「自分自身の人生を生きて」。そう、ルビーは言った。
「けじめをつけなさい。未来のために」。そう、かなは言った。
これから先を生きるべきアクアのための話を、彼女たちはしていた。
アクアと共に生きる未来のことを、彼女たちは見ていた。
もしそうだというのならば、星野アクアという人間にとっての人生は、これまでの十八年の歳月とは、何なのだろう。
改めてアクアは、それを回顧する。今日この時に至る積み重ねの末の一つの極点、映画「15年の嘘」のプレミア試写会の日を一週間後に控える今こそ、きっとアクアはそれを、正面より考えなければならなかった。
思えばこの十八年という月日は、かつて雨宮吾郎が生きた三十年足らずの人生に比べてなお、あまりに多くの経験と気づきを、そして転機とも言うべきものを、アクアに対して与えてきたように思う。
星野アイの息子として産まれたこと、星野ルビーの兄として産まれたこと。
現役アイドルにして、十六歳の不完全で無鉄砲な、未熟な少女を母としたこと。
その時のアクアは未だ知らず、されどもその少女こそが、今の
その始まりから、もはや一つの脚本のように劇的で、同時に非現実そのものであった星野アクアの生は、妹が、
そして同時に、アクアはたった一つだけ、この世にこの形で生を享けた意味を、その役割を、恐らく既に遂げていた。
星野アイの二十歳の誕生日、東京ドームライブの当日の朝、あそこで起こった一部始終は、確かに今もアクアにとっては後悔の象徴だ。以降のアクアたち全員の人生そのものを決定的に変質させてしまった元凶で、なおかつ防ごうと思えば、きっと防ぐことのできないものではなかったはずの出来事だった。
しかし、今のアクアは知っている。「それさえも零れ落ちた可能性」の先に、何があったのかを。あの日の分岐点の先に存在している、有り得たかもしれない結末を。
あの場所でアイの未来が永遠に途切れ、彼女のことを救えなかった後悔と、それが生み出す止めようのない希死念慮の赴くままに、『復讐』の名を借りて自暴自棄な暴走を重ねた自分を。
結果として至った答えに、『使命』という大義名分に殉じ、星野アクアの消え去った世界の中に、繋いだ縁も、大切に思っていた人々も、世界で一人だけの妹のことさえも、置いて行った結末を。
そういうやり方しか見つけることのできなくなった、星野アクアの選択と、その末路のことを。
だとするのならば、それとは違う現実をこの世界の中に描き出せているという事実は、たとえ僅かなものであったのだとしても、光明に相違なかった。ここにこうして生まれてきたアクアの存在が、あの日途切れていたかもしれない母の、星野アイの未来を、どういう形であれ繋ぎ止めるに至ったのならば。
けれども、同時にアクアは分かっている。それは決して完全なものではない。
あらゆる意味において、あの日は始まりの日だった。それまでずっと続いていた、陽だまりの中のような、夢とも現実ともつかない微温のうちに揺蕩うような、無防備で、ともすれば無責任であった幼年期に別れを告げて、今の生を生きる意味そのものを果たしてゆくための、真の意味での「星野アクアの誕生日」だった。きっと、そういうことなのだろう。
楽しかったか。そう訊かれると、答えるに難しさがあるようにも思う。
随分と、遠回りをした。自身の辿ってきた軌跡をあとから追って行けば、そう思わざるを得ない部分は多々あった。
例えば、顔も名前も知らない父親の正体を掴むのにしても、劇団ララライの主宰たる金田一敏郎の情報を得た十歳頃の段階で、そのままララライの扉を叩くという選択肢はあったはずだ。
無論のこと、当時のララライはもう既に綺羅星の如くの実力派を揃えた、飛び込みで入団を志望するにはハードルの高い劇団になり始めていたことは事実だ。姫川大輝が頭角を現し始め、そして更にしばらくすれば、黒川あかねもそこへと加わることになる。当時のアクアが、否、今のアクアでさえ、如何な努力をしたところでそこにそう簡単に割って入ることが出来るかと問われれば、難しいと言わざるを得ない。
しかし努力の方向性として、ララライへの加入を認められるように演技力をつけ、早めにあの劇団の中に入って内部の情報を自ら手に入れられるようになっていれば、きっと父親のことを突き止めるに至るまでの期間をざっと四、五年は短縮できていたに違いない。
もちろん、それは後知恵の類だ。結果論とも評されるものだろう。しかしなんであれ、あの日東京ドームライブの朝に受けた傷のダメージよりひとまず回復し、己の為すべきことを定めた四歳の時点から見て、今に至るまでに流れた十四年もの歳月は、反省もなしに流してしまってよいほど短いものでは決してない。
けれども、同時にアクアは思う。
ならば今のアクアにとって、これまでの歩みは無駄であったのだろうか。必要のない迂回路であったのだろうかと。
――違う。断じてそれは違った。
曲がりなりにも一つの映画を作り、その映画によってかの男に、神木輝にアクア自身の意思を、そしてアイの真実を突きつけるに至った今だからこそ、理解できる。
あの時のままのアクアは、あの四歳の日に持った目的意識のままに何も変わることのなかった星野アクアでは、恐らくは彼の前に立つ資格さえありはしなかったと。
――父親を突き止めて、自分たちの身に起きた惨禍はその男の手によるものであったのかを確かめて、その上で、何をするのか。
あの日、最初に思い描いていたビジョンは、その部分が完全に欠落していた。
裁きたいのか。止めたいのか。はたまた、報復を望んでいるのか。それともただ、母と妹の身の安全の保障さえ確保できれば、そのほかのことなど何でもよかったのか。
最も近いのは、一番最後だろう。けれども同時に、そのために一体何をすべきなのか、自分に何が出来るのかを、アクアはきっと何も理解していなかった。「いざそうなったときに考えればよい」と、後回しにさえしていた。
理由は単純だ。その時のアクアには、何もなかったからだ。
あるのは目的意識だけだった。使命感だけだった。未来への展望も、そこへ向かう覚悟もたとえ持っていたとして、それにはきっと、中身が伴っていなかった。
ならばもし仮に、そんな程度の薄弱な意思で、成し遂げたいものを何一つ持つことなく、あの男の、神木輝の前に立っていたならば、何が起こっていたのか。自分はどうなっていただろうか。あるいは母は、妹は。
「資格がない」とは、そういうことだ。
神木輝という男に太刀打ちできるようになるためには、あの時の自分はきっと何もかもが足りていなかった。最速の歩みで、効率的な動きだけであの男の存在を突き止めても、そうして彼に会いに行っても、アクアはきっと何も為せなかっただろう。守りたいものを守ることさえ、出来なかっただろう。
だからこそ、思う。
遡ること数日、曰くの「デート」の中で、校門の前で、あるいは公園の中で、かなに対して言ったことを改めて想起した。
「あの日あの場所で君と出会わなければ、今の俺はここにはいない」。それは決して、星野アクアと有馬かなという二者間の関係だけに限定される話ではない。
かつて孤高の頂にいて、傲慢でさえある目線で周囲のことを見下ろしていた少女が、そのあとにやってきた残酷な現実に打ちのめされて、けれどももう一度立ち上がって、夢を追おうとしていた。
どれほどに苦しくとも、今が如何に惨めであっても、この世界が彼女にとってどれほど残酷でも、投げ出すことを、諦めることを、彼女は決して選ばなかった。
その在り方を、アクアは眩しいと思った。そういう輝きがこの世にあることを、アクアは知った。
だからそれは、この世から決して失われてはならないものだった。
彼女だけではない。この世の中にあって、あの日己の見たものと同じ光を、崇高さを持つ人々の存在を、アクアは既に知っていた。更に知るようになった。
幼稚園のお遊戯会から逃げ出した後、けれども一念発起してダンスを克服した
かつて持っていた夢、ルビーのそれと同じ「アイドルになりたい」という思いを一度は手放して、今を生き抜くために別の道を選びながらも、それでも諦められるはずもなく、憧れだけは決して捨てることのなかった
そして――あの夏の嵐の夜の出来事も。偶然と悪循環、不運の積み重なった先に起きた破綻がその身を襲った、
結果として際限なく広がった世間の悪意に晒され、世界全てを敵に回してしまったかのような錯覚に囚われて、彼女は一度自らの命を手放しかけるほど追い詰められた。
それでも少女はなお、自らの足で立つことを、進むことを、「役者であること」を、絶対に投げ出そうとしなかった。
あの日の彼女の、灼けるほどの覚悟の籠った目線もまた、アクアの中に強く印象付けられている。
少女たちは皆それぞれに、在り方こそ違えども、輝ける今を懸命に生きようとしていた。夢を、その胸にしっかりと抱きしめていた。
確かにアクアは自らの手で、彼女たちの夢の手助けをした。時には道を示すことさえあったかもしれない。
けれども、逆もまた真だった。アクアもまた、きっとそれぞれの生き様に、その在り方に、導かれていた。
彼女たちの輝きが、何から来るものであるのか。
それを眩しく思う自分は、彼女たちの一体何に憧れていたのか。
理解するたび、実感するたびに、一つ一つ、アクアの空虚でしかなかった「器」に、中身が注がれていく。
新生B小町のアイドル活動の中に、救いの光を見た。人間の善性を見た。清らかなまでの友情を見た。
あかねとかなの複雑な関係性の中に、人の情の難しさを見た。それでもなお、未来に向かって確執と葛藤を超えてゆこうとする少女たちの透徹した決意に、希望を見出した。
いや、違う。
何にもまして、もっと直接的に、アクアは助けられていた。支えられていた。
忘れもしない。忘れられるはずもない。二年前、今と同じ冬のさなかの、高千穂の夜の闇の中で、アクアはその温かさを知ったのだから。
あの日のことがなければ、アクアは今もなお致命的な見落としを看過したまま、きっと取り返しのつかない破綻へと突き進んでいたのだろう。「導き」などと嘯く、あのカラスを引き連れた少女――ツクヨミの物言いは、そういう意味では一面の正しさを持っているのかもしれない。
けれどもあの日、雨宮吾郎の死体を前にアイに突きつけられた事実は、あの瞬間のアクアにとっては「星野アクアという存在そのものへの否定」にさえ等しかった。
アクアが立っていた前提に対する、根本からの否定だったからだ。
だからアクアは情けなくもすべてを投げ出し、あの場から逃げた。かつての雨宮吾郎の生家の、あのあばら家に。
しかしそこに、彼女は一人やってきた。
何の利益もないだろうに、必要などありはしなかっただろうに、それでもアクアに向かって手を伸ばすために。
あの場所から、連れ出そうとするために。
「あなたは一人ではない」と、ただそれだけを伝えるために。
そんな彼女に、だからアクアは救われた。先に進むための力を、アクアに与えてくれたのだ。
その少女の、黒川あかねの、あの夜の蒼白い光の中に鮮烈な輝きを宿した碧の双眸の記憶は、今もなおアクアの脳裏に強く強く焼き付いている。
そしてきっと、一生忘れることはないだろう。
それからのことにしても、そうだ。アクアはいったいどれほどに、黒川あかねという少女に寄りかかっていたか。
父親捜しという目的のための、実利に関してだけの話ではない。映画の中で当てにした、女優としての才覚、実力の話ばかりでもない。
もっとずっと繊細で、同時に形にはあらわれないもの――精神的な部分もまた、そこには含まれていた。
そうした「思い」の一つ一つが、アクアの中で答えを作り上げてゆく。星野アクアがこの世界の中で生きてゆく、意味というものを。自分自身に明日の存在を許してもよいと考えるに足る、理由というものを。
だからこそ、それはまさしく『武器』だった。
薄っぺらな自我によってではない。
雨宮吾郎という名前の亡霊が操るだけの影法師でもない。
今ここに至るまでの全てを意味に変えて、自分自身だけのただ一つの「答え」を導き出した、一人の実態ある人間としての星野アクアが、ようやく手にした力だった。
ある意味では怪物であり、しかし同時にどこまでも人間で、故にアクアがこれまで積み重ねてきたものの真価を問われる相手に、伍していくための。
斯くも断固とした覚悟を持って対峙しなければならない存在、あの神木輝という男へと突きつける、答えでもあった。
そしてそれは、
そこは、たった二人の空間だった。
本当に、真の意味で、誰からの干渉も受けることのない場所として、また同時に『今までの二人が決して訪れたことのなかった場所』として、とある都内の高級ホテルのツインルームの一室に、アクアはいた。
一方の相手は、この場所にやってきてからというもの、どこか言葉では言い表すことの難しい緊張のようなものを、その身に漂わせている。
まあ、無理もないだろうか。
『年若い男女』が二人きりで、ベッドのある狭い空間の中に身を置いている。
夜も近い。ここで一夜を共にすることははっきりしている。そうした前提条件が揃っていて、身構えることのない人間の方が、きっと無防備というものだろう。
「まあ、なんだ」
だから、アクアは敢えて口調を軽く声を上げる。
「プレミア試写会、明後日なわけだけど」
その相手――あかねは今、アクアの正面のソファに、一人座っている。
アクアが腰掛けているのは、ローテーブルを挟んだ反対側のスツールだ。二人掛けのソファでも、敢えてあかねの隣に陣取ることをアクアが選ばなかったのは、つまりこれからの話が、面と向かって目と目を合わせてしなければならない性質のものであるからに尽きる。
一方の彼女は、そこで少しだけ表情を変えた。心なしかこわばっていた肩がほぐれ、硬さの見え隠れしていた表情もまた、いつもの様子を取り戻す。
「あ、うん。そうだね」
これがもう少し砕けた場所であるのならば、アクアもいたずら心にあかねのことをいくらかからかったのかもしれない。
「なんか変なこと言ったか?」などとすっとぼけてみせて、乙女の純情を弄ぶ悪い大人の振る舞いで、あかねの可愛らしい怒り顔を引き出すぐらいのことは、きっとしただろう。
けれども、今日は違う。今日ばかりは、そういう戯れが許される場合でも、また場所でもなかった。
目を瞑り、息を吸って、目を開ける。
「その前に、あかねにはいくつか言っておかなければいけないことがある」
出した声音に何かを察したのか、あかねの背が伸びる。顔つきも振る舞いにも、真剣さが宿った。
「それは、神木さんのこと?」
問われた台詞に、何も言わずに首を一つ縦に振る。
「インタビューの日のことは、もう言ったと思うけど。アイ――母さんと神木輝は、あそこでしっかり話をつけた。最低でも母さんは、言うべきことを言ったはずだ」
「うん。それは知ってる。『これで終わりになればいいけど』って、アクアくん言ってたよね」
「ああ」
本当に、心にもない台詞を言ったものだ。
そんな可能性など、千に一つ、否、万に一つぐらいしか有り得ないと、理解していたというのに。
「あれから、二カ月経った。今のところ、あの男からのアクションはない。東京ドームライブも、きっちり成功した」
「そうだね。ルビーちゃんすごかったよね。本当に、見れてよかったと思うよ」
柔らかく微笑んだあかねに向かって、「ありがとう」と一つ頭を下げる。
「あれのおかげで、今回のプレミア試写会の大義名分も出来た。アイだけじゃない、ルビーもかなもMEMも、新生B小町っていうユニットそれ自体も、題材として取り上げるのに相応しい格を手に入れた」
それはともすれば、些か露悪的な言い方かもしれない。B小町のドームライブの成功そのものを、ある種だしにしているが如くの物言いであるからだ。
けれどもきっと、あかねはそのあたりでアクアの意図のある程度の部分を察した。
「そっか。だから結局『あと』にしたんだね、アクアくん。映画のこと」
「ああ」
得心が行ったような表情で、二度三度と小さく頷きながらも、あかねは小さな呟きを漏らす。
「じゃあ、
「……話が早くて、助かるよ」
全くもって、その通りだ。
黒川あかねの察しの良さは、本当に際立っている。
もはや一種の特殊能力だろう。いや、文字通りの異能なのか。黒川あかねの役者としての異質さの源泉が、この他者の心や言葉の中の意図を瞬時に見抜く洞察の深さに、明晰な頭脳にこそ、あるというのなら。
だからこそ、アクアは彼女に隠し立てをしないでよかった。というよりも、出来ないのだろうけれども。
小さく息をつき、一瞬だけ俯いてから、改めてアクアはあかねの顔を正面に見る。
日が暮れ、夜に至り、外の街の僅かな灯りを反射させながら輝く透き通った碧玉の虹彩が、静かにアクアのことを見据えていた。
「出来る限り、手は打ってきたつもりだ。仕込みもした。映画の中のことも、母さんがアイツと話をしたところに俺がいたことも。そもそも、あの映画の発起人が俺ということにしてあるのも」
わずかに、それが揺れる。アクアの「仕込み」の意図をすでにあかねは理解していて、けれども同時に隠しきれない情動の揺れ動きが、きっとそこからは覗いていた。
だからこそ、アクアはそれに気づかないふりをする。
「でも、人間の心は機械じゃない。本当の意味で誰が何を思うか、どういう行動をとるか、コントロールできるものじゃない。神木輝だって、それは同じだ」
だから、つまり。そう言葉を繋ぐ。膝の上に置いた手に、力が入っていた。
「ここからの三日が、山場だと思ってほしい。試写会の前日、当日、翌日。動きがあるなら、そこだ。アイとルビーに同時にスポットライトが当たる瞬間が、そこだからだ」
そしてそれは、黒川あかねも決して他人事ではない。
いや、ある意味では彼女こそが、アクアにとっては最も気を配らなければならない相手だった。
「アイ役をやってくれたあかねも、無関係じゃない。壱護社長には最大限警戒するように話はつけてあるけど、それでも君にまでは手を広げられないんだ。事務所が違うから」
言いながら、身を乗り出す。
つまりアクアは、この期に及んで何かあかねに対して頼みごとをしているわけではなかった。
「誰かを見守ってほしいとか、対策をしてほしいとか、そういうことじゃない。君自身だ。あかねはあかね自身を守ることを考えて動いてくれ」
強いて言うのならば、それこそが頼みごとだった。
今のアクアの周りの人々の中で、アクアの「計画」に最も近い場所にいながら、同時にアクアが手を伸ばすことのできない最も遠い場所にいるのが、黒川あかねだ。
同じ屋根の下で暮らしている身内でもなければ、苺プロという庇に守られた同僚でもない。
束縛できる存在でもなければ、またしていい相手でもない。
この瞬間において、アクアはその事実が何よりも怖かった。
今日、あかねをこんな二人きりのホテルの一室などというあまりにも思わせぶりな場所に招いたのも、結局はその恐怖からくるものだった。
今までの二人の行動半径には決してないところに、彼女を連れてこなければならなかった。万が一にも、足跡を辿られないように。
そして彼女のことを、決して一人で帰すわけにはいかなかった。
どれだけ過保護だと、お節介だと言われようとも、この瞬間、この状況下において、黒川あかねが無防備に、ただ一人で街を歩くという事実そのものに、アクアはもはや耐えられなかったのだ。
アクアくん、そう言葉を漏らしたあかねのことを無視して、アクアはじっと、彼女のことを見る。
「あかねがいなければ俺はここまで来れなかった。俺はずっと、君に救われ続けてた」
「アクアくん、それは」
何か言葉を返そうとした彼女に向かって、首を振った。
「あかねがどう思うかじゃない。俺がどう感じたかなんだよ、これは。あかねのことを、俺がどう思っているのかも含めてだ」
瞬間、あかねの目が大きく見開かれた。
その動きが止まる。掠れた声が、吐息が、僅かにそこから漏れ出ていた。
「答えを出すのは、今じゃない。俺にはまだその資格がない。だけど、あかねのことが大事なのだけは、どんなことがあっても絶対に変わらない。それだけは」
その彼女に向かって、アクアは言う。
「だから、頼む。俺の言うことを聞いてくれ。無茶はしないで、自分の安全のことだけを考えててくれ」
全て、何一つとして偽りのない本音だった。
言い切り、口を引き結んだアクアを見て、あかねはしばし目を閉じる。
彼女に向けて明かしたアクア自身の意思を、心情を、咀嚼しようとしているのか。
いずれにせよ、暫くの間続いていた沈黙の時間は、あかねの小さな吐息によって破られた。
閉じられた瞼が、その先の長い睫毛が、ふるりと震える。わずかに伏せられていた目が、ゆっくりと開いて、同時に上がっていく。
「……そう、だね」
それはまるで、何かを押し込めているような声だった。言いたいことを一先ず飲み込んで、アクアの言葉に乗った意図を、意思を、尊重しようとする態度のあらわれのようにも思えた。
澄み切った碧玉が、再びアクアのことを捉える。ほんのわずかに揺れたそれと共に、あかねが一つ頷いた。
「でも、だったら、アクアくんは?」
「俺、は」
向けられた当然の疑問に、しかしアクアはどう返すべきなのか、分からない。
心にもないことは、言えなかった。
けれども同時に、彼女の心を徒に乱すようなことを、口にしたくはなかった。たとえあかねがアクアの振る舞いの中に、なにか予感をしているものがあるのだとしても。
だったら、今のアクアはあかねに対してどんな言葉をかけられるだろうか。
何を伝えるべきだろうか。どういう形で、それを台詞にすればよいのだろうか。
悩んで、考えて、その末に出た答えは、ある意味ではシンプルなものだった。
「俺は、言わなくちゃいけないことがある。あかねに」
軽く吸った息に音を載せて、意思と共に吐き出す。
僅かに逸れていた目線を、正面に座る濡れ羽の髪の少女に、合わせた。
「でもそれは、今すぐに言えることじゃないから。全部、終わらせないと言えないことだから」
つまり、アクアは結局、その直接を言葉にすることを選ばなかった。
心の中に抱いている予感も、持っている未来の予測も、決してありのままを言葉にすることなく、それでも伝えなければならない思いだけは、漏らすことのないように。
即ち――今の自分が見ているのは、未来だということを。
「だから、信じてくれないか。俺の、ことを。難しいことかもしれないけど」
星野アクアは、生きようとしていることを。
死に逃げようとは、していないということを。
決して真っすぐに口に出すことはなくとも、それは約束だった。
全てを終えるまで、決着をつけるまで、待っていて欲しい。必ず、戻ってくるからと。
何もなくとも。そして何が、あろうとも。
痛いほどの沈黙が横たわり、ただ時間だけが過ぎ去ってゆく。窓の外、街の彼方を通ってゆく車の音さえ、聞こえたような気がした。
それでもアクアは、決して目を逸らさなかった。逸らしてはならないことを、理解していた。
やがて、アクアの目の前で、あかねが表情を変える。真剣で、ともすれば必死で、どこか縋るようでさえあった空気を孕んだその顔つきが、緩み、和らぎ、綻んだ。
「そっか」
笑みと評するには少しだけ柔らかさに欠け、されど険しさと鋭さの薄れたその相貌で頷いて、あかねはいま、僅かにアクアから視線を外す。
「アクアくん」
そこから、小さな呼びかけを聞いた。
「だったら」
逸らされ、下を向いていた目が、おずおずと合う。
「だったら、こっちに来て」
どういうことかと、訊く必要はない。自らの腰掛けていた場所から静かに立ち上がって、アクアは眼前のテーブルを回りこみ、そしてソファに、あかねの隣に腰掛ける。
そうするが早いか、あかねの身体が動いた。身を寄せられ、両の腕が広げられて、アクアの背中に回る。
全身に体温を感じた。いつの間にか嗅ぎ慣れた、清らかな果実の薫りも。
その身に走っている、僅かな震えさえも。
故に今、アクアの腕も動いていた。自らがされているのとまったく同じように、あかねの背中に向かって、手を回した。
そしてゆっくりと、さするように、その手を動かす。彼女の中から漏れ出してくる震えを、鎮めるように。
呼応するように、あかねの腕の力が、そこで強まった。
首に、頬に、擦り付けられるようにあかねの顔が動いて、耳元に囁きを聞いた。
「信じてるからね、私。信じるからね、アクアくんのこと」
「ああ」
「約束、破るなんて許さないよ」
「分かってる」
「そんなことしたら、一生恨むから」
最後の言葉には、腕の力だけで返した。
「そんなことを、俺の為に」。そう、言いそうになったからだった。
暫く続いた抱擁は、あかねの方が腕の力を抜いたことで、終わりを迎える。
背中に感じていた圧力が消え去ったことで、アクアもまた同じように腕を下ろす。示し合わせたように、互いの身体が離れた。
「……もう、いいのか?」
確かめるように訊ねたアクアに、あかねが頷く。
「うん。もう、大丈夫」
「そうか」
アクアもまた、彼女のそれに首を縦に振って返して、そこであかねの方から背を向ける。窓の外、街の景色を見た。
すでにもうそこは、夜の闇のうちにある。漆黒の夜天が外には広がっていた。
東京の空には、星がない。あるのはただ月だけだ。その全てを押し流すほどの人の手による光の海が、街の遍くを彩っている。
それを一瞥して、アクアは再びあかねに向き直る。僅かに首を傾げながらアクアの方へと目を向けていた彼女を視界の中に納めて、敢えて表情を緩めてみせた。
「だったら、そろそろ夕食にしよう。どうする? 外に行くか?」
軽い調子で投げかけた声に、あかねは少しだけ考える素振りを見せる。
けれどもそれは、ほんの少しの間のことだった。アクアと同じように薄く微笑んで、あかねは首を振る。
「ううん、いい。ここで食べたい。アクアくんと、二人がいい」
その、どこか微かに濡れていて、甘えるような少女の声に、アクアの胸の内がほんの少しだけざわめく。
「……わかった。だったら、そうするか」
けれどもそれを強引に押し留めて、アクアは徐にソファから腰を上げた。
この場所よりすぐ近くのライティングデスクの上にある、ルームサービスのメニューを取りに行くためだった。
ただひたすらに続く静寂を分け合って、たった二人の時間を、アクアはあかねと共に過ごす。
陽が沈み、夜が更け、次の朝の陽の昇るまで。
その時間は、その夜は、包み込むような安らぎと、穏やかさの中にあった。
心を鎮め、身を委ねて、その只中にただ、揺蕩うような。
それは、持ち前の底抜けなまでの明るさと、生き様の主張する身を灼くような輝きによってアクアの手を引いてゆく、星野ルビーの透き通った在り方とは違う。
思わず心が沸き立って、楽しくなって、等身大の少年としてのアクアの部分が引き出されてしまう、有馬かなの悪友のような距離感でもない。
これは、彼女だけが持つものだった。黒川あかねという少女と過ごす時間の中でアクアが感じるそれは、「ずっと欠けていたものが埋まっていく」ような、「知らなかった何かを教えられている」ような、そんな満足感にさえも、きっと似ていた。
故にその日、アクアは自らの胸の中で、未来に向かって導き出すべき「結論」を、確かに一つに定めた。
次の日の朝がやってきて、アクアはあかねとホテルを発つ。
当然のことながら、一夜を共にした二人の間に、「妙なこと」の類は一切起こらなかった。というより、アクアが起こさなかった。
部屋のレイアウトをダブルルームではなくツインルームにしたのも、それだ。ある意味で、あれはあかねに対する意思表示でもあった。
彼女もきっとそのことは理解しているだろう。共感も、してくれただろう。
いずれにせよその日、「15年の嘘」のプレミア試写会の前日たる土曜日の朝は、まずあかねのことを彼女の家に帰すところから始まった。
このホテルに来たときと同じ、苺プロが事務所として契約しているハイヤーで、決して誰の目にも留まらないように、あかねを彼女の実家に送り届ける。
それが終わって、アクアが自分の家に無事に辿り着くころには、結局時刻は朝の十時をゆうに回っていた。
家の住人、つまりアイとルビーの二人も、当然に起きている頃合いである。
インターホンのボタンを押してそのカメラの前で暫く待っていれば、ロックチェーンと鍵の開く金属音と共に、どうにも複雑な表情をしたルビーが、アクアのことを出迎えていた。
「おかえり。……朝帰りとか、お兄ちゃんもやるようになったねぇ」
すでにパジャマではない、いつもの室内着としてのプリントTシャツ姿の彼女が、微かなジト目と上目遣いで、アクアのことを見る。
何か言えと、そういうことらしい。対するアクアは首を竦めて、ルビーの肩越しに廊下を、その奥にある扉に閉ざされたリビングの方に目を遣った。
「別に。言っただろ、何もないって」
「そうだけど。でもあかねちゃんと二人だったんでしょ?」
「まあな。でも、してたのはこれからの話だよ」
「あかねちゃんとの?」
「……お前なぁ」
思わず閉口して、ルビーの方へと視線を向ける。
そこに見えた彼女は、その目には、しかし言葉ほどの険は宿っていなかった。
どうやら、軽くからかっているだけのつもりらしい。思わず小さく溜息を漏らしていた。
「そういうの生々しいから止めろ。それより、母さんは? 確か今日休みだったはずだろ?」
「うん。いまちょっとミヤコさんと電話中だけど、でも多分すぐに終わるって言ってたから――」
客観的に
しかしその瞬間、アクアたちが見ていた廊下の先の扉が、ばたりと開いた。
「お待たせー!」
誰の手によるものかは、言うまでもない。その向こうに躍って、すぐに視界の中に現れた夜の色の長い髪をたなびかせながら、弾むような足取りで、跳ねるような言葉と共に、彼女が姿を見せる。
「あーアクア、おかえり!」
「ああ、うん。ただいま」
「ねね、どうだったどうだった、あかねちゃんと二人っきり!」
そしてそんな彼女から、アイから向けられた、あまりに素朴にして大いなる悪戯心の含まれた声に、アクアは今ふたたび嘆息する。
「母さん、アンタもか」、と。無論、それを直接言葉にすることはなく、代わりにルビーに一つ目配せをして、アクアは今立っている部屋の出入り口から土間へと上がりこむ。
「まあ、いつも通りだったよ。お互い、今のところは」
アイに背を向け、扉の二つの鍵をしっかりと締めて、チェーンロックをかける。
息を一つついて、振り返った。
「それより、大事なのは明日だから。俺たちも、あかねも」
そう、敢えてきっぱりと言い切った台詞に、アイの、またルビーの顔も少しだけ引き締まる。
「確かにね。集大成? だもんね、みんなの」
「ああ。母さんも、俺も、ルビーたちも。母さんの役をやってくれたあかねもそうだし、姫川さんもだ。当たり前だけど、カントクも」
「社長たちもだよ?」
「……そうだったな」
忘れてくれるなと付け足してきたアイに、微かな苦笑を浮かべてアクアは答える。
「とにかく」、そう言いながらアクアは靴を脱いで、土間より上がった。道をふさいでいるアイを、ルビーを半身になってかわすようにして廊下の中ほどまで立ち入り、そこでアクアは改めて、一度アイと、そしてルビーの方を振り返った。
「そういうわけだから、悪いけど、今日もう一度出掛けることになりそうだ。夕方から」
「えー!? なんで? 今日夕ご飯一緒に食べようと思ってたのに!」
途端にむくれ声を、不満の声を発したルビーに向かって、アクアは軽く頭を下げる。
「ごめんな。母さんも」
言いながら、アイの方を見る。
そこにいた彼女は、ルビーのそれとはまるで違う、どこか何かを察したような目線で、アクアのことを見ていた。
「何しに行くの?」
そして、訊いてくる。しかしそれは、おそらく言葉通りの意味では決してないのだろう。
また同時に、きっと正直な答えなどというものを、期待しているわけでもないのだろう。
一瞬だけ挟まった沈黙を経て、アクアは答える。
「ちょっとな。相談があるって。明日のことで、姫川さんが」
「男同士の話、ってこと?」
「それならまあ、納得できるけど」。そんな調子で、どこか無邪気な声色の台詞をぶつけてきたルビーを向こうにして、アクアは思わず相好を崩す。
「……まあ、そういうことだな」
アイの方に、視線を戻す。
そこにいた彼女は、はっきりと一つの納得を伴った目の色を宿していた。
目を瞑り、頷く。
「わかった。じゃ、約束の時間になったら言ってね」
「分かってる。その時になったら言うよ」
アイの言葉を受け、二対の瞳に見つめられながら、アクアは自身の部屋の中へと引っ込む。
クローゼットに鞄とコートを入れ、身軽になって、しかし部屋の電気をつけることもなく、ポケットの中からスマホを取り出した。
閉めてあるカーテンの、それでも隠し切れない隙間から漏れてくる日の光が薄暗く照らしている空間の中で、アクアは手の中のそれを、画面の中を見る。
あったのは、一件のメッセージだった。
差出人不明、日付と時刻のみの本文、そして二つの添付ファイル。
即ち、「この場所に来い」とばかりに示されたジオロケーション情報と、PDFデータ。
その中身は、
あかねを家に送ったその直後、まるで見計らったかのようなタイミングで送られてきたそれを、その中身を見て、アクアは理解した。
星野アクアの『清算』の日は、他でもない、今日であると。
――来る宿命の刻まで、あと、十時間。