年の終わりが近づく。二度目の高校時代を過ごしたアクアの、三年目の年の瀬だ。
一年目は、舞台「東京ブレイド」に出演する舞台役者として。
二年目は、映画「15年の嘘」の制作を手掛ける脚本家として。
そして今、三年目のアクアは、その二つとは別の立場として、ここにいる。
十二月二十三日。数年前までは祝日であったその日は今この時においてはただの平日で、しかし明日に迫った
冬の盛り、冷え込む夜の厳しささえも吹き飛ばすかのように、期待と興奮を内包する空気の中で、アクアたちもまたきっと、間違いなくその一員だった。
それは何故か。言うまでもない。
「いやぁ、いよいよだねぇ……っ!」
都内にあるホテルの一室、この建物の中では二番目に広い部屋、「パークスイート」と名前の付けられた途轍もない広さを誇る居室に集った苺プロの面々の中で、そのダイニングテーブル――なんとこの部屋はリビングとダイニングが分かれてさえいた――を囲むルビーが、興奮を隠しきれないとばかりに声を上げている。
武者震いさえ、しそうな勢いだ。その『対象』そのものを目に入れるべく、彼女はもはや何度目であろうか、自らの席から立つ。そのまま速足で窓際にまで歩み寄り、窓ガラス越しに眼下に見えている『それ』を、もう一度その目に納めた。
「明日の今頃は『あそこ』なんだもんなぁ、私たち!」
窓際に張り付くようにして弾んだ声を上げるルビーに、背後から呆れたような声がかかった。
「アンタそれやるの何回目なのよ。分かったからちょっとは落ち着きなさい」
「でも先輩だって楽しみでしょ? だって明日は
その少女、すなわち有馬かなに向かって振り向きながら反駁したルビーの言葉こそが、現状の全てを物語っている。
つまりここは、東京ドームを見下ろす場所に立つシティホテルの一室だ。
この場所にアクアたち全員がいる理由は当然に、明日に控えた新生B小町の東京ドームライブの準備のために他ならなかった。
「そりゃまそうだけど。でもそろそろ落ち着きってものを身につけなさいよ。アンタ十八でしょ? 成人でしょ?」
最初の方はこの部屋の広さに些か、と言うよりもドン引きしていた気配のあったかなだったが、それが落ち着いてくるや遠足前の小学生もかくやという多動っぷりを見せつけているルビーに対する苦言がどうにも止まらない。
「まあまあかなちゃん」
それを、彼女の隣に腰掛けているMEMちょが宥めにかかる。
「しょーがないよぉルビーはさ。だってずーっと楽しみにしてたんだから。てか、私も正直……」
曖昧に言葉を濁しつつ、MEMちょの方もまた窓の外を見た。
時は夜に移りつつあり、茜から紺、紺から濃紺へと変わってゆく空の下で、光に照らされた東京ドームがその真白の帆を満月の如くに輝かせている。
立ち上がりこそしなかったが、彼女の目線に含まれている意味は明白だ。あるいは纏っている空気も。
故にと言うか、隣でかなが肩を竦める。「そうだった、こいつもドルヲタだった」。そういう、些か以上に呆れたような趣がはっきりと見て取れた。
しかしそこで、MEMちょが改めて何かに気が付いたかのように正面を向く。正確には、かなとMEMちょの正面の位置に座っているアクアの更に向こう側、リビングのエリアのソファに屯している三人の大人たち――すなわち斉藤夫妻とアイの方を、彼女は見ていた。
「そう言えば、なんですけどぉ……」
どこかバツの悪い、と言うよりは遠慮がちの口調で、そちらに向かって彼女は声を上げる。三人掛けのソファにデンと身体を広げ、すでに多少の酒を入れているらしい金髪とサングラスの男、壱護社長が、その声に反応して顔を上げた。
「ん? どうしたMEM」
「いや、あのぉ」
そう言ってから、MEMちょは改めて、おもむろに、おずおずと、周囲を見回す。
ただ、彼女の意識の向かった先は、正確にはこの部屋だけではない。
その証左に、次いで彼女が口にした台詞は、彼女の今抱いているであろう、『現状に対する疑問』だった。
「あれ、ですよねぇ……? 今日、このホテルのこの階、
その、どこか恐る恐るといった声音で訊ねたMEMちょの声に、すでにいくらかは出来上がっている壱護社長はあっさりと頷いてみせた。
「おう、そうだぞ!」
そう答えながらグラスに残ったワインを呷り、手酌で次のワインをお代わりしようとしているところをミヤコに遮られてボトルをぶんどられている壱護の様子をはっきりと引き攣った顔で見て、MEMちょの視線はアクアの方に向く。
「いやそんな、あっさり頷くようなものじゃー……アクたんもそう思うでしょ?」
どこか縋るようなというか、「私が間違っているのかなぁ」といった目で自らの方を見てきた彼女に対して、しかしアクアは小さく首を振る。
「いや。……実のところだけど、今日のフロア貸し切りに関しては俺が提案したんだよ」
「はぇ? え、なんで……?」
衝撃にであろうか、ぽかんと目を丸くしながら、理解が及んでいないような言葉と共に、こてんと首が傾げられる。
その理由は、しかしアクアではなくかなが答えた。
「決まってるでしょ。セキュリティのためよ」
かなの冷静な言葉が部屋の中を走り、テーブルの方のやり取りを他人事のように、また窓の外に目を遣っていたルビーもまた、彼女の方を見る。
そのかなの視線は、ただ一人の方を向いていた。
「また『あんなこと』を起こさないため。……そういうこと、なんですよね」
つまりそれは、アイの方だった。
――もう、あの日の二の舞は演じない。
それは東京ドームライブの予定が本決まりになった、あの全国ツアー終了後の、つまり今から遡ること半年前の時点からの、苺プロの運営側全員の共通の信念だった。
この場合の『運営』には、アクアもまた含まれている。全国ツアーのタイミングでのルビーたち三人の警護に対する構想を練ったのもまたアクアであり、そして今回のドームライブに当たっての全体的な計画についても、アクアは抜かりなく詰めていた。無論、壱護社長とミヤコと、そしてアイとの四人の話し合いの中でである。
十五年前のあの日、アイが、そしてアクアが自宅マンションで襲われたあの事件の直接的な原因は、アイの不注意に相違ない。加えるならば、あの時のマンションにおいては共用部にしか存在しなかったオートロックシステムが共連れに脆弱であったという構造上の問題もあっただろうか。
故にアクアたちが今住んでいるマンションは常駐管理人、すなわちコンシェルジュサービスのある二段階オートロックの物件だ。そういう面では、対策自体は取られているだろう。
けれども、そのもっと根源的な理由は、「人の監視の目の欠落」にこそあった。そう、アクアは結論付けていた。早朝という時間帯、高級分譲マンションという独立性の高い物件の構造それ自体が、悪意の潜り込む隙というものをあの日あの場所において生じさせていたのだと。
ならば、それを潰してしまえばよい。
朝早くに慌しい準備をしなくてもよいように、会場近くのホテルに前日入りしておく。
そして居住スペースとなるホテルのフロアは、入場にカードキーの必要なエグゼクティブフロアにして、更にその階全体を苺プロで押さえてしまうことで、その期間中にこのフロアに入る可能性のある人間を全員身内と顔見知りで固める。
そうすれば、部外者の入り込む余地はない。最低でも、寝起きをするこの場所においてはそうだ。
あの日のようなことは、ほぼ確実に起こらない。最低限必要な警戒さえ怠らなければ、確率をゼロにさえも出来るだろう。
そういう目論見を、アクアは持っていた。そしてそのアクアの提案を、壱護社長は受け入れた。
かつての、十五年前の苺プロは、それが出来るだけの人員的余裕も、そして資金的余裕もまだなかった。先代B小町自体の、あるいはアイ個人の人気と売り上げ、そこからもたらされる利益は上々でも、あの時代の苺プロは未だ事務所立ち上げにかかる投資の回収に奔走しなければならない、十把一絡げの弱小芸能事務所に過ぎなかったからだ。
けれども今は違う。稼ぎ頭のアイ、インターネット配信事業を成功させ、確かな収益の柱としたミヤコに、言わずもがな、『伝説の後継者』として、収益だけの視点においてはすでに先代を凌ぐ恩恵を苺プロにもたらしている新生B小町の三人と、ここまでの着実な歩みこそが、これほどの大掛かりな計画を遂行することを可能にしていた。
ここから始まる彼女たちの、新生B小町の東京ドームライブというのは、故にこの場にいる全員の、苺プロという組織にとっての、一つの集大成とも呼ぶべきものだった。
アクアは最低でもそう認識しているし、壱護社長やミヤコにしても、そうした意識は強く持っていることだろう。
そして――アイも、また。
「そだよ。流石にあんなことがあったからさ、『やりすぎだよー』とは言えないよねって」
故にというか、そうやってあっさりと頷いたアイの言葉に小さく息をついて、そしてかなは今、この場における『最後の一人』に視線を向ける。
「……だから、アンタがいるってわけ」
彼女の言葉の、そして視線の向いた先は、アクアの隣だ。そこに座っている、一人の少女だった。
どこかげんなりした言葉遣い、ジト目と言ってもいいであろう据わった目線を受けて、その彼女が小さな苦笑を浮かべる。
「うん、そう。正直、私もどうなんだろうって思ったは思ったんだけどね。でも、アクアくんがせっかくだからって」
言って、はにかんだような笑みを浮かべた、蒼の光を内包する濡れ羽の髪の少女――黒川あかねの姿を見て、かなはどうにも表現の難しい、複雑な表情を浮かべていた。
つまるところ、今日この場にやってきているのは、苺プロの面々ばかりではない。
苺プロの人員は、新生B小町三人に大人組三人、それとアクアに、それ以外の四人ほどのスタッフを合わせた十一人だ。セキュリティのためを考えて一部屋に必ず二人以上の人間が配されるようにした場合、この人員で埋めることが出来るのは五部屋である。
フロア全体の部屋数に対して、明らかに足りていない。具体的に言えば残り四部屋、六、七人ほどの人間が不足だった。
そこでアクアは、一計を案じる。つまり、今回のライブに『関係者枠』として呼んでいる人間のうち五人ほどを、この貸し切りフロアの中に呼び寄せてしまえばよいのではないかという寸法だった。
結果としてこのフロアには、実のところあかね以外にも『ゲスト』がいた。あかねを除いて、五人だ。
その彼ら、彼女らは今、おそらくはアクアたち苺プロの面々とは別のスイートルーム――十中八九、このホテルで最も広いロイヤルスイートだろう――に集まって歓談をしているに違いない。
そういう意味では、そちらの集まりから離れてあかねのことをこの場に呼び寄せたのは、ある意味ではアクアのエゴなのかもしれなかった。
『あちらの方の集まり』とも、彼女は決して無縁ではないのだから。
「迷惑だったか?」
かなにか、あかねにか。どちらに対してか分からない言葉を放ったアクアに、しかしあかねがふるふると首を振る。
「そんなことないよ。みんなといるの楽しいし。メムちゃんもルビーちゃんも、かなちゃんもね」
そう真っすぐな言葉を向けられてしまえば、さしものかなとて憎まれ口は叩けない。
どこか納得いかないような、けれどもほんの少し気恥ずかしそうな、そんな絶妙な表情を浮かべて、かなは僅かにあかねの方から視線を逸らす。
「……そ。まあでも、あとであっちの方にも挨拶に行っときなさいよ、あかね。仮にも『元共演者』でしょ」
「そうだね、そうするつもり。というか、今はもう『友達』だから、あの人たちとは」
どことなくお節介なかなの台詞にますます笑みを深くして、一つ大きく頷いてみせたあかねから言葉が返るや、横から更なる声が割り込む。
「あっ! だったらさ、明日ライブ終わったら、みんなでクリスマスパーティーしようよ! ここのみんなプレゼント持ってきてるでしょ! だったらあの人たちも巻き込んでさ!」
その快活な、どこか上っ調子な声音に、この場の全員の視線が声の主に向く。
そこにいた彼女が、ルビーが、全員を見回して腕を大きく開いた。
「フリルちゃんもみなみちゃんもだけどさ、『今ガチ』の三人! コラボ動画撮ってからご無沙汰だし、またみんなでお話したいよ!」
――ね? いいでしょ!?
そう、さぞ名案であろうとばかりにこの場の全員に向かってアピールしてくる姿に、声に、爛々と輝く瞳に、部屋の中の雰囲気が俄かに緩んだ。
いつもながらの眩さで、かつ純粋さだ。どこまでも透明で、天衣無縫とさえ言える、星野ルビーの在り方そのものだった。
「さんせーい! それすっごく楽しそう! 私やりたーい!」
後を追うように燥ぐアイの声が、その場の空気というものを決定づける。
斯くして明日の夜の予定は早々に決まり、今この部屋の集まりそれ自体もまた、歓談の流れへと戻ってゆく。
ルームサービスで手配していた、ここにいる全員分の夕食が部屋の中に運ばれてくる、それは一時間ほど前のことだった。
時計は、夜の十一時を回った。
さながら前祝の如くの宴の時は過ぎ去って、あのだだっ広い部屋の中からは、元来の住人である斉藤夫妻を除いた全員が、すでに去って久しい。
アクアもまた、例外ではない。夜明けを待たないほどの早起きこそ求められていないとはいえ、次の日、すなわちルビーたちのドームライブ当日にあっては、自身とて昼まで惰眠を貪っているわけにはいかない。
そういうわけで、アクアもまた自分たちに割り当てられている部屋の中へと戻っていた。
先ほどまでいたあの常軌を逸した広さのスイートルームほどではないにせよ、この部屋もまた十分な広さを備えている。一人では些か持て余すほどの空間の中、一人先にシャワーを浴びて、部屋に備え付けられたパジャマを身に纏って、アクアはベッドの上に座っていた。
そこに今、遠くから部屋のドアの開く小さな音が聞こえる。
『同居人』が部屋に戻ってきたことの報せだ。持ち込んでいた小説に落としていた視線を上げて、アクアは出入口の方へと目線を向ける。
なればそう時を置くこともなく、この場に人影が差した。
その人が、彼女が、視線を滑らせる。すぐにそれは、アクアの方を向いた。
表情が和らぐ。唇が、小さく開かれた。
「ただいま、アクアくん。お風呂入ってたんだね」
「ああ、先に使わせてもらった。それより、どうだった? ちゃんとあいさつ出来たか?」
彼女、すなわち黒川あかねに向けてのアクアの問いかけに、こくりとその首が縦に振られた。
「うん、おかげさまで。あっちはまだみんな集まってるみたいだったよ」
「そうか。ま、アイツらは『お客さん』だからな。あかねもだけど」
「……そうだね」
くすりと穏やかに、嫋やかに笑って、口元に手を当てるようにして、あかねはアクアの言葉にもう一度頷いてみせた。
今日の集まりの中ではゲストの立場にいるあかねは、あの苺プロの面々の中で夕食を食べ終えるや、一足先に席を立っていた。理由としては、かなが言っていた通りのことである。つまり彼女は、自分と同じ立場で招かれている五人――今ガチの時の共演者の三人、鷲見ゆき、森本ケンゴ、熊野ノブユキに、ルビーのクラスメイトとしての誼でチケットを融通した、不知火フリルと寿みなみの集まりの方に、顔を出しに行っていた。
今ガチの面々は友人で、不知火フリルとは映画『15年の嘘』で初めての共演を果たした間柄だ。その後、フリルとあかねはちょくちょく同じ現場での仕事の話が出ているらしい。
ぱっと見で似通った雰囲気の部分はありつつ、ひとたび喋らせれば正反対とも言うべき個性を持った彼女たちは、二人セットの運用でも何かと使い勝手が良いということだろうか。ドラマというよりは寧ろバラエティの方で、二人の出番を最近アクアはよく見る。きっと、あの映画の番宣で出たいくつかのクイズバラエティーで余程に番組スタッフの目を引いたのだろう。
ただ、あの集まりの中の最後の一人、寿みなみとあかねは、おそらく今回が初対面のはずだ。
二人ともに穏やかで人当たりのいい性格をしている以上、ファーストコンタクトで問題が起こることはまずなかったろうが、一体どういう会話が彼女たちの間で交わされたのか、気になる所ではある。
ただなんにせよ、今のあかねはそんな五人の招待客たちと一頻り顔を合わせて、そしておそらくは一足先にお暇する形で、この部屋の中に戻ってきていた。
そこから四十分ほど後のこと。あかねの方も風呂から上がり、二人はともにパジャマ姿で、
部屋の割り当ての関係で、アクアたちはツインベッドルームではなくダブルベッドルームに入ることを余儀なくされていた。
対外的な関係としては彼氏彼女であるという以上、それも決して不自然なことではないのだろうが、アクアからしてみればどうにも気後れする部分があるのは確かだ。
そうでなくても、あかねはともかくとしてアクアの方は未だ高校生である。『吾郎』であった過去を持つ自分の言えたことではないのかもしれないが、最低限の節度だって求められるというものだろう。そう、アクアは考える。
だからせめてもの抵抗というか、ベッドメイキングの段階ではくっつけて置かれていた枕を個別に離して置き直し、出来る限り距離を取った状態で、アクアは布団の中に入っていた。
その、見ようによってはあまりにあからさまなアクアの態度にほんの少しだけ面白くなさそうな表情を浮かべていたあかねのことは、しかしアクアは努めて黙殺していた。
部屋のライトは、フットライトを除いて全て落とされている。つい先刻まで眼下の東京ドームシティを一望できるように開け放たれていたガラス窓のカーテンも、もうしっかりと閉め切られていた。
隣を向いても、互いの顔ももう薄ぼんやりとしか見ることはできない。空調のほんのわずかな作動音のほかには何も聞こえない部屋の中は、同じベッドの上で、ほど近くにいる互いの静かな息遣いの音までも、浮かび上がらせて聞こえているような気にさせた。
「なんかさ、夢みたい」
その中でふと、あかねが声を上げる。互いにベッドの背に身を預けた姿勢で身体を起こしている二人の視線が、自然と合った。
「お祭りだよね。ホテルのフロア丸々一個借りて、みんなで集まってさ。お金持ってるテレビ局の凄い大きなロケとかでも、ここまでのはなかなか」
「……そうだな」
彼女の素朴とも言える感想に、アクアはただ頷くばかりだ。
確かに、この規模のホテルのフロアを丸々一つ貸し切るような大掛かりな催しというのは、如何に華やかさを売りとする芸能界の中でもそうあるものではない。
アクアの、否、『吾郎』の経験は、「こういうのは寧ろ国際的な学術会議のようなイベントでよく用いられるやり方である」と語っている。
基調講演に登壇するような高名な学者や、学会に協賛を行っている企業の重役のような所謂「VIP」を、国際会議の場となるようなコンベンションセンターの近くのホテルのエグゼクティブフロアを貸し切った上でそこに招待し、滞在費用の全額も主催側が負担する。医学生時代、あるいは研修医の時代に参加した医学系の学会の中で、そういったスキームをよく目にしたものだ。
そういう意味では、壱護社長に今回のドームライブのセキュリティ対策においてこんなある種破天荒なやり方を提案したのは、寧ろ芸能界とは異なる世界の視点を持っている
「集まったみんなもほとんど顔見知りでさ。寿さんは初対面だったけど、ルビーちゃんと不知火さんの知り合いだったし、話も色々できて楽しかった」
「そうか。それは、なんというか、よかったよ」
つい先刻までのことを思い起こすように、視線を天井に向けつつも振り返ってみせたあかねに向かって、アクアはただそれだけを返す。
その、どうにも訥々とした言葉遣いにであろうか、あかねがまた、そこでくすくすと含み笑いを漏らした。
「そうだよね。寧ろアクアくんたちは、明日からが本番だもんね」
そのアクアの態度の理由にしても、あかねは察しているらしい。軽く頷いてから、彼女はくるりとアクアの方を向く。
暗がりに慣れた目が、フットライトの間接照明によってぼんやりと照らし出されているあかねの整った相貌を、視界の中に映した。
「緊張してるんだ」
どこか、おかしささえも宿したような言葉遣いだ。
そう思われてしまうほどには、今のアクアの振る舞いには硬さがあるということだろう。
「緊張……そうだな。そう、なのかもしれない」
しかし、それも仕方のないことだろうとアクアは思う。
勿論、明日のライブそのものが、十五年前の「あの事件」を想起させるからという要素もゼロではない。これまで蟻一匹通さないほどの、過剰とも言える対策の手を打ち続けてきたアクアであっても、当日には何が起こるか分からない。その不確実性は、受容せざるを得ないリスクだ。
「家に帰るまでが遠足」などという格言も世にはあるが、いずれにせよ最後まで決して気は抜けない。これについては、寧ろ壱護社長こそがよく理解していることだろう。
けれども、それはアクアの心中を支配する要因としては、寧ろ小さい。
「三年だ」
声を発したアクアに向かって、あかねが首を傾げる。脈絡のない、いきなりの言葉だったからだろう。
「ルビーがアイドルになってから」
後を追うように意図するところを口にして、けれどもアクアは小さく首を振る。
「本当に正しいことを言えば、まだ二年半にもなってない。早いと言えば早いのかもしれない。でも、本当の意味じゃ、十五年なんだ。俺たちにとっては。――母さんのドームライブから」
目を見開いたあかねの目の前で、アクアは逆に目を閉じる。
「母さんがドームに立って、でも俺たちはそれを見に行けなかった。母さんのライブは伝説になったけど、でも俺たちにとっては、リベンジしなくちゃいけないものだった」
アクアにとっての、ルビーにとっての、そしてアイにとっての、明日という日の、あるいは明後日という日の、意味。
「あの日を越えていくために、ルビーが母さんのことを、超えていくために。あの人の背中を、追い越していくために」
目を開く。眼前に見えるあかねは、もう笑ってなどいなかった。
「そっか」
真剣なまなざしで、けれども同時に情感の籠った瞳で、あかねは今、アクアのことを見ている。
「やっぱり、アクアくんはルビーちゃんのこと、すごく大事にしてるよね。アイさんのことも」
納得のような。それでいで、慈愛でさえあるかのような。
どこか、むず痒い。そんな気持ちにさせられる。
けれども、韜晦する意味はない。彼女の言葉遣いの中に含まれている真意を、アクアは知っている。
「……家族だからな」
己の今抱えているものを、言葉で説くことはあまりに難しい。
故にただ一言だけで返したアクアの表情を、あかねは数秒ほど黙したまま、まじまじと見る。
「……そっか。そうだね。家族だもんね」
そしてあかねは、おそらくきっと、アクアのその言葉にならない感慨の何もかもを、今確かに読み取ったのだろう。
もう一度表情を綻ばせながら、こくりと頷く。
「だったら、明日はしっかりルビーちゃんのこと、見届けないとだ」
そんな、再び茶目っ気を取り戻したかのようなあかねの台詞に、からかい交じりの笑顔に、アクアもまた、自らの口の端を吊り上げる。
「そうだな。その通りだ。……そういうわけだから、俺はもう寝る」
いよいよ布団の中に潜り込み、寝入る姿勢に入ったアクアの耳が、小さな笑い声を拾う。
「うん、そうだね。私もそうしよっかな」
布と布の擦れ合うがさごそという音が響き、ダブルベッドの上で同じ布団を共有しているアクアの身体が、自らの隣にいるあかねの動きを感じ取る。
斯くして共に寝床に就いて、そしてアクアとあかねの二人はどちらともなく声を上げる。
――おやすみ。
明日という日を待ち望む二人の、今日に対する別れの言葉だ。
その残響を聞きながら目を閉じれば、静かな興奮の中にいたはずのアクアのもとに、睡魔はすぐさまに訪れた。
微睡み、認識の境界を失って、アクアは眠りに落ちてゆく。
その胸の中には、十八時間後にやってくる未来に向けた、確かな希望が宿っていた。
――そして、今。
明けた十二月二十四日、クリスマスイブ。時は十七時二十五分。
宵の訪れ、暗闇に覆われているであろう外の世界とは切り離され、しかしそれぞれの人々が手に持っている『星の光』によって、地上に作り出された星の海の世界に、アクアは座っている。
その星とは、すなわち「星の形のペンライト」だ。
紅、黄、そして白。その三つの光が入り混じって光を放ち、作り出される輝きの奔流は、さながら天の川だろうか。
『宴』の始まる前であるというのに、光が、ざわめきが、この
始まりの時の、五分前。
この場の誰もが待ち望んでいる、新生B小町の、東京ドームライブ。
「
この場所に、関係者席の中に陣取る一時間ほど前、アクアの姿はドームの裏手、楽屋の一室にあった。
球場として使われる時においては所謂「一塁側ダッグアウト」と呼称される半地下のベンチの置かれているエリアの脇の辺りから奥へと続いてゆく廊下の中、幾つも用意されている八畳ほどのフリースペースが、B小町の三人には一人ずつ割り当てられている。
意味するところというのは、すなわちアクアがその時立っていたルビーの楽屋には、ルビーとアクアのほかには誰の姿もないということに他ならない。
その状況が指し示すものを、許す振る舞いを、語るべき真意を、アクアは、そして当然にルビーも、よく理解している。
「お兄ちゃん」
衣装を纏い、メイクを済ませて、ここから始まる「本番」に向けての準備をいよいよ整えた彼女が、ルビーが、アクアの前に立っている。
「せんせ」
紺にも思えるほどに深い群青と、その上に重ねられた白。ミニ丈のフリルワンピースを基調として、その基部を構成しているベッチン生地の生み出す光沢は、今の彼女がまさに夜空そのものを身に纏っているようにさえも見せている。
衣装のところどころに縫い付けられた星の光を模した十字のワッペンも、いつものように左の髪をサイドテールにまとめ上げている、その根元に結わえられた、まるでモルフォ蝶のような意匠の蒼のリボンも。
今までの「新生B小町のアイドル」としてのルビーの、赤や桜色を主軸とした活発とも言える装いとは対極に近く、しかしそれ故に今までとは一線を画した大人びた雰囲気を、可愛らしさよりも美しさを、アクアに印象付ける。
「ここまできたよ。やっと、ここまでこれたよ」
それを認識しているのは、それを理解しているのは、アクアだけではない。
いや、きっと彼女自身の方が、よほどにそのことを自覚しているのだろう。
「約束、守れたよ」
見上げた顔の中に見える双眸が、宿った輝きが、視界さえ灼く。
いや、焼き尽くしているのは、それほどの光を放っているのは、裡に宿っている彼女自身の意思だろうか。
「ああ。……そうだな」
圧倒された。そう表現するのが、正しいのだろうか。
掠れた声を伴って、ただそう小さく頷くばかりだったアクアの前で、ルビーが両手を広げる。
「ね、せんせ。ほめて?」
出てきた言葉が、笑顔が、重なった。
彼女もまた、それをきっと意識してはいるのだろうけれども。
首を傾げ、無垢な瞳で、表情で、上目遣いに見上げてくる少女の傍に、アクアは一歩二歩と、ゆっくり近づく。間合いをはかるように、噛みしめるように。
すぐ目の前に立つ。手を伸ばせば届く場所だ。今この時に、彼女が何をアクアに対して求めているのか、そのことも、よく分かっていたから。
ゆっくりと右手を差し伸べ、彼女の頭の上に載せる。ルビーの瞼が、そこで閉じられた。
セットが崩れないように、乱暴に撫でるようなことはせずに、それでもゆっくりと、慎重に、それを動かした。
「勿論。よく、頑張ったな」
――さりなちゃん。
そう言いかけて、けれども続く言葉は飲み込んだ。
今自らのことを「せんせ」と呼んでいる彼女は、けれども同時にあの時の少女ではない。
そこから脱することを、別れを告げることを、己の中で決心した存在だ。ならばそんな今の彼女のことを、かつての名前で、過去の名前で呼ぶことは、恐らく正しくはないのだろう。
「自慢の妹だよ。母さんも、そう思ってる」
だから代わりに、アクアは敢えて言葉を換える。
ルビーもまたそれに呼応するように、目を閉じたままに頷いた。
「そうだね。ママもだね」
ふるり、と睫毛が震える。それを合図とアクアが彼女の頭から手を退ければ、ルビーは表情にはっきりと笑みを作って、自らの目を開いた。
「一年ちょっと、早いんだね。ママと比べると」
「そうだな」
「でも、だからママよりすごいってわけじゃ、ないと思う。だってママは、一からだったんだから」
くるりと振り向いて、ルビーはアクアから背を向ける。背後にある姿見に、己の像を映した。
「ママとか、ミヤコさんとか、壱護さんとかさ。みんなが積み重ねてくれたものの上に、今日の私はいて。だから今の私は、私だけの気持ちを背負ってるんじゃないんだ」
鏡越しに、目が合う。互いの瞳の中に覗く光が、共鳴し合うかのように瞬いて見えた。
「先輩も、MEMちょだって。私たち三人、全員そうなんだから。――だから」
僅かに目を伏せる。息を吐き出す。そして今、ルビーは再びアクアの方へと振り返った。
「だからさ。見ててよね、お兄ちゃん」
すっと、右手を天に掲げる。握った拳に人差し指だけを立てて、それは勢いよく下ろされた。
びしりと、まるで音でもしたかのごとくに勢いよく、アクアに向かってそれを突きつけて、ルビーは笑う。満面の笑みを、不敵な笑みを、浮かべた。
「
茶目っ気を込め、ぱちりと片目を瞑ってみせたルビーに、けれどもそこで、アクアは何も言うことが出来なかった。
それほどまでに、きっと目の前に見えている星野ルビーという少女の存在感に、その覚悟に、アクアは圧倒されていたのだ。
斯くして、時は戻る。
左隣にあかね、右隣にアイの姿を置いた席の上で、アクアはじっと、言葉もなく、その時を待つ。
開演予定時刻、十八時はもう過ぎた。大規模な箱でのライブは、こうして予定時刻をいくらか超過して始まるのがその常だ。
物販ブースに並んでいる観客が席についていないであるとか、それ以前に大量の入場客を全員捌けていないであるとか。つまり、予定時刻ジャストに始めることのできないライブやコンサートとは、ある種盛況さの証明でもあるだろう。
けれども同時に、予定時刻を過ぎてからの一分一分は、否が応にも高まってゆく期待を肌で感じる、緊張の時間でもある。
ともすれば今、ルビーたちも同じように、舞台裏で円陣でも組みながら、高じてゆく緊張にその身を焦がしているのだろうか。
あるいは、期待に胸を躍らせているのだろうか。
この場所からは、そんな彼女たちの姿はどうあっても覗き見ることは叶わない。
けれども何故か、アクアは今、未だ見得ぬB小町の三人の心の内と、自らの胸の中が繋がっているようにさえも思えていた。そんな錯覚を、抱いていた。
あるいはそれはきっと、この会場にいる観客の総意でもあるのだろう。
果たして、暗がりに星の光の彩られるばかりの空間の中、観客の静かなる期待と興奮のボルテージが少しずつ高まってゆき、その末に頂点に至ろうかといったその瞬間――設営されたステージの大型モニターが、大音声のBGMと共に煌々と灯った。
空間が、爆ぜた。
比喩でもなんでもなく、そう錯覚するほどに沸いた会場の中、B小町三人ぞれぞれの紹介がてらのショートムービーが映し出される。
MEMちょ、かな、そしてルビー。名前が、立ち姿が映るたび、ファンが歓声交じりにそれぞれの名前を叫ぶ。
三人分のそれが流れ終わるや、始まったのは10カウントからのカウントダウンだ。
カウントが八を数えたあたりから、会場の人々がそれぞれに減ってゆく数字を唱和しはじめる。
数字が五に至る頃には、その輪が全員に広がって、三から先、もはやそれが叫び声のような歓声へと変わって――印字されたゼロの文字と共に、特殊効果の爆発音を伴って、ステージの両サイドで火花が散った。
そして今、中央に黒い影が差す。
少女が三人、そこに並んで、同じように一つのポーズを取っていた。
身体は右に、半身になって顔を正面へと向け、左の足を爪先立ちにして軽く折り曲げる。
両手で指鉄砲の構えを作って、その先は天へと向かっていた。
この場にいる誰もが知っている、『あの曲』の最初のポーズだ。
はち切れんばかりの熱狂を無理やりに押し込めた静寂の中、その始まりを告げる電子音が、駆け抜ける。そして――。
――『アナタのアイドル、サインはB!』
B小町の象徴とも言えるその曲、『サインはB』を開幕曲に、新生B小町の東京ドームライブは、その初日は、始まった。
――天の光はすべて星。
スタンド席だけに留まらない、アリーナ席までの悉くを埋め尽くす人々が、このライブのために用意された星の光のペンライトを、一心に振っている。ステージの上の少女たちの、B小町の歌に、ダンスに、合わせるように。
ならばこの場所は、宇宙だ。無限遠の彼方から届く思いも、この場所に集った人々の歓喜も、全てが綯い交ぜとなった輝きを星のそれへと譬える、どこまでも広がってゆく夜の空だ。
ステージの上から会場を望む彼女たちにとってばかりではない、ステージのほど近く、関係者ブースの只中よりルビーたちの雄姿を見上げているアクアにとっても、それはまた等しかった。
世界を満たす五万を超える光を、その只中に浮かんでなお、それらを霞ませるほどに燦然たる煌めきを自ら放ち続けている恒星の如き三人の姿を目の当たりにして、アクアは今だた、一つだけのことを思っていた。
――ああ、そうか。あの子たちは今本当に、東京ドームのステージの上に立っているのか。
夢だった。彼女たちB小町にとってだけではない。
アクアにとっても、アイにとっても。壱護社長に、ミヤコにとっても。
セットリストの前半は、アイたちのB小町、先代B小町の曲のリアレンジから構成されている。
開幕曲の『サインはB』から始まり、発足初期の、文字通り地下アイドル時代に作られた曲である『HEART's♡KISS』、飛躍のきっかけとなった『STAR☆T☆RAIN』もまたそれだ。
過去から現在へ、そして未来へ。ここまで積み重ねてきた全てを表現するという営みは、今回のドームライブのセットリストにおける一つの柱でもある。
実働時期としては二年半に満たないルビーたち新生B小町は、しかしその文脈の中に、十年もの歳月を重ねたアイたちのB小町の功績を確実に内包している。
あの楽屋の中でルビーが言っていたことと、それは同じだ。
高校一年の夏にアイドルとしてデビューを果たした自らが、三年の冬にはもうドームに立てている。けれどもそれは自分たちの、三人のみの力によるものではない。
先代B小町の、ある意味では『遺産』。一年に三曲、合計三十曲存在している先代の楽曲から選び抜いた十二曲を、だからこそ彼女たちは確かな敬意を持って披露していく。
その中には当然に、あの曲もあった。
ルビーが「一番好きな曲」と言って憚らない、アクアに、あるいは吾郎にとっての転機ともなったあの曲だ。
『推しに願いを』。『15年の嘘』の中で描いた、在りし日のアイの野望を、「日本中を推してみたい」と大言壮語した彼女の夢を、この曲は表現している。
――『らしく輝くキミが見たいよ、私の推しは最高だから!』
綴られる言葉を、その歌詞を考えたのが誰かを、アクアは詳しくは知らない。
けれどもあの日吾郎が見た動画は、死した天童寺さりながベッドサイドのテーブルの引き出しの奥に押し込めていた、あの便箋の中に綴られていたURLを辿った先にあった映像は、紛れもなくそれから先の吾郎の生に、意味を与えた。
背負っていく命を。天童寺さりなという少女のこの世に生きた証を、世界の中に遺すという自負を。
結果として生まれた奇跡は、かつて無力な少女でしかなかった彼女を、十五年前に星野アイが立っていたのと同じステージの上に至らせている。同じ歌を、歌わせている。
その価値を、真の意味であの場所にいるルビーと分かち合っているのは、きっと自分だけなのだろう。そう、アクアは考える。
けれども今、ルビーは確かに自身の思いを伝播させている。共有している。
喜びを、感謝を。楽しさを、そして笑顔も。
アクアの周りにいる誰しもも、例外ではない。
右隣に座るアイは、もうすでに感極まっているとさえ言えるほどに、涸れるほどに声を張り上げてルビーに、残りの二人に対しても声援を送り続けている。はち切れんばかりに、両手に持ったペンライトを振っている。
反対側の、左に座っているあかねにしても、そうだった。嫋やかな仕草を決して崩すことのない彼女は、胸の前に三人分のペンライトを抱えて持っていて、それを決して動かすことはなかったけれども、深い感慨を宿した表情でステージを見上げている。
あの映画で、『15年の嘘』でアイを演じたことは、すなわち単なる「プロファイリング」の対象としてではなく、自身が咀嚼し、理解しなければならない対象として星野アイという少女と向き合った経験は、きっと今ルビーがこの場に立っている意味というものを、「星野アイの娘である星野ルビー」がこうして十五年越しの晴れ舞台に至っているという事実の指し示すところを、あかねに理解させるには十分なものだったのだろう。
傲慢かもしれない。けれどももしそうなのだとすれば、アクアは自身があかねのことをあの映画においてアイ役に推した意味というものは確かにあったのだと、そう信じられる気がした。
一時間と少しの時間、ぶっ続けで歌われた十二曲によって、既に東京ドームは熱狂の渦の中にある。
そんな、このライブ前半の先代B小町パートが終われば、次はいよいよ新生B小町パートだ。
しかしその始まりは、些かの意外さを帯びたものだった。
『東京ドームッ! 盛り上がってますかぁ~!?』
そんな掛け声で観客の反応を一頻り煽ってみせたあと、中央に立つルビーがMCを始める。
『ここまでは、私たちのオリジナルじゃなくて、先代B小町――アイさんたちのB小町の曲から歌わせてもらったけど、そろそろ私たちの歌の番かなって思ってます!』
その宣言に沸いた会場だったが、しかしルビーはそこで人差し指を立てる。
『けど! 私たち、こうやってみんなの前で歌うだけじゃなくて、もう一個やってることがあるの、みんな知ってるよね? ――そう、「B小町ちゃんねる」!』
ざわりと、会場がどよめいた。きっとそれは、思いもよらない言葉であったからだ。
『「YouTuber」と、「アイドル」。私たちはどっちもやってきたから、どっちも大事なものだって思ってる! どっちかしかやらない私たちは私たちじゃないし、こうやって東京ドームまで来てもらったみんなには、やっぱり「百パーセントの私たち」を見てほしい!』
そんな、「いい話風」に話題を先に進めて行こうとするルビーに、後ろからかなが声をかける。
『待ちなさい。なんか「いいこと言ってる」みたいな感じだけど、アンタまさか――』
『そう! そのまさか!』
手を伸ばしたかなの、どこか焦ったような表情に、ルビーは満面の笑みで以て振り向いて、頷く。
『そういうわけで! やっちゃいます!』
そのまま、またくるりと身体を半回転させて観客の方を見渡して、一際声を張り上げて、ルビーは宣言した。
『「B小町ちゃんねる出張編・IN 東京ドーム」ッ!!』
瞬間、背後の大型モニターにいつものB小町チャンネルのアイキャッチが映し出され、ジングルと共に爆発の特効が轟音を響かせる。
『爆誕』、といったところだろうか。一気にボルテージの上がった会場を目の当たりにして、かなが思いっきりげんなりした表情を浮かべ、隣のMEMちょが困ったように苦笑した。
勿論のことだが、これは打合せあってのものだ。このタイミングで長めのMCの代わりに「B小町ちゃんねる」のドーム出張版企画をやるのは、セットリストの中にあらかじめ織り込み済みのことだった。つまりかなの一連の動きは演技である。多少のアドリブは入っているが。
流石は天才女優の面目躍如、その口調にも身振りにも、わざとらしい部分はない。きっと明日、Day2においてはまた別の新鮮な反応を演じて、観客のことを楽しませるのだろう。
そしてそこからは、ステージの上に用意された苺プロの応接セットと同等のソファーとテーブルを使って、本当にB小町ちゃんねるの企画がドームの中で繰り広げられる。
既に事前にファンクラブの中で募集していた『ドームライブでやってほしいB小町ちゃんねる企画』の中から選ばれた二つほどの企画と、苺プロ側で考えた一つの企画、合計三つほどだ。
ステージ備え付けの特大モニタで見る彼女たちの生配信ゲーム企画や、視聴者参加型の、つまり観客による採点を取り入れた「踊ってみた」ダンスバトル。それ以外にも、所謂「お題チャレンジ」の類まで、普段収録で進めているような企画を生で実演するのはそれはそれで新鮮で、なおかつ面白い。
笑いあり、涙は特にないが、観客との一体感、年頃の、生身の少女たちであるルビーたちとの親近感を得られるこの「出張版」企画は、アクアが事前に想定していた以上の反響を得ているようにも思える。
アクアの周りでも、あかねにせよ、あるいはフリルやみなみにせよ、ルビーたちのステージ上での奮闘に時に笑い声を上げ、また時には声援を送って、まさに一体となって場を盛り上げていた。
ルビー自身が最初に口にしていた通りに、新生B小町というユニットは、アイドルでありながら配信者でもある。
「それを大事にしたい」というルビーの言葉は、本物だ。このユニットの中に、配信者として不動の人気を誇っているMEMちょがいることの意味を、彼女は、否、B小町全員が活かそうとしている。
「今私たちのいるこの場所は、東京ドームは、新生B小町全員の活躍の場だ」。「だから全員が輝けるようにしたい」。決して言葉には出さず、わざとらしい振る舞いをすることもなく、ルビーはこのライブのセットリスト全体を使って、きっとその主張を成就しようとしていた。
その成果は、この場においてなおもヒートアップし続ける観客たちの反応が、テンションが、何よりも証明していた。
そこから一時間ほど続いた「B小町ちゃんねる」パートが終われば、いよいよ新生B小町のオリジナル楽曲パートに入る。
二年前の八月にデビュー、最初のオリジナル楽曲が明けて一月に初めて世に出た新生B小町は、楽曲のリソースが非常に少ない。故に2day開催の今回のライブでは、後半のこのパートは共通のセットリストを使うことになっている。
彼女たちの初めてのオリジナル楽曲たる『POP IN 2』、それと同時期に作られ、ファーストワンマン直前に発売されたミニアルバムに収録された『Say what?』と『深海52Hz』、その更に半年後、武道館でのセカンドワンマンのタイミングで発表された『トワイライト』。
そこに全国ライブのタイミングで発表された新曲一曲を合わせた合計五曲が、今の彼女たちの手持ちだ。
いや、正確には、そこにもう一曲ある。このドームライブに合わせて発表されることになっている、完全新規の歌だ。
実のところ、アクアはその曲の存在こそ知っていたが、詳細については知らされていなかった。
情報を止めていたのは、ルビーだった。彼女はアイや壱護社長、そしてミヤコに、果てはかなやMEMちょにまで拝み倒して、アクアに今回の新曲の内容を決して口外しないようにと要望していたらしい。
――お兄ちゃんには、絶対、絶対ドームで知ってほしい。あそこで最初に聞いてほしい。
その時彼女がアクアに向けていた視線は本物で、故にアクアはその理由を彼女に対しては訊かなかった。
彼女がそれを真剣に願うのだとすれば、そこにはきっと相応の理由がある。アクアは、それを信じた。
そういう意味では、ある意味アクアはこの場において、ことその「新曲」に関しては一般の観客とほとんど同じ立場にいる。しいて違いを上げるのならば、「新曲がある」という事実そのものを知っているかどうかぐらいだ。
だからというべきか、新生B小町のオリジナル楽曲パートが一曲ずつ進んでゆくにつれて、アクアの内心で静かな興奮が広がり始めている。いよいよ「その時」が、やってこようとしているからだ。
斯くして今、五曲目に配された『Say what?』のアウトロが流れ終わり、静寂の訪れたステージの上に、アクアは注目する。
三人の真ん中で、振り付けの中の最後のポーズを解いたルビーが、そこで前に進み出た。
『みんな、今日はありがとー! 盛り上がってくれてて、すっごく嬉しい!』
そう言って、一頻り観客の歓声を浴びてから、彼女はその場所で、ステージの真ん中で、表情を引き締める。
『でも、楽しい時間ももうそろそろ。私たちが今までリリースしてきた曲は、これで全部。……だけど』
どこか沈んだ声で言ってから、ぱっと花咲くように笑う。声を張り上げた。
『東京ドームに来てくれたみんなのために、新曲を用意してきました!』
どっと、会場が沸く。拍手が巻き起こる。それに向かって、手を耳に当てるようにして聞く素振りを見せたルビーが、大きく頷いた。
腕を広げ、周囲をぐるりと見まわしてから、彼女は目を瞑る。
一つ入った呼吸の音が、息遣いが、ピンマイクを通して会場に伝わった。
静まり始める人々の、その微かなざわめきを背景に、彼女はゆっくりと目を開ける。
『この曲は、私たちにとって一つの区切りとして作ったものです。東京ドームライブは、ずっと私たちが目標にしてきたこと。アイさんたちのB小町が伝説になった場所だったから。だから今日、この場所でこの曲をみんなに届けることが出来るのは、すごく嬉しい』
いつのまにかルビーの両隣に立っているかなが、MEMちょが、それに合わせるように頷く。
『もちろん、私たちはこれで終わりなんかじゃないよ。これからもみんなと一緒にもっと盛り上がっていきたい。ツアーとかももっともっとやりたい。「ここから先」に、進んでいきたい。だからそんな私たちの思いを、この曲に込めました』
広がった笑みが、柔らかくも確かな芯を宿した彼女の言葉が、声が、アクアの視線を捉えて離さない。この場にいる、満座の観客の誰もが、きっとそうだった。
『今日のライブ、最後の曲です。それでは、聞いてください』
天を仰ぐ。握られた手が、立った人差し指が、ゆっくりと天へと向けられていく。
そしてそれが頂点を、真っすぐ直上を指したその瞬間、ルビーが静かに、けれどもはっきりと、一つの曲名をコールした。
『――「SHINING SONG」』
アクアの知らない、その曲の名前を。
新生B小町東京ドームライブ、最後の一曲が、未知の一曲が、始まる。