天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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お待たせいたしました。
いよいよ、最終章へと入ります。ここからは最後に向かって一直線に進んでいきます。

本話含め残り9話となりますが、どうか最後までお付き合いください。


第六章 愛 (最終章)
6-1. 「カミキヒカル」


 オフィスビルの高層階、一面にガラスの張られた会議室の只中に、二人の男が向かい合っている。

 一人は椅子に座り、もう一人は立ったままに。

 

 真昼の光が照らすこの場は、照明など不要なほどに明るく、しかしそれとは裏腹なほどに、互いの間に結ばれた沈黙は、物理的な質量さえ意識させるほどには重く横たわっていた。

 

 

 

 ぶつかる視線の作り上げた、気の遠くなるほどの静けさを経て、男が口を開く。

 

「うん、そっか」

 

 目を閉じ、彼は微かに笑んだ。

 そのどこか厭世的な振る舞いの中にさえ、いっそぞっとするほどの美しさが宿っていた。

 

 

 

 実物として相対すれば、いやでも認識させられる。

 彼――カミキヒカルは、まごうことなき美貌の人だった。

 

 さらりと流れる、柔らかで透き通った蜂蜜の如き髪も。

 すらりと伸びた手と足、黒のシャツに灰黒のジャケットを纏った痩身の立ち姿も。

 アクアのそれよりも少しだけ女性的な、真の意味で中性的な顔立ちも。

 切れ長の目の中に宿る、吸い込まれそうな菫色の双眸も、また。

 

 妖しいほどに、危険なほどに、匂い立つほどに、美しい。まさにそれは、外見主義(ルッキズム)の申し子と評するよりほかにないのだろう。

 

 その、カミキヒカルという人間が醸し出しているある種の危うさは、見た目の若さにも表れている。

 齢ももう三十三を数えるはずだというのに、今のアクアとさえ、ほんの少しだけ歳の離れた兄弟だと言われても納得する人も多いだろう程には、彼は若々しい。

 まるで時という名の絶対の摂理にさえも、叛逆しているかのようだった。もっとも、それはアクアの母、アイにしても、同じであるのかもしれないが。

 

 

 

「まあ、大体のことは分かってる、って感じかな」

 

 そんな彼が今、アクアに向かって語り掛ける。気負うものの一つもなく、自然体で、さりげないままの振る舞いを、崩すことさえない。

 互いの間に結ばれている因縁を意識してさえいないかのように、世間話の相手であるかのように、カミキヒカルはにこやかにアクアと対峙し続けている。

 

「なら、君が何を求めて僕に会いに来たのかも、ある程度推測がつく」

 

 言いながら、彼の身体はゆらり動いて、部屋の奥へと向かった。そこに畳んで置かれていたパイプ椅子を一つ手に取って、アクアの正面に戻る。

 その、どこか勿体付けたような一連の動きの末に、カミキヒカルは手に持ったそれを広げ、ゆったりと腰を落ち着けた。

 

 僅かに乗り出された上半身の、その上にある目線の高さが、アクアと合う。一呼吸を挟んで、もう一度、彼は柔和に笑んでみせた。

 

「それで? 星野アクア。君は僕に一体何を訊きたいのかな?」

 

 低く甘く、魅惑の声で囁くように、誘うように、或いは挑発するように、カミキヒカルはそこで敢えて、アクアに今一度の問いを向けてきていた。

 

 

 

 アクアは、ただじっと視界の中央に彼を据える。その一挙一動を、一瞬たりとも逃すまいとしていた。

 さながら、静と動の対比だった。しかし眼前の男が話題の主導権を自身に委ねてきた今、停滞した空気を動かす義務はアクアに帰している。

 

 つまりそれは、そして言うまでもなく、潮時だった。

 他でもないアクアの望んだ、来たるべき時間を始める機は、今まさに熟していた。

 

「そうだな」

 

 鷹揚と、超然と構えるカミキヒカルという男を前に、故にアクアは一つの問いかけでもって、その嚆矢と為さんとする。

 

「インタビュアーとしてじゃない、あなたという人間に、『カミキヒカル』に訊きたい」

 

 直接に向けた意思に、それでも特段の反応を見せることもないその男に向かって、アクアはいよいよ、胸の内に温めていたそれを言葉にした。

 

「あなたはアイを、あの映画の中の『星野アイ』を見て、どう思った。なにを考えた」

 

 それはある意味においては、いきなりにして本題に切り込むような、単刀直入とも言うべき台詞だった。

 

 

 

 しばしの沈黙が、今一度二人の間にはやってくる。

 しかしそれは、思いの外早くに破られた。

 

「さっきも言ったと思うけど」

 

 じっとアクアの方に目線を向けたまま、軽く膝の上で手を組んで、カミキはゆっくりと答え始める。

 

「『15年の嘘』、いい映画だったよ。エンタメとしても面白かったし、作品の言いたいこともよく理解できた」

 

 口に浮かんだ薄い笑みを崩すこともなく、淡々と、しかし確かな事実を述べるかのように、言葉が紡がれ続けていく。

 

「役者もみんな素晴らしかった。アイドルとしてのアイについては僕はそんなに詳しくはないけども、でもあそこにいたのはアイだったよ。ちゃんと、僕の知っているアイだった」

「だったら――」

「でもね」

 

 反応しかけたアクアを、彼はその言葉をもって制する。逆接で繋ぐカミキの表情は、少しだけ笑顔から遠ざかっていた。

 

「僕には、分からなかった。これを僕に見せて、君は何がしたいんだい?」

 

 代わりに浮かび上がるのは、疑問の表情だ。白々しいと言うべきなのか、本当に訝しんでいるのか、峻別することさえも難しい。

 

 

 

 掴んでいたはずの手がかりが、ふっとその形を失くしたかのような、そんな錯覚を、アクアは懐く。彼の言葉の全てが、どこか宙に浮いて聞こえた。

 

 無論アクアとて、対峙するカミキヒカルという男より、すぐに真正面から答えが返ってくるなどとは考えていなかった。

 けれども、それでも今彼の発した言葉は、アクアを惑わせるに十分な響きを含んでいる。

 

 「僕の知っているアイだった」。そう、確かにカミキは口にした。しかしそれは、何に対しての評であるのだろうか。

 映画が描き出した二十年もの時の流れの中にあって、確かな変貌を遂げた彼女の、アイの姿の何を見て、カミキヒカルはそう表現したのか。

 彼は一体、何を見たのか。感じ取ったというのか。

 

 それとも、何も気づかなかったというのか。

 その全てを見てなお、変わってゆく彼女の姿を知ってなお、彼の態度に何の変わりもないというのならば。

 

 いや、そうではない。そうではないはずだ。

 ならばそれは寧ろ、やはりこの男は、カミキヒカルという男は――。

 

「……分からないのか、本当に」

 

 掠れた声が零れ落ちて、空気の中に溶けてゆく。心の中に僅かな影が滲んで、しかしそれがもう一度言葉として結晶化するより前に、カミキヒカルが声を上げた。

 

「それより」

 

 その一言が、話題を捻じ曲げる。アクアの漏らした呟きは知らぬとばかりに流して、彼の背筋が僅かに伸ばされた。

 一度腕を組んで、そのうちの片方の掌がアクアの方へと向けられる。

 

「君にはもっと訊きたいことがあるんじゃないのかい? 例えば――」

 

 口角が、僅かに上がる。

 すっと、目が細められた。

 

「『アイを殺そうとしたのかどうか』、とかね」

 

 而してそこに、大胆なほどに挑発的な台詞が、やってきた。

 

 

 

 果たしてそれは、「語るに落ちた」ということなのだろうか。

 ある意味では、そうだろう。けれどもそれは同時に、紛れもなく「誘い」でもあった。

 

 カミキヒカルのそれは、自白ではない。彼の言葉は、彼自身の行状の根拠の一つにもなりはしない。冷静に考えれば、誰にでもわかることだ。

 だからこれは、それ以上に強力な撒き餌だった。

 

 事実彼は今、自らの言葉に僅かにであっても目を見開いてしまったアクアのことを、どこか面白そうな笑みを湛えて見返してきている。

 目の前の人間が、アイと自身の血を引いた存在が、星野アクアという男が、自分の何を知っているのか。一体何を求めているのか。カミキヒカルはつまり今、それを見通そうとしていた。見透かそうとしていた。

 その上で、宣言していた。「まだるっこしい話はやめにして、真正面から殴り合おうじゃないか」、と。そうやって、自らの土俵の上に相手(アクア)のことを引きずり込もうとしている。

 

 狙いとするものがなんであるのか、アクアには察することもできはしない。けれども、今この場においてアクアが言わなければならない言葉は、初めから決まっていた。

 

「意味がない」

 

 端的に、切って捨てるように、アクアはそれを断言した。

 今度はカミキの方が、僅かにその眉根を上げる。

 

「穏やかじゃないね。どういうことかな?」

「決まってるだろ。あなたの言葉を正面から聞いて、それをそのまま信じられるほど、僕はあなたのことにも、言葉にも、信頼なんて置けない。置けるわけがない」

 

 ――その理由を、分からないとは言わせない。

 叩きつけた言葉に、カミキの表情が再び笑みを象った。

 

「なるほど。まあ、そうだろうね」

 

 鷹揚に頷いて、けれどもすぐに声が続く。

 

「けど、だったら君はどうしてこうやって僕に会おうとしたんだい? 僕の言うことを信じられないなら、結局僕に会ったところで、話を聞いたところで、何の意味もない。だって君はそれを信じられないんだから。違うかな?」

 

 彼の言葉は確かな核心をついていた。アクアの中に抱えている、矛盾を指摘していた。

 故に一つ、息を吸う。

 

「そうだな。ほとんどは、そうだ」

 

 そうだ。しかしそんなことは、アクアとて分かっている。

 故に、アクアは今明確な意識を持ってこの場にいる。カミキヒカルに対して直接的な問いを投げかけることの無意味さを理解してなお、なぜここにいるのか、やってきたのか、それを誰よりも理解している。

 

「だけど」

 

 だからこそ、言葉を継ぐ。

 

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 言い切ったそれに、彼は何も言葉を返さない。表情すら変えず、黙ったまま、ただアクアのことを見ているだけだ。身を乗り出して、膝の上に置かれた手でそれを支えて、真意の見えない瞳が、真っすぐに向けられているばかりだ。

 けれども、アクアには分かる。彼の身に纏う空気が、少しだけ入れ替わる。それはあるいは呼吸の頻度か、無意識の身動ぎだろうか。いずれにせよ、彼の決して随意でない部分に、アクアは確かな変容を見た。

 だからこそ、アクアは今己の謂わんとしていることについて、確信に近しいものを抱えていた。

 

「だからこそ、訊きたかった」

 

 言葉では、いくらでも偽れるだろう。欺こうとするかもしれない。

 けれども、その答えの中にある彼自身の心理そのものは、決して打ち消せはしない。

 

「『あなたにとって、星野アイってなんだったんです?』」

 

 それを掘り当てることこそが、アクアのこの場にいる意味に相違なかった。

 そしてその奥にあるであろう、カミキヒカルの今の心理を、行動原理を、動機を、導き出すことも。

 

 『これから先』の為に、それは絶対に必要なものであったが故に。

 

 

 

 もう一度、永い永い沈黙の帳が降りてきた。逃がしはしないと見据えるアクアの視線の先で、カミキヒカルはその動きを止めている。

 笑みは薄れ、表情は色を失いつつある。自らに向けられた問いの意義というものを、理解したということなのだろうか。あるいは、その真意さえも。

 

 無音は、いつまでもは続かない。アクアはどこまででも待つ構えでカミキヒカルのことを見据え続け、そしてその末に、どこか諦めたかのような小さな吐息の音が、部屋の中に響いた。

 言わずもがな、カミキヒカルのものだった。

 

 ほんの一瞬だけ、その顔が下を向く。けれどもすぐさまにそれはアクアの方に戻され、そこに見えた彼の表情は、確かに過去を追い求めるが如くの、追憶に浸る人間の顔だった。

 

「君はさ」

 

 軽い調子で、声が飛び出る。

 

「僕のことをどれぐらい調べたのかな?」

 

 その台詞の意味するところを、アクアは理解する。

 彼が何を確かめようとしているのか。その焦点が、なんであるのか。

 

「姫川さん――姫川大輝が、僕の腹違いの兄だということは、知っている」

 

 だからこそ、アクアは同じやり方をもって答えとした。ことの核心には決して触れることなく、それでもその言葉だけで互いに一つの結論を導き出すことのできる最も分かりやすい表現で、自らの調べたことを、知っていることを、アクアは示した。

 なれば、その含意は必然的にカミキに対しても届く。

 

「なるほどね。やっぱり、大体のことは調べてきたってことかな。僕のことも」

 

 だからこその、答えだった。今までの、どこか感情の読めないうっすらとした笑いではない、どこか投げやりささえも感じさせるような、抛り出すような笑みを、その言葉は伴っていた。

 軽く、その目が閉じられる。僅かに逸らされていた顔が、閉じられた瞼のままにアクアと合った。

 

「いいよ、わかった。だったら、そんなに前置きはいらないかな」

 

 ゆっくりと、目が開かれる。吸い込まれるような夜の瞳が、真っすぐにその中にある光を届けていた。

 

「まあ、そんなに面白い物語じゃない。この国の中のどこにでもある、つまらない男女の現実の話だよ」

 

 そう、勿体つけたように前置いて、そしてカミキヒカルはようやくに、彼自身の口で、彼自身の言葉で、自らの話を始めた。

 

 

 

 

 

 ――僕はね、アイにしがみついていただけなんだ。

 そう、彼は切り出した。

 

「君も知ってるだろうけど、僕とアイが最初に会ったのは、ララライのワークショップだ。あの頃のあそこはまだ小さな劇団でしかなったし、アイも今と比べたら全然無名の、どこにでもいるようなアイドルの女の子だった」

 

 ゆっくりと席を立ち、アクアの方へと歩み寄る。しかしその姿は隣を通り過ぎて、背後へと向かった。

 ガラス張りの窓辺に立って、外を見下ろす。微かに室内の光を反射する窓ガラスが、そんな彼の姿を透けて見せていた。

 

「きっかけなんて、覚えてないよ。というより、分からない。そもそもあそこで僕と同じような歳の女の子なんてアイしかいなかったからね。そんな程度の話でしかないのかもしれない。アイも、僕もだ」

 

 そっと、窓に手が添えられる。微かに息を吐く音が、アクアの耳にも入ってきた。

 

「君は、アイと僕が実際のところどういう関係だったか、誰かから聞いたかい?」

 

 くるりと、その顔だけが振り返る。

 黙って首を振ったアクアに、やはりというべきか、カミキは小さく笑う。

 

「だろうね。アイも、だろう?」

「……そうだな。精々、鏑木さんが言っていたぐらいだ。『アイくんはあのあたりで、急にめかし込むようになった。恋を知ったんだろう』って」

「鏑木さん……なるほど、ね」

 

 彼が、ふと目を閉じる。微かに上がった口角をそのままに、ゆっくりと頷いてみせた。

 何が、「なるほど」なのか。カミキは何を理解したというのか。アクアにはそれを窺い知ることも出来ず、しかし彼の話はそのままに続いてゆく。

 

「アイが僕の話を君たちにしたがらなかった理由も、まあ大体想像がつく」

 

 瞼が、開く。見据えてくる彼の瞳の中に、アクアは抗いようもないほどの昏き深淵さえも、幻視した。

 

「だってそうだろう? あの時のアイは、しがみつこうとする僕を拒めなかっただけなんだから」

 

 心がざわつく。『共鳴する』。かつて自らの中から掘り起こした、あの仄暗い想念が蘇ってくる。そんな錯覚さえ、懐いていた。

 

 

 

 油断すれば自らの胸元を掴んでしまいそうになるアクアのことを尻目に、彼は滔々と語り続ける。

 

「ずっとそうだ。僕はずっと、『正しい嘘』をついてきた」

 

 ――求められる自分を。

 ――認められる自分を。

 ――必要とされる自分を。

 そう振舞えば、誰もが騙される。誰もがその『正しい在り方』を、カミキヒカルという存在そのものとして評価する。

 

「愛梨さんのことだってそうだよ。君が何を思っているかは知らないけど、でも僕にとって愛梨さんは必要な人だった。どうであったとしても、あの人は僕のことを必要としていたからね。だから僕は、愛梨さんから求められるように振る舞った。そういう意味じゃ、愛梨さんも『被害者』だよ、僕のね」

 

 腕を広げ、どこか芝居がかったかのように露悪的に主張して、カミキヒカルはアクアのことを見据えていた。

 

「でも、それは結局どこまで行っても嘘だったし、みんなは綺麗に騙されてくれた。それが僕だ。僕にはそれが出来る。そう思った」

 

 「分かるかい?」と、そう間を繋いで、外光を背に翳っていたカミキの姿が、もう一度近づいてくる。

 

「それは、()()()()()()。同じだったんだよ、僕たちは。最低でも僕は、そう思った。僕のことを理解してくれるのは、アイしかいないんだって」

 

 腰掛けるアクアのすぐ隣に立つようにして、見下ろされる。

 

「だってアイは、僕の嘘を分かってた。同じ嘘を、アイもついていた。君があの映画で書いた通りだよ。アイにとって、『愛してる』は『嘘』だった。その嘘を使って、アイは世の中を生き抜いていた。僕と、同じに」

 

 それはどこか、何かを訴えかけているような眼差しにさえも見えた。あるいはそれも、『そう見せている』だけなのだろうか。

 

「同じだ。僕たちは同じだった。だったら僕にはアイしかいないし、アイにだって僕しかいない。そう信じてた。お互い嘘が分かるから、自分が嘘つきだから、二人の間にだけは嘘なんてないんだって、アイは僕のことを本当に愛してくれているんだって、思ってた」

 

 熱に浮かされるかのように、まるで捲し立てるように口にし続けて、しかしその最後に、彼は口を噤む。いつの間にか座っている椅子の背に置かれていたカミキの手が、離れる。

 ゆっくり、ゆっくりと歩を進めて、彼はまた元居た場所へと戻っていく。三脚に据えたカメラのすぐそばに。

 

「けれども、それは違った。幻想だった。アイは、僕のことを愛してなんていなかった」

 

 ふっと、糸が切れるように、彼の周りにまとわりついていた鬼気迫るような空気が、霧散した。

 微かに俯いてから、彼はおもむろに三脚の上のハンディカムを手に取る。それを掲げ、レンズの中を覗きこむような素振りを見せながら、カミキの顔には力のない笑みが浮かんだ。

 

「『わかんない』って言われたよ。アイには」

 

 それが何に対しての答えであるかは、問うまでもない。

 ――僕のこと、愛してる?

 そう正面から聞いたのかは分からない。けれども、彼の謂わんとするところはそれだ。

 

「『わかんない』って……まあ、アイらしい言葉だよね」

 

 含み笑いと共に、口の中で転がすように口にしたカミキが、今一度天を仰ぐ。

 

「けど、その時の僕には、重かったよ。重くて重くて、清十郎さんに愛梨さんのことを話してしまうぐらいにはね」

「……それで、あの二人が死んだと?」

「そうだ。だから僕が殺したようなものさ、あの二人は」

 

 吐き捨てた言葉と、裏腹に弧を描く彼の口の端が、アクアの目に焼き付く。

 ハンディカムを元の位置に戻してから、カミキはもう一度、自らのパイプ椅子へと戻ってゆく。

 

「金田一さんに言われたよ、『お前が背負っていくんだ』って。二人が心中したあとの、お葬式の中の話だ。『一番親しくしていたお前が、二人の命を継いでゆくんだ』ってさ。笑っちゃうよね、僕が殺したも同然なのに」

 

 パイプ椅子の背に手を添えて、そこで一度、カミキは立ち止まる。どこか可笑しそうに、しかし痛々しささえ思わせるように、彼は笑った。

 

「だから僕は、ますますアイにしがみついた。アイがいなければ生きていけないって思った。僕が殺した二人の命を背負わなくちゃいけないなんて、重すぎたんだよ、僕には。僕一人には。だから、縋った。アイと二人なら、背負っていけると思った。身勝手な話だけど」

 

 そして、彼は椅子に腰を下ろす。体から力が抜けたかのように、身を投げ出すように。

 

「それで、アイにはそれを全部見抜かれてた。当たり前だよね、お互い嘘なんて通じないんだから」

 

 俯いていた顔を持ち上げて、アクアを見る。皮肉気な笑みをそのままに、二度三度と、首が振られた。

 

「『無理無理。背負えないよ、私には』って、言われたよ。『私たち、もう会わない方がいいかなって』、だってさ」

 

 一度だけ、肩を竦める。その目は、アクアの上に固定されたままだ。

 

「別れ話だ。きっかけは、妊娠だったらしい。君たちのことだね。それで、『もう無理だ』って。『君と一生一緒になんて、私には荷が重い』。まあ、当然だよね」

 

 乾燥した言葉が、ひたすらに流れてゆく。自嘲か、あるいは恨み節であるのか。

 

「しがみつきたいあまりに『結婚しよう』とか言っちゃってさ。まだ僕たち十五歳とかで結婚なんて出来るわけないのにね。そういう必死なところも多分気づかれてたんだろうな、言われたんだよ」

 

 ――『私は君を愛せない』。

 

「まあ、自業自得だけどね。アイに勝手に期待したのも、勝手に『命の重さ』なんて背負わせようとしてたのも、全部全部僕の責任だ。僕がやったことだ。だから……まあ、『逆恨み』だよ、そのあとのことは」

「その、あとのこと?」

「分かってるだろう? 良介くんのことさ」

 

 あっさりと、本当にあっさりと言ってのけて、カミキは背筋を伸ばした。

 

「彼にアイの住所を教えたのは、確かに僕だ。意図がなかったわけじゃない。アイの熱狂的なファンだった良介くんに、アイの本当のことを教えたら何が起こるか、想像できなかったわけじゃない」

 

 確信をもって、悪意さえなく言い切ったカミキが、しかしそこで途端に後ろめたい表情を見せる。

 微かに俯いて、額に手を当てた。

 

「だけど、ナイフまで持ち出すとは思わなかった。まさか、殺しに行こうとまでするなんて、考えてなかったんだ。ちょっと怖がらせるぐらいで終わるだろうって、思って……だから、君が怪我をしたのは、僕のせいなんだ。それは、恨んでくれていい」

 

 そう言って、改めて姿勢を正してから、カミキはアクアに正対して、深々と頭を下げる。

 

「落ち度は僕にある。本当に、申し訳ないことをした。それと」

 

 言葉が切られ、下げられていた頭が上げられた。

 その双眸には、それまであったような深淵とは違う種類の光が宿っている。そう、アクアには見えた。

 

「アイのこと、守ってくれて、死なせないでくれて、ありがとう。おかげで、僕は人殺しにならずに済んだ。アイのことを、殺さずに済んだ。……本当に、ありがとう」

 

 そして、笑みかけてみせる。

 真っすぐに、純粋に、造作の美しさをも併せて、誠実さと清らかささえ感じるような、そんな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 ふつりと途切れたカミキヒカルの声が、部屋の中に余韻となって満ちている。

 彼の言った、自らの半生の語りも、その内容も。

 

 それの生み出した重苦しいまでの沈黙の中で、アクアは彼の対面にいて、椅子に深く腰掛け、腕を組み、目を閉じる。

 笑顔と共に幕を引かれたカミキの長口上を全て聞いて、アクアは暫し、思惟に沈んだ。

 

 今ここで語られたのは、彼自身の認識の中の、「カミキヒカル」という存在の来歴だった。

 彼の視界から見る、世界の表現でもあった。

 

 嘘を武器として生きることを決めた男が、それ故に同じものを得物にして世を渡ろうとする女に惹かれた。

 その起源を、そもそものきっかけを、彼は口にはしなかった。けれども、根幹については予想もつく。アクアがそれを知っていることを見込んで、カミキヒカルは敢えて語らなかっただけだ。

 逆説的にそれは、カミキヒカルという人間に対するアクアのこれまでのアプローチが、最低でも一面においては正しかったことを示しているのだろう。

 

 彼は、自身のこれまでのことを、誰のせいにもしていなかった。

 姫川愛梨が歪めたのではない。星野アイが引き金を引いたわけでもない。

 原因は自分にある。確かに全ては「不幸なすれ違い」で、「そんなつもりではなかったこと」ばかりで、しかしそうなってしまったそもそもの原因は、カミキヒカルという人間の歪さにあるのだと。不完全さにあるのだと。

 まるで、アクアが紡いだアイの物語と対になるかのような構造で、カミキヒカルは自分のことを語っていた。アイとのことも、あのドームの朝のことも、その真相さえも。

 

 

 

 それは確かに、ある種潔い、誇りを持った人間としての在り方にも思われた。そう、聞こえた。

 自分自身の過ちを直視し、醜さと向き合い、誰に対しても責任を押し付けることなく、この場に現れた自身の息子に、自分のことを捨てて出て行った女が生んだ男に、誠意をもってすべてを伝えた。

 起こしてしまったことを詫びて、しかし許しを乞うこともなく、ただひたすらに、この場においてだけは誠実であろうとする男の姿のようにも感じられた。

 そういう風に、今のカミキヒカルは振舞っていた。

 

 それは、高潔さのようにも見えた。カミキヒカルが、その根源の部分においては善性の人間であるとさえ、印象付けられるほどに。

 アクアが今まで彼に対して抱いていた疑念の一切は、思い過ごしであったと、間違いであったと、そう説得させられてしまうほどに。

 

「……そうか」

 

 だからこそ、アクアは確信する。

 

 

 

 

 

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 それほどまでに自然に、まるで息をするかのように嘘を並べ立てるこのカミキヒカルという人間は、なるほど確かに、彼の自称に違うことなく、その根底の部分からの嘘つきということであるのだろう、と。

 そうやって、ずっと彼はこの世界を泳いできたのであろう、と。

 

 

 

 

 

「どういう、ことかな?」

 

 いっそ白々しいほどに、何のことか分からないという面持ちで首を傾げてみせたカミキヒカルを見て、アクアは鼻白む。

 

「俺の態度を見て、与しやすしと思ったか。そうやって『自分の話』を言って聞かせれば、同情が買えるとでも。憐れんでくれるとでも」

「……憐れんで、くれるのかい?」

 

 アクアはそれを、笑い飛ばした。

 

「アンタのことを何も知らなければ、そういう未来もあったかもな。俺も、アンタが今まで騙してきた沢山の人とおんなじに、アンタのことを受け入れたかもしれない。同情したのかもしれない」

 

 それは事実だった。カミキヒカルの言葉は、確かにそうなるだけの説得力を持っていた。

 態度も、語り口も、身振り手振り、一挙一動の全てが、彼の物語に信憑性を持たせていた。

 目の前でアイを殺されかけて、結果的に身を挺して庇った形になったアクアでさえも、それを信じるに足る事実であるとして、彼のことを認めても、許しても、決しておかしくはなかった。

 

「けど、流石にナメすぎだ。あの日から十五年、俺はアンタのことを忘れたことなんてなかった。アイもルビーも、どうやってあの二人の夢を守るか、それだけ考えてきた」

 

 反応を示すこともないカミキに、アクアは言い放つ。

 

「言ったよな、アンタも。『僕のことを調べてきたみたいだね』って。だったら『あのこと』ぐらい、知らないわけがないだろ」

「……あのこと?」

 

 ぐっと、目に力が入る。清々しいまでのわざとらしい問いに、もはやそうとしか聞こえない彼の言葉に、胸の中にこみ上げた強烈な情動を、押さえつけた。

 息を吸う。その心情を叩きつけるかのように、吐き出した息に、押し殺した声が載った。

 

「『姫川愛梨と上原清十郎の心中事件』」

 

 ゆらりと、腰が浮く。長く長く座ったままだった視線が、カミキヒカルを見下ろす場所まで浮き上がった。

 

「心中事件が起きて、二人をアンタが死に追いやって、そのあとの葬式でアンタが金田一さんからもらった言葉が、アイとアンタの破局の直接的な理由になった。アイが俺たちを妊娠したタイミングで。……カミキヒカル、アンタのその話が正しいとするのなら、あの二人は俺たちが生まれる前に死んでいなければいけない。アンタ自身が、今そう言ったみたいにだ」

 

 彼我の距離は、僅か三歩ほど。その一歩目を、踏み出す。

 

「けどな、俺は知ってる。言っただろ、俺は姫川大輝と知り合いだって。あの人と血がつながっているのを、知っているって。だったら、あの人に姫川愛梨と上原清十郎の二人のことを、訊いていないわけがない」

 

 二歩目。そこで、一度立ち止まった。

 

「姫川大輝から聞いた二人の事件の裏付けを、取らないわけがない」

 

 ゆるりと、カミキヒカルの顔が上がる。彼の目と、アクアの目が、そこで合った。

 

「『B小町の東京ドーム公演の一年前の秋口』。あの二人の心中事件が報道された日だ。壱護社長も言ってたよ、『ドーム公演のための打ち合わせが始まってすぐぐらいの頃のことだから、よく憶えてるぞ』ってな」

 

 そして、最後の一歩を踏む。パイプ椅子の上に座る彼を見下ろす場所に、アクアは立った。

 

「アンタの話は、矛盾してる。あの二人が死んだのは、俺たちが生まれた『後』のことだ」

 

 ――違うか?

 そう、言外に問いかける。

 

 カミキヒカルは答えない。何も言わない。

 それでも、そこで沈黙を保ったことそれ自体が、もはや答えに等しいものでもあった。

 

「巧い話を思いつくもんだな。整合性もばっちりだ。アンタ、俺より脚本家に向いてるんじゃないか? まあ、役者もだけどな」

 

 内に込める心情を隠すこともなく、言い捨てる。

 数秒ほどの沈黙が続いて、見下ろした視線の先にいるカミキヒカルが、ふっとその表情を崩した。

 

 その目に、仄暗い光を湛えながら。

 

「そうか。確かに、そうだね。考えが浅かったかな、僕としたことが」

 

 零れた言葉に、ぞわりと空気が揺れた。

 僅かに外れた視線が、微かに吊り上がった口角が、そこで『ズレる』。

 警鐘が鳴る。致命的な何かさえ、直感するほどに。

 

「それだけじゃない」

 

 だから、アクアはそれをも抑え込むように、二の句を継いだ。二の矢を放った。

 

「知ってるはずだ、アンタも。――『高千穂』」

 

 それを言った瞬間、カミキヒカルの動きが、呼吸に合わせて僅かに動いていた肩が、ぴたりと止まる。

 

「星野アイの出産の日、不審な男が二人、病院の周りにいた。大学生ぐらいの年恰好の男と、中学生ぐらいの男の子。あの病院にいた、看護師の証言だ」

「……何のことかな」

「そしてその日、その病院近くで一人の男が行方不明になった。病院の勤務医、産医の男だ。名前を、『雨宮吾郎』。星野アイの、担当医でもある」

 

 逸らされていた視線が、もう一度合う。感情の見えない、のっぺりとした眼差しが、あるいは表情が、目の前には見えていた。

 

「それから十四年経った去年、その男は病院近くの崖下、祠の裏の空洞の中で、白骨化した死体として発見された。どういうことを意味しているか、分からないとは言わせない」

 

 一度言葉を切って、目の前の男と、カミキヒカルと見合う。言い逃れは許さないと、目に力を込めた。

 

 しかし、彼はまた笑う。口から小さく息の漏れる音が聞こえた。

 

「僕が殺したって? その、『雨宮吾郎』って人を? アイの出産予定日に、高千穂まで行って?」

「アンタが殺したかは、知らない。というか、アンタ『が』殺したとは、俺だって思ってはいない」

「だったら――」

「だけど。アンタはそれでも、あの菅野良介という男と行動した結果として、人死にが一人出たということは知っていたはずだ。他でもないアイ絡みでな」

 

 カミキヒカルの抵抗を、反駁を、アクアは上から圧し潰した。

 雨宮吾郎としてのアクアが知っている情報と、星野アクアとして客観的に収集できる情報には、本来的には差がある。あの出産当日の夜、雨宮吾郎が菅野良介のことを追いかけて崖近くにまで至った挙句、彼に突き落とされて死んだという一連の事実は、本来ならば『星野アクア』が知ることのできない情報だ。

 けれども、それをカミキヒカルは知り得ない。星野アクアの認識の限界がどこにあるか、カミキヒカルにそれを峻別することは不可能だ。

 だから、そこを利用する。敢えて強く断言して、『本来ならば知り得ないはずの情報』を知っているアクアに彼が持つべき違和感を、疑念を、無理矢理に塗り潰す。

 

 果たして、それは功を奏した。カミキヒカルの表情が、そこで俄かに色を失くした。

 それを見届けてから、アクアは続きを言葉にする。

 

「そこから四年が経って、アイのドーム公演の日に、アンタは菅野良介にアイの住所を教えた。アンタ自身が言った通りに。……なら、アンタの言い分は、信じるに値しない。人を一人既に殺している男を捕まえて、『まさかナイフを持ち出すなんて』なんていう白々しい言い訳、通るはずがないだろう」

 

 問いかけた――否、指弾してみせたアクアに向かって、そこでカミキが静かに言葉を返す。

 

「だったら、君はそれをどうするつもりだい? 今の話を全部、警察にでも持っていくのかな?」

 

 それはどこか、挑みかかるような口調だった。

 故にその心理を、アクアは見通すことが出来た。

 

 ――君に、それが出来るのかな?

 そう、彼は言っていた。きっとそれは、あらゆる意味においてであるのだろう。

 

 アクアの今開陳した推理を、警察が聞き入れるかどうか。

 そしてよしんば彼らがそれを受理したならば、必然的に明らかになるであろう星野アイの『不都合なる事実』を、それが世に広く知らしめられることを、お前は受け入れることが出来るのか、と。

 そう、この男は問わんとしていた。

 

「構わないよ、僕は。その結果として罪に問われることになったとしても、それは確かに僕の過ちだ。甘んじて受け入れよう。だけど、君は――」

「そういうことじゃない」

 

 そうやって、また話の主導権を手繰り寄せようとしていたカミキヒカルに向かって、アクアは首を振る。

 

「そんな程度の話だったら、俺はアンタに向かってこんなことは言ってない。黙って警察に行くだけのことだ」

 

 当たり前の理屈だ。司直の手にカミキヒカルの処遇を委ねるのなら、わざわざ自らの手の内をその相手であるこの男に曝すような真似を、そんな愚かなことを、するわけがない。そんな意味など何一つない。

 

「分かるだろう。そうじゃないのは、そんなものよりも大事なことが、俺にあるからだ」

 

 だから今、アクアは敢えてもう一度、彼に向かって問わなければならない。

 彼の嘘を暴き、誤魔化しを封じて、決して逃がすことはないと思い知らせた、今のこの瞬間に。

 

「もう一度、訊く。『アンタにとって、星野アイはなんだったんだ』。『何を思って、アンタはアイツを嗾けたんだ』」

 

 それこそが、アクアのこれから為すべきことを定めるための、いわば礎石に他ならないからだった。

 

 

 

 

 

 それ以上何も語らず、しかし決して言い逃れることは許さない構えで、アクアはただ真っすぐに、カミキヒカルという男のことを見据える。

 必然的にやってきたのは、張り詰めた沈黙だった。

 この場にこの種の静寂がやってくるのは、これで何度目であろうか。カミキは、それでもずっとアクアのことを見上げたままに、口を開く素振りもない。

 

 アクアの言葉を、問いを受けて、何を考えているのか。何を思ったのか。ただ最低でも今、彼は決して笑っていなかった。

 本気とも嘘ともつかないあの薄ら笑いは、彼の顔の上から全く抜け落ちていた。わずかに視線を落とし、その膝の上で組まれた手に目を向ける。

 瞬間、確かにアクアは見た。彼のその両手に、気づかないほどに微かに、けれども確かに、力が入った。そんな気がした。

 

 今一度見据えたカミキの表情に、その瞬間、初めて綻びを見つけた。澱を、あるいは、翳りのようなものを。

 

「そういうことか。それで、アイのことを。……なるほど」

 

 視線が逸れる。どこか低く押し殺したような、それでも確かな甘さを持った危うい響きの声が、地を這うように広がる。

 次の瞬間、再び上げられた顔は、合わされた目線は、今までのそれとは明白に違う空気を帯びていた。異なる色をしていた。

 

「でもそれは、言ったはずだよ。僕にとって、アイは『全部』だった」

 

 アクアのことを見ている、覗いている彼の瞳は、伽藍堂だ。洞穴だ。

 光が見えるのに、しかしその光は昏い。輝きを発しながら、同じ強さで周囲の色を吸い込んでいくような。

 

「アイの傍にいるときだけ、僕は生きている気がした。僕は僕でいられるって、本当に思っていた」

 

 もう、視線は動かない。カミキも、そしてアクアも。

 抗うことの一切を、許さぬほどの引力だった。今までの彼の中にあった、鼻につくような軽薄さもわざとらしさも、もう見えなかった。

 

「ずっと一緒に生きていたかったよ。僕はアイさえいればよかった。アイのことをずっと、感じていたかった。アイもそうだと、信じてた」

 

 分かるかい、と。分かるだろう、と。心の中で確実に、そして強烈に『引きずられそうになる何か』を、『共鳴しようとする何か』を押さえつけるアクアの前で、また、カミキは笑う。虚ろに笑った。

 

「でも、アイは違ったよ。だってアイは、僕よりもよっぽど強かった」

 

 組まれていた手が離れ、その一方が、アクアの方に伸ばされる。まるでこちらの腕を、身体を、掴もうとするかのように。

 

「あの子には、他人なんて必要ない。僕のこともそうだ」

 

 しかしその寸前で、それが止まる。見えない壁に触れたかのように、ぴたりと。

 

「アイに、他人を愛するなんて似合わない。だってそれは、縋ることと同じだからだ。他人がいなければ生きていけない弱い人間がすることだからだ」

 

 そう言って捲し立てて、アクアの目の前に伸ばされた腕が、微かに震える。

 そしてその先、拳が握られて、もう一度、彼の膝へと戻る。俯いたその顔と、視線と、平仄を合わせるように。

 

「でも、アイは違う。アイは強かった。だから、弱かった僕を捨てたんだ。振り払ったんだよ。それに、僕はやっと気づいた」

 

 投げやりに言葉が続き、苦笑のような、自嘲のような息が漏れる。

 そのまま、小さく首を振るようにしながら、彼は更に言い募って――

 

「だからこそ、アイはあんなに輝いて。だったら、それなら、僕は――」

「本当に、そう思ってるのか」

 

 しかし、その瞬間に、アクアは自らの言葉をその間隙に割り込ませた。

 

 

 

 低く、固く、鋭さすら帯びた声だった。そう、自覚していた。

 眼前に見えるカミキヒカルの肩が、僅かに震える。

 

「アンタのことを、アイは愛してなんていなかった。アンタを振り払った。捨てたんだ。そう、本気で思ってるのか」

 

 情動が逆巻く。声が震えていた。気づけば、アクアは右の拳を強く握っていた。

 

「だったら。だったら何でアイは、母さんは、俺たちを産んだ。俺たちは、アンタの子供でもあるんだぞ」

 

 瞬間、まるで弾かれたように、彼の顔が上げられる。視線が合う。

 覗きこんだ彼の瞳孔は、引き絞られていた。微かに震えていた。

 

「堕ろす選択もあったはずだ。だけど、母さんはそうしなかった。それがどういう意味なのか、アンタ本当に分からないのか」

「それ、は……」

「だったら。だったら、アンタにはそれを知る義務がある」

 

 ――だから。

 言葉を続けたその刹那、この会議室の扉をノックする、控えめな音が響く。

 カミキヒカルにとっては予想外の、そしてアクアにとっては()()()()()()、その音が。

 

「だから、俺はここにいる。ここに来たんだ。なあ――」

 

 アクアの背後で、扉が静かに開け放たれてゆく。

 その方向に目を向け、その向こうに見えた人影を視認したであろうカミキヒカルの表情が、一瞬のうちに凍りついた。

 

 全てを見届けて、アクアは振り向く。そして、その『誰か』に向かって呼びかけた。

 

()()()

 

 二人の男の視線の向き先で、夜を梳きこんだ輝く黒髪をたなびかせながら、一人の女性が今、笑みを浮かべていた。

 

 

 

 アクアの母が、カミキヒカルのかつての思い人が、『星野アイ』が、そこに立っていた。




推しの子最大のミステリー、「姫川夫妻は二度死ぬ」問題。
本作においてはこういう設定とします。つまり、カミキヒカルが嘘をついていたという構成です。

この部分に関しては何が正しくて何が間違っているのか分からないので、最も多くの人(壱護社長、姫川大輝、黒川あかね)が言及している姫川大輝5歳頃の心中事件発生を正とすることにします。今後アニメなどで矛盾する描写が出てきた場合は、「本作はそういう世界線なんだ」と思ってください。



それと私事ではありますが、最終話、完結への目途が完全につきましたので、本話の公開に合わせて作者名の匿名化を解除します。
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