきた、呼気を伴うその言葉は、アクアのことを明確に『断罪』しにかかっていた。
「違うかい? 君が『雨宮吾郎』から降りられずにいるのは、結局そうするのが怖いからだろう?」
答えることのできないアクアを尻目に、眼前の少女より放たれる言葉の矢が、この身を、胸を、射竦める。彼女の言葉の正しさを、アクアは理解していた。させられていた。
「使命と決めつけて、『吾郎』の責務を果たすことを大義名分にして、そうやってずっと、周りが君に望むことから逃げ続けるつもりかい?」
両肩に、手を置かれる。幻想と現実の境界の上で、いつの間にか座り込んでいたアクアのすぐそばに、まるで口づけるほどに近い距離から、しかし少女は、ツクヨミは、瞳の中に湛えた怒りを、アクアに向かってぶつけていた。
「自分の心から目を背けるなんて、惰弱の極みだ。卑怯だよ、それは。だって、そうだろう」
吐き捨てて、切って捨てて。
そんな彼女の瞳の中に見えたものに、アクアは呼吸さえ奪われる。
「自分自身の幸福を考えることさえできない人間が、誰かを幸せになんてできるものか」
少女は、ツクヨミは、今そこで、アクアの目の前で、涙さえも浮かべていた。
「だから、星野アクア。君はもう、逃げてはいけない」
そして彼女は、肩を押す。アクアの肩を、まるで突き放すように。
それが、きっと合図だった。急速に失われてゆく現実感が、アクアにこの景色の終わりを知らせる。
時を追うごとに剥がれ落ち、崩れ去ってゆく知覚の中、唯一残った聴覚に、彼女の声を拾った。
「逃げられないよ、その責任からは。どういう道を選ぶにしても。……それだけは、覚えておいて」
そして――次の瞬間、アクアの意識は現実に立ち戻っていた。
「そうだよ。君はもう、逃げられない」
「だから、これは意趣返しだよ、星野アクア」
「いや、君だけじゃないな。……散々『私』に迷惑をかけてくれたんだ、『あの子』にも悪夢の一つぐらいくれてやるのが、『神罰』というものか」
「……本当に、世話の焼ける子たちだよ」
ベッドの上、布団の中に身を横たえた姿勢で、アクアは息をつく。
灯りを落とした部屋の中、カーテンの隙間よりわずかに覗く陽の光が、朝の到来をアクアに報せている。
すっかりと、目は覚めていた。故にアクアは上体を起こそうとして、しかしそれとまるで時を同じくするように、枕元に置いていたスマホが鳴動した。
手にとって、つけた画面の明るさに、僅かに目を細める。
凝らした視界の先には、一件の通知が見えていた。
ロックを解除せずとも、差出人は分かる。
――あかねだ。そして彼女の送ってきた文章もまた、その場所より確認できるほどに短かった。
それは、たった一言のメッセージだった。
ただ、『会いたい』と。
「『逃げてはいけない』、か」
呟いた声は、掠れていた。それでも、返す言葉は決まっている。
これからの自分が、やるべきことも。
週末とはいえ、この日はルビーもアイも番組の収録で朝早くに家を出ていた。
結果としてただ一人残されていたマンションの部屋から、身支度を終えたアクアは一人抜け出す。無論、チャットアプリで家族宛てのメッセージを残しておくことも忘れない。
休日の午前は、気怠ささえ覚える時間だ。六月に入った街はいよいよ夏に向けて暑気を纏い始め、しかし未だ入梅には遠い。
その空気を肌で感じて、そこでアクアははたと気がついた。
今朝、スマホに残されていたメッセージのことだ。
そこにあったのは、ただ「会いたい」という一言だけだった。
つまりあかねは、「何時」も「どこで」も、何一つとしてアクアに示していない。
らしくない振る舞いだと、アクアは思う。理を重んじ、準備を怠らず、何事にもそつのない少女であるはずのあかねが、そんな衝動のような行いを示すなどと。
もう一度、スマホを開く。アクアの返した「わかった」というその一言のあと、彼女からは何の追記もない。
つまり、気づいていないということだ。本当に、彼女らしくもなく。
しかしそれは、アクアに一つの予感を懐かせていた。ひどく荒唐無稽なようで、しかしある種の確信を持った予感だった。
あかねに対して、その行き先を問い返すことを、アクアは選ばない。どこへ向かえばよいのかは、自らの胸の内が教えてくれる。
さながら導かれるかの如くに、アクアはその場所へと向かっていた。
アクアたちの住む家から、徒歩で三十分。辿り着いた『それ』の階段を上って、頂上に立つ。
視線を横に向ければ、考えていた通りの人影が、そこにはあった。
「あかね」
呼びかけたアクアの声に、欄干に手を置いて眼下の車を眺めていたその少女が、振り返る。
南中近く、天に高く架かる陽の光を受け止めて艶めく黒髪が、ふわりと舞った。
アクアたちの立つここは、
二年前、台風の夜に、あかねが自ら命を絶つ寸前のところをどうにか押し留めた、彼女の家の近くの歩道橋だった。
『夢』に見た彼女が、現実と重なった。紅の残照の只中で、アクアの見ている今と同じようにこの場に佇んでいた、彼女の姿が。
歩み寄り、名を呼んだアクアを前に、あかねが目を見開く。
唇がわななく。腕を伸ばして、しかしその次に起こったことに、アクアはまるで反応できなかった。
衝撃が、身体に走った。そのあとに、気づく。
あかねの体躯が、アクアの胸に飛び込んできていたことに。
つまり――彼女に、まるで飛びつくように抱きしめられていたのだと。
「ごめん。ごめんね」
住宅街に面した道路にかかる歩道橋の上には、余人の姿などない。二人だけの空間の中で、アクアはあかねに身体を締め付けられている。
強い力だった。まるで、自らの傍から離れていくことを、極度に恐れているかのような。
「変だよね。おかしいよね」
胸の中から聞こえるくぐもった彼女の声が、震えている。
反応を見せないアクアが、訝しんでいると思ったのだろう。彼女はそこから離れようとする。
「あっ……」
しかしそれを、アクアは許さなかった。彼女の背中に、手を回していた。
ゆるく、しかし離さないように、抱き留める。どこか、何かを堪えるような、微かな吐息の音が聞こえた。
「……夢を、見たの」
そう、あかねは言う。
「有り得ない夢だった。現実には絶対に起こらないはずの夢。だけど、とっても怖くて」
ずっとずっと、震えたままの声だった。
「だって、
目を瞠っていた。彼女のその言葉を理解するのに、アクアは一瞬の時を要していた。
けれどもそれは、どこか予感していたものでもあった。理由もなく、根拠もなく。
「アクアくんも。ずっと目が暗くて、何かに取りつかれてるみたいで。あり得ないって分かってるはずなのに、でもデタラメだなんて思えなくて」
絞り出すように続けられる彼女の台詞に、アクアは自身の直感が正しいものであったことを理解する。
「『復讐なんだ』って、言ってて。『あの人』を、殺そうとしてて」
でも、もしそうなのだとしたら、それは何と奇妙な一致であるのか。
いや、違うのだろう。ならばそれはきっと、作為なのだろう。
誰によるものかなど、言うまでもない。
あの少女の、白銀と漆黒に彩られたモノクロームの少女の影が、脳裏に浮かぶ。
およそ科学的ではない。決めつけにさえ、近いかもしれない。それでもこれが本当に、彼女の仕業であるというのならば。
――余計なことをしてくれる。
そういう恨み節をぶつけたくもなる。あかねのことを苦しめて、一体何になるのかと。
けれども、その資格はきっとアクアにはない。何故ならこれは、アクア自身の咎だからだ。
それを彼女がただの「怖い夢」として一笑に付すことができない理由の根源は、ツクヨミにはない。
顔が上がる。そこに覗いたあかねの顔は、痛みすら感じるほどの必死さを帯びていた。
喘ぐように息を吸って、見開かれた彼女の瞳は、どうしようもなく揺れていた。
「それで、アクアくんは。アクアくんは……っ」
擦り切れたような、絞り出すようなその声が、耳朶を打つ。
抱きしめたまま、アクアは腕に力を込めていた。
あかね、と、ただ彼女の名を呼び掛けて、彼女がアクアにしがみついているのと同じ力で、その華奢な躰を閉じ込めた。
「分かってるはずなのに。あり得ないって、そんなわけないって。そんなことするわけないって。あれはアクアくんじゃないって」
「ごめん」
「なのに、怖かった。本当に、本当にアクアくんが、ああやって海に沈んで、それで……っ」
「ごめんな、あかね」
止まらない謝罪の言葉は、アクアの自覚の表れだった。
何故、彼女がそう思ってしまうのか。こうして居ても立ってもいられずに、アクアの存在を確かめる行動に走っているのか。
待ち合わせ場所も、時間さえも伝え忘れてしまうほどに、らしくもなく、余裕を失っていたのか。
「……なんで、なんでアクアくんが謝るの。ただの、夢の話なのに。私の。夢なんて、私の勝手な想像なのに」
「それでも、だよ。……怖がらせて、ごめん」
見抜いているからだ。彼女は知っているからだ。
あかねが「悪い夢」だと思っている、『あの世界』の中の星野アクアと、今ここにいるアクアの中にある本質が、同じものであると。
ならば、条件さえ整ってしまえば、アクアだって『それ』をやらない保証など、どこにもありはしないのだと。
否が応にも、想起していた。あの白銀の少女が、「ツクヨミ」と名乗る彼女が、『夢』の中でアクアに対して告げたことを。
――いつまで君は、逃げ続けるつもりだい?
――でももう、君は逃げられないよ。
その意味を、痛感する。
確かにアクアは、あの『アクア』とは違う。何もかもを投げ棄て、切り捨て、良心さえ擲って、目的のために不義理を重ね続けたあの『自分』とは、出発点からして異なっている。
今の自分に命をもって贖わなければならないような罪はない。その必要はない。
だから、そういう末路を選ぶつもりなんてあるはずもない。まして、アイとルビーを置き去りにするようなこと、ツクヨミに言われるまでもなく、するわけがない。
けれども、外から見た自身は、どうなのだろうか? アクアはそう自問する。
あの『自分』と今の自分に、同じ危惧を向ける彼女たちの存念は、杞憂に過ぎないと言えるだろうか。
言えはしないのだろう。
何故ならアクアは今まで一度も、自分自身の未来について、彼女たちに語ってみせたことなどありはしないのだから。
つまり、忌避していたのだ。「そんなものは二の次である」と正しい理屈で論陣を張って、アクアは自分自身の明日の話、未来の話から、目を背け続けていた。
確かに、惰弱だ。何故ならそれは、裏を返せば「自分の意思による選択をせずに済む」ということだから。
確かに、卑怯だ。生きる理由を外部化するということは、その責任を誰かに押し付けるということなのだから。
――自分自身の幸福を考えることさえできない人間が、誰かを幸せになんてできるものか。
アイも、ルビーも。あかねも、かなも。アクアを取り巻く、誰に対しても。
彼女の、ツクヨミの憤りは、全くもって正しかった。
未だ身体の震えを止められずにいるあかねのことを、もう一度しっかりと抱きしめる。
呼応するように、アクアの身体も強く強く締め付けられていた。まるでアクアが今この瞬間、ここから消えてしまうのを恐れるかのように。それを防ごうとするかのように。
梅雨入りを前にして、薄手になった衣服を貫いて伝わる彼女の熱をアクアは感じる。
俄かに突沸した心情を、無理矢理に押さえつけた。抱き寄せ、閉じ込めているあかねの濡れ羽の髪に、頬を寄せた。
「……あかね」
呼びかける。答えはなかった。
「君の言うことも、分かる。正直、逃げてたんだ、俺は。多分、『明日』から」
背中で、あかねがアクアの服を握る。その感触が、伝わってきた。
「そんな余裕なんてない。それよりも、やらないといけないことがある。母さんの、ルビーのことがって。そうやってさ、考えないで済ませてたんだ」
答えは、返ってこなかった。その無言の態度こそが、アクアに報せていた。
おそらくはあかねも、アクアの『逃げ』に勘付いていた。少し前、デートとして出向いたブックカフェの中、彼女がアクアに言った台詞を思い出す。
――いいと思うよ、私。だってアクアくんも、未来のことを考えてるんだから。
あの時きっと、彼女はアクアが持っている医学書を指して、それを言ったのだろう。「将来の夢」、「この先のキャリア」のことを考えようとしていると、そう思ったのだろう。逃げることを、やめようとしているのではないかと。
けれども、それは逆だ。寧ろあれはアクアにとって、過去へと向いた目線の象徴だった。
雨宮吾郎としての己を、医師であったころの自身のことを、アクアはいつもきっと心のどこかで拠り所としている。
ルビーが巣立つことを決めたその場所から、アクアは未だ離れられていない。その未練が、あの時のアクアに医学書などというものを手に取らせていたのだろう。
しかしもはや、それは許されないことだ。そのことが、アクアはようやく身に沁みた。
ほんの少しだけ、腕の力を強める。寄せた頬をそのままに、アクアは真っすぐ先を見た。
「けどそれじゃ、もう駄目だ。俺も、自分のことから目を逸らしているわけには、いかないって」
耳元に、呟きが聞こえた。「アクアくん」、そう、ほんの微かな声で、彼女は言っていた。
「だから、あかねにもちゃんと言っておく」
あかねの髪から、頭から、顔を離す。もう一度、正面を向いて双眸を向け合った。
今だ微かな震えを残す碧の瞳も、しかし互いに結ばれた視線からは、逃れようとはしていない。
「アイツと、カミキヒカルと決着をつけるのは、『明日のため』だ。母さんとかルビーだけじゃない。君も、かなもMEMもだ。それに、俺も」
息を呑む音がした。ピクリと震えたあかねの腕が、両手の力が、少しだけ緩む。
「考えたことのない『明日』のことを、それでも考えないといけない。だったら、考えられるようになるためにも、俺はアイツの為に死んでやるわけにはいかない」
力を籠め、アクアは彼女の身体から己の身を離す。肩を掴んで、出来た距離の向こうから、アクアは最後の一言を、声に載せた。
「心配は、かけると思う。けど、俺は絶対に生きる。生きて、責任を果たすよ。だから、信じてほしい。あかねには」
そう、ただ真っすぐに誓う。
アクアの視線の先で、あかねの大きく見開かれた瞳が、きらりと輝いた。
風が吹き抜ける。歩道橋の下を車が走り抜け、遠くに子供の笑い声が聞こえる。
そして今彼女が、アクアの目の前でゆっくりと頷いた。
白皙の