天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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6-2. 「神木輝」

 時そのものが、その歩みを止めてしまったかのようだった。

 父と、母と、その息子と。しかし三者の中で、その実アクアの存在は今、二人の間においては透明なものと変わっているかもしれない。

 それほどに今、アクアの目の前にいる一組の男女は、ただ自らの対面にいる存在のことのみを見ていた。

 

 アイがカミキを。そしてカミキがアイを。そのお互いだけの、相向かい合う視線の中によってのみ切り取られた世界の只中で、数秒ほど続いた沈黙という真空に、音が生まれた。

 

「やっほ、(ヒカル)

 

 あまりにさりげない声だった。日常の延長線上の、何でもないアイの言葉だった。薄く浮かんでいた笑みを崩さず、ただ小さく手を上げて、二人の間を隔てていたはずの十五年という時間がまるで存在しなかったかのように、つい昨日会ったばかりであるかのように、アイは今、カミキヒカル――『神木輝』という名のその男に、声を投げかけていた。

 

「しばらく振りだね。元気してた?」

 

 ただその、「しばらく振り」という彼女の台詞だけが、互いの間に経過していた長い時間の実在というものを、証明するばかりだ。

 そこでカミキが、輝が、こわばっていた肩の力を抜く。身構え、凍り付いていたであろう彼の表情が、俄かに緩んだ。

 

「……ああ。おかげさまでね」

「そっか。それはよかったよ」

 

 彼女の発する声はどこか素気なくも、しかしいつものそれと変わりない。気持ちばかり柔らかく聞こえる輝からの言葉に、ただそんな一言だけで応えてみせて、アイはその場所から、部屋の入口から一歩を踏み出す。

 

「聞いたよ? 知らない間に会社二個も立ち上げたんだって? 社長さんだぁ」

 

 手を後ろに回し、あどけない童女のような振る舞いで、歩み寄る。アクアの、そして輝の傍へと。

 

「ま、頭よかったもんね、輝。びっくりってほどでも、ないかな?」

 

 殊更に小柄な彼女は、時を経て長じ、おそらく互いに互いをよく知っていた頃よりもはるかにその背を伸ばしているのであろう男の、輝のことを見上げる。

 

「と言うか、なんかめっちゃデカくなってるよね。伸びたんだねー、背。アクアより高いよ」

 

 朗らかに、同時にしみじみと。しかしそれ故にまるで狙いというものが見通せないアイの、掴みどころのない、さながら世界の中にポツンとひとりで浮かんでいるが如き振る舞いに、輝は思わずといった様子で、苦笑にも近い微笑みを浮かべる。

 

「相変わらずだね、アイ」

「そうかな?」

「ああ。……本当に、変わらないよ」

 

 深く深く、実感するように。自分自身の認識の正しさを、改めて確かめようとしているかのように。

 吐き出す空気の中に混ぜ込むようにして、あるいは誇示さえするように言葉を重ねた輝を見ながら、いつもの笑顔を、見慣れた笑顔を、アイは崩さない。

 

 

 

「そっか。()()()()()()()()()()()

 

 そしてその表情のままに、何でもない言葉遣いで、挨拶でもするかのように、アイはあっさりとそう、『一歩踏み込んだ』。

 

 

 

 輝の、神木輝の動きが、一拍の空白を経て、はたと止まる。

 突然の言葉だったからであろう。彼をしても、その前触れもなく直角に曲がったかのようなアイの態度を、きっとすぐに理解することができなかった。

 

 向き合う両者の横顔を、アクアは見る。

 そこに浮かんでいたはずの笑みが、アイの笑みが、消えていた。

 

「輝はさ」

 

 ぽつんと、呟きが落ちる。何かを探るような、囁きにも似た声だった。

 

「怒ったんだよね」

「……なんの、話だい?」

 

 問い返した輝に、アイは一切の答えを返さない。静寂がやってきて、しかしそれが続いたのはほんの数秒だった。

 アイが何を言わんとしているのかは、この場の誰にでも理解できる。今更言葉を尽くそうとする意味もなかった。訊ね返す必要も、また然りだろう。

 

 輝にしても、それは同じだ。

 一瞬だけ消えていた口の端の笑みが、また戻る。そこに宿っているのは、やはりと言うべきか、苦笑の趣だった。

 

「君らしくもない。そもそも、君は何も間違ったことはしてないだろう」

 

 ――僕を、切り捨てたことなんて。

 言葉にはせずとも、その無言の意図が明白に込められた彼の台詞を聞いて、アイはその正面にて首を振る。

 ゆっくりと、しかし彼にもはっきりと見えるように、分かりやすく、大きな身振りだった。

 

「そうやってさ、みんな言うんだよね」

 

 言って、笑んだ。しかしそこに映っている色は、それまでの無邪気さを帯びたものとはまるで違う。

 

「分かるよ。私はずっと、いっぱい間違って、ずっとバカだった。でも誰も私に言ってくれない。『アイって、そうだから』。『アイちゃんは、そういう子だから』。そればっかでさ」

 

 明確な、自嘲の笑みだった。それを真っすぐに受けて、輝の表情が固まる。

 

「気がついたら、もうどうしようもなくなってる。そんなことばっかだった。……ねえ、輝」

 

 真っすぐに見上げたアイの瞳に、光が差す。

 

「私がここに来たのはさ、言いたいことがあるからなんだ、君に」

 

 言葉を失ったままの目の前の男に向けて、アイは唄うように言葉を重ねる。僅かに目を伏せ、瞳を閉じた。

 

「謝らなきゃいけないことが、一つ」

 

 瞼の先で、長く伸びた睫毛が震える。輝に対して宣言するのと同時に、きっと自分自身に言い聞かせている。そう、アクアは感じた。

 

「お礼を言わなきゃいけないことが、一つ。いや、二つ。それと」

 

 双眸が覗く。顔を上げる。小さく、しかしはっきりと息を吸って、意を決したかのように、アイは続く言葉を、最後の言葉を、世に出した。

 

「訊いておかなきゃいけないことが、一つ。……たくさんあるけど、全部しなくちゃいけないことだから」

 

 届いた先の男は、神木輝は、一切の反応を示さなかった。

 ただずっと、そのアイの宣言を、立ったままに聞いていた。

 

 

 

 「アイは変わらない」。「アイは強い」。そうアクアに向かって、アイに向かってさえも言ってみせた輝は、今のアイの振る舞いを見て何を思うのだろう。

 そも、彼が本当にあの映画を、「15年の嘘」という作品を見たのであれば、自らがアイに対して向ける評の正しいはずのないことは、絶対に分かっているはずだ。

 

 理由など、確かめる必要さえない。アクアがあの映画の中で描いたのは、「変わってゆくアイの姿」に他ならなかったからだ。

 アクア自身はそれを、「アイという少女の成長」として描いた。そう描くことこそが、アイの自己認識を補強するものであると考えたからだ。それこそが、今のアイを肯定するメッセージであると信じたからだった。

 

 それを十分に描けていたか、そこに対する評はどうであっても、しかし描写されていたのが変化であるという事実だけは覆らない。

 それでもなお、彼があれを見てアイに対して下す評価が、「不変なる人格を持つ人間」であるとするのならば、その在りようを彼女の強さであると見做しているのならば、もはやそれは彼にとっての『信仰』でさえあるのではないか。

 彼がアイのことに、アイという人間に対してでさえも嘘をついているというのでないのならば。

 

 

 

 つまりそれは、神木輝が今、「それを信じなければならない」ということさえ、意味している。アイはもはや、彼にとってそういう存在『でなくてはならない』。それが彼にとっての教義(ドグマ)であり、外れることは許されないのだと。

 その意味するところは、一体何であるのだろうか。

 

 僅かに、微かに、しかし確かに、手がかりが見え始めていた。

 

 

 

「私がいなくなればいいって、思ったんだ。あの時」

 

 唐突に続けられた言葉に、アイの言葉に、全員の注目が彼女に集まる。

 輝だけではない。アクアもだ。

 

「このまま輝と私が一緒にいても、多分いいことはないんだろうなって。私がいなくなったほうが、君は真っすぐに生きていけるって」

 

 前提も、何もない。言いたいことを、ただ言おうとしているかのようにも聞こえる。

 けれども同時に、今この場にいる人間にとって、それに至る『前置き』の類などは不要だ。

 輝にしても、またアクアにしても。

 

「妊娠は、ただのきっかけだった。もっと早くに言おうと思ってて、でも切り出せなかっただけ」

 

 ――だって。

 そう言って、アイが口の端を、声を、震わせる。

 

「楽しかったんだもん、輝といれて。手放したくなんて、なかった」

 

 輝が、目を瞠る。唇が僅かに動いて、しかしそれは声となって外へとは出てゆかなかった。

 けれどもそれはほんのわずかの間のことで、もう一度彼の表情は、色を失くした姿へと戻る。

 

 まるで、自分自身にそうあれと命じているかのように。

 

 

 

 アイは、僅かにその目線を天へと向ける。目の前に見えているであろう神木輝という男にかつて向けていた情念を、呼び起すかのような振る舞いだった。

 

「知ってるでしょ輝は。私が嘘つきだったって。だから私はよくわかんなかった。自信がなかった。私のこれが、『愛してる』ってことなのか。輝に嘘はつけないから」

「……だから、君は」

 

 絞り出したような声が、割り込む。輝からだった。

 完全な問いの形にはなっていないそれも、二人の間では完全な意味を持つ。こくりと頷いて、アイがほんの少しだけ、顔を俯けた。

 

「だけど、だから私は、何があの時の輝のためになるのかなって、思ってたんだ。愛梨さんのことも、大輝くんのこともさ」

 

 後ろ手に組んでいたままだったその両手が、前へと回る。彼女の腹の上でそれは組まれて、少しだけその手に力が入った。

 

「子供が出来たって分かって、怖くなった。だってそうでしょ、それって愛梨さんと同じじゃん。君にとっては」

「違う! 違うよアイ、それは――」

 

 思わずと言った様子で、輝が声を上げた。

 だからそれは、アクアがこの場において今まで一度も見たことのなかった、神木輝という人間の『本当』にさえ、見えていた。

 けれどもそれを、アイはただ無言で首を振ることによって封じる。

 

「あの時の私は、そう思った。間違いだったのかもしれないけど、でもあの時の輝は、『同じ』に見えた。愛梨さんに向けてるものとおんなじ『嘘』を、私にも向けてるような気がして」

 

 伸ばされようとしていた輝の手が、力を失った。大きく息を吸って、しかしそれ以上の言葉が出てこない。

 

「だったらさ、もしかしたら私も、愛梨さんと同じなのかもしれないなって。結局、変わらないのかなって」

 

 何故なら、アイは自分自身に向けられる「嘘」の形に誰よりも敏感だからだ。自分自身がそれを使って生きている以上、使われることにだって鋭敏であるに決まっている。

 ともすれば、その自覚のない本人よりも。

 

 そのことをきっと今、神木輝は理解していた。或いは、『思い出してさえいた』、のだろうか。

 

 他者に阿り、その人に気に入られるための『正しい嘘』をひたすらに吐き出しながら生きていた神木輝という人間にとって、アイとの関係にだけ嘘の一切が存在しないなどと言う都合のいい話が、あるわけもない。

 アイにだって気に入られるように、アイに相応しい『恋人』であるために、きっと神木輝は必要な嘘を、正しい嘘をついていたのだろう。そうやって、人と関わるたびに嘘の鎧を増やし続けて、ならばその時点の彼はもはや、何が嘘をついていない自分で、何が嘘をついている自分であるのかどうかという、そんな単純な問いにさえも、答えを与えることが出来なくなっていた。

 

 だったら、神木輝という人間を歪めてしまう『悪しき人々』の一人に、アイ自身もまた含まれているのだと、そういう自己認識を持ってしまったであろうその時の彼女を、責められるはずがあろうか。

 

「私ばっかり幸せでも、楽しくてもさ。それで輝にかかってる『重さ』がどんどん増えていって、愛梨さんも大輝くんも、私も、おなかの中の子どもまでってなったら。……それが、怖くなったんだ」

 

 訴えかけるように声を上げ続けるアイから、輝が僅かに視線を逸らす。

 これもまた、初めてのことだった。自分の方から、まるで逃げるように顔を背けた彼の行いは、ならば言葉による嘘で覆い隠すことのできない、本能や本心に根差した行動なのであろうから。

 

「だったら、私にできることって何なんだろうって思って。どうすれば、君を自由にできるのかなって思って」

「……それで、君は」

 

 枯れたような、掠れ切った声が、輝の口から漏れて出る。

 何か突沸した情動を抑えようとして、けれども抑えきれない、隠し切れない何かが発露しているかのようにも、聞こえる。

 

 アイが、応えるように笑みを浮かべた。そこに潜んでいた『意味』は、自嘲か、それとも悔悟だろうか。

 

「人を愛することって何なんだろうって、まだ私には分からなかった。あれが『輝のことを愛してる』ってことなのかって言われたら、違うんだろうなって思ってた」

 

 けれども続けられる言葉と、その中に宿っている意思の強さは、決して変わらない。

 

「だけど、あの時の私にはそれしかできないんだって考えてて。私がいなくなれば、輝はもう大丈夫だろうって。……愛梨さんとのことも、片付いたんだって思ってたから」

 

 「でも」。そう続けて、目を伏せる。

 

「間違ってたんだね、私は。そのせいで、君がこんなになって、あの時のことも」

 

 アイは、自らの真意の全てを言葉にはしない。

 というよりも、できないということなのだろう。彼女の胸中は、まだ曖昧だ。神木輝の今にも、あのドームのライブの朝に起きたことも、どちらにしても、確固たる言葉による評価は未だ定められていないのだろう。アクアと同じように。

 

「君のことを、傷つけた。怒るのも当たり前なんだろうなって思った。やっと、それに気がづけた気がして。……だから」

 

 けれどもその中にあっても、アイは自分の持っている心情を、必死に言葉としてかき集めている。

 何のためかは、続く言葉が教えてくれた。

 

「ごめんね、輝。間違ってたよ、私は。もっとちゃんと、君にしっかり伝えてればよかったんだ、思ってること。もう、遅いかもしれないけど。でも、ごめん」

 

 言葉と共に真っすぐ下げられたアイの頭を前にして、輝は何も言わない。けれども今、彼の纏う空気がはっきりと変質したのを、アクアは感じ取る。

 それは当惑か、動揺か。それとも、ほんの少しの『悔悟の念』であるのだろうか。いずれにせよ今、確かに神木輝という男の心は揺れ動いていた。言葉によって繕うことの決してできない部分が、アクアにそれを教えていた。

 

 

 

 軽い謝罪ではない。アイの頭を下げている時間は長かった。

 その理由を、アクアは理解している。それはすなわち、彼女がこの場にやってくるに至った動機そのものに、直結しているからだ。

 

 数日ほど前、いよいよカミキヒカル――神木輝と対面する日がやってくることをアイに話したときのこと、アイは自らの考えを、輝に対する思いというものを、アクアに告げた。何を思って、何のために、これからの自分は彼と向かい合うのかと。話し合うのかと。

 

 一言では到底言い表すことのできない心情だ。同時にそれを聞き出すことは、アクアにとって決して欠かしてはならぬ意義を持ったものだった。

 彼女の言葉が、神木輝という人間にどう作用するのか。それを予期し、見定めることが、アクアの『これから』のためには絶対に必要だったからだ。

 

 そして今、アイが顔を上げる。

 最初に頭を下げ、その言葉と態度によって輝が築き上げてきたであろう心の鎧に風穴を空けて、彼女は次に自らの伝えるべき思いを、その場所目掛けて差し込んでゆく。

 

「だけど、それだけじゃないよ。私がここに来たのは。さっきも言ったけどさ」

 

 切実に形作られていた表情が、俄かに和らぐ。

 

「これも、言ってなかったから、ずっと。――『ありがとう』って」

 

 そうやって出てきた言葉は、きっと輝という人間にとって、今までのどれよりも響く言葉だろう。

 アイには、分からないかもしれない。知らないかもしれないけれども。

 

「だって君は、私が初めて『愛したい』と思った人だった。『愛せる』かなんて分からなくて、『愛してる』なんて言えなくて、でもそんな風に思うぐらいには、君と一緒にいられて、私はずっと楽しかったよ」

 

 笑っていた。アイは、確かに笑っていた。

 彼女が今、彼に対して抱えている思いは、必ずしもポジティブなものばかりではない。知らぬ存ぜぬではいられず、彼から伸びてきた『害意』と言う名の刃に曝された経験は、彼女を過去の美しき追憶にばかり浸らせることを決して許しはしないはずだ。

 けれども、その全てを飲み込んで、アイは輝に笑いかけている。

 

 ならばそれは、必要によるものなのだろう。そうする意味を、彼女は自覚しているのだろう。

 神木輝にとって、星野アイにとって。そして、『アクアやルビーにとってさえも』。

 そう、信じているのだろう。

 

「でも、それだけじゃないんだ」

 

 だから今、アイはそれを言葉にする。その『必要』というものを。理由と呼ぶべきものを。

 

「この子達だよ」

 

 ふわりと、視線が舞う。輝の上から脱し、僅かに虚空を滑ったそれが、横に――アクアの方に、向けられる。

 声に釣られて、輝の目線もまた動く。双方の、二対の瞳に見据えられたアクアは、そこから動くこともできない。いや、しようとも思わなかった。ただその場に立ち尽くして、アイの言葉を聞く。

 

「さっきも言ったけどさ。この子達を産むべきなのかなって、私は迷ってた。怖かった。堕ろした方がいいんじゃないかって、何度も思った。愛梨さんと一緒になっちゃうんじゃないかって」

 

 知っていた。聞いていた。見ていた。

 同じだったからだ。アクアたちが一歳の誕生日の時に撮られた、あのDVDの中にあった言葉と。

 

「でもね。……でも、出来なかったなぁ」

 

 ゆっくり、静かに、目が閉じられる。浮かんでいる笑顔は、今までの穏やかなそれとは違う。

 そこにあるのは、明白な痛みだった。あるいは、声さえも。

 

 故に輝は、アイへと向き直る。未だアクアの方に身体を捩って、だらりと下ろしていた片方の腕で胸を押さえているアイのことを、瞠った目で、収縮した瞳孔で、彼は見ていた。

 

「産みたかった。だって君との子どもだったから。本当は、ずっと君と一緒にいたかったから。だからせめて、せめてこの子達だけはって。そう、思って」

 

 アクアは、思い出す。アクアとしてではない、過去の記憶だ。雨宮吾郎として、あの病院の屋上で、宵の入り口の中、頭上に浮かぶ明星に見守られながら、彼女から聞いたあの言葉を。

 

 ――星野アイは、欲張りなんだ、と。

 

 あの茶目っ気を帯びながら放たれた言葉の裏に込められたものがそれであるというのならば、星野アイという人間がずっと抱えていた葛藤は、あるいは覚悟は、いったいどれほどのものだったのであろうか。そう、アクアは思わずにいられない。

 

 アイ。

 そんな、もはや声にならないほどに擦り切れた、空気にさえも似た音が、漏れ出る。言うまでもなく、輝の方からだ。

 それに反応するかのように、誘われるかのように、アイが向き直る。輝に視線を合わせる。笑みとはまた違う、それでも穏やかな表情を、そこに浮かべながら。

 

「でももう、今はそれだけじゃないよ。アクアは、ルビーは、それだけで私にとっては大事なんだ。『かけがえのない』……って言ったらいいのかな。そんな、私の子どもだから」

 

 そして、はにかむように、恥じらうように、少女のように、彼女はまた笑う。

 

「二人がいてくれたおかげで、私は分かった気がするから。『愛してる』って、なんなのか」

 

 それは、決定的な言葉だった。

 アイにとっても、輝にとっても。そして当然に、アクアにとってもだ。

 

 なぜならそれは、アイという人間の「根本的な変化」を告げるものだったからだ。

 

「だから、二人に逢わせてくれた輝には、ずっとありがとうを言わなきゃいけないって、思ってた。君がいてくれたから、私はアクアたちに出会えたんだから。だから、ありがとうって」

 

 それをもたらしたのが、アクアであり、またルビーであると、神木輝という人間に知らせることを意味していたからだった。

 

 『変わらないアイ』を『強さ』であると自らのことを納得させて、それを至上のものと置いていたであろう神木輝が、しかしその幻想の、信仰の崩れ去った理由の根幹を、今ここで知った。

 自分とアイが出会ったことが。結果としてその腹の中に命を宿したことが。そしてその末に産まれてきた二つの命が、アイのことを変えた。

 その因果の全てを見て、理解して、彼は何を思うのか。どういう決断に、至るのか。

 

 それが、アクアにとってのきっと『最後の分岐点』だった。

 

 

 

「だけど、さ」

 

 だからこそ今、そんなアクアの認識と平仄を合わせるようにもたらされたアイの言葉が、続けられた台詞が、刹那の静けさに沈んでいたこの会議室を俄かに満たす。

 思い出の中にあって、その温かさに浮かべていた彼女の笑みは、もうそこにはない。代わりにやってきたのは、怜悧とさえいってもよい眼差しだ。

 

「ねえ、輝。あの時さ、殺そうとしてたんでしょ、私のこと」

 

 問いかけのようでいて、おそらくそれは問いかけではない。

 

「ドームの日。ううん、それだけじゃない。私の出産の日も。()()()()()()()()()()()()()()()()()。殺したんでしょ」

 

 詰問ではない。しかし、きっと確実に、アイはそれを確信していた。

 あの高千穂の旅行の中、雨宮吾郎の白骨死体を見つけたアイは、きっとそれよりも前に、彼の――つまりアクア(吾郎)の死のことを知っていたのだろう。

 今ならば、その理由もわかる。新野冬子(ニノ)だ。おそらくアイは、すでに彼女からその情報を得ていたのだろう。

 

 自分を殺そうと、そうやって差し向けられた悪意によって、如何な担当医であるとはいえ、他人が巻き込まれる形で命を落とした。そして我が子にさえも、不可逆にも思われる傷を負わせた。

 

 その被害者二人が実質的に同一人物であるというのは、なんという皮肉か。あるいは、必然なのだろうか。

 しかしアイは、それを知らない。そして当然に、それを知る必要さえもない。

 いや、違う。アクアは、それを言いたくなかった。今、輝に対して吐露した彼女の内心を知ったからこそ、言うわけにはいかなくなった。

 

 彼女の抱いた信念を、穢してしまうような気がしたから。

 そうやって、アクアがこれまで抱えていたものと同じ呪縛に、『雨宮吾郎』という亡霊の呪縛にアイが囚われてしまうのは、断じて正しくはないのだから。

 

 

 

 言葉を向けられた輝が、口を開く。

 何かを言おうとそれを動かして、しかし、言葉が出てこなかった。

 

 言えないのか。言えないのだろう。アクアの前ではあれほどに饒舌に振る舞っていた彼が、今この瞬間においては、誤魔化しの言葉一つさえ口にできない。

 ならばやはり、アイの存在は『切札』に相違なかった。そんなものの考え方ばかりをする己のことを度し難いと理解していても、けれども確かに今彼女がこの場にいることこそが、この局面を作り上げているのは紛れもない事実だった。

 

「恨んでたんだよね。憎かったんだよね。殺したかったんだよね、私を」

「違、僕は――」

「分かるよ、それも。しょうがないよね」

 

 輝の反駁を、アイは圧し潰す。言葉を発する前から、目の前の男が並べ立てるであろう嘘なんて何もかも分かっているとでも言いたげに。

 

「……相変わらず、傍若無人だね、アイ。君は」

 

 だからこそ、そんな悔し紛れに放たれた輝の言葉に、アイは笑う。

 

「ごめんね?」

 

 茶目っ気を含んで、首を傾げながら小さく舌を出してみせて、そこからすぐに言葉が続けられる。

 

「うん、ごめん。だけど、私は死ねない。死にたくない」

 

 シームレスに繋いだ『ごめん』の台詞の意味が変わる。からかい交じりの謝罪が、覚悟の表明へ。

 

「アクアたちがいるんだもん。二人がどんな大人になるのか、見てたいよ。ずっと一緒にいたいよ」

 

 大きく、息を吸う。ちらりと彼女が、アクアの方を向いた。小さく、ほんの小さく頷いて、戻した視線と共に、アイは言い切る。

 

「だって、愛してるもん、二人のこと」

 

 愛している。この場でアイがその言葉を口にするのは、何度目か。

 きっとそのたびに、神木輝の中には『楔』が打ち込まれている。彼女の現実を、理解しているのだろう。

 

 アクアもだった。これほどに躊躇いなく、自信をもって、嘘など一つとしてつくこともなく、臆面もなく「愛している」と言葉に出来るアイは、やはりもう、昔日の彼女では決してありえない。

 

 アクアはそれを、それこそを『強さ』であると思った。

 けれども、輝にとってはどうなのだろう。今の彼女の姿は、彼にはどう映っているのだろうか。

 

「ここに来たのは、だからなんだ」

 

 アイがそこで、やおら動いた。輝のほど近くまで寄せていた身体を、一歩だけ後ろに引いた。けれども、彼女の向けている視線が彼から外れることはない。

 

「最初は、そんなつもりじゃなかった。アクアがあんなことになって、センセも死んじゃってて、それが輝のせいなんだったら、私は責任を取らなくちゃいけないって思ってた。私がどうなってもさ」

「……警察に言うってことかい?」

「そうだね。社長にも言われたけど、警察の人が私の話を聞いてくれるかは分からないし。逆にそれで捜査とかが始まったら、私のことはバレちゃう。どっちにしても私にとっては多分よくない話で、でもせめてそれぐらいはしないといけないって思ってた。だって、私のせいでもあるんだから」

 

 胸の前に添えていた手を握り、一瞬だけ目を伏せる。

 軽く目を閉じて、息を吸う音が聞こえた。

 

「でも、アクアが言ってくれたんだよ。『母さんを後悔させたくない』って。だから、こうやってもう一度輝に会わせてくれたのは、アクアだったんだ」

 

 瞬間、視線が動く。輝の顔が、アクアに向けられた。

 アクアもまた、彼の方を見る。その瞳の中にある何かは煌めく光のようで、けれども同時に底のない、影の如きものにも思われた。

 

 

 

「だから、私はここにいるんだよ、輝。――ちゃんと、君に『さよなら』って言うために」

 

 そこにもう一度、アイの声が届く。確固たる意思の載った声が。

 ぴたりと動きを止めたあとに、ゆっくりとアイに向かって目線を合わせた彼の姿をしっかりと見据えて、アイは居住まいを正す。

 

「あんなことがあって、あんな風になっちゃって、だから私はもう、君に『愛してる』なんて言えない。アクアのこと、私怒ってるんだから。センセのことだって」

 

 噛みしめるように、自分に対して言い聞かせるように、彼女の言葉が重ねられていく。

 しかしそこで、意思の指し示す先が変わった。自身の内部から、目の前の男へ。訴えかけるように、目が、声が、前へと向いた。

 

「でも、私はまだ思ってるよ。『輝に、ちゃんと生きてほしい』って。幸せに、なってほしいって。そんなこと言って、センセには謝らなきゃいけないって、分かってるけど」

 

 出てきた声に、どこか罪悪感さえも内包する彼女の語り口に、アクアは一瞬だけ、目を閉じる。

 ――いいんだよ、アイ。それでいいんだ。

 心の中でだけ、言葉を口にする。すなわちそれは、届かぬ声だ。同時に、届けようとも思わない声だった。

 

 だからアイは、アクア(吾郎)の方など見ることもない。ただずっと、真っすぐに輝の方を見て、強く強く、訴え続ける。

 

「お節介だってわかってる。迷惑かもしれない。……けど、私は信じてる。信じたいんだ。まだ、終わってないって。だから」

 

 そして今、アイは笑った。穏やかに、嫋やかに、あどけない、彼女らしいとびきりの笑顔を、神木輝に向けた。

 

「これで、最後。『ごめんね』。『ありがとう』。それで――『さよなら』、輝」

 

 言い残して、彼女は静かに、ゆっくりと、この会議室の扉の方へと足を向ける。

 

 その最後、部屋からの去り際に、アイはもう一度輝の方を見た。

 名残惜しげに手を振って、強烈なまでの瞳の輝きをこの場に残して、やがてその姿は扉に遮られ、見えなくなった。

 

 

 

 

 

 部屋の外に聞こえていた足音が、遠ざかってゆく。部屋の中に残った二人は、アクアと輝は、共に黙したままそれを聞いていた。

 やがてそれも、耳には届かなくなる。アイの存在が、痕跡が、この場から消え去ってゆく。

 

 その全てを聞き届けてから、アクアは輝の方を見た。

 

 更に数秒の静寂を経て、口を開く。

 

「神木輝」

 

 どこか呆然と扉の方を見つめていた彼の顔が、アクアの方に向いた。

 確かめてから、続ける。

 

「母さんは、アンタのこれまでやってきたことを知らない。あのドームの日から先の話だ。俺はあの人に、その話はしてない」

 

 輝は、何も言わない。

 それまでであれば、アイがこの場にやってくる前であれば、彼はアクアのこの台詞にさえも「何のことかな」などと言って誤魔化してみせたのだろう。

 しかしそうすることを選ばない、あるいは選べないほどに、確かに今、神木輝という男の心理は揺れ動いている。そのことを、アクアは確信していた。

 

「だけど。それでも、俺も思ってるよ。『アンタは、まだ帰ってこれる』。まだ、取り返しはつくって」

 

 だから今、アクアは己の中の言葉を、用意してきた台詞を、彼に対して投げかける。

 それは『布石』だ。『撒き餌』でもある。けれども、まごうことなき本心だった。本当にそうあってくれればいいと、祈ってさえもいた。

 

 いずれにせよ、アクアがこの場において言わなければならないことは、それで全てだった。

 何も言わず、反応することすらせずに、ただアクアの方を見るばかりの輝の視線を背に受けながら、故にアクアもまたこの会議室の中から立ち去る。

 

 

 

 出入口の扉を開き、振り向いて、部屋の中へと視線を向ける。

 そこに立っていた彼は、アクアから背を向けていた。一人茫洋と、窓の外の景色を見ていた。

 

 

 

 その姿を見届けてから、アクアは自らの手で、二人の間を隔てる鉄の扉を、しっかりと閉じた。

 

 

 

 

 

 冬の足音の近づく街は、既にその色を夕景の山吹色に染めつつある。

 昼下がりから始まったインタビューと、そのあとにやってきたアイと『彼』の時間は、気づけば日暮れ時にまで及んでいた。

 

 オフィスビルの階下、エントランスまで降りたアクアに、ロビーの方から手を振る姿が見える。

 お馴染みの黒い野球帽に、丸縁のサングラス。しかしそれを以てしても隠し切れない存在感が、長く伸ばされた夜を熔かす髪が、その人物の誰であるかをアクアに知らしめている。

 

 その場所、ロビーの只中のソファの上に腰掛けて、アイはアクアを自身のところへと誘っていた。

 

 軽く手を掲げ返して、彼女の傍にまで進む。腰を浮かせ、横のスペースを空けた彼女の隣に腰掛けた。

 天井高く、二階部分まで続く吹き抜けになっているエントランスロビーが、その白亜の景色が、残照の色に染まる。その有様を二人並んで、ただ見上げていた。

 互いの間に言葉はなく、聞こえるのはただ、このフロアの中の、あるいは街の遠くの喧騒ばかりだった。

 

 

 

「アクア」

 

 ぽつりと、声が聞こえる。

 隣に視線を向ければ、彼女は、つまりアイは、アクアの方を見てはいなかった。ただ前を向き、僅かに天を見上げて、その横顔にはいくつもの情感が折り重なっているようにも思えた。

 

「よかったのかな、これで」

 

 今、その顔が僅かに伏せられる。

 

「言わなきゃいけないこと、ちゃんと言えたかな、私」

 

 声に滲むのは、不安だろうか。

 彼女にとって、今日のあの一幕は最初で最後の『彼』との邂逅だった。最低でも、アイはそのつもりだろう。きっとこれから先の時間において、彼女はもう彼と、神木輝と話をすることを、顔を合わせることを、望むことはないのだろう。

 

 ならば、今日という『最後のチャンス』の中で、自分は言葉を尽くせたのか。思いも、願いも、彼に対して届いたのか。

 全てが終わった今、それを憂いているであろう彼女の心情は、アクアには理解できる。宜なるかなだと思った。

 

 同時に、そんな思いを懐くことのできる彼女の今こそが、やはり星野アイという人間の変化を、あるいは成長というものを体現しているのだろうと、そうアクアは理解していた。

 

「……ああ」

 

 だから、アクアは頷く。アイの顔が、こちらに向いた。

 

「母さんじゃなきゃ、出来なかった。俺には無理だったよ」

「……そっか。そっか」

 

 サングラスを僅かに外して、アイがその瞼を閉じる。自らに刻みつけるように、言葉を繰り返しながら頷いて、やがてその口の端にかすかな笑みが浮かんだ。

 

「だったら、お礼言わないとだ」

 

 そしてまた、彼女は瞳を顕にする。そこに宿った光が、アクアの目の中に真っすぐに届いた。

 

「ありがと、アクア」

 

 故に今度は、アクアの方が彼女から目を逸らす番だった。

 真っすぐにその輝きを見るのは、今のアクアにはあまりに面映ゆかった。あるいは、後ろめたさすらあったのかもしれない。

 

「……別に。俺がそうしたかっただけだから」

「そっか」

 

 彼女から視線を外し、正面に向き直ったアクアに、アイはそれ以上の言葉をかけなかった。そしてまた、この場には沈黙がやってきた。

 

 

 

 その中で、一人アクアは思惟の海へと潜る。

 今日、先刻、自らが対峙していた男のことだ。神木輝という人間のことだった。

 

 かの人間の深淵は、アクア個人が覗きこもうとするにはあまりに深い。今日の邂逅の中でさえも、アイという『切札』の力を借りてなお、彼の本性、本質とも称すべきものを理解するには、未だ遠かったように思う。

 

 それでも、分かったことはある。認識を深めていかなければならないことも。

 

 神木輝は、アクアが持っていた疑念を、否定しなかった。あのドームライブの日より先、彼がやってきたであろうことの話だ。

 彼が目をつけ、その運命を狂わせた女性たちは、誰もが確かな才能を持った存在だった。

 女優、女子アナ、ミュージシャン。肩書に差こそあれども、皆確かにその才という花を咲かせ、世に出て、輝きを放たんとしている人々だった。

 

 神木輝がどうやって彼女たちと知り合ったのか、それは分からない。世に彼のことを糾弾するためには、あるいはそういう事実をも洗い出さなければならないのかもしれないが、アクアには未だそのつもりはない。

 しかし、動機は知らなければならなかった。洞察を、推察を、加える必要があった。

 

 そのヒントは、まさに今日の、彼との会話の中に紛れ込んでいる。

 神木輝は、類稀なる嘘の操り手だ。言っていることの何が嘘で、何が本当であるかは容易には分からない。彼から放たれた言葉そのものを、額面通りに捉えることは愚か者のすることだ。

 

 けれども、彼の語り口の中には確かに彼自身の本音が、本当が滲んでいた。

 

 彼は、アイを自分と同じであると捉えていた。『特別な存在である』と考えていた。故にこそ、自らの唯一に近い理解者であると信じていた。

 星野アイは特別で、すなわち絶対である。そうであることに価値を置き、そんな彼女とたった二人でこの世界を生きていくことを、おそらくは至上のものとして捉えていたのだろう。

 

 それはアイ自身の志向とは逆行するものだ。『特別』を重視せず、『普通』を欲し、外に向かって視線を向け続けていたアイと、『特別』であることを殊更に重要なものと捉え、『普通』を拒絶して、どこまでも認識を内側へと閉じこもらせていた神木輝は、同じ『嘘』を操る存在でありながら、きっとその性向は真逆に等しかった。

 

 アイと神木輝との間のすれ違いは、その末の決裂は、故に運命づけられていたものでさえあったのだろう。けれども輝は、それを認められなかった。

 

 確かに、アイが輝に対して取った振る舞いは、褒められたものではない。アイの彼に対する謝罪は妥当で、必要なものだろう。けれども、いずれにせよ輝は、アイと正しい意味で向き合っていたとは、きっと言い難かった。彼女が彼の傍を離れることを決めた後でさえも。

 つまり、彼は合理化したのだ。アイと自身との間にある認識の齟齬も、その一つの結果とも言える彼女との別れも。その形こそが、きっと『信仰』だった。自らを捨てて去っていったアイの姿を『強さである』と合理化し、その根源を不変性に見出し、そんな彼女のことを信仰した。

 

 出産の日、そしてドームの日。二度にわたってアイを死なせることに失敗した輝は、きっとますますその認識を強くしたのだろう。まるで運命そのものが彼女のことを守っているとでも言うような、神秘性すら纏った星野アイの絶対性を、ますます深く信仰するようになった。

 故に、そんな彼女の輝きに近づきつつある才能を、そういう女性を見つけては、きっと彼は『試した』のだろう。自らの『嘘』によって、彼女たちの運命を狂わせられるのかどうか。アイと同じ不変性を持った存在が、二人とこの世に現れることなどないと、証明さえしたかったのかもしれない。

 

 そうすることで、自分の傍から離れていった星野アイの存在を、自分の中で昇華さえしたかったのかもしれない。

 

 

 

 いや、それだけではないのだろうか。

 神木輝が矛先を向ける相手が、女性のみである理由。そもそも、アイに対して二度にわたって悪意の刃を突き立てようとした理由も。

 

 彼はあの時、「恨んでいない」と言った。「憎んでいるか」と問うたアイに、そうではないと抗弁さえしようとしていた。

 けれども、本当のところはどうだろう。そんなはずが、あるだろうか。

 彼にとって、自らの人生を狂わせたのは、いつもいつも女性だった。そう言うことではないだろうか。

 

 姫川愛梨も、そしてともすれば、アイでさえも。ならば彼の行動が、その心理の深層における、輝自身も意識していない心の奥底における、女性という存在全般に対する仄暗い復讐心の発露として現れているという可能性は、唾棄すべきものだろうか。

 決して、捨て置くべき可能性ではないのではないか。

 

 

 

 そうなのだとすれば、今日あの場所でアクアと、そしてアイと邂逅した一幕というものは、神木輝にとっていかなる形で働くだろうか。

 

 アイと二人、言葉もなく横に並んで座って、ロビーの中の時間は過ぎてゆく。

 この場に迎えがやってくるまでの、もうそこまで長くはないであろう時間で、アクアはこれからの展望へと、思いを馳せる。

 

 

 

 この期に及んでも、アクアは『可能性』を捨て切れてはいなかった。

 あの日、五反田監督からアクアの手に渡ったDVDの中身を、もう一度想起する。

 

 映像の中で、彼女は言っていた。

 ――彼が今も迷ってるなら、彼を救ってあげて欲しいんだ。私と一緒に。

 それは未熟であった少女の、母と称するには幼かったアイという少女の、独り善がりな願いであったかもしれない。

 けれども、アクアはそれを叶えたいと思った。そうするべきであると信じた。

 だから、アクアはアイと輝が話し合うための場を設けた。そうなるように、ある意味では彼のことを誘導した。

 

 それが成就したのならば、これ以上望むべきものはないのだろう。アイの言葉が正しく彼に届いて、以て今までの己の過ちを彼が理解して、本当の意味で神木輝が己の人生を、真っ当な人生を歩んでいく結末に至るのならば、紛れもなく喜ばしいことであるに違いない。

 

 彼には未だ、その資格がある。アクアが去り際に輝に対して言ったことは、出任せなどではない。

 彼の今までやってきたあらゆることは、この国の司法の枠組みの中では罪として問うには淡きに過ぎる。ならば己の重ねてきた罪と向き合って、彼自身に出来る禊ぎを、償いをすれば、まだ彼は戻ってこれる。その猶予が、彼にはあるのだ。そのはずなのだ。

 

 けれども同時に、アクアは考える。

 それはあまりに希望に満ちた観測だ。人はそう簡単に変われるものではない。まして相手は、十五年もの長きにわたって妄執にも似た信仰心を募らせていたであろう存在なのだ。そんな彼に、神木輝にとって、今日のことがどのように記憶されるか、それをどういうものであると捉えるかを、アクアは楽観視することなどできなかった。

 

 そして、だからこそアクアがあの場所にいる必要があった。アイだけではない。ルビーを伴ってもならない。

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 それは保険で、最後の手段で、けれども『至る可能性が最も高い未来』だ。

 アクアにとっての、描いていた終局の姿でもあった。

 

 

 

 不意に脳裏に、言葉が、姿が過ぎる。

 二度目の高千穂の地で、『天童寺さりなの墓』の前で、ルビーから向けられた祈りの言葉を、その時の眼差しを。

 あの歩道橋の上で、『有り得たかもしれない可能性』という名の悪夢を目の当たりにして、喪失への恐怖に震えていた、あかねの姿を。この身を抱きしめた彼女の身体から感じた、確かな熱を。

 

 

 

 先のことを考えるたびに去来するその景色が、言葉が、深化していく認識の中に、ふと差し込まれる。踏み出そうとする足を止め、手を引いて、まるでそこから連れ戻そうとするかのように。

 

 ――分かっているさ。分かっているとも。

 内心で、ひとりごちた。幻聴にも似た残響を、頭の中で振り払う。

 

 彼女たちから望まれているものを、アクアは知っていた。

 自負するには烏滸がましく、言葉にするには面映ゆく、けれども逃げることだけは決してしてはならないと、理解していた。

 

 だから望むべきは、『決着』であっても、決して『終わり』ではない。それだけでは、いけないのだ。アクアにとってのみではない。あの男――神木輝にとってさえも。

 何となれば、それこそがそもそもの願いなのだから。他でもない、アイの。星野アクアの、たった一人の母親の。

 

 そしてそのための方策は、既に心のうちにある。覚悟も、出来ている。

 たとえそれが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 思考の水底にいたアクアの感覚が、そこふと浮上する。

 源泉は、己のズボンの右ポケットだった。

 スマートフォンだ。取り出して、中を見る。

 

 あったのは、一件のメッセージだった。差出人を、そしてその内容を見て、アクアは横を向く。

 アイの更に向こう、ビルの窓ガラスを隔てた、外の景色だ。

 

 そこに、このビルの車回しの中に、一台の車が停まっていた。

 見慣れた黒のミニバンだ。その正体は、アクアも、そしてアイもまた、よく知っている。

 

 アクアと共にそちらの方に目線を向けていたアイが、すっと手を上げた。それと同時、車体の向こうから現れた一人の女性が、こちらに向かって手を振ってくる。

 

 

 

 ミヤコだ。つまりそれは、迎えの到来に他ならない。

 

『今着いた』

『ごめんなさいね、遅くなっちゃって』

 

 そう綴られていた画面の電源を切って、アクアは、そしてアイもまた、ソファから立ち上がる。

 

「行こっか、アクア」

 

 外を見ていたところからくるりと振り返り、いつもの明るい声でそう促してきたアイに、アクアは無言で頷いた。

 

 

 

 歩き出し、出入り口の自動ドアの前に立って、この場所からいよいよ以て立ち去らんとするアクアは、そこから一度だけ中を振り返る。

 エレベーターと、その先にあったあの会議室のことを、去り際の、アクアに背を向けて外の景色を眺めていたあの男の影を、心に浮かべた。

 

 しかし、それもほんの少しの間のことだ。

 微かに目を閉じ、幾度か首を振って、脳裏に映った情景を追い出す。

 

 そして次に目を開けたときには、アクアの視線は、認識はもはや、前だけに向かっていた。

 

 

 

 いつまでも、それにばかり構ってはいられないから。

 アクアにとって、アイにとって、それ以外の数多の人にとって、待ち望んだ「あの時」がやってこようとしているからだ。

 

 

 

 ――『新生B小町・東京ドーム単独ライブ』。

 その日は、もうひと月と少しの未来に見えていた。

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