三年間しかない高校生としての生活の中で二度も警察の厄介になるとは、全くもって数奇な経験と言うべきなのだろう。
最低でもアクアにとっては、それは想像すらもしていないことだった。自分の持っていた計画のことを考えれば、最低一度は想定していなければならなかったことは、確かなのだろうけれども。
ただもっとも、そのどちらにしろ、アクア自身にとりたてて咎というものがあったわけではない。
一度目は、自殺を図ろうとした少女を救った者としての、簡易的な前後の事情の確認を。
そして二度目の今回は、言うまでもなく「つい先刻起こった殺人未遂事件の被害者」としての事情聴取を、アクアは受けることになっていた。
『一度目』と全く同じく、アクアに対する聴取そのものはそう時間をかけることなく、かつスムーズに終わった。
いや、それは厳密には正しくない。そこには、「たった一つの問いを除いて」という但し書きをつけねばならなかった。
「刺されるに至る心当たりはあったか」。あるいは、「何故防刃ベストなどというものを着てわざわざあの場所に出向いたのか」。
警官からすれば当然にも思えるその問いは、しかしアクアにとっては決して避け得ない決断を、伴うものだ。
これまでのアクアであれば、そこには尋常ではない覚悟が求められていただろう。あるいは、「どうやって誤魔化すか」に頭を使うことになったかもしれない。
けれども、今この瞬間においては、
理由は単純だ。
その問いに答えるということはすなわち、「アクアと神木輝の父子関係を明かす」ことを、必然的に意味するからだった。
アクアは、基本的に警察という組織の口の堅さを信用していない。彼らに話した内容は、遅かれ早かれ世間の知ることになる。まさにアクアは前回、そういう警察のマスコミとの間の構造を使って黒川あかねの起死回生の策を練ったのだから、当然のことだろう。
そればかりではない。どのみちアクアが話さずとも、神木輝に対する取り調べの過程で、アクアと彼との間の真の関係は露呈する。神木輝にしたところで、その事実を敢えて伏せておくべき必然性など、どこにもないのだから。
そして世間にそれが知れ渡った時、彼らはまた一つの事実を、知ることになる。
「では母親はいったい誰なのか」という、当然の疑問に対する、答えというものを。
だからこそ、こんな事件が起きるのは、こんな事件を起こすのは、ルビーたちが東京ドーム公演を成功裏に終わらせ、その名声を確固たるものにしたあとでなければ、ならなかったのだ。
アクアがそれを許容できる最低限の条件を、整えるために。
「ここまでの全てに意味があった」というのは、そういう細かな前提条件の積み重ねをも、含めてのことだった。
糸のような細い細い一本道を、その可能性を繋いで、アクアは今、ここにいる。
取調室の中、警官とやり取りを重ねていく裏で、アクアは改めて、そのことを意識していた。
そこから、数十分。
聴取そのものが早く終わったとはいえ、そもそも署にやってきた時間そのものが遅かったからか、アクアが警察署より外に出るころには、夜はもうとっくに更けていた。
日付こそ変わってはいないが、遅い時間であることに変わりはない。
そして今回もまた、そんなアクアの迎えにやってきたのは、彼女だった。
「あなたも、つくづくよね」
呆れたような言葉遣いで、けれどもそこにはどこか安堵の情のようなものさえも、含まれているようで。
署での用事を全て済ませて、首尾よく大輝と別れたアクアの前に顕れたその女性――斉藤ミヤコが、ため息交じりの言葉を発する。
「申し訳ないです、ミヤコさん。またこんな形で、お手を煩わせることになって」
会釈がてらに発したアクアの答えに返ってきたのは、無言のうちの否定だった。
ふるふると首を振り、ミヤコが少しばかり、その表情を緩める。
「いいのよ、それは。あなたが無事なことが、一番なんだから。みんなにとって」
「……そう、ですね」
正しくそれに答える術を持たず、向けられた琥珀色の双眸から逃げるように目を逸らした。
しかしそこで、濁すように口にしたアクアの肩が、不意に温もりを覚える。
薄く、仄かに薫る、香水の匂いも。
思わず、息を呑む。
軽く、本当に軽く、アクアは目の前の女性に、ミヤコに抱きしめられていた。
「……よく、頑張ったわね」
アクアの肩を抱くようにして、ただそう一言だけ呟いたミヤコが、そのままぽんと、背中を軽く叩いてくる。
「それじゃ、帰りましょうか」
今一度ばかり目が合って、しかしすぐに、彼女はその身を翻した。
向かう先は、車だ。アクアを迎え、そして送り届けるための、いつものあの黒いミニバンだった。
それからのミヤコは、どこまでもいつも通りだった。
明日の予定はどうなのか、であるとか。
そもそも今日、夕飯は食べたのかとか。
そうでないのなら、ウチに寄っていかないか、であるとか。
どこまでも日常の延長線のように思えるそれの中に、彼女の意図を、配慮を、感じ取る。
今日あったことを、その何もかもを聞こうとしない今のミヤコの在り方は、アクアには本当に、無性に有難かった。
何故なら、まだ終わっていないからだ。
今日という日の締めくくりに、アクアには会わなければいけない相手がいた。会って、話さなければいけない相手がいた。
そうしなければ、何も終わらなかった。
その相手は、その『彼女』は、アクアがこれから帰ろうとしている場所に、家の中にいる。
「じゃあ、おやすみなさい。明日、またよろしくね」
「こちらこそ。今日はご迷惑おかけしました。明日、またよろしくお願いします」
いつもと何も変わらない、ありきたりな別れの言葉を交わして、車から降りる。
ここはアクアたちの住むマンションに備え付けられている、地下駐車場だ。ここから自室へと戻るためには、そこからエレベーターで一度ロビーに上がり、オートロックのキーレスエントリーを通過してから、居住エリアのエレベーターに乗り継ぐことになる。
走り去ってゆくミヤコの車を見届け、エレベーターで階上に上がる。
夜も遅くなったマンションのロビーには、誰の姿もない。いや、そのはずだった。
けれどもアクアはそこで、オートロックのドアを開けたすぐそこの場所で、一人の女性の姿を目にした。
夜のさなかにも煌々と、電球色の灯りが照らし出しているロビーの真ん中で、丸縁の大きな眼鏡をかけ、黒い野球帽を被って、それでも決して誤魔化せるはずのない輝く黒の髪が、光を湛えて僅かに揺れている。
立ち止まる。目が合った。椅子に腰掛けていたその彼女が、ゆっくりと立ち上がる。
帽子を外し、眼鏡も取り払って、その奥に眩い煌めきを放つ紫水晶の双眸が、アクアのことを捉えた。
足を、踏み出すことができない。だから代わりに、距離を詰めてきたのは彼女――アイの方だった。
二人だけの世界の中、大理石の床を叩く足音が、虚空の中に響き渡る。かつん、かつんと。
距離にして、十五歩ほど。それをたっぷり、一歩に一秒ほどのゆっくりとしたテンポで詰め切ったアイが、ほど近くの間合いから、アクアのことを見上げた。
「……母、さん」
すぐそばにまでやってきた彼女へと向かって、やっとのことで、アクアは声を絞り出す。いずれ口を開くであろう彼女に先んじて、言わなければならないことがあったからだ。
「ごめん、母さん」
それはつまり、謝罪の言葉だった。
ずっと言わなければならないと思い続けて、それでも決着の日がやってくるまで、その日を生き延びるまで言うことのできなかった、懺悔だった。
「俺には、こういうやり方しか浮かばなかった。『輝のことを救ってあげてほしい』って言う、あの約束」
言葉の通りだ。結局アクアは、神木輝のことを『正しいやり方』であるべき道に戻す方法を、考えられなかった。
誰にも迷惑をかけることなく、言葉だけで、思いをぶつけるだけで、説き伏せるだけで、そんな無形の力だけで神木輝をある種『改心』させられるほどの能力を、アクアは持っていなかった。
だからそれを、アクアはアイに謝りたいと思っていた。謝らなければならないと。
無論、アクアは自分自身の選択を後悔するつもりは、一つとしてないけれども。
けれども今、そうやって自らに詫びてみせたアクアに対して、アイは首を横に振る。
僅かに俯き、伏せた視線で、ポツリと声が返ってきた。
「いいんだよ、そんなの。アクアが無事なら、それで」
――でもね。
言って、アイは顔を上げた。
「そんなこと、言ってほしいわけじゃないな、アクアには」
なおも強い輝きを放つその瞳が、真っすぐにアクアにぶつけられる。
それだけではない。彼女の声もまた、視線と同じほどの力を、そして質量を帯びて、アクアのことを打ち据えた。
今度はアクアの方が、アイから視線を外す番だった。
分かっていたのだ。彼女が本当は、何を求めてここにいるのか。
こうして、アクアのことを出迎えようとしたのか。
自分が言おうとしていたものではない、彼女が望む言葉が、なんであるかなど。
けれどもすぐさまにそれを言えなかったのは、結局アクアの中で、心の中の整理がまだついていなかったからだ。自分自身を、納得させられなかったからだ。
十五年にわたって続いてきた旅路に、一先ずの終止符を打つことに。
けれども、もう潮時だろう。
「……分かってる」
ほんの少しの逡巡がアクアの右手を何度か開け閉めさせて、それでもそこで呼吸を一度、アクアは口を開く。
「ごめん。ずっと、隠してて。今日も、嘘をついて」
アイは、答えない。ただ正面からアクアのことを見つめて、無言のままに先を促していた。
「だけど、これで。……まだ全部が終わったわけじゃない、けど。でも、とりあえず、何とか、片はつけたから。だから」
目を閉じる。だから、と口の中でもう一度繰り返して、またひとたび息を吸い、吐いてから、アクアは改めて、母のことを、アイのことを見る。
そして、言った。
「――ただいま」
その瞬間、アイの纏っていた空気が、和らぐ。
いや、違う。崩れていた。それを知覚するよりほんの少しだけ早く、アイが二人の間にあった最後の距離を詰めて、アクアに飛びついた。
小柄な体で、細い腕で、それでもアクアのことを抱きしめる。アイの顔がアクアの胸に押し付けられて、そこから発されたくぐもった声が、アクアの脳裏さえも揺さぶった。
「……うん。うん……!」
まるでアクアの存在そのものを確かめるかのような抱擁を経て、アイが顔を上げる。
至近の場所から見えた、誰もが息を忘れるほどの美貌にアクアが言葉を失くす中で、彼女は笑った。柔らかく、温かく、しかし涙さえ湛えているような瞳を内包して、確かに笑った。
「おかえり、アクア……っ!」
彼女の言葉に、アクアは自覚する。そうか、と。
確かに今、自分は帰ってきたのだと。帰ってくることが出来たのだと。
星野アクアの、帰るべき場所に。
次の日、ほとんど速報のような形で、世間は一つのニュースを知った。
「俳優兼タレントのアクア氏(18)、殺人未遂事件の被害者となる。加害者は自称会社経営者の三十代の男」。当人が著名人ではないこと、そして殺人未遂事件とはいえ、アクアの身体に直接的な被害が生じなかったことを踏まえてか、匿名での容疑者報道となった事件の発覚と時を同じくして、映画『15年の嘘』のプレミア試写会が始まる。
ある種事件の存在そのものが宣伝となり、ネットの世界を幾分か賑わせることになった今回の上映会は、この映画を初めて見る一般の観客たちだけでなく、零号試写や初号試写を見た関係者に対しても、ある種の衝撃を与えることになる。
『違ったのだ』。
何がか。「内容が」である。
アクアは今回の試写会に当たっても、一つの仕込みをしていた。
寧ろそれは、どちらかと言えば保険だったのかもしれない。
つまるところアクアは、今日の試写を担当する試写室の運営側に対して二本のフィルムを渡していた。「当日までどちらを映すかを議論するため」という建て付けでである。
しかしその実、アクアの中でその二つのフィルムのどちらを上映するかの基準は、最初から決まっていた。そしてそれは、既に五反田監督に対しては共有されていた。
一つは、初号試写までのものと同一のフィルム。
そしてもう一つは、前者のフィルムから敢えて確保されているシーンごとの余計な尺を五秒前後削り、捻出された合計三分間ほどの余白に、『新規カット』を挿入した、新しいフィルムだ。
そのほとんどは、アイの中の回想として作られている。台詞もなく、独白も会話もない。
過去のフラッシュバックと、それに対してアイが示す無言の反応だけで構成されていた。
病気療養に入る、その前夜に。
きゅんぱんが振られた彼氏――というよりも元カレの愚痴を、アイに対してぶちまけているさなかに。
あるいはアクアを、そしてルビーを、見るたびに。
金糸の髪の少年の姿を。
振り返る彼の表情を。
彼のもとを去っていく、自分自身のことを。
アイは絶えず、振り返る。
これらのカットの存在は、それだけでは決して理解できるものではない。脈絡もなく差し込まれた、「よく分からない他人」のエピソードでしかない。
それでも今、この瞬間においては、確かな意味を持っていた。
つまりこのバージョンのフィルムは、「試写上映会よりも前に神木輝がアクアに対してアクションを起こした場合」に、上映されることになるものだった。
神木輝の存在が世間に知られ、そして彼とアクアとの、あるいは彼とアイとの関係性が、下世話な週刊誌の類によって世間に対して引きずり出されるより前に、謂わば「先制攻撃」として世に放つべく作られた、そういう映像だった。
まさしく、荒業だった。こればかりは、アクアがアクアだからこそ、アクアの立場にいるからこそ、押すことのできた横車だった。
「五反田監督の直弟子」という立場を基に、助監督として、フィルムの編集権限を持っていたこと。
そして、そういう立ち位置でありながらも、俳優として演技をするのに必要な最低限の技能を持っていること。
商業映画のスキームに乗っていながら、キャスティングやスタッフの選定には監督の意思が大きく作用する、そういう自主制作映画のような性質を『15年の嘘』が持ち合わせていたこともまた、追い風だった。
つまり追加部分のカットの撮影については、そのほぼ全てをアクア自身と、そして五反田監督の二人だけで行った。
撮った場所も、そのほとんどが五反田監督のスタジオだ。そして金髪の少年――神木輝の少年時代を演じたのは、他でもないアクアである。
けれども唯一、アクアと五反田監督以外にこのカットの存在を認識している人間がいた。
言うまでもない。回想の前後に僅かに差し込まれる数秒間の新規カットを撮る対象たる、アイ役の役者だ。すなわち、黒川あかねだった。
そういう意味では、あかねがアクアのしようとしていることを薄々、それこそアクアの話していなかった部分まで感じ取っていた節がある理由は、ここにこそあったのだろうと、今更ながらに思う。
採用するか分からないカットの撮影など映画制作はおろか映像制作の世界においてはよくあることではあれど、あかねほどの人間の聡明さをもってすれば、今自分が撮っている、撮られている映像がいったい何のために作られているものなのか、その意図を推し量ることは、きっと難しくはなかったのだろうから。
そういう意味でも、やはりアクアはあの少女に、あかねに、数えきれない恩を受けている。
その清算は遠くないうちに果たさなければならないことを、アクアは当然に理解していた。
けれども、それにはほんのあと少しだけ、時間が必要だった。
その前に、アクアにはやらなければならないことが、まだいくつか残っていたからだった。
この日のプレミア上映会後の記者会見は、ある種の予定調和のままに推移した。
精々が、前日に起こった刃傷沙汰の被害者にアクアがなったことに対する、その身を案じる質問がいくつかのテレビ局や新聞社の類から出てきたぐらいで、それにしてもアクア本人がその場に五体満足の姿で現れ、健在ぶりをアピールすれば、すぐさまに納得されるようなものでしかなかった。
新規カットの部分や、その意図についても、当日の会見においては直接の言及はしなかった。それをするには、まだ機は熟していなかったからだ。
そういったものの全てを明らかにするのは、もう少しだけ未来のことである。
その、次の日のこと。
アクアは隣の一人の女性を連れ立って、都心から離れたとある片田舎にやってきていた。
「なっつかしいなぁ、ここ!」
「お忍び」の形で外へと出るときのお馴染みの格好、黒の野球帽に丸縁の伊達眼鏡をかけた彼女が、思わずと言った様子で声を上げた。
「ほんと、この辺りなんもないんだよねぇ。『施設のこと』があってもなくても、飛び出しちゃってたかも、私。つまんな過ぎてさ」
――そう思わない?
首を傾げ、上目遣いに、どこか無邪気に訊ねてくるのは、母だ。アイだった。
アクアが、果たさなければならない責任。やり残していたこと。
その中の一つが、ここにある。
彼女が「懐かしい」と言った、この場所。
その意味は、そこからあまり時を置くことなく、誰の目にもわかる形で現出することになった。
遠景に山を望む、寂れた一軒の日本家屋。
どこか、自身の記憶の中に鎮座するあの廃屋――雨宮吾郎の生家さえ思い起こさせるその佇まいの前で、アクアは呼び鈴を鳴らした。
そのまま待っていれば、門扉の向こう、玄関扉の引き戸の奥から、人の気配が、足音が聞こえる。
「はい、ただいま」
程なくして開いた玄関の、その間に覗いた一人の女性が、アクアを、そして隣にいるアイのことを、捉えた。
瞬間、彼女の動きが止まる。世界さえ、静止してしまったように。
目を見開き、口が震え、引き戸にかけていた手が、自らの口元にかざされた。
アポなしで来ているわけではない。サプライズで彼女を、アイをこの場に引き連れたわけでもない。
それでも『彼女』がそんな反応を示すのは、それほどまでに自分の見ている景色が、対面している相手がこの場にやってくることが、信じられなかったから、なのだろうか。
そんな彼女のことを前にして、アクアの隣にいる母は、アイは、ほんの少しだけ相好を崩す。
「何年ぶりかな」
いつもの通りの声で、それでも少しだけ硬さのあって、けれども内側に確かな音頭を宿した声音で、彼女は口火を切った。
そして、言う。
「久しぶりだね、
彼女の言葉の通りだ。
アイの目の前にいる女性は、この家の主の名前は、『星野あゆみ』。
アイの、星野アイの、たった一人の実母に、他ならなかった。
星野あゆみという女性が、どういう人間であるのか。
アクアはそれを、既に知っている。今日よりもはるか前、それこそ一年以上も前のことだ。
アイが、児童養護施設に入所していた理由。そしてそこから脱走した理由。その全ては壱護社長から得た情報ではあったものの、同時にその詳しいところを、アクアは別のアプローチからも知ろうとした。無論、それは映画のためだ。
そのためにかつて訪れたのが、この場所だった。壱護社長から聞き出した「アイの母親」の居住地に関する情報からダメ元で訪れたこの場所には、一年前も、そして今もなお、彼女が一人で住んでいた。
だからアクアにとって、この場所にやってくるのは二度目なのだ。
彼女の言葉を聞く、その機会も、また。
けれども今ここには、もう一人の女性がいる。
その彼女――すなわち星野アイと、居間の卓袱台を挟んで対面するあゆみは、言葉の一切を失った面持ちで、今もアイと見合っている。
全員の囲む四角いその机の上に載っているお茶からは湯気が立ち上って、けれども誰一人として手を付けようとはしない。
その中で今、この寂れた家屋の部屋の中に降り積もる重い重い沈黙を掻き分けるように初めに声を上げたのは、やはりと言うべきか、アイの方だった。
「あのね」
口火を切って、しかし一瞬だけ、逡巡する素振りを見せる。けれどもそれはほんの少しの間のことで、そこで改めて彼女は、居住まいを正した。
「あのね、お母さん」
呼びかける。顔を上げたあゆみのことを、アイは真っすぐに見た。
「知ってると思うけど。私、アイドルになったんだよ」
訥々とした言葉だった。まるで口にすべき何かを、探り続けているような。
「……それは、まあ。知ってるわよ」
「……そっか。そうだよね、当たり前か」
どこまでも、ぎこちない会話だった。どこかバツが悪そうに、アイは自らの頬を掻く。
今、アクアの横で真っすぐに視線を向け立っている二人は、こう見ると確かに親子であると思わされる。
アイの容貌の美しさは誰の目にも明らかなことだったが、その対面に座るあゆみもまた、「過去の彼女は間違いなく美しい女性だったのであろう」と思わせるだけの残り香を、その顔の上に残していた。
その頭髪の中、白髪の支配する部分が多いほどに、彼女はもう歳を重ねているはずなのに。
その彼女が、歩みが、ふっと視線を逸らす。この居間の奥、床の間近くの飾り棚の中に置かれている、小さな板状の何かを。
釣られてアクアが、そしてアイもまたそちらへと目を向ければ、その正体がなんであるかは、すぐに分かった。
「あっ……」
アクアは隣で、アイが声を上げるのを聞く。
そこにあったのは、CDジャケットだった。
かつてのアイの、アイドルであったアイの、B小町として出したCDアルバムの中の、一つだった。
「そうよ。知ってたわ、あなたがずっと、テレビの向こうで頑張っていたことだって。……分かってたのよ、ずっと」
声が、聞こえる。正面を向き、あゆみの方へとまた目線を戻したアクアたちを尻目に、しかしあゆみは未だ、その飾り棚の上にあるものを見据えたままだ。
「会えるのなら、会いたかった。もう一度会って、あなたに」
身体が、向き直る、アイの方へと、視線が戻った。
けれどもそれも束の間のこと、あゆみは目を伏せる。目の前に座るアイから、逃げるように。
「……でも、出来るわけないじゃない。最初にあなたを裏切ったのは、私の方なのに」
震える声で言葉を重ね続ける彼女に、アクアは過去のことを思い出す。
初めてこの場にやってきたときのこと。映画「15年の嘘」の取材のためだと理由を付けて、星野アイの母親――すなわち自分の祖母に当たる人物の顔を拝みに行った、その日の話だ。
――今更、どの面下げてあの子に会えばいいのよ、私は。
「星野アイの息子」だと名乗り、己の母の過去にまつわるあれこれを聞き出したそのさなかに、彼女――星野あゆみは、そう自嘲してみせた。
なぜ、アイは養護施設に入っていたのか。
それが保護者たる星野あゆみが窃盗罪で警察に捕まり、アイにとっての監護者がいなくなったことによるものだという話は、聞いていた。壱護社長からである。
しかしそのそもそもの発端がなんであったかは、星野あゆみこそがアクアに説いた。
およそこの世のものとは思えないほどに美しく育ってゆく娘。
その娘に対して、あろうことか色目さえ使い始めた、内縁の夫――というより、当時交際関係にあった男性。
その悍ましさと拒絶感は、男だけでなく、アイにさえ向けられた。
自らが腹を痛めて産んだたった一人の娘であるというのに、いっそぞっとするほどに美しくなってゆく娘の姿が、恐ろしかった。嫉妬してさえいた。まだ齢も十を数えないような、幼い一人娘に。
だから星野あゆみが窃盗を犯すよりはるか前に、アイの、あるいはあゆみの家庭は破綻していた。
あゆみからは、直接的な虐待が始まった。
そして彼女と交際関係にあった男からにしても、もはやいつ『性的虐待』が始まってもおかしくなかったのだ。
「愛していなかったわけじゃない」。そう、彼女は言った。「たった一人の娘なのに、愛していないわけがない」と。
しかし、きっとそれを貫徹できるほどに、星野あゆみは強くなかったのだ。
だから彼女は投げ出した。逃げたのだ。アイのことを見捨て、そしてアイもまた、彼女のことを割り切ってしまった。
「あの子に会っても、あの子が不幸になるだけ」だと。
「今更なのよ、もう。何もかも」、と。
そうやって、星野あゆみはもう、とっくに諦めていた。
しかし、違う。アクアは、そうは思わない。
だからこそ、アイを今日、ここへと連れてきた。
そしてアイもまた、アクアの意図を理解した上で、この場へとやってきていた。
「お母さんさ」
続いていた沈黙を、アイが破る。顔を上げたあゆみに向かって、ぎこちなく、それでも着実に、彼女は一つ一つ言葉を重ね始めた。
「私ね。なんでもかんでもうまくいったわけじゃないよ。アイドルになってからも、イヤだなぁって思うことはたくさんあったし」
言葉は、返ってこない。身動ぎすらもない。あゆみはただ黙って、アイの言うことを聞いている。
「正直ね、子どもが出来ちゃったのも、そうだった。十五歳で子どもなんて、普通あり得ないよね。お母さんに言ったらまたなんか言われそうだなって、思ったりもしたよ」
――でもね。
アイの視線が、アクアに向く。
そこにあったのは、吃驚するほどに穏やかで、そして慈しみの色を宿した、『母の笑顔』だった。
「でもね、お母さん。私、『お母さん』になったよ」
発されたそのセリフに、あゆみが息を呑む。
彼女の視線もまた、アイの隣、アクアの方へと向けられていた。
「ちゃんとしたお母さんをやれてたかっていうと、分かんないんだけどさ。……でも、十八歳になったんだよ。大人に、なったんだよ。アクアも、ルビーも」
その言葉と共に、もう一度送られてきた視線に、アクアは理解する。
何故今、このタイミングで、アイはあゆみと会うことに決めたのか。
待っていたのだ。アクアのことを。アクアが、全てを終わらせるのを。
そうすることで初めて、アイはアクアたちのことを「自らの子供」としてあゆみに紹介できるのだと、紹介するのだと、きっと決心していたのだろう。
「だからさ」
その真意は、たった一つ。
「
大きく息を吸って放たれたその言葉こそが、アイにとってこの場にやってきた理由、そのものだったのだろう。
目を見開き、向けられたあゆみの視線を正面から受け止めながら、アイは自らが発する言葉を、決して止めない。
「許すとか、許さないとか、そういうんじゃないんだ。私が言えるような話かどうかも、分かんないし」
アイにとっての星野あゆみが本当のところなんであるのかは、本人にしか分からない。
最低でもアクアには分からないし、分かろうとも思わない。
でも今、なぜ彼女がここにいるのかは、分かった。
「でもね。もう私は、大人になったんだよ。十八歳の双子の子供のいる、お母さんなんだよ」
アイは今、自由になろうとしている。
そして同時に、母親のことを、あゆみのことを、自由にしようとしている。
「だからお母さんにはね、それを言いに来たんだ。つまり、なんて言うんだろう……そう」
自分の頭の中に言葉を探して、頬に指を当てながら考える素振りをして、そんないつも通りの、あどけなさすら感じさせる仕草を経て、彼女は今、頷いた。
「安心、してほしいかなって」
どこか自分自身の中で腑に落ちたような、そんな表情を浮かべながら、アイは自らの母親に向かって、そう告げた。
彼女はきっと、言おうとしたのだ。
自分はもう、ずっと昔に、あの日のことは割り切っている。ならば同じように、あなたもまた、過去のことからはもう解き放たれてよいのだと。
そのために、だから一度だけ、そうして生きてきた自分のことを、あゆみに対してアイは見せたかったのだろう。
そして今日この日、全てに対して決着がつきつつあるこの時に、アイはそんな自らの思い残しというものを、きっと片づけようとしていた。
自分自身も、そしてあゆみもまた、前へと進んでゆくために。
ならばきっとそれは、彼女にとって愛だ。
複雑に過ぎるであろう思いを抱えている自らの母親に対して、それでもアイが向けている、親という存在への愛情に、他ならないのだろう。
アイの言葉の全てを聞いて、対面に座るあゆみは今、もうすでにすっかりと冷めつつある湯呑を手に取り、そしてその中の茶を一度だけ啜った。
両手に包み込むそれに、その中の水面に、視線が落ちる。わずかに息を吐く音が、聞こえたような気がした。
「謝りたかったのよ」
ぽつり、と、声が落ちる。
「ずっと、私はあなたに。弱くて、傷つけるばっかりで、だから私はあなたのことを、迎えにいけなくて。それがずっと、ずっと、気になって仕方がなくて」
伏せられた目は、決してアイには合わない。合わせる顔がないと、そう無言の中で主張しているかのようでさえあった。
「でももう、あなたは私と違う世界の人になったと思ってたから。今更何をって思って、でも、多分、きっと私はずっと」
そこで、口を噤む。けれどもそこに続く言葉を、アクアは理解していた。
――ずっと、苦しかった。
きっとそう言おうとして、けれどもその言葉さえ烏滸がましくて、彼女はそれを口にすることを、憚ったのだろう。
自分の弱さを、そして醜さを棚に上げて、アイが受けたであろう悲しみや苦しささえも押しのけて、そんな自分事を主張できるほど、星野あゆみという人間は図太くもなければ、恥知らずでもなかったのであろうから。
「そっか」
「だから。だから、言わせて。最後に」
被せるような言葉と共に、顔が上がる。前を向いた彼女の瞳は、表情は、それまでの茫洋としたつかみどころのなさを、力のなさを、脱していた。
そこには、明白な意思とも言うべきものが、確かに宿っていた。
背筋が伸びる。一つ大きく、息を吸う音がした。
真っすぐにアイのことを見て、あゆみは一度、その頭を垂れた。
「ごめんなさい。あの日、迎えに行けなかったこと。今までずっと、会わないようにしてたこと」
お母さん。そんなアイの呟きを聞いたのか、聞かなかったのか。あゆみがそこで、再びその顔を上げる。
「だけど。今日、会えてよかったわ。あなたからアクアくんのことを、孫のことを紹介してもらえるなんて、思ってなかったから」
「って言っても、アクアとはもう会ってたんでしょ?」
「そうだけど。それはそれ、これはこれよ」
アイのツッコミに返してみせる彼女の声には、どこか軽快さのようなものさえも、覗いて見える。
表情も、また然りだ。それまでの陰鬱としか言いようのなかった相貌に、明るさが宿りつつある。
口角もほんの少しだけ上がって、そうすればなおのこと、その容貌は自らの娘の、アイのそれに通ずるものを宿していると、アクアは思わされた。
「とにかく。……ありがとう。こんな私の為に、わざわざ来てくれて。おかげでちょっとだけ、肩の荷が下りた気がするわ」
「そっか。それは、なによりだね」
「でもまあ」
いつもの調子の、明るい声のままに、あゆみに向かって大きく頷いてみせたアイに、彼女はもう一言だけ、言葉をかける。
「もうちょっと贅沢を言うなら。……アクアくんだけじゃなくて、ルビーちゃんとも、会ってみたいわね」
そう口にしたあゆみの顔は、穏やかな微笑を湛えていた。
その顔は、いよいよ西の空に向かって傾きつつある陽光の山吹色に照らされて、輝きさえも放っていた。
和解か。あるいは、互いに過去を割り切ったと言うべきなのか。
いずれにせよそこから、二人和やかに続いたしばしの歓談の時を経て、アイとアクアの二人は、彼女の生家を、あゆみの住むあの家を後にする。
その最後、アクアたちを送り出すあゆみの見せた表情の中には名残惜しささえも宿っていて、それはきっと、アクアたちがこの場所にやってきた意味、そのものであったのだろう。
そんな自らの母親の姿を見るアイは、ならば果たして何を思ったのだろうか。
分からない。けれども、訊ねる気も起らなかった。
西日が夕日にさえ変わりつつある道の上を、アクアはアイと二人で歩く。
迎えの車がいるであろう駐車場は、ここからいくらか進んだ先にある。つまり今、この場にはただ二人しかいなかった。
ただ、アイとアクアの二人だけが、ここにはいた。
「やっぱりさ」
そして今、アイが声を上げる。
「変わってなかったよ、ここも。あの家も」
その足が、止まった。二歩、三歩ほど前に進んだところで同じように立ち止まり、振り返ったアクアに向けて、後ろ手に手を組んで、アイがふわりと笑む。
「でもね。変わったんだなって、思った。私も、お母さんも」
彼女の言葉の意味は、アクアもまた理解できる。
時間とは、すなわち薬だ。そういうことだった。
アイとあゆみの二人の間には確実に確執だってあったはずで、アイはあゆみにされたこと――虐待を受けていた記憶をきっと未だに持っている。
あゆみにしてもそうだ。彼女もまた、かつてのアイに持っていた穏やかならざる心情を、嫉妬さえ含んだその心情を、かつてアクアに向かって明かしていた。たった一年前のことである。
それでも今、アイがあゆみと別離し、その後彼女のことを迎えに来なかったあの日から二十年以上の時が経って、二人は今互いに、色眼鏡なしに互いを、人間としての
「だからね」
目の前に立つアイが、目を瞑った。心の中に何かを思い描くように。
そこで吹いた一際強い風になびく髪を右手で以て押さえながら、一つばかり、頷く。
そして、目を開いた。
口元に笑みが浮かんで、唇が、開かれた。
「だから。――ありがと、アクア」
細められた目が、耳に届く声が、アクアの心情さえも揺さぶる。
残照に照らされ、濃く長い影を背後に伸ばしながら、彼女は今どこまでも、あまりにも、美しく見えたから。
だから今、アクアもまた答える。
黙したままに首を振って、一歩アイの方に、足を踏み出す。
「俺の、方こそ」
思い起こすのは、彼女があゆみに向かって言ったこと。
――十八歳になったんだよ。大人になったんだよ。
「俺がここまで生きてこれたのは、こうしてやってこれたのは、あなたのおかげなんだ」
それは、星野アクアという人間がここまで生きてこれたことだけを表すのではない。
「そんな……私がいなくても、アクアは多分立派な大人になってたよ」
あゆみに向かって切った啖呵とは裏腹に、アイはアクアの言葉を否定しようとする。
自分が育てたわけではない。育てられたとは思わない、と。
――けれども、違う。違うのだ。
確かに親として、母親としてのアイが、どれほど模範的な「母親像」でいられたかと問われれば、随分と疑問が残るであろうことは間違いない。
自らの息子が、娘が、アクアとルビーが『とんでもない特殊例』であったという幸運が、アイを一廉の親たらしめていたという事実も、ありはするのだろう。
「そういうことじゃないんだ」
でも、違う。アクアの意図は、そこにはない。
きっと、アイには理解されることもないのだろう。理解してほしいとも思わない。
けれどもアクアは、
彼女を母とする意味が。
「あなたが、俺の母親で、本当によかった」
アクアにとって、アイは初めての母親だ。本当に、文字通りの意味で、そうだった。
概念しか知らない、実情を理解することもできなかった「母親」という言葉を、アクアはずっと持て余していた。現実感のある言葉として、それをずっと捉えられずにいた。
けれども、今なら分かる。それは、彼女が彼女であるからだ。星野アイが、母親であるからだ。
これまでの十八年の生を振り返って、彼女が探し求めていたものと同じ「愛」を追って、故にアクアは今、辿り着いた。
難しく考える必要なんて、なかった。
星野アクアにとって、星野アイとは母親だ。彼女のような存在を、人は母親と呼ぶのだ。
だったら自分にはもうとっくに、母親と呼ぶに相応しい存在がいたのだと。
「だから、やっと言える。もう一回」
何故なら、ずっとアクアは心の中に持っていたからだ。
そしてその言葉を、今こそアクアは、一つの嘘も疑いもなく、彼女に向かって伝えられる。
訪れる予感にだろうか、微かに瞳を揺らしながら、しかし強い輝きを湛えてアクアのことを見るアイに、自らの母親に、アクアは今、それを告げた。
「母さん。――俺も、
同時に最後の一歩を詰めて、目と鼻の先に立つアイのことを、アクアはゆっくりと抱き寄せた。
「――やっとだ。もう、疑ったりなんてしない。これは絶対、嘘じゃない」
目を閉じ、息を吸う。
鼻腔を満たす陽だまりの薫りが、腕の中にいるアイの存在を、アクアの胸に強く刻みつけた。
故に今この瞬間は、星野アイという人間の一つの終着地であると同時に、星野アクアにとってもまた、目指すべき場所だったのだろう。
けれども、ここもまた『終わり』ではない。むしろ、ここからが始まりだ。アイにも、そしてアクアにとっても。
そして――そのための謂わば「最後の儀式」の時が、やってこようとしている。
アクアと、ルビーと、そしてアイ。
三人の間の親子関係が世間に向けて明かされる、それは一週間ほど前のことだった。
次回、最終話――のはずだったのですが、二話に分割します。
明日、二話更新にて完結です。