本エピソードは本作における核心にして、最大の独自解釈が含まれています。
時は午後六時半、冬の最中の東京には既に夜の帳が降りて、この高層階に位置するマンションの中には、ただ静寂だけが漂っている。
それは今自分のいるこの場所が、自分の他には誰もいない、ただ一人だけの世界だからだろうか。
その中で、アクアは一人目を閉じる。
吐き出し、虚空に消えてゆく吐息の音もまた、自分の他に誰が聞くわけでもない。それでも、自覚する。
今し方己の漏らした吐息は、隠し切れない震えを内包していた。その理由がなんであるかは、アクア自身が一番よく理解している。
軽く、首を振った。そして机の上に出されていたスマホを取り出し、中を見る。
既にアクアが知っている、『あのメッセージ』ではない。もう一つ、アクアが家に帰ってすぐのタイミングで、これもまた見計らったかのように送られてきた、もう一つのメッセージだ。
送り主は、よく知る人だった。
今日の朝まで、アクアが共に時間を過ごしていた相手だった。
『おつかれさま』
『今日は(昨日は?)ありがとう』
つまりそれは、あかねだ。
『試写会、明日だね』
『いよいよ、だよね』
短いフレーズの中に、彼女の意図を読む。
『待ってる』
いくつか続いたメッセージの最後に書かれたその言葉に、アクアは暫し、目を瞑った。
スマホの画面を消し、そこを人差し指で一度だけ撫でる。
立ち上がり、部屋を横切って、入口近くのクローゼットを開く。
その中にあるものへと、手を伸ばした。
この部屋から、この家から出る前の、それは最後の準備だった。
息を吐き、目を閉じて、そしてアクアはそのハンガーに架かっているものを、一息に取り出した。
――今にして、思えば。
こんなことは決して言いたくもないが、それでも結局、これは運命だったのだろうか。必然だったのだろうか。
アクアがアクアとして、星野アクアとして生を享けた瞬間から。
あるいは、アイがアクアを、そしてルビーを身籠ったその日から。
それよりも前、『彼女』と『彼』が、劇団ララライで出会った時から。
けれども、アクアは知っている。この世界は断じて、決定論的に作られていないことを。
人の意思は、未来を変え得るのだと。現実さえも書き換えられるのだと。
ならば。
星野アイと神木輝、二人の人間の間に生まれた星野アクアが、アクアであるからこそ、この場所に至る必然を、己が身に宿しているのなら。
この日がやってくることが、今という時に至ることが、宿命の収束だというのならば。
――ならば、その終わらせ方ぐらいは、俺自身で選んでみせる。
アクアのスマホに送り込まれてきたメッセージに記されていた『指定の場所』は、東京都は湾岸エリア、手すりの向こうに東京湾が見渡せる一帯の只中にあった。
遠くに煌めく光を放つレインボーブリッジを望むここは、人通りの多い展望エリアから少し外れた位置にある。
灯りに乏しい、薄暗い空間だった。まるで、海からやってくる光なき影の世界が、この場所にまで伸びているようだとさえ、思わせるほどに。
奇しくもそれは、星野アクアにとってはどこか見覚えのある光景でもあった。今もなおその時の記憶――二年半前の番組の撮影のことを、アクアはよく思い出すことができる。
勿論、ここは決して「アクアの記憶の中の場所そのもの」ではないのだけれども。
夜になり吹きすさび始めた陸風が髪をなぶり、しかしそれに構うことのない様子で、アクアは手すりに片手を置きつつ、海の向こうの景色を眺めている。
陸側に背を向けて、そこからやってくる『誰か』の存在を、気にすらもしていないかのように。
「何を、見ているのかな?」
そこに、背後から男が姿を見せる。
軽い調子の、落ち着いた、甘い、魅惑の声だ。
それは、アクアのほんのほど近くの場所から聞こえた。
距離にして僅か二、三歩の、パーソナルスペースの遥か内側とも言えるような場所。
その場所に音もなく入り込んでいた男が、自らの発した声に振り返るアクアに向かって、更に一歩を踏み出した。
アクアの動きと、男のそれが重なる。音も、空気の揺れさえも。
故に今、星野アクアが最初に感じたのは、視覚でもなければ、聴覚でもなかった。
襲ったのは、ドン、という鈍い衝撃。
同時に身体に走った違和感にか、アクアの蒼の瞳が、重力に引き寄せられるかのように、下を向く。
「でも、ちょっと用心が足らないんじゃないかい?」
そこには、腕があった。アクアのではない、目の前の男の。
アクアと同じ金糸の髪を持つ、アクアよりも少し背の高いその男から、アクアの脇腹に向かって、腕が伸びていた。
いや、違う。
正しくは、
そしてその先は、眼前にいる男――神木輝が、握っていた。
アクアの目が、見開かれる。
「何故、どうして」。その疑問の色だけが、そこには描き出されている。
けれども、それは長続きしなかった。
数瞬の後、追いかけてきた五感の認識が、アクアの身体を強引に動かす。
手を脇腹に添える。体が、くの字に折れ曲がった。息が乱れ、足がふらつく。その動きに逆らうことなく、男――神木輝はアクアの身体に突き立ったナイフの柄から手を離した。
「まあ、分からないよね、君には」
手に嵌めていた手袋を外しながら、朗らかな声で輝は言う。つい今しがた、まさに今この瞬間に人を一人刺したとは到底思えないほどに、それはどこまでもさりげない、単なる日常の延長線のような声だった。
「『何で俺が』、かな? それとも、『アンタはこんなことはしないはず』、かい?」
荒い息を吐きながら後ずさり、やがてこの場所において海と陸とを隔てる白い鉄の柵に身を預けたアクアのことを、神木輝は見据える。何の色も、温度さえ、感じることのできない眼差しで。
「僕はね」
たん、と足音が響いた。神木輝が、さらに一歩アクアに向かって足を踏み出した音だった。一度離れ、しかし未だ五歩ほどの長さしかない二人の男の距離が、また一つ、そこで縮む。
「アイがいてくれれば、何でもよかったんだ。だって、生きているって思えたのは、アイといるときだけだったから。そうじゃない時の僕は、ただ死んでないだけでしかなかった」
唄うように、諳んじるように言いながら、けれどもそこで、神木輝の瞳に澱みが混じる。
「だからせめて、アイにはアイのままでいてほしかった。僕の前からいなくなった後も、僕の知ってる、あの時のアイのままで。そうすれば、僕は永遠にあの時のアイを感じていられると思ったから」
分かるかい、と。
濁り沈み、昏い光を放ち続ける神木輝の視線が、目の前にいる『息子』に、アクアに向く。
しかしそれとは裏腹に、口元に浮かんでいたのは、まごうことなき笑みだった。
「『アイのことを殺そうとしたか』? 最初は、そんなつもりなんてなかった。高千穂のことは、リョースケ君の暴走だよ」
そこから、唐突に神木輝は来し方の話を始める。今も猛烈な痛みに苛まれているであろう目の前の少年――星野アクアがそれをどれほどに聞いているかは定かではない。
しかし、輝は淡々と、まるで独り言のように、言葉を重ねることを止めなかった。
「でもあれで、アイは死ななかった。本当に僕にはそのつもりはなかったけど、でもアイは結果的に死なずに済んだ。『まるで、運命から守られているみたいだった』」
ずるり、と音がする。
自分の力で地に足をつけて立っていられなくなったアクアが、鉄柵にその身を預けながら地面に崩れ落ち、座り込んでいた。
つまりそれは神木輝にとって、星野アクアがこの場所から逃げ出すことがなくなった事の証明に他ならない。
次第に、少しずつ上がっていくアクアの呼吸の音を、あるいは喘鳴の音を聞きながら、輝はまた一歩、そちらの方に向かって近づいた。
「でも、愛梨さんは違った。僕が清十郎さんに愛梨さんとのことを話しただけで、あの人は呆気なく死んだ。あれだって、別に殺そうなんて思ってなかったのに」
過去を顧みるように、一度だけ輝は天を見上げる。彼の纏っている、いつもの漆黒のコートの裾が、この場に吹いている強い風にあおられて、はためいていた。
「『恨んでたか』? 分からないかな、今となっては。でも、別に僕は愛梨さんのことが嫌いなわけじゃなかったよ。だって愛梨さんは、僕には優しかったから」
目を伏せる。だからね、と間を繋いだ。
「愛梨さんが死んだって聞いたときは、悲しかった。当たり前だよ。……だけどね、もう一つだけ、思ったことがあったんだ。『だったら、何で愛梨さんは死んで、アイは死ななかったんだろう』って。だから、確かめようと思った」
それはまるで、他人事のような台詞だった。
神木輝という人間にとって、姫川愛梨の死という出来事がどういうものだったのかを、知らしめているような。
もしくは、そこに至る輝自身の行いに、何を感じているのかを、表しているような。
ナイフの刺さったままの脇腹を押さえて、額に汗を滲ませながら、アクアが輝の顔を見上げる。
唇が動いて、しかしそこから出る空気は、何一つ声にはなっていなかった。
「死んでほしかったわけじゃない。だって僕はアイのことを愛してたんだから。でも、知りたかった。愛梨さんを死なせてしまった僕は、僕の中の『特別』は、僕の『嘘』は、やっぱりアイには届かないのか」
疼痛に五感を侵され、歪み続けているアクアの顔を涼しい顔で見下ろしながら、輝は己の腕を広げ、滔々と嘯く。
余裕さえ、滲ませているようだった。
「どっちでも、よかったんだ。アイが死んだとしても、僕の中であの時のアイは生き続ける。この世の中でも、アイは永遠になる。一番美しい姿のままで、誰にも愛されるアイのままで。誰の記憶にも残って、みんなに語り継がれるアイは、きっと永久に『死ぬ』ことはないから」
そこに聞こえる神木輝の声は、信奉者のそれだった。いや、もはや『信仰者』の声ですらあった。
星野アイという『女神』の存在を至上のものと捉えて、その輝きに永遠を求め続ける、妄信にも似た声色だった。
「でもやっぱり、結局アイが死ななかったのは、僕にはすごく嬉しいことだったよ」
一瞬だけ目を瞑り、二度三度、首を縦に振る。口元に、涼やかで穏やかな笑みを浮かべながら。
「僕の見立ては間違ってなかった。アイは『特別』で、『絶対』だった。僕のつまらない拘りなんて、簡単に跳ね除けた」
アクアの顔が、さらに歪む。苦痛にではない。きっとそれは、憎悪の類なのだろう。
けれども、輝はそれには目もくれない。まるで自分の発する言葉に陶酔でもしているかのように、ただひたすらに語り続けている。
「その後も、僕はずっと確かめてきた。そのたびに、アイが、アイだけが、やっぱり特別なんだって分かったよ。僕の嘘にはみんなが騙されてくれる。誰も僕の言葉を疑わないし、誰だって、僕の思った通りに動いてくれた。――つい、一年前までは」
けれどもそこで突然に、神木輝の纏う空気が変わった。
一歩。また、彼は歩を刻む。夜の街灯に反射して、少しだけ揺れた金色の髪が、きらりと光った。
いよいよもってゼロになりつつある彼我の距離で、神木輝は星野アクアのことを真っすぐに見下ろした。
底知れぬ暗さを湛えた眼窩の奥から、塗り籠めたような無感情の瞳が、覗いていた。
一度だけ、風が吹き抜ける。
その乾いた音が通り過ぎた後に、輝は再びゆっくりと、口を開いた。
「君なんだろう? 大輝くんと僕のことを引き合わせようとしたのも。ゆらさんと一緒に」
答えなどというものを、求めているはずもない。
淡々と、ひたすらに、事実を断定していく言葉を、神木輝は並べ立てる。
「同じだよ。君は、僕とよく似ている。だからそうやって君も、捻じ曲げてきたんだろう?」
唐突に、神木輝がそこでしゃがみ込んだ。地面に崩れ落ちているアクアと、わざとらしく視線を合わせるために。
「有馬かな。黒川あかね。姫川大輝。片寄ゆら。星野ルビーに――
ニヤリと、嗤う。しかし上がったのは唇の端ばかりで、彼の目元も眼光も、感情の一切が籠められていない。
「だからこれは、同族嫌悪なのかな。正直、僕もあまりよく分かってないんだよね。この期に及んで『よく分からない』ってのもおかしい話だけど」
張り付けたような笑みの上を、世間話のような声色が滑ってゆく。しゃがみこんだ姿勢のままにじり寄るように、輝はそこから膝立ちで、最後の一歩を踏み出した。
星野アクアと神木輝、二人の彼我の距離が、なくなった。
ほど近い場所で、輝の紫紺の瞳が、アクアの蒼き虹彩を覗きこむ。目が、合わされる。
一つは震え、一つは澱んで。視線がぶつかり、絡まり、結ばれた。
「だけどまあ、僕だってこんなことをしたんだ。ただで済むとは思ってない。このあとは、大人しく警察に自首でもするよ」
そして今、輝はアクアに向かって手を伸ばす。
彼が庇い、押さえている、深々とナイフの突き刺さった脇腹へ。
「でも、これでいい。君がいなくなれば、アイもきっと『元に戻る』。僕の知っているアイに。あの時のアイに」
僅かに抵抗の素振りを見せたアクアの右の手を振り払い、露出したその奥の黒い柄に、輝は自らの手を添えた。
「それが見れるなら、僕はどうなっても構わないんだ。何十年牢屋の中で過ごしても、死刑になっても。僕にとってアイは、それだけの相手なんだよ」
トドメとばかりに、彼の身体から流血を押し留めているであろうそのナイフを、抜こうとする。
「だから、君とはここでお別れだね。……さようなら、星野アクア」
別れの台詞を口にして、柄を掴むその右の手に、力が入った。
そのまま、それを一息に引き抜こうと身体が動いて――。
「……本当に、アンタは嘘しかつかないんだな。神木輝」
輝の目が見開かれる。視線を下へと落とす。
そこには、今まさにナイフを引き抜こうとしている自らの右手をがっちりと掴んでいる、二つの手があった。
その持ち主など、一人しかいない。
目の前の、少年だ。星野アクアだった。
輝が、弾かれたように顔を上げる。
見えたのは、それまでの身を焼くような苦痛に喘ぎ、死の間際にいるような人間の顔ではない。
凪いで、澄んだ瞳で、ただ真っすぐに、彼は今、神木輝という人間のことを見据えていた。
今まで見せていたものの全てが、
気づいた瞬間、慌てた様子で輝はアクアの手を振り払おうとした。捕まえられている右手を強引にほどこうと、腕に力を籠める。
「逃がすかよ」
しかし、動かない。足を投げ出した姿勢のアクアに向けて身を乗り出し、不安定な体勢からナイフを引き抜こうとしていた輝の身体は、如何に非力なアクアの握力や腕力であっても、逃さぬように束縛するのは容易いものだった。
そこに、更に背後から衝撃がやってくる。
神木輝の背中から伸ばされた手が、彼の肩を乱雑に掴んだ。
アクアでも、輝でもない、誰か。完全なる第三者の闖入だ。
思わず輝は振り返ろうとして、しかしそれよりも、その肩を掴んでいる手の、腕の持ち主の動きの方が、遥かに早かった。
裂帛の気合いの声と共に、引きずるようにして無理矢理に、「それ」は輝のことをアクアの身体から引き剥がす。
そのまま強引に、彼は地面に引き倒された。うつ伏せの状態で手が後ろに回り、そしてその手ごと、その「誰か」が輝の全身を地面に対して縫い付けていた。
時間にして、僅か十数秒の間の出来事だった。
嵐のような時間が過ぎ去って、結果としてこの場に残されたのは、たった三人の男の姿だった。
身体を地面にだらしなく投げ出しながらも、それまでの息も絶え絶えな様子は全く見られない、完全なる健在ぶりを見せつけている星野アクア。
その目の前で後ろ手に拘束され、アスファルトの地面に押し付けられている神木輝。
そして、この場に突如に現れ、神木輝にその膝でもって圧し掛かっている、「第三の男」。
その彼に向けて、アクアは自らの視線を送る。
小さく、会釈のように頭を下げた。
「予定通りだな。助かった、
呼びかけられたその男は、姫川大輝は、しかしアクアの言葉には返答を返すこともなく、そのままじっと自らの身体の下にいる男に、神木輝に向かって、刺すほどに鋭い視線を向け続けていた。
アクアは神木輝に見える場所で、座ったままの姿勢で、おもむろにコートの襟に手をかける。
「なあ、知ってるか、神木輝」
全身を覆う、黒いダウンコートだ。それを身に纏ったアクアは、元来の細身の、というよりは華奢というべき体つきよりも、随分と膨れて見える。
着膨れしているというわけだ。しかし今のアクアの出で立ちは、決してこのダウンコートの存在だけによるものではなかった。
ファスナーを開け、コートを広げる。そうすれば、何重にも重ねられたウール地のセーターが、まず姿を見せた。
これもまた、アクアがこの場に臨むにあたって用意した『準備』の一つだ。しかしそれは、この更に内側にあるものを相手に悟らせないための、謂わばカモフラージュのようなものだった。
だからアクアはそこから更に五、六枚ほど重なったセーターの裾をまくって、覗いた中身を目の前の男に見せつける。
「最近の防刃ベストってのは、刺突にも耐え得る性能をしているらしい。俺も今回、初めて知ったことだけどな」
つまりは、そういうことだった。
アクアはこの場において、神木輝に直接手を出されることを、ナイフの類の凶器によって刺される可能性というものを、はっきり視野に入れていた。
いや、きっとそれさえも正しくない。アクアはそうなることを、神木輝から危害を加えられることを、ある意味では
何枚にも重ねられたセーターを一種の肉襦袢として彼の認識を騙し、着込んだ防刃ベストで刃を受け止めて、言い逃れのできない状況を作り上げた上で神木輝の身柄を取り押さえる。
それこそが、アクアが彼の狙いに乗るようにしてこの場にやってきた理由、そのものだった。
ナイフに貫かれ、ぽっかりと風穴の空いたセーターの、その穴の中に指を入れて、アクアは一つ息を吐く。
心中に浮かび上がったのは、安堵か。或いはほんの少しの後悔なのだろうか。
神木輝を、この場に誘導したことへの。アクアのことを刺すように、無言の中で唆したことへの。
何故ならアクアは、知っているのだ。彼がアクアのことを、「アイとルビーの遺伝子鑑定報告書」をちらつかせることでここに呼び寄せたのと、それは同じコインの表裏であることを。
そこから、数秒。やってきた静寂の中を、突如発された男の哄笑が切り裂いた。
二人の注目が、そこに集まる。地面の上、うつ伏せた姿勢から顔を上げ、アクアの方をじっと見上げている、その男の方を。
身体全体を硬い地面の上に押し付けられているからか、どこかくぐもったように響いているその声は、しかしやけに耳にこびりつくような残響でもって、アクアと、そして姫川大輝の鼓膜を揺らす。
そこから十数秒、いや、ともすれば数十秒ほども続いたその乾いた笑い声の果てに、彼は、神木輝は、アクアに向かって顔を向けた。
そこにはどうしようもなく
「そっか。そうなんだね」
そして、言う。
「僕もか。君に誘導されたのは。まんまと君の狙いに嵌まったっていうわけだ」
自らに言い聞かせるように、納得させるかのように口にして、アクアをじっと見据えたまま、輝は嘯いた。
制圧され、押さえつけられたままの姿勢で、しかしその苦しさなどというものは微塵も感じさせないほどの、自然な表情で。
「やっぱり、君と僕はよく似ているよ。本当に」
そんな、呪いにさえも似た、台詞を。
それを聞いた大輝が、意趣返しのように強く込めた膝の力に呻き声を上げて、しかし輝がアクアのことを見据えるその視線は、決して逸らされることはなかった。
どろりとした澱にも似た、粘ついた紫紺の目線が、目の前に座り込む蒼き瞳の少年のことをずっと、変わることなく射貫いていた。
その視線を真っすぐに向けられながら、アクアは一瞬だけ、目を瞑る。
けれども、それはほんの数秒にも満たない時間のことだった。
「そんなことか」
言いながら、瞼を開く。変わることなくアクアのことをじっと見据えている神木輝と、そしてその上で彼の身体を押さえつけている大輝のことを一瞥して、そこでどこかあっさりと、アクアは首肯した。
「それなら、とっくの昔に分かってるさ。もっと、ずっと前から」
「アクア、お前……」
出てきた答えに思わずと言った様子で反応した大輝に、ちらりとだけ目配せする。
しかし、それだけだ。アクアは彼に対して、何かを言うことはなかった。
いや、違う。言えなかったのだ。
神木輝の言うことは、正しかったから。
「正しい嘘」をつくことが、求められる嘘をつき続けることが、彼の生き様であったというのならば。そうやって人を騙し、自分を騙し、そんな嘘によって形作られてきたものが、彼の生だというのならば。
それは、アクアも同じだった。この男の息子として産まれた星野アクアではない、雨宮吾郎であったときからでさえ。
だからそれは、あまりにも今更のことだった。そんな言葉を投げかけられたところで、アクアは小揺るぎもしなかった。
彼に言われるまでもなく、ずっと前からそのことを、アクアは理解していたのだから。
それこそ、今日この場に至る経緯においても。
つまり、アクアにとってこの絵面は、こういう結末とは、かねてよりずっと計画して、また思い描いてきたものだった。
そしてそのために、アクアは使えるものを全て使ってきた。
映画の計画そのものに、鏑木の人脈を引きこんだ。
あかねの知恵と才能を、かなの経験と矜持を、ルビーの夢と輝きの全てを、神木輝という人間へのメッセージとして使い尽くした。
その結果として、アクアはアイの無垢なる願いさえも梃子にして、彼と今この場所で、対峙している。
そんな自分が、元から無謬で無垢な存在などであろうはずもない。輝に言われるまでもなく。そう、アクアは理解していた。
「俺は非力で、凡人だ。才能のある人間なんかじゃない。そこは、アンタとは違うかもしれない」
内省を交えた、ポツリとした言葉でそう言って、アクアは一瞬、視線を輝から逸らす。
脳裏に去来した過去に思いを馳せながら、少しだけ、口角が上がっていた。
言うまでもなく、自嘲のそれだ。
「だからその代わりに、周りにあるものを全部使った。俺に出来るのは、それだけだったから」
己の両の手に、視線を落とす。ついさっきまで神木輝の腕を強く掴んでいたその感触が、未だにそこには残っていた。
「他人から見れば、何も変わらないだろうよ。自分の目的の為に他人を利用していることは、一緒なんだから。俺も、アンタも」
自覚しているのだ。ここに至るまでの自分のやってきたことの醜さは。
「信頼する」と、「信じてほしい」と言いながら、アクアは自らの周りにいるあらゆる人々に対して、嘘をつき続けてきたのだから。
故にアクアには、責任がある。
そのことを理解しているからこそ、今日は絶対に仕損じるわけにはいかなかったのだ。今日この日、完全なる決着をつけなければならなかった。遅れることは、許されなかった。
そしてそれを為すために、アクアの前には解決しなければならない最後の課題が、ずっと立ちはだかっていた。
すなわち、神木輝が
それを理解することは、事ここに至ってなお、アクアにとっての至上命題だった。アクア自身が直接に彼と会う機会を持ったのも、アイと彼が対面する場を用意したのも、全てはそこに帰着する。
アイと彼の関係を。彼がアイに対して何を思っているのかを。
今に至るまでの彼の行いの裏にある、言葉からでは決して知ることのできない、神木輝という人間の、「原点」とも言うべきものを。
アクアは、知ろうとした。知らなければならなかった。
故にアクアは今日、ここにやってきて――そしてまさに今、その答えを得るに至った。
「アンタは嘘つきだ。アンタ自身の言う通り。本当に、天性の嘘つきだよ」
輝に向かって、改めてアクアは目を合わせる。
「それは、褒め言葉だね、僕にとっては。アイと、一緒だ」
「そうか。けどな」
皮肉な笑みを浮かべて応じた彼を見るアクアの、その視線の色というのは、意味というのは、一体なんであったのだろうか。自分でさえも、よく分からなかった。
けれども、彼に向かって言いたいことだけは、アクアの中ではっきりしていた。
「だからって、自分自身にまで嘘をついて、自分のことを騙すなんて、空しくないか」
その最初の台詞は、そんなある種の挑発の響きさえ、持っていた。
「……なんのことかな?」
神木輝はその問いに、心底不思議そうに首を傾げてみせる。理解できないとでも言いたげに。
しかし、アクアは動じない。自らの中にある結論は、もう揺らぐことなどない。
「姫川愛梨を、憎んでいないと言ったな。アイのことを、母さんのことを、殺したいとは思わなかったって」
変わらない調子で放ったアクアの言葉に、輝は答えない。首を振ることさえ、しない。
「そうやって自分のことを誤魔化そうとするから、アンタは無茶苦茶な理屈で自分のことを騙さざるを得なくなったんだろ」
そんな輝のことを一瞥して、アクアはそう切って捨てる。
「『運命』? 『永遠』? 『特別』だ? 馬鹿馬鹿しい。そんなことよりももっと単純な気持ちがあるから、今日アンタはここに来たんじゃないのか」
足に力を入れて、アクアは一度立ち上がる。
けれどもすぐさまに、そこでしゃがみ込んだ。改めて、地べたに這いつくばっている姿勢の輝と、目と目で真っすぐに見合うために。
じっと、覗きこむ。深淵の底にいるかのような昏い昏い光を湛えたままの神木輝のその瞳を、奥底まで見通すように。
決して見逃がしはしない。そして逃げるつもりもない。その意思を込めて、もう一度口を開いた。
「賭けだったんだよ、今日は」
「賭け? どういうことだい?」
そのある種当然の問いに、アクアは一度、ほんの少し彼から視線を逸らした。宙を見上げた。
「あの映画をアンタに見せて、わざわざ俺自身でアンタに会いに行って。だからあれは、挑発だった。アンタも分かってるだろうけど」
視線を輝の方へと戻す。
そしてここからが、アクアにとっての本題でもあった。
「でも。その結果アンタが俺のことをどう思うか、どうしようとするのか。それが、俺には最後の最後まで読めなかった」
正直に、そう告白する。
それはつまり、アクアが神木輝という人間の本質を、最後まで見定められなかったということに他ならない。
「アンタがもし、アンタ自身の言うような人間なら。そんな救いようのない『怪物』なんだとしたら。そうしたら、アンタは俺と顔を突き合わせることなんて選ばないだろうと思った。そんなアンタにとってみれば、たまたま母さんの子供やってるだけの俺なんて、所詮『どっちでもいい程度の人間』だろうからな」
アクアにとって、それは最後の最後まで拭いきれなかった懸念だった。
だからこそアクアは、今日この場所に来るにあたって、スマホを家に置いてきていた。
あかねを家に送り届け、そこから離れてすぐさまのタイミングで送られてきた、匿名のメッセージ。
あんなタイミングでそんなものがアクアのスマホに届いたのならば、おそらくきっと神木輝は、あるいは神木輝に協力しているかもしれない誰かは、アクアの普段持ち歩いているスマホの位置情報を得ている。それはアクアにとって、確信にも近い推測だった。
勿論、情報技術者でもセキュリティ技術者でもないアクアに、その機序や根拠を説明することはできない。けれども、否、だからこそ、自身の抱いた懸念を払拭するに足るロジックを、アクアは持っていなかった。
故に、置いてきた。もし神木輝が自身の『手足』を嗾けようとしていても、彼らにアクアの足取りを決して追われることのないように。
それほどに、アクアはある意味で臆病だった。ありとあらゆる可能性を考えて、打てる手を全て打った上で、この場所にやってきていた。
「でも、アンタはここに来た。ここまできて、自分の手で、俺のことを殺そうとした。今まで一度だってそんなことをしてこなかったアンタがだ」
結局のところ、抱いていた危惧は杞憂に終わった。アクアの事前の準備は功を奏し、果たして今アクアは輝とこの場所で、こうして会話をするに至っている。
「つまりアンタにとって、俺は『どっちでもいい』人間なんかじゃなかったってことだ。なら――それは、何故だ?」
静かに、アクアは問う。紫紺の瞳を覗きこんでも、輝からは答えなどやってはこない。
ただ同時に、アクアにとってこれもまた、答えが必要な問いなどではなかった。
輝にそうするように仕向けたのが、他ならぬアクアだからということもある。
アイのこと、そして片寄ゆらのことと合わせて、アクアに対しては神木輝の「いつものやり方」に意味はないと見せつけたのも。
一方で、「あの日」の後遺症によって同年代の男子に比べて身体能力の面で貧弱であることを、彼に意識させたのもそうだ。
しかしそれらは全て、神木輝がアクアに対して明確な「殺意」を持たなければ、何一つ意味のないことだった。
逆に言えば、彼がこの場所にこうしてやってきたことこそが、神木輝が星野アクアのことを「殺したい」と考えたこと自体が、今この場におけるたった一つの答えを指し示している。
神木輝という人間にまつわる袋小路のような現実への、それは最大の光明に他ならない。
つまりアクアは、『賭けに勝った』のだ。
故に今、アクアは明確な確信と共に口を開く。
「
身を乗り出した。地面に手をつくようにして、自分自身とよく似た顔をした金糸の髪の男を、『己の父親』を、神木輝を、アクアは見据えた。
「姫川愛梨もそうだ。アンタのことをまともに育てることさえしなかった、親のことも。全部に、アンタは心のどこかで怒りを抱えていた。憎しみを向けるべき先だった。違うか」
正面から、神木輝のほど近くの場所から吐き出したアクアのその台詞に、彼自身が自覚してさえいないほどの瞳の奥の奥の場所が、ほんのわずかに揺れた。そんな、気がした。
「だからこそ、アンタはアイに惹かれた。自分と同じような境遇なのに、自分よりもよっぽど自由で、誰にも縛られないで、いつも強い。それが、眩しかったから」
何故なら、それは同じなのだ。
アクアが、吾郎が、かつてあの少女に、天童寺さりなに光を感じた理由と。
彼女が死して後に、その思いを引き継いでアイを推すことに決めた理由と。
そのアイ自身に、さりなと同じように惹かれていった理由とも。
「だったら。……アンタは確かに、アイのことを愛してた。愛されたいと、思っていた。口を開けば嘘しか言わないアンタでも、それにだけは嘘をつけなかった」
アクアは、やっと理解した。答えに、辿り着いていた。
結局、全てはそこに収束するのだ。まるで、必然に導かれたかのように。
「だからこそ、母さんに裏切られたと思ったアンタは、全部がどうでもよくなった。『何もかも、壊れてしまえばいい』と思った。そんな、自暴自棄に走った。姫川愛梨も、母さんも、他の人たちのことも。……そう、だったんじゃないのか」
元から世界の全部が自分に仇なすのならば、それを自分の『嘘』で壊し尽くそうとしても、許されるはずだろうと。
ならばきっと彼にとって、彼の深層心理において、それは報復だ。自分をこんな目に合わせた、文字通りの全てへの。
彼はきっと、自らの嘘によって誰かの人生を壊す度に、心の底で暗い愉悦を覚えていたのだろう。自分の人生を、そうすることで世界から取り戻しているかのような。
それは復讐の快楽だ。しかしそんな自分の醜さを認めたくないから、嘘をついた。『自分の嘘で世界を試す』などという不遜な嘘を自分自身にまでついて、己をも騙しきった。
同時に、だからこそ輝は今、アクアに対してこれほどまでの殺意を向けた。よりにもよって、自身のことを決定的に歪ませたあの星野アイの息子が、今更になって自分の前に立ちふさがるなど、自分の『復讐』の邪魔立てをするなど、彼にとっては到底許しては置けないだろうから。
彼自身が、それをどのぐらい自覚できていたかは、分からないけれども。
しかし、もしそうだというのならば、アクアにとって神木輝という人間は、もはや「打倒すべき敵」ではない。「排除すべき障害」と切って捨てるのは、正しくない。
そしてそれは、アイにとっても同じだ。
いや、彼女はきっとそのことをずっと前から分かっていたのだろう。それほどに、神木輝のことを理解しようとしていたのだろう。理解していたのだろう。
だから、望んだのだ。「『彼』のことを、救ってあげて欲しい」と。
そのやり方を決定的に誤ってしまったのは、確かではあるのだとしても。
ならば今アクアの為すべきは、言うべきこともまた、自ずから定まっている。
真っすぐに神木輝の姿を目に捉えて、どこまでも凪いだ心のままに、口を開いた。
「俺たちは、不完全な人間だ。いや、俺やアンタだけじゃない。そこにいる姫川さんだってそうだ。ルビーも、壱護社長もミヤコさんも。もちろん、アイも」
アイ。そう、輝が呟く。
「アイもだよ。当たり前だろう。この世界に完璧な人間なんてどこにもいない。アイなんて、それこそ完璧とは程遠い人間だろ。そうじゃなきゃ、そもそも俺たちは産まれてない」
――そうだろ?
言いながら、アクアは己の口の端を吊り上げた。
「十五歳で妊娠するような人間の、何が完璧だ。普通に考えれば、ガキがガキ産んだところで、まともな育児なんてできるはずもないのに」
吐き捨てるような台詞に、聞こえているだろうか。けれどもそれは、アイのことを貶そうとせんがための言葉でなどありはしない。
「でもだからこそ、人には他人が必要なんだ。自分が持っていない何かを、持っている相手が」
何故なら、知っているからだ。理解したからだ。
人はみんな不完全で、まさしくその不完全さこそが、人を人たらしめている。
だからこそ人間は他者に手を伸ばし、寄り添いたいと願うのだと。
ならばその不完全性は、誰にとっても肯定すべきものだ。
アクアもルビーも、かなもMEMちょも、あかねも。
当然に、アイも。そして、
「それが『愛』なんだって、分かった。自分とは違う誰かと、求めて、与えて、互いに欠けたところを補い合う。そういう関係性から自然と生まれてくるものが、きっと愛っていう感情なんだ。だからこそ俺たちは人と惹かれあう。アンタが、アイとそうなったのと同じに」
だからこそ、アクアはここにいる。アクアがこうして自らの身を彼の前へと晒したのは、彼を消すためではない。そして終わらせるためでもない。寧ろ、逆だ。
「だったら、アンタだって人間だ。ただの、どこにでもいる一人の人間だ。『特別』でなんか、ありはしない」
決然とそう告げて、アクアは瞑目する。
「それで、よかったんだ。俺にとっても、アンタにとっても。……だって、最初は思わなかったわけじゃないんだ」
過去を、反芻した。
己の父親が、神木輝という男が、あの東京ドームの日よりこの方続けていた悪行を知った、いつかの夜のことを。
その時に、ほんの一瞬頭を擡げた思いのことを。
「もしアンタが、本当に救いようのない『怪物』なんだとしたら。アンタが背負った因縁も歪みも、アンタという存在自体も、全部俺が抱きかかえて、
反応したのは、大輝の方だった。「アクア、お前」、そう掠れた声で漏らした彼の方を、アクアは一瞥する。
理解していた。この思考がどれほどに独り善がりなものであったのかを。今の言葉を聞いて怒りを抱かない人間など、アクアの周りにはいないであろうことも。
「それでも構わない。そうすることで俺の命に意味を持たせられるのなら、それもありなんだろうって。アイのために。ルビーのためにも」
しかしこれもまた、偽りのない星野アクアの内心の吐露だった。アクアの中にずっと積もっていた、それは負い目にも似た意識だった。
どこか心の奥底で、「正しくない」と思っていたから。母親を殺して産声を上げた雨宮吾郎に飽き足らず、一度ならず二度までも、性懲りもなく己がこの世に生を享けてしまったこと、それ自体が。
ならばそんな自分が、世界の中の異物が消えてなくなる分には、誰も困りはしないだろうと。それはつまり、一種の破滅願望だった。
それほどまでに、アクアは彼と、神木輝と同じだ。同じものを、無意識のうちに抱えていたのだ。
彼とアクアとの違いは、ただその衝動の向き先だけだった。
「でも、違う。それじゃダメなんだ」
だからアクアは、そうきっぱりと言い切る。
思い浮かべたのは、『夢』のことだった。あの光と薄靄の空間の中で、真白の少女――ツクヨミが喝破したことを、あるいは指弾したことを想起する。
そうすれば、自然と次の言葉が浮かび上がった。
「だって。命そのものに、生まれてきたことに、意味なんてない。与えるべきでもない」
ほんの少し、顔を上げる。大輝の方に、視線を合わせた。
「けど、生きていくことにはある。だからそれを俺たちは、多分一生かけて探すんだ。意味を持たせるんだ。それが出来る俺たちには、その義務がある」
つまりそれが、アクアにとっての学びだった。「使命」を果たそうとがむしゃらに走り続けた十五年の歳月の中、出会った全ての人との触れ合いから、アクアに最後に得た結論だった。
そして、だからこそ今、アクアはここにいる。
大輝と二人、互いに頷いて、そして今一度、アクアは輝の方へと視線を落とす。
地面に伏せ、へばりついている、後ろ手に拘束されていない方の彼の手の甲に、アクアはそっと、己の手を重ねた。
冬の寒風に晒され、冷え切った男の乾いた手の感触を、掌の中に覚える。
振り払うように、それでいて抱え込むように、アクアはその場所から再び言葉を投げかけた。
「アンタもだ、それは。ここでは終わらせない。終わらせるわけにはいかない。アンタだって、責任は取らなくちゃいけないんだ。神木輝」
瞳を、覗きこむ。夜色の瞳の奥に、僅かな光を、アクアは見た。
「だから俺は、ここに来た。アンタがここに来ることに賭けたんだ。『化け物』のふりなんてやめて、ただの『神木輝』になって」
首を振る。輝の手の上に載せているばかりだった手に、力が入った。
「信じたんだ、俺は。アンタがそうあれるなら、まだ届く。まだ、間に合うんだって。俺も、アンタも。……アイも」
口にしたそれは、絞り出すような響きを伴いながら、アクアの覗きこむ先に見えた宵闇の色の瞳を、僅かに揺らした。
そして今、夜の闇と静寂が降り立ったこの空間の中に、遠くから鳴り響くサイレンが聞こえはじめる。
事前に取り決めた手筈の通りに、アクアが刺されたことを見届けたタイミングで大輝が打電した一一〇番によって駆け付けた、パトカーの発する音だった。
そこから暫くの後、この場に小走りでやってきた警官に向けて、アクアと大輝は軽く事情を話す。
地面に落ちている凶器――ナイフについても示せば、彼らは納得の上で、大輝が取り押さえている輝の身柄を、現行犯として確保した。
彼ら警官に引っ立てられゆく神木輝に向かって、その去り際に、アクアは声をかける。
「神木輝」
呼び止められた輝が、立ち止まる。
「何だい? もう、話すことはないと思うけど」
慮って歩調を合わせた二人の警官の間で、彼は振り返った。
その顔に、訝る視線に、アクアは首を振る。
「いや。まだ、ある。一つだけ」
静止した二人の間を、身を切る夜風が吹き抜ける。
それが通り過ぎるのを待って、アクアは口を開いた。
「アンタがどう思っているかは、知らないけど。それでもまだ、アンタは終わってなんてない。取り返しはつく。最低でも、俺はそう思ってる」
彼はそれに、反応を示さない。アクアの言葉をどう受け止めているのかは、分からない。
けれどもこれは、言わなければならないことだった。
自分の望みでもあり、そして他でもないアイが、願ったことでもあったから。
「だからこれ以上、自分に嘘をつくなんてバカなことはやめろ。本当に、取り返しがつかなくなる前に。……俺は、アンタに終わってほしいわけじゃないんだ。母さんだって、そう思ってる」
神木輝が、目を閉じた。見れば、唇が僅かに歪んでいる。
「甘いね、君は。また僕が、同じようなことを繰り返すとは思わないのかい?」
皮肉な響きだった。今日起こった全てへの、意趣返しの言葉にも思えた。
嘲笑っているかの、ような。
だとしたら、彼が嘲笑っているのは誰なのだろうか。アクアか、アイか、それとも輝自身か。
あるいは、その全てなのだろうか。
「そう、かもしれない」
そこに込められた真意を、やはりアクアは読み取れない。結局最後まで、神木輝という人間の奥底を理解することは、アクアには出来なかったような気がする。
けれども同時に、それがアクアの為すべき何かを左右することは、もはやなかった。
「でも、そうはさせない。もう二度と、アンタには」
何故なら、既にアクアは動き始めているからだ。何をすべきかを、とうの昔に知っているからだ。
神木輝を「始末」することもなく、そのために己の身を犠牲にすることもなく、それでもアクアの周りにいる遍く人々が未来における安寧を得るための、たった一つの答え。
その成就のために必要なのは、『戻るべき場所』だ。全てが終わったそのあとの、神木輝にとっての
それをどこに求めるかの答えもまた、アクアは既に得ていた。
想起する。自らの脳裏に、一人の人物の姿を浮かび上がらせた。
アクアと、そして大輝の、共通の知り合い。
姫川愛梨のことを、そして神木輝のことで、決して表に出すことのない後悔を内包している、あの男のことを。
つまりアクアは、信じているのだ。
過去は決して取り戻せずとも、その上に今を作り出すことはできる。それは、誰にとっても同じだ。
アクアにしても、輝にしても、アイにしても。そして、『彼』にしても。
だから今この場において、アクアは敢えて、輝に告げた。
「『あなた』にしてやれる、最初で最後の『親孝行』だよ、これは。息子としての」
今日、初めて目を見開いて、当惑した様子を見せた彼に向かって、アクアの表情は今、自ずと笑みさえも象っていた。
「そうだろ――『父さん』」
それに、神木輝は答えなかった。
黙したままに俯き、しかしすぐに振り返っていたその顔を正面に向けて、警官の促すままにパトカーの中へと連れ込まれていった。
結局、アクアの言葉に彼が見せたであろう表情は、最後までアクアの方から窺い知ることが出来なかった。
「……なあ、アクア。よかったのか、これで」
輝を乗せ、この場から去ってゆくパトカーを眺めながら、大輝がアクアにそう、短く問う。
アクアはそれに、小さく笑った。そのまま、天を仰ぐ。
「よかったんだよ、これで」
言い切って、後ろを振り返った。
そこには、通報によって駆け付けた警官のうち、残り二人ほどが別のパトカーを伴って立っている。
理由など、言うまでもない。この場で起きたことについて、彼らはアクアたちに事情聴取を求めていた。
「そういうわけだから。……俺たちも、最後の一仕事、しにいくか」
大輝に目配せして、アクアはそちらの方へと歩き出す。
今日という日も、この夜も、終わったわけでは決してない。
果たさねばならぬ責任も、会わねばならない相手も、アクアにはまだ、残っていた。
以下、本エピソードを書くに至った考察なので、不要な人は読み飛ばしてください。
カミキヒカルと言う人間が、一体なんであったのか。
原作においてはそれに明確な答えは示されませんでした。なのでここに関してはそれを読んだ人間の数だけ答えが存在するものなのだと考えています。
そして拙作においては、このような答えとなりました。
つまり、「原作のカミキが決定的に狂ったのはアイを殺せてしまったから」、という解釈です。
なので本作においては、ツクヨミ曰くの「壊れた魂」にまではなりきっていない、怪物にまでは変貌しきらなかった、としています。
それと、カミキヒカルがアクアにダイレクトアタックした理由について。
原作におけるカミキがそういうことをするタマかどうかという疑問もあるでしょうが、一応ですが、それに対する根拠と言うべきものはあります。
原作においても彼は単なる教唆犯というわけではなさそうな素振りを見せていました。ルビーとの一幕です。
あの瞬間、あかねが止めに入らなかったらカミキがどういう行動に出ていたかは解釈の余地がありますが、ただ最低でもあのシーンがある以上、カミキは絶対に自分の手を汚すことはない、とまでは言えないのではないかと考えたことが、今回の構想に繋がっています。
更にあの瞬間、カミキの瞳がいつもの黒ではなく白い星を宿していたことも、今回のカミキの動機やアクアの結論に対する着想の元となっています。