天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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6-5. 地に花を

 ――伝説の再来、奇跡の後継者。

 新生B小町というグループが、アイドル業界の中で斯くの如き世評を確固たるものとしたあの東京ドームライブは、苺プロという事務所の中にも大きな影響をもたらした。

 

 企業から、キャスティング会社から、そして当然にテレビ局や制作会社から、彼女たちに対する出演依頼の電話がひっきりなしにかかってくる。

 SNS上でも数日にわたってトレンドの上位を占め、元々配信者としての顔を持つ彼女たち三人のネット上での知名度は、もはや配信者連中の中でもトップ層のそれに近い。

 

 かつて天を仰ぎ、星を見上げ、まだ見ぬ背中を追う立場であった彼女たちは、今やはっきりと、「仰ぎ見られる」側の存在へと変わっていた。

 

 すなわち今の彼女たちは、押しも押されもせぬトップアイドルの座についていた。僅か、二年半という早さで。

 

 

 

 苺プロの年越しは、そういうわけで新たな年の訪れを祝う余裕もないほどの忙しなさで過ぎていった。B小町の三人は正月のおせち番組の生放送収録に引っ張りだこだったし、その中には当然にというか、年末年始恒例の年越し歌番組もあった。紅白ではない、民放のそれではあったが。

 今年度に晴れて十八歳となっていたルビーにとって、それはまさに図ったようなタイミングと言うべきなのだろう。いつのまにか随分と上達していた歌の腕前も相俟って、東京ドームライブを大盛況のうちに終わらせたアイドルユニットの貫禄というものが、彼女たちには早くも宿り始めていた。

 

 アクアもまた、決して他人ごとではない。ここ一年ほど映画制作に従事していたことでややセーブ気味になっていた芸能活動が、また俄かに復活の兆しを見せ始めている。

 大学受験シーズンが近いこともあって壱護社長も仕事の振り方そのものは考えてくれているようではあるのだが、如何せんルビーがあれほどの知名度を獲得してしまったことが、その双子の兄であるアクアに対する「双子タレント」としての需要に跳ね返ってくるのは、ある程度致し方のないことなのだろう。

 つまり今のアクアには、俳優としてのそれよりもバラエティタレントとしての需要が生じていた。「ルビーの兄」であり、「前年度の視聴率一位ドラマの主演を務めた演技派俳優」であり、また「近日封切りされる、期待作たる映画の助監督」でもあるアクアは、良くも悪くもルビーとはまた違う形で注目を浴びるに値する「個性」を持っている。

 そのことは、アクアもまた多少なりとも理解はしていた。

 

 いずれにせよ壱護社長は、アクアというタレントの市場価値を認め、それを売り上げにつなげるべく、芸能プロダクションの社長として至極当たり前の仕事をしている。

 ただ同時にそれは、「星野アクア」という一人の人間の将来のことをも確実に考えた、配慮でもあった。

 

 

 

 アクアは未だ、自身がどのような未来に進んでゆくべきなのか、明確な答えを出せていない。とりあえずほとんど惰性の形で大学入学共通テストの受験申し込みはしているものの、その結果を踏まえてどの大学に出願するのがよいのかさえ、決めきれているとはとても言えなかった。

 

 吾郎の頃に果たせなかった夢を追って、医者に、なかんずく心臓外科医を目指すのか。

 今のキャリアを継続して、俳優としてこの芸能の世界に身を置くのか。

 あるいはそれ以外の、第三の道があるのか。

 

 どれか一つが正しいようにも思えず、しかし年を越してしまった今、そこに答えを与えなければならない時は着々と近づいている。

 あかねと、ルビーと約束した通りに、アクアには「その先」のことを考える義務がある。

 道は、決して途切れていない。アクアはこの先も、明日を生きなければならない。

 ならばその全ては、投げ出してしまってよいものでは間違いなくなかった。

 

 「将来のことを考えた」というのは、つまりはそういうことだ。

 壱護社長は間違いなく、アクアに道を残そうとしてくれていた。この先にどういう景色を描くことになるのだとしても、選択肢それ自体は決して無くしてしまうことのないように、芸能界の中でこれからも生きてゆくための手立てを、彼はアクアの為に用意しようとしてくれていた。

 

 

 

 考えるに、なんと恵まれた境遇であろうか。今の自身がどれほどの人間に支えられ、思いやられ、見守られながらここにいるのか、それを改めて自覚させられる。

 この身は決して一人で生くるにあらず、ということだろう。固よりそこまで傲慢なことを考えているつもりはなかったが、それでもなお「自分は自分のみの力でこの世を生き抜いている」などという思い上がりを抱くことはあってはならぬと、自戒の思いを強くした。

 

 しかしそれは、決して壱護社長やミヤコ、それにアイのような「大人たち」に限った話ではない。

 同時に、だからこそ今のアクアにはもう一つ、選ばなければならない「未来の形」というものが、俄かに突きつけられようとしていた。

 

 

 

 その先触れは、あの東京ドームライブのあとの、クリスマスパーティーの夜の、ルビーとの会話だった。

 あの時アクアの仄かに抱いた一つの予感は今、年明け早々の冬の寒空の下に、一つのメッセージの形を伴ってやってきていた。

 

 

 

 ――陽高の正門前、正午に集合ね。

 『差出人』からのそのメッセージを守るべく、アクアは時間よりも十分ほど前に、待ち合わせ場所へと足を向ける。

 

 三学期の始まりまではもう少し、当然に推薦入試をはじめとする試験の実施もまだのことで、校舎そのものも正門も、文字通り閑散としている。

 たとえ三学期が始まったとしても、高校三年のアクアたちがこの校舎にやってくる日はもうそう多くはないのだろう。芸能科ともなれば猶更のことだ。

 

 未だ誰の姿も、それこそ『待ち人』の姿もないこの場所で、ただ一人門の先に見える校舎を望みながら、アクアは物思いに耽る。

 ただ惰性で通っていたとばかり思っていたこの学び舎も、あと数か月ほどで一先ずは見納めになるのだと考えれば、らしくもない郷愁のようなものさえも湧きあがってくるような気がする。

 

 そう思うほどには、愛着があったということなのか。

 それは陽東高校という場所そのものに対してばかりではない。高校生活の三年間それ自体も、その中で経験した幾つものことも、またそのさなかの出会いにも、全てに向けての情動だ。

 

 もしそうだとするのならば、アクアはまさしく今、振り返らなければならないのだろう。

 ある種その全ての始まりとなったと言ってもよい、丁度三年ほど前の、あの校舎の中での、初めての出会いのことを。

 正確には、未だ高校生ではなかったその時のアクアが受験の為にこの場を訪れていたその時に起きた、偶然とも言えるほどの『再会』のことだ。

 

 あの日、あの場所で「あの少女」と出会わなければ、アクアの今日に至るまでの三年間は決してなかった。彼女にとってもそれは転機であったのかもしれないが、同時にアクアにとっても、あれはともすれば運命でさえ、あったのかもしれない。

 ならば、そんな彼女が今日この場所で落ち合うことをアクアに求めたことさえも、何がしかの意味というものがあるのだろうか。

 

「なに校舎の方見てんのよ」

 

 だとするなら、それは――そう、自身の中の思考に没頭しかかっていたアクアのことを、声が遮る。

 聞き慣れた、とても聞き慣れた声だった。我に返り、振り返って、己に向かって声をかけてきた、その少女の方に向き直る。

 

「……悪かった。ちょっと、昔のことを思い出しててな」

「いや昔って。アンタここに三年間しか通ってないじゃない。内部生じゃないんだから」

 

 腰に手を当て、呆れたような表情で、彼女は――有馬かなは、アクアのことを見上げている。

 必然的にアクアは、その出で立ちに目を向けていた。

 

 彼女トレードマークとも言える帽子と、軽いカモフラージュのつもりであろうか、掛けている伊達メガネと、そして纏っている服と。

 冬場故に羽織っている、ウール地の白いダッフルコートこそあれ、その下に見えるものに、アクアは自身の眉が上がってしまったのを自覚した。

 

 しかしそれも、致し方のないことであろう。

 

「というか、かな。……それ、制服だよな」

「そうよ。陽高の制服」

 

 はっきりと怪訝な声を上げたアクアに向かって、それでも彼女は微笑みながら、その服装を見せつけるかのように一杯に腕を広げて見せる。

 

 彼女の言葉の通りだ。つまりかなは今、もう十か月は前に卒業したこの高校の、陽東高校の三年生の指定となる制服に、その冬服に、敢えて身を包んでいた。

 

 

 

 わざとらしくくるりと一つ回転してから、かなはどこか得意げな表情を浮かべる。

 

「どうよ、まだ全然イケるでしょ。ま、卒業して一年経ってないんだから当たり前だけど」

 

 というより、あからさまとも言えるドヤ顔で顎までしゃくってみせた彼女の振る舞いに、アクアは僅かに息をつく。

 

「見た目は、まあ。けど、正直ちょっといかがわしくね?」

「なんでよ!?」

 

 途端に目を剥いたかなに、思わず笑ってしまう。

 

「いや、悪い。けど、『もうそれ女子高生のコスプレだろ』って思ったら、ついな」

「コスプレって、アンタね……まあ、事実ではあるんだけど」

 

 言って、僅かにかながアクアの方から視線を逸らす。

 思ったような反応が得られなくて、消沈しているのだろうか。そう思えば、自然とアクアの方から別の言葉が飛び出ていた。

 

「まあ、でも。……懐かしいなって、やっぱり思う」

「……どういうことよ」

 

 はたと顔を上げ、アクアのことを再び見上げてきたかなに、自身の中にある嘘偽りのない言葉を、そのままぶつけた。

 

「三年前のことだよ。あの時も、そうだっただろ。まあ、あれは校舎の中だったけど」

 

 その内容に、どこか納得した部分があったということか、かなの表情がまた変わる。「そういうこと」、そう呟く彼女に、アクアはまだ言葉を重ねた。

 

「さっきの話も、それだよ。三年前、ここで君に会って、そこからだったんだよなって、全部。俺が今ここにいるのだって、あの時君にあの校舎の中で会ったからなんだ。そうじゃなかったら、多分俺は全然別の人生を歩いてたんだろうって、思うから」

 

 言い切ったアクアの前で、かなはしばらく黙り込む。

 見える表情もまた、形容するに難しいものだった。

 決してそのことを悪いようには思っていないことは分かる。けれどもその内心を見通すことは、アクアにとってはあまりに難しかった。

 

「……そう」

 

 続いた十秒ほどの沈黙を経て、かなが小さく頷く。

 そして、言った。

 

「アンタも、そう思うの」

 

 そのまま、表情を綻ばせる。頬にも僅かに、朱が差していた。

 

 思わず少しだけ、アクアは声を失う。

 目もきっと、瞠っていたのだろう。そんなアクアの姿を見てか、目の前にいるかながくすりと笑った。

 

「ま、いいわ。じゃ、行きましょうか」

「……どこにだ」

 

 アクアに背を向け、二、三歩ほど歩き出したかなが、アクアの疑問の声に立ち止まって、顔だけで振り返る。

 

「決まってるじゃない」

 

 そして、悪戯っぽく笑った。

 

「『制服デート』よ」

 

 

 

 

 

 かなの導くままに、二人で最初に出向いた場所は、やはりというべきだろうか、アクアの予想通りの場所だった。

 

「思い出すわねー、本当」

 

 ブラックライトの灯り、ミラーボールが回転するその場所は、つまりはカラオケボックスだ。

 高校生の男女が、二人でカラオケボックスに入る。「デート」としてはあまりに王道と言ったところだろう。

 事実として、アクアはあかねとこの二年半ほどの間に何度もカラオケ店には足を運んでいる。その回数は数えきれないほどだ。もっとも、その目的は世間一般の男女のそれとは違うことも、確かではあるのだけれども。

 

 しかしそういう意味では、今日かなとこの場所にやってきたことだって、純粋な意味でのデートのためというわけではない。おどけるようにして言ってのけたかなの先刻の言葉(制服デート)は、一片の真実は含んでいながらも、決してそれが全てというわけではなかった。

 

 それもそうだろう。大体そもそもにして、今のアクアには黒川あかねという「恋人」がいる。

 もう既にその実情を知っているとはいえ、曲がりなりにも彼女持ちであるところのアクアに対して、真正面から本気も本気で「デート」などという言葉をぶつけてこれるほど、有馬かなという人間は図太くはないのだ。良くも悪くも。

 

「そうだな。ここに来たのも、三年前か」

 

 つまりどういうことかと言えば、奇しくもアクアたちの今いるこのブースは、三年前のあの日、アクアとかなが実に十余年ぶりの再会を果たしたその一週間ほどあとに、「打ち合わせ」の為に集まったあの部屋と同じだったという、そういう話である。

 

 

 

「今にして思っても、あれはひどい作品だったな」

「同感ね。よくもまああそこまで凄まじい現場を作ったものだと思うわ、鏑木Pも」

 

 ――まあ、その鏑木Pのおかげであの時までしがみついてこれたんだけど。

 そう言って、かなは苦笑ともつかない薄っすらをした笑みを広げた。

 

 互いに決して言葉にはしないが、指しているものが何かはとてもよく分かっている。

 「今日は甘口で」。三年前、過去に一度きり会ったばかりだった有馬かなと「再会」して、そして役者としては休業状態であったアクアがこの世界に復帰した、そのきっかけとなった作品だ。

 

「前に、言ってたわよね。アンタがわざわざあのドラマに出ようなんて思った理由。アイさん絡みだったって」

 

 表情をそのままに、かなは言う。それはいつの日かのこと、アクアが彼女に向かって自身の事情を、即ちアイとの親子関係を明かした時に同時に白状した、あの日の内幕の話だった。

 

「ああ。まあ、正しくは鏑木さんなんだけどな。あの人が、アイ――母さんと知り合いだったらしくて、それで、俺たちの父親の、つまりカミキヒカルのことを知っているんじゃないかって、そういう話だった。あの時は、まだ名前も知らない相手だったけど」

 

 ゆっくりと頷く。彼女の言葉の通り、あの作品に出るにあたっては、決して有馬かなの存在そのものを理由としたわけではなかった。

 だからそれは、断じてロマンチシズムなどではない。ある意味では冷たい、打算のようなものが、ただそこにはあるばかりだった。

 

 そう、と。

 かなの方から、声が漏れる。それまでアクアの方を向いていた視線が、僅かに逸れていた。

 

 自分でもわかっていて、敢えて確認までして、けれどもいざその言葉をアクアから聞いたことで、思うことがあった。そういうことなのだろう。

 思わず、苦笑してしまう。いや、それは自嘲の笑みだろうか。

 本当にあの時の自分は、誰に対しても不誠実な振る舞いを続けていた。計画を金科玉条とし、義務という言葉を免罪符に据えて、アクアは間違いなく誰に対しても誇れる行いはしてこなかった。

 

 かなにも、そしてあかねにもだ。

 

「でも」

 

 けれどもまた同時に、アクアには言わなければならないことがあった。いや、あるいはそれは、言いたいこと、なのかもしれない。

 敢えて語り掛けるように口を開いたアクアの方に、かなの視線が寄る。柘榴色の双眸を覗きこんで、次なる言葉を口にすべく、息を吸った。

 

「かながあの時俺たちに声をかけてくれなかったら、『今日あま』のドラマの話を持ち掛けてくれなかったら、俺は多分、ここにはいない。かな、君とこうやって話すような仲にも、なってなかった」

 

 断言したアクアの目の前で、かなの瞳が僅かに揺れる。

 

「だからそれは、君のおかげだ。ずっと言ってこなかったけど。……ありがとう」

 

 言って、頭を下げる。そして次にアクアが自身の顔を上げたとき、そこに見えた彼女の口元が、僅かに緩んでいた。

 

「……そう」

 

 つい先ほどと同じ音の、しかし違う響きを持った言葉だった。アクアのもとから再び逸らされた視線が、天を向く。

 

「まあ、いいんじゃないかしら。それぐらいの意味がなきゃ、あんな終わってる作品に出た甲斐ってものがないもの」

 

 いつもの憎まれ口を伴って、かながくすりと笑う。しばし、目を閉じた。

 

「けどまあ、三年前にはあんな程度の作品で主演を張るのがやっとだった私が、今やこれだものね」

「そうだな。壱護社長からだけど、確か夏クールの月9の主演と、あとこっちも夏公開のアニメ映画の声優の話が来たって聞いたぞ」

「そうなのよ」

 

 天を仰いだままの姿勢で薄っすらと目を開く。

 流し目で以てアクアを見て、浮かべたのはどこか得意げな笑みだ。

 

「あと、またミュージカルの話も来てるわ。今度は秋から、同じ帝劇よ。歴史モノね、定番の」

 

 弾んだ声だった。胸の前に手を合わせ、かなはもう一度、アクアのことを視界の正面に捉える。

 真っすぐに向き合い、差し込んだ瞳の輝きは、どこか期待にも似た色を、その中に載せていた。

 

「……ああ。知ってる」

 

 息をついて、ゆっくりと、アクアは頷く。

 

 そうだ。当然にそれも、アクアは知っていた。

 最近アクアは、壱護社長から苺プロのタレント管理業務について、多少のレクチャーを受けている。きっかけは映画撮影のタイミングで、香盤表の整理をするために苺プロのスタッフやタレントのリソースやスケジュールを詳細に知っておく必要があったことだろう。

 けれども今、壱護社長にはどこかそれ以外の狙い、含みというものを持って、アクアにそれを教えようとしている気もしている。

 

 まるで、何かがあった時にアクアに対してこの苺プロという場所を、託そうとしているかのような。

 

 ――いや、それは考え過ぎだろうか。

 いずれにせよ、アクアは今単なる苺プロ所属の一タレントという境界を超えて、彼女たち新生B小町のマネジメントにかかる情報にアクセスすることが出来るようになっている。

 

 昨今のかなの動向について、貰っている仕事について色々と情報を持っているのは、そういった事情によるものだ。

 しかし、星野アクアという一人の人間にとっては、決してそればかりが理由であるわけもない。

 

「どう? アクア。結構やるもんでしょ、私も」

 

 身体の前にあった手を除けて、どこか胸を張るような姿勢で、再びかなは勝気に笑う。

 その笑顔には、かつての彼女の中に存在していたどこか必死ささえ帯びた焦りも、またある種の卑屈さも、そして余裕のなさも、もう見えない。

 世界の中で、「自分の居場所はここなのだ」と叫び声をあげるような、そんな無理な虚勢の張り方も、もはやしていない。

 

 だからこそ今、アクアは言う。

 

「まだまだ。こんなもんじゃないだろ、かなは」

 

 予想外の言葉であったのか、きょとんとした表情で視線を合わせてきた彼女に、敢えて笑った。

 挑むように、笑いかけた。

 

「君ならこれぐらいのことはできて当然だって、思ってたぞ。それこそ、三年前に今日あまに出てた時からな」

 

 違うか? と。

 こんな場所は、まだまだ「女優・有馬かな」にとっては通過点でしかないんじゃないのか? と。

 

 そうやって『挑発』してみせたアクアの真意を理解したか、そこで目の前の赤銅の髪の少女が、もう一度表情を変える。

 口の端を吊り上げて、小さな吐息が、そこから漏れた。

 

「……言ってくれるじゃない」

 

 出てきた台詞は、決してマイナスの響きを持つものではない。

 いかにも有馬かならしい、夏の太陽のように苛烈な意思の籠った双眸に、笑顔に、そして声だった。

 

 初めて出会った、あの僅か二歳の時の、初共演の映画の現場の中でアクアが見た、灼けつくような鮮烈な輝きの瞳と、それは同じものだった。

 

「ま、アンタにしちゃ当然か。だってアクア、アンタ私のこと大好きだものね? ねぇ?」

「……言ってろ」

 

 そしてそのまま些かうざったらしい笑みと声で以てアクアのことを煽ろうとしてくるのもまた、いつもの有馬かなだ。

 付き合っていられないとばかりにひらひらと手を振って、そしてアクアは長らく放置されていた机の上のバスケットの中に手を入れる。

 

 中に入っているものがなんであるかなど、言うまでもない。

 

「まあ、なんだ。とりあえず、せっかく特に用事もないのにカラオケ来たんだから、なんか歌うぞ」

 

 前置きはこのくらいにと、マイクを二本とってそのうちの一つを差し出したアクアに、かなは笑顔を浮かべたままに頷いた。

 

「そうね。……あ、それこそせっかくだし、採点バトルでもする? 三ラウンド勝負、負けたらこのあとのお昼ご飯奢りってことで」

「いやカラオケ採点ガチ勢の歌ウマ相手にそれ挑むほど無謀じゃないからな俺」

「ん? お? 逃げんの? 逃げるんだぁ。 逃げちゃうんだぁ? へぇ?」

「は? うっざ。そういうとこだぞ有馬かな」

 

 いつものようにじゃれあいつつ、互いに電子目録のデバイスを手に取って、競うようにマシンの中に曲を投入していく。

 

 

 

 斯くしてそこから二時間と少し、アクアとかなは二人して、それこそ少しばかり喉を痛めてしまうほどに、この場所における本分――カラオケに興じることになった。

 

 因みに勿論だが、結局巻き込まれたカラオケ採点バトルでアクアはかなにボロ負けした。

 相手はミュージカル女優にして新生B小町きっての歌唱力を持つ現役アイドルである。至極当然の結果であった。

 

 

 

 

 

 午後二時過ぎに終わったカラオケのあと、もはやおやつ時と言ってもよいほどの時間に遅めの昼食を摂って店から出るころには、時はすでに三時半を過ぎようとしていた。

 

「いやー、随分とご馳走になっちゃったわねー」

 

 アクアの隣を歩きながら、いっそわざとらしいほどに清々しい、あるいは憎たらしい声と表情で、かなが言う。

 

「本当だよ……無茶苦茶してくれて。人の金だからって食い意地張りすぎだろ」

「そりゃあねぇ。どっかの誰かさんはいっつも財布の紐がおきつぅございますから?」

「俺より金持ってる人間がよく言うよ」

 

 昼下がりとはいえ、一年の中で日の入りの最も早いこの時期特有の、ほんの少しだけ日の傾きつつある気だるげな世界の中を、互いに申し訳程度の伊達眼鏡と帽子を使って身分を隠しつつ、ゆっくりと進んでいる。

 

「……まあ、金の問題じゃないんだろ。分かるよ、それは。けど」

「はい、そこまで」

 

 アクアが口にしようとした続きの言葉が、かなによって遮られる。

 横にいる彼女がやや速足でアクアの前に回って、くるりと振り返りながら人差し指を口元に持ってきた。

 

「言いっこなしよ、それは。だって今日は、今日だけは、私の時間だから」

 

 すなわちそれは、アクアが今何を言おうとしていたのか、かなもまた理解しているということを意味する。

 どういう意思をそこに持っているのか。そして同時に、今日この日、この時間が、彼女にとって一体何であるのかさえも。

 

「そういう『約束』だから」

 

 あるいは、()()()()()()()()()

 

 押し黙らざるを得なかったアクアに向かって、かながふわりと笑みかける。

 上目遣いの視線と共に、息が一つ、吐き出された。

 

「だから、もう少しだけ付き合いなさい」

「それは、構わないけど。……けど、俺たちはどこに向かってるんだ?」

 

 問いかけたアクアに、半身の形で足を前に進めていたかなが、ふと立ち止まる。

 釣られて足を止めたアクアに背を向けるようにして、くるりと前を向いた彼女が、道の先の方へと指を伸ばす。

 

「分かってるでしょ、アンタも。この道」

 

 もう一度、その顔だけがアクアを向く。

 真意がつかめず、押し黙る目の前の朴念仁の姿にあきれ果てたということだろうか、そこから数秒の時を経て、かなが両の腰に手を当てる。

 

「三年前の話よ。アンタが入学してすぐの」

 

 陽東高校への入学と、有馬かなとの接点。

 二つの事実を結びつけるものと、この道の先にある何か。

 

 その、一見して関連の見出せない点と点が、しかし十秒ほどの思慮の先で、俄かに一つの線となる。

 

 同時に、アクアの脳裏には一つの光景が去来した。

 あの日の、山吹色に輝いていた世界の景色が。

 

 目の前で、赤銅の髪の少女が一つ頷く。神妙に、真剣に。

 

「まあ、何もない場所だけど」

 

 そしてそこで、また小さく笑った。

 

 

 

 

 

 その場所、つまりアクアたちの学校近くの公園は、あの日と全く同じように、二人のほかには誰の姿もなかった。

 都会の只中にある、何の変哲もない、そして大して広くもない公園だ。冬休みもまだ明けておらず、そもそも外はまだ寒さの只中だ。こんな場所にわざわざやってくるような理由のある人間など、まあそうはいないということだろう。

 

「……で? 何するんだ、ここで」

 

 そんな、ある種至極当然の問いを発したアクアに向けて、かながこの日持ってきたリュックサックのジッパーを開け、その中身を見せてくる。

 

「……グローブ、か?」

「ええ」

 

 見えたのは、明るい茶色をしたなめし革のグローブ、つまり野球グローブだった。それも、二つもある。

 そのうちの一つをアクアに向かって差し出して、更に鞄の中から取り出したのは、真っ白な軟式球だ。

 

 そこまで来れば、一体かなが何をここでしようとしているか、分かろうというものである。

 

「キャッチボールなんて、そんなことするようなキャラだったか?」

「いいじゃない、別に」

 

 出入口の近くのベンチに、中身の空になったそのリュックと、そして着込んでいたコートをぽんと放り出して、かなはアクアの傍から離れてゆく。

 大体十歩ほど、距離にして七、八メートルほどの距離に立って、彼女はくるりとアクアの方に向いた。

 

「やってみたかったのよ、一度ぐらい。青春っぽい何か、アンタと」

「制服も、それか」

「もちろん。だか、らっ!」

 

 言いながら、いきなり放物線を描いて投げ込まれた白球は、彼女の本来狙うべきアクアの胸の前からは些か右に流れてゆく。

 運動神経にそこまで自信のあるわけでもないアクアが、それに何とか追いついて捕球すれば、かなはそんなアクアの方を見ながら、片目を瞑って手刀を切っていた。

 

「ごめんごめん。初めてだから」

 

 そんな彼女の仕草を背景に、アクアは今し方自らの取ったその白いボールに向かって視線を落とす。

 

「……青春、ね」

 

 彼女がその言葉に込めた真意は、きっと今日、今に至るまでのかなとの時間そのものとさえ、重なるものなのだろう。

 もはや止められるはずのない予感を胸に抱えて、アクアは腕を振る。

 

 思ったよりははるかに狙い通りに、真っすぐに少女の胸の前に向かって飛んで行ったボールを、彼女は抱え込むように、そのグローブと右手で以てキャッチした。

 

 

 

「そう言えば、だけど」

 

 そのまま暫く、他愛のない世間話を交えながらキャッチボールに励んでいた二人の中で、かなが話題を一つ、ボールと共に投げ込んでくる。

 

「そろそろ受験シーズンでしょ? アンタどうすんの」

 

 それは今のアクアにとって、ある意味で至極タイムリーな話題だ。

 何往復、何十往復と試行を重ねているうちにある程度コツというものを掴んだらしいかなの、緩い軌道ながらも正確なコースで抛られたボールを難なく左手のグローブだけで捕って、しかし投げ返す前に暫し頭の中で言葉を練る。

 

 その末に、アクアは口を開いた。

 

「いくつか、志望校自体は見つけてある。願書も出した」

「へぇ? いいじゃない。どこよ」

 

 アクアから返ってきたボールの行く先を目で追い、けれどもアクア自身の方は見もせずに、かなは更なる問いを放ってくる。

 

「まずは、あかねと同じ大学。学部は違うけど」

 

 瞬間、一瞬だけ固まったことで完全に捕球のタイミングを逃した彼女のグローブに、ボールが当たって弾かれる。

 転がっていったそれを小走りに慌てるように追いかけ、何とか捕まえた彼女が、元居た場所に戻りながらもアクアの方を向く。

 

「……なるほどね。他には?」

「他に……」

「あるんでしょ? 『いくつか』って言ったんだから。言ってみなさいよ」

 

 声色にせよ表情にせよ、何を考えているか丸わかりである。そのあからさまな、そしてどこか詰め寄るような趣の言葉遣いを前に、アクアは少しだけ笑って、更に一度息をついた。

 自分から言い出したことなれば、隠すべくもない。一瞬、グローブで口元を隠して、しかしすぐに飛んできたかなからのボールに向かってそれを差し出しながら、アクアは答えを口にした。

 

「医大」

「……医大!?」

 

 正確には、雨宮吾郎としての自身がかつて在籍していた都内にある医大だ。

 

「本気? そりゃアンタ頭いいから行こうと思ったら行けるかもしれないけど……なに、アクアお医者さんになりたかったの?」

 

 かなの反応は、ある意味で当然だろう。これまでのアクアの歩みから考えれば、それはあまりにも突拍子のないものに映るであろうから。

 

 けれどもそれは同時に、アクア自身にとっても、向けられて然るべき問いだった。

 

「選択の一つには、なるんだろうって思ってる」

 

 我ながら歯切れの悪い言葉だ。そうアクアは思う。しかしそこには致し方のない部分があった。

 

 医者、そのなかでも心臓外科医になりたいという夢は、つまるところ「雨宮吾郎の夢」だ。

 何者にもなれず、徒に母親の命を踏み潰して、その血と骸の上にようやく産まれてくることしかできなかった自分が、初めから一人分の命の負債を抱えていた自分が、ある種それを贖えるかもしれないと一縷の望みを抱いて手を伸ばそうとした、そういう思いに根差した夢だった。

 

 ならば今の自分がそれを希求しようとするのは、本当に自分自身の夢なのかどうか。

 そこにあるのは、ある種の惰性なのではないのか。真にアクアの、「星野アクアのやりたいこと」は、別のところにあるのではないか。

 

 それがまだ、今のアクアには判断できずにいる。

 

 

 

 ボールを投げ交わさんとする、そのかなの動きが、止まった。

 アクアから返された白球を手に持って、しかし彼女は立ったまま、暫く動かずにいた。

 

 その顔が、僅かに俯いた。

 

「……まあ、いいんじゃない。向いてると思うわよ、アクアなら」

「そう、か」

「でも」

 

 視線が上がり、深紅の瞳がアクアのことを捉える。

 

「そしたら、辞めちゃうんでしょ、アクア。役者のこと」

 

 知ってるわよ。そう、かなが続けた。

 

「お医者さんって、大学六年通った後に研修医になって、五年ぐらいずっと病院で働くんでしょ。しかもそれ、かなりブラックだって言うじゃない」

「……ブラックかどうかは、大学と診療科によるな。でもまあ、間違ってはいない。最近は随分マシになったらしいけど、それも前期までの話だからな」

 

 よく知っている。この話をかなにしたことは一度もなかったわけで、つまりきっと彼女は一般教養としてそういった知識を持っているのだろう。

 

「だったら。だったら、最低でも医大を出たあとは、三十ぐらいまではお医者さんのお仕事しかできないわよね」

「三十超えても、だな。開業医なら別だけど、勤務医は副業なんてまず無理だ」

 

 断言したアクアを前に、かなは再び俯く。そう、と、そんな小さな声が、漏れていた。

 

「まあ、『可能性の話』だよ。俺も、本当の意味でどうしたいかは、正直全然まだ決まってなくてさ」

 

 その姿に、ほとんど反射のように出てきてしまった言葉に、しかしかなは首を振った。

 

「いいの。いいと思うわよ、アンタがお医者さんになりたいなら。だって、そうじゃない」

 

 そして再び持ち上げられた頭の、顔の上には、再び柔らかささえ感じるあの笑みが、戻っていた。

 

「バカみたいに優しくて、助けたがりで、お人よしでさ。アンタの為にあるような職業じゃない。……絶対、いいお医者さんになると思うわよ」

「……そうか」

「そうよ」

 

 ――まあ、でも。

 そう付け加えるようにして、改めてかなは手に持つボールを投げる動作に入る。

 

「アンタとまた演る機会がなくなるってのは、けっこー寂しくなると思うけど、ねっ!」

 

 気合いと共に抛られた白球が、空に線を描きながら、アクアの目の前まで届く。

 パン、と乾いた音を立ててグローブの中に納まったそれに視線を落として、アクアはそこで生じた問いを、かなに対して向けた。

 

「共演。俺と」

「ええ」

「……それが、君の夢の一つなのか」

 

 問うたアクアと、問われたかな。二人の間に今、風が吹き抜けていった。

 気づけば、周囲は少しずつ暗くなり始めている。日が傾き、辺りを照らすその色は、黄金色から橙に、あるいは紅にさえも、移り変わりつつある。

 

 つまりこれは、過去の再演だった。かつてこの場所で、有馬かなのことをアクアとルビーの傍に、苺プロという事務所の中に引きこんだあの日の光景が、フラッシュバックした。

 

 そしてきっと、それはかなにしても同じだ。故に今、アクアの目の前で、彼女は口を開く。

 

「言ったわよね、アクア」

 

 だらりと、グローブを持った手を下ろす。もう、二人の間にボールのやり取りをしようという空気は霧散していた。

 

「『一緒に夢を見よう』って」

「……ああ」

 

 開いていた距離を縮めるべく、かながその一歩を踏み出す。

 ゆっくり、ゆっくりと、アクアに向かって歩み寄ってくる。

 

「私にとっては、あの日だって夢みたいなものだったわ。『今日あま』で、久しぶりにアンタと共演した日」

 

 彼女の土を踏む音さえも、どこか大きく響いて聞こえる。

 

「私のことを苺プロに誘ってくれた日も。アイドルとして、初めてステージの上に立った日も。一緒の舞台に上がった日も」

 

 一歩、また一歩と近づいて、そしてアクアの目の前、あと二歩ほどの場所で、かなは再び立ち止まった。

 真剣そのものの視線で、一つとして嘘のない言葉を重ねていた彼女が、もう一度、その表情を緩める。

 

「ずっと、全部、夢だった。それぐらい、変わったのよ、何もかも。アンタと会ってから」

 

 残照を背に受けて微笑む彼女の姿が、過日の光景に重なった。

 さながら絵画の如くに、あるいは凄腕のカメラマンが狙いすまして撮影した一葉の写真のように、言葉さえ失うほどに、目の前に見える有馬かなの姿は、その笑顔も、美しく映る。

 

「ねえ。分かってるんでしょ、今日のこと」

 

 アクアは答えない。答えられなかった。

 

「私がここに来たのも。アンタのことを誘ったのも」

 

 一歩、距離が縮まる。もはや本当に眼鼻の先の距離にまで近づいたかなの、その黒目がちの大きな双眸が、柘榴の輝きが、水を湛えるように揺れた。

 上目遣いに、見上げるように。胸に右手を、グローブのはまっていないその手を当てて、そして今、彼女は言った。

 

「好きよ、私。アンタのこと」

 

 居心地の良い、惰性のような距離感でいたはずの互いの関係さえも決定的に変質させるような、不可逆の言葉だった。

 故にそこにあるのは、有馬かなという少女の不退転の決意だった。

 

 

 

 その言葉を口にした瞬間、少女の、有馬かなの纏っていた空気が変わる。

 どこか、安堵しているかのような。言えずにいた言葉をやっと言えた、肩の荷が下りた、そんな類の感慨さえ、見えていた。

 

「……俺は」

 

 返そうとした台詞が、声が、ひび割れる。

 

 彼女は分かっているはずだ。

 アクアとあかねは、事実関係としては恋人同士だ。そういうことになっている。だから客観的に今の有馬かなのありようを評するならば、それは横恋慕以外の何ものでもない。

 

 けれども同時に、かなは知っているのだろう。

 その実、アクアが未だにあかねに対してやっている不義理を。二人の間の関係性を確定さえさせず、アクア自身が遂げるべき目的の為に、未だ彼女のことを「協力者」の地位に甘んじさせていることを。

 そんな彼女に対して、アクアがどのような思いを向けているのか、向けるべきであるのか、そして()()()()()()()さえ、分からずにいるということを。

 

「いいわよ、言わなくて」

 

 だからそうやって、かなはアクアの言葉を遮る。

 

「だって、今のアンタと付き合ったって、多分上手くいかないもの」

 

 自分一人でどこまでも話を先に進めていこうとするかなを、しかしアクアは止めることもできない。

 その権利は、多分アクアにはなかった。

 

「アンタのせいじゃないわ。いや、ちょっとはアンタのせいもあるかもね」

 

 ふっと、少し皮肉を込めて笑って、けれどもかなはそこで目を伏せる。

 

「分かるでしょ? アンタなら。私が死ぬほど面倒臭い女だって。多分付き合うことになったら、私は何があってもアンタの一番じゃないとイヤになる。一番大事にして欲しくて、一番に推して欲しくて、一番好きでいて欲しくなる」

「それ、は」

「無理でしょ、アンタには。分かってるもの」

 

 突き放すような物言いだった。彼女はそれをきっと彼女自身に言い聞かせているのだろうけれども、しかしアクアにとっては、自分自身の不義理を、あるいは踏ん切りのつかなさを、詰られているような気さえしていた。

 

「アンタにとって一番大事なのは、ルビー。一番に推してるのも。そうなんでしょ?」

 

 その言葉からは、決して逃げてはならない。彼女の問いには、答えなければならない。

 真っすぐに見つめてくる瞳を、同じように見つめ返して、そしてアクアはゆっくり、はっきりと頷いた。

 

「それは、そうだ。……でも、俺は君のことだって好きだし、推してるぞ」

「知ってるわよ、そんなこと。『好きじゃなかったらかなのことをアイドルになんてしようとしない』、でしょ?」

「……そうだな。言ったもんな、君には」

 

 息を大きく吸って、そして吐く。胸の中につかえていた言葉を、無理矢理に引きずり出した。

 

「一番気楽にふざけ合えるのは、君といる時だ。一緒にバカやって、くだらない話して、軽口叩き合って。だから一緒にいたら、楽しくなるんだ」

「そうね。それは私もよ」

「ああ。……だけど、確かに今の君の気持ちには、応えられない。今の俺には、何が何でもかなの事だけを一番にすることは、できない。……ごめん」

 

 深く、長く、頭を下げる。

 五秒か、十秒か。そして次に頭を上げたときには、かなは少しばかり困ったような表情でアクアのことを見ていた。

 あるいは、慈しみさえしているかのような。

 

「……ホント、そういうところよ。不器用よね、アンタは」

 

 ――でも、そういうところが好きよ、私。

 言いながら、手が伸びてくる。アクアのそれに、触れてきた。

 指の先と先が絡まる。冬の寒さの中に、かなの少し高い体温を、その温もりを感じた。

 

「分かってるわよ。全部分かって、私はここに来た」

 

 呟くように、囁くように、けれども耳に残る声で言いながら、かなはその手に取ったアクアの指の先を、二度三度と撫でる。

 そこで、彼女は再び顔を上げた。

 

「でもね。アンタは、けじめをつけなくちゃいけないはずよ。誰のことかは、分かってるわよね」

 

 逃避は許さない。そういう視線だった。同時に、恐らく彼女はアクアの答えなど求めていないのだとも、分かった。

 アクアもまた、それ以上の言葉など必要とはしていない。

 

「答えは、ちゃんと出しなさい。あの子も大概忍耐強いって思うけど、これ以上それに甘えてたら、アンタ人間のクズよ」

「……分かってる」

「ん、ならよろしい」

 

 言って、頷いて、かなは握っていた手を離す。その間際、一瞬ばかり、そして少しばかり強く、アクアの手が握られた。

 息がかかるほどの距離から、一歩後ずさる。かなの漂わせている、甘さを帯びた花の香りが、そこで薄れた。

 

 そして今、またかなが笑う。

 悪戯っぽいその表情で、アクアを見た。

 

「まあでも、私は寛大だから。もしアンタがあの子にフラれたりしたら、しょーがないから付き合ってあげてもいいわ」

 

 そうね、と顎に手を当てて、一瞬だけ天を見上げる。

 

「まあ、私は諦めが悪いから。十年ぐらいは、待っててあげる」

「……随分気の長い話だな」

「何でもないわよ、こんなの。子役として売れなくなってから十年この世界にしがみついてきた私にはね」

 

 からりとした声で、地味な自虐をかまして、その在りようはどうしようもなく、有馬かなだ。

 アクアの思い描く、強く逞しく、そして美しい少女の姿だった。

 

 

 

 交わしていた言葉が、そこで途切れる。

 後ろ手に手を組み、くるりとアクアに背を向けて、彼女は自らの荷物の置いてあるベンチの方へと歩いていく。その途中で一瞬ばかり立ち止まって、アクアの方を見た。

 

「じゃ、そろそろいい時間だし、帰りましょうか」

「わかったけど……夕飯は」

「そこまではね。だから今日は、ここまで」

 

 きっぱりと言い切って、しかし「あ、でも」と言葉を継ぐ。

 

「せっかくだから、家までは送って行ってもらいましょっか。『制服デート』らしく、ね?」

 

 そんな、茶目っ気を帯びた言葉と笑顔でこてんと首を傾げたかなを見て、アクアもまた自らの表情を緩めた。

 

 地面に縫い付けられていると錯覚するほどに真っすぐ立ち尽くしていた身体を、足を、一歩前へと踏み出す。

 彼女の隣まで身を寄せて、ベンチの上のリュックの中に持っていたグローブを仕舞ってから、アクアはおもむろに、かなの方へと右手を差し伸べた。

 

「仰せのままに、お嬢さん」

 

 そして、気取った口調で言葉をかける。

 

 

 

 意外な振る舞いにか目を丸くして、直後にほんの少しだけ失笑して、けれどもそこでかなは、穏やかな笑顔を浮かべながらも、アクアに向かって同じように手を伸ばす。

 

 宵の入り口、紅と紫紺の交わる世界の中で、アクアとかなの手が、静かに重なった。

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