2-1. 「会いたかった」
年月は、人を変える。それが子供であれば、尚更のことだ。星野ルビーは自らの兄である星野アクアのことを見て、つくづくそう思わされた。
あの日、ドームの日に起きたあの事件で、アクアは大ケガをした。本当に死んじゃうんじゃないかと、ルビーの方がパニックになってしまうようなケガを負った。そこから一年かけてどうにか元の生活に戻った兄は、きっと何かを心に決めたのだろう。
それからアクアは、彼が初めて出演した映画の監督を務めた五反田さんのところに、足繁く通うようになった。その理由は、一応アイもルビーも聞いている。
――俺は、役者になりたい。
強い決意を宿した目で、兄はそう言った。何が彼をそうさせたのか、ルビーにはわからない。それでもその意志は本物で、だからルビーはそんな兄のことを応援することにした。
やりたいことをしなければ、やりたいことができなければ、そんなものは「自分の人生」とは到底言えないのだから。それはちょうど、「アイドル」というものに焦がれている自分と同じように。
役者になると宣言してからのアクアは、為人も若干変わったような気がする。そんな印象を、ルビーは持っていた。
それまでは穏やかさと優しさが前面に出て、物腰も柔らかであったアクアは、少しだけクールになった。
いや、今でもアクアは優しい。ルビーと、そしてアイと接しているときのアクアの目元は優しい光を帯びていて、決して強く当たってくることはない。意地悪をされたこともない。
しかし時折彼の見せる表情の中に、ぞっとするほどの冷徹さを感じることがある。そんなことが、あの日以降増えた。
あれは、隠し事をしている人間の目だ。ルビーには分かる。正確には、自分の中に眠る前世の――天童寺さりなとしての記憶が、そう告げている。同じ位相で世界を見ているようで、実は見ていない。さりなの病状に対して、希望を与えるかのごとくの励ましの言葉をかけてきた主治医が、そして看護師たちも、同じような目をしていたから。
暴くべきかと考えた。危うさを感じないでもなかったから。一人で何かを抱えている兄のことが、気にならなかったといえば嘘になるから。嘘を吐かれるのは、嫌いだったから。
でも、ルビーはそうしないことにした。アイが言っていたんだ。「嘘も愛の一つの形なんだ」って。そしてそれは、多分間違ってない。だってアクアは、今まで一度もルビーを蔑ろにしたことなどなかったのだから。
そうだとも。もし仮にこの敬愛する兄が間違った方向に進みそうになったら、その時は止めればいい。ママだっているんだ。ミヤコさんだって、壱護さん……はあまり信用できないけど。
ともかく、だからそれまでは、ルビーはアクアのことを信じることにした。
そして、彼はそんな秘密を抱えたままに、どんどんと役者としての才能を開花させていく。
世間に対して「子役」の印象をあまりつけさせたくないとの監督さんの考えのもと、アクアは子供時代にはあまり表立った役どころに出演することはなかった。ネットドラマや低予算映画の端役に、ほんの少し舞台の子役を演じていたこともあったが、その程度だ。
しかしその全部を見ていたルビーには、そしてアイにもわかる。
――兄は、アクアは、ママに似ている。というより、歳を重ねるごとに、どんどんと似てきた。ルビーは成長していく自らの兄に対して、そんな印象を持っていた。
顔立ちという意味であれば、自分の方がよほど似ているだろう。しかしそういう話をしているのではない。
似ているのは、空気感だ。画面に出た瞬間に、その周囲をまるっと自分のテリトリーに塗り替えてしまうような、存在感だ。
ただ、ママ――アイに言わせれば、アクアと自分のそれはほんの少しだけ違うのだという。
――私は、「周りにどう自分を見せたいか」を考えてる。けどアクアはちょっと違ってね。「周りに、どう見られたいか」を考えてるんだと思う。
ほとんど同じなんだけどね、と笑ったアイはルビーにとってはやっぱり愛すべきママであって、ちょっと自分の中の『推す』心が暴走しかけてしまったけれど。
けれども、その話を聞いてもなお、アクアはアイとよく似ていると、ルビーとしては思わざるを得なかった。
事実、小学校に入って以降のアクアは基本的に学業を優先するようになって、役者としては端役にちょろちょろと出てくる程度で存在感などほとんどないに等しかったが、それでもネットの中にはそんなアクアに対するコアなファンが生まれてしまっているほどに、彼は一定数の人間の注目を集めていたのだから。そういう隠し切れない『何か』を、アクアもまた身に纏うようになっていたのだから。アイと同じように。
しかしそんなアクアの子役としての活躍は小学校三年生ごろまでのことで、高学年に入ってからの彼は演技の表舞台に立つことをきっぱりやめてしまっていた。
役者の道を断念したのかと言えばそうではなく、どうやら監督さんに言われたらしい。「世間に対して『子役』のイメージがついてしまうと、成長してもう一度売り出そうという段になってその印象がどうしてもついて回るからやめておけ」と。そういうことで、以降の彼は一度演技の舞台を降りて、監督さんの下で撮影や演出の技術――裏方のスキルを積むようになったのだという。これもまた、演者としての成長の糧になると言って。
そしてどうやら、彼はその方面でもめきめきと実力を伸ばしているらしい。丁稚感覚で、監督さんの撮影スタッフとして何度か現場に行ったりもしているというのだから、驚かされる。
我が兄ながらすごい熱量だと、ルビーは感心させられた。アイもそうみたいだった。
そうだ。アクアは人間として、役者として、成長している。自分と同じように「前世の自分」がいただろうに、それを乗り越えて、新たな生を生きているのだ。
――なら、私だって。
そう思う自分のことを、ルビーは浅ましいとは思わない。ルビーにだって、夢があるのだ。母と同じアイドルになって、母と同じ舞台に立つ。そしてその先で、
アイ自体は、もうアイドル活動をやめてしまって久しい。あの伝説のドームライブのあと、さらに一皮むけた彼女には個人の仕事が殺到し、B小町全体での活動はその時点ですでに限界に近くなっていた。そんなB小町を、メンバーの入れ替えこそあったものの以降二年ほど持たせたのは間違いなく壱護さんという敏腕プロデューサーの手腕の為せる業だったが、それであっても二年しか持たなかったのだ。その後女優、というかマルチタレントとして未だ活躍中のアイと、市場規模が急拡大中のネットタレント業界に対するプロデュースというのが現状の苺プロの収入の柱であって、かつてこの芸能事務所の花形であったアイドルプロデュースのための部門というのは、現時点においては完全なる開店休業の状態にあった。
ルビーの早い段階での芸能界入りを止めていたのは、基本的にはアクアだ。
アイのアイドル卒業をきっかけとしたB小町の解散からおよそ五年ほどが経った十一歳ごろのこと、ルビーは「自分もそろそろアイドルとしてデビューしたい」と主張した。なぜならアイは丁度そのぐらいの歳で、壱護さんにスカウトされてアイドルになっていたのだから。
しかしそれを止めたのが、ほかでもないアクアだった。
――お前がアイドルやりたいのはいい。応援する。けど今はダメだ。いくらなんでも、リスクが高すぎる。
アクアの脳裏に何が浮かんでいるのかは、ルビーにもわかる。アイドルとは夢を売る職業で、その夢に取りつかれてしまう狂気的なファンの存在を、無視はできない。「あの日」と同じようなことはもう二度と起きないようにしたいのだと、切に主張するアクアの言葉を、ルビーは無下になどできなかった。
それでも、己の夢に向かって着実に歩を進める兄に対して、それが許されていない自分の現状に不満を持つのは、人間としても妹としても当然のことだ。
「なら、いつならいいの?」
だからそう、頬を膨らませて言い立てたルビーに対して、アクアは少し頭を捻らせる。そしてその場で、食卓の向かいに座るアイに目配せをした。
しばしの沈黙ののちに、二人して頷く。なんか私を差し置いて無言で分かり合ってるのすごいズルい、とやや脱線したような考えをルビーが懐いている間に、アクアは考えをまとめたらしい。
「そうだな……俺たちが高校生になったら、でどうだ」
「高校生? 十五歳ってこと?」
アクアが頷く。
「そのころには、俺も役者業をもう一回始めるだろうし。丁度いいだろ、お前にとっても」
十五歳。丁度アイ――ママが私たちを妊娠したころだ。ルビーは想起する。
アイはその後、ルビーたちを産んでからの四年間で急速な躍進を遂げた。ルビーがその足跡を追うのであれば、確かに十五歳からでもギリギリ間に合う、と言えなくもない。
何せかつてとは違い、今の苺プロは少数精鋭とはいえ中堅どころぐらいの影響力を業界に持つ事務所なのだ。知名度のブーストは、アイの時よりも強い。
アクアもそういう考えのもとに、ルビーに対して提案をしていたらしい。
「まあ、俺も役者になるつもりだからさ、高校は芸能科のあるところにしようと思ってるんだ。で、東京で芸能科のある高校ってのは、一個しかない。『陽東高校』って言うらしいけど」
そこで一呼吸おいて、アクアは続ける。
「あそこの募集要項を見たら、芸能科受けるためには芸プロに所属してる必要があるんだよ。俺はまあ、子役時代の籍がそのままになってるから所属は苺プロで問題ない。けどルビーは今、特にどこの事務所にいるわけでもないだろ?」
ルビーが、無言で頷く。頷き返して、アクアはアイの方を向いた。
「だからそのタイミングで、壱護社長に頼んで苺プロと契約する。もう少し前でもいいかもしれないけどな。で、アイドル見習いやりながら、メンバー集めもするってので、どうだ。……母さん、どう思う」
ルビーもまたアクアのように、アイに視線を向ける。
そこには、ぽかんと口を半ば開いた、いまいち締まらない表情でアクアの方を見る、我が母の姿があった。
ほー。そんな感嘆の声が聞こえる。
「……なんか、すごいね。そんな計画、もう立ててるんだ」
やっぱウチの子やばいぐらいの天才だわ。
無邪気にそう言ってのけたアイに、アクアはわざとらしくずっこけた。そしてため息を一つつく。
「……とにかく、それで問題ないな?」
まあ、壱護社長がOK出してくれるかってのはあるけどな。呟きながらも自分の方に目線を合わせてきたアクアに、ルビーは自然と頬が緩むのを自覚した。
――やっぱり、お兄ちゃんはすごい。私よりも、私のことをしっかり考えてくれてるんだ。
そう思えば、ルビーの胸は自然と温かくなる。母も兄も、それほどまでに私のことを大事にしてくれているのならば、自分もそれに応えたい。
――絶対絶対、立派なアイドルになってやるんだ!
その日、そうルビーは強く心に決めた。
斯くてルビーの思考は、今へと立ち戻る。
そうだ。だからこそ今、私は夢への第一歩を踏み出すんだ、と。
隣に立つ敬愛する兄を、アクアを見上げる。
ここ数年で、兄は「男の子」になった。あっという間にその背を伸ばして、自分より頭一つ分ほど大きくなった。体つきも青年のそれに近くなって、まだ小さかった頃の似た者同士の二人だった時期からすれば、隔世の感がある。
それでもアクアは、同世代の男子に比べて体力がない。運動も、正直なところあまり得意ではない。結局のところそれは、あの十年ほど前に起きた事件のことが尾を引いているのだと、ルビーは知っている。
子どもの成長にとって一番大事とも言っていい、幼稚園児だった時の一年を、アクアはケガからの回復に費やしてしまっていたのだから。
そのことを思うとどうしても心がじくじくする。今でも少し、泣いてしまいそうになる。でも、それでもアクアは立ち上がった。夢に向かって、前を向いている。
そんな兄が横にいて、自分が頑張らないなんてあり得ない。
そうだ、頑張らなければ。……でも。
「……ごめん、お兄ちゃん」
「どうした」
「いや、ちょっと……緊張しちゃって」
自分でもわかる青い顔で、ルビーはアクアのことを見る。
ルビーたちが今立っているのは、陽東高校の正門前だ。すなわち彼女たちは今、この高校の芸能科の面接試験を受けるために、ここへとやってきていた。
つまるところ――アイドルになる夢を叶えるより先に、まずルビーはこれから始まる試験という名の関門と、戦わねばならないようだった。
常々、我が妹には「中身入り」というほどの人生経験はないと思っていたが、どうやら今回もそうであったらしい。
アクアは緊張に顔を青くしながら正門の前で固まっているルビーを見ながら、そんなことを思っていた。
この世に、新たな形で生を享けてから十五年余りの時が経ち、アクアも、そしてルビーも、いよいよ高校受験に臨む時期に至っていた。
中学校の卒業まで、残り三か月もない。つまりそれはアクアにとって、とうとう本格的に動き始める時期が来たことを意味してもいる。
これまでのアクアは、五反田監督の許で演技の勉強や下積みに励みながら、業界の中における人脈の確保と、噂話の収集に専念していた。立場が立場故に、いわゆる「偉いさん」――番組ディレクターやプロデューサーの類と直接的な繋がりを得ることはできていなかったが、その代わりに撮影スタッフやアシスタントを中心とした交友関係を作って、そこからいろいろな業界の情報を得るに至っていたのだ。
無論、母親であるアイからも、アクアはそれとなく色々と聞き出している。そういう時、アクアは自分の「役者の道に進む」という方針のことを、体のいい方便だとも考えていた。
そんなアクアはこれまでの活動の中で、アイの過去という意味で調べる必要がある人物の候補を二人ほど見繕っていた。
一人目が、「鏑木勝也」。アイにとっては「初めてファッションモデルをしたときの仲介人」であり、業界内部においては「いろいろな現場に仕事を持ち込む、フリーの敏腕プロデューサー」と見做されている。アクアたちの出生前の、アイのプライベートについて、いくらか知っている可能性のある人物だ。
二人目が、「金田一敏郎」。アイが一時期、演技を習うために参加していたワークショップの主催団体である、「劇団ララライ」の創設者だ。アイがこのワークショップに参加したのは十四歳から十五歳にかけてのおよそ一年であり、そこから暫くしてアイが妊娠していることから、アクアたちの父親はこの劇団ララライに関係する人物である可能性が相当に高いと言える。その頃の事情を訊くことができるならば、それに越したことはないだろう。
どちらも、今の芸能界という世界においてはかなり上の階層に位置する人間だ。何の伝手もなく、彼らと繋がりを持つことは難しい。しかし自分は、最低でもここから一年以内には、彼らに渡りをつけることができる位置にまではのし上がる必要がある。
――種は、蒔いてきた。アクアはそう自負する。いつ動き出してもいいような準備は進めてきた。高校に上がったタイミングで、五反田監督の伝手を使って仕事を始めることも視野に入れている。
だから、ここからが始まりなのだ。陽東高校の芸能科の面接など、些事に過ぎない。というより、落ちる理由がない。
故にアクアは、隣で助けを求めるようにこちらを見てくる妹の肩を一つ二つと叩いて、一足先に陽東高校の敷居を跨いだ。
果たしてそこから二時間弱ほどが経った昼過ぎのこと、アクアとルビーは面接会場となった教室から少し離れた廊下で落ち合っていた。
先に面接を終えたルビーが、廊下から外の景色をぼんやりと眺めていたところに、アクアが合流する。その様子から、アクアは彼女が恙なく試験を終えたことを察した。
「待たせた、ルビー。……大丈夫、みたいだな」
声をかけるや、ルビーはぱっとこちらに向き直る。アクアの予想の通り、その表情は晴れやかだった。
「まぁね。思ったより全然平気だった。そっちは?」
「特に、なんとも。もともと心配なんてしてなかったしな。……まあ」
言いながら、アクアはほんの数十分前に経験した『羞恥プレイ』のことを思い出す。
「自分の名前を言うのは、いつまで経っても慣れないけど」
それを聞いたルビーが、いきなり噴き出した。
「そりゃ、たしかに! なんてったって、『
「……やめてくれ、マジで」
言いながら、首を振る。基本的に、アクアは母親であるアイにしてもらったことはどれもこれも感謝しているが、この名前に関してだけは、貰ったものとはいえいかがなものかと常日頃から思っていた。
「
「まあ、そうなんだけど……こんなんでも、母さんからもらった名前だからな」
難儀なものだ。ルビーのからかいの目線を受けながら、アクアは嘆息した。
いずれにせよ、話はひと段落したし、ルビーもとりあえずは元気そうだ。
――まあ、駄弁るのもこのぐらいにしておくか。
そう思ったアクアが、「そろそろ行くか」とルビーに促そうとする。
しかしその時、アクアの視界の端の方で、一人の女子生徒がその歩みを止めたのが見えた。
「『アクア』……?」
そんな呟きが聞こえる。名前を呼ばれたアクアが反射的に向いた視線の先、立ち止まっていたその女子生徒が、くるりとこちらを振り向いた。
赤銅色の髪と、柘榴の瞳。アクアの中の記憶が俄かに刺激された。
遠い日の記憶。五反田監督の作品に出演した、最初の経験。あの時隣にいた、共演者の女の子だ。名前は、確か――。
「『アクア』!? あなた、『アクア』って言った!?」
しかしそれを思い出そうとした直前、こちらを向いたその彼女が、そのまま一気に距離を詰めてきた。
いきなりのことに、思わず面食らう。しかしその衝撃で、アクアの記憶は完全に甦った。
そうだ。彼女には面影がある。声さえも。
「……久しぶり。『かな』、でいいんだよな」
アクアの返答を聞いた目の前の彼女――
そのままアクアの着ている詰襟の肩口を、両手で掴んだ。凭れ掛かるように、あるいは抱き着くかのように、その身を寄せてきた。
「ちょっと、何を――」
当然にというか、アクアは抗議の声を上げようする。しかしそれを、かなの言葉が遮った。
「あぁ……やっと、会えた。会いたかった。憶えてて、くれたんだね」
発されたその声色に、身体の動きが止まる。
ずっと恋焦がれていたかのような、生き別れた家族を前にしたかのようなその声に、アクアは言葉を失った。
呆然と、自らの胸に顔を寄せるかなの様子を見ていたアクアだったが、しばらくしてそこからするりと離れていった彼女の姿を見て、気を取り直す。
経緯はともかく、旧友――というにはやや縁遠い関係であったかもしれないが、まあ顔見知りのような存在がここに通っていることは、アクアにとって心強いことには変わりないのだから。
「今日面接受けに来たってことは、入るの? ここの芸能科」
なぜか期待を込めた目線で見つめられることにどうにも居心地の悪さを覚えつつ、アクアは頷く。
「まあ、そうだな。というか」
そして気づく。よくよく考えれば、今かなが身に纏っているのはこの高校の制服だ。つまり彼女は在校生であり、必然的にアクアの先輩に当たるのだという事実に。
「あれか、上級生だから……かな『さん』、と言った方がいいですかね。それか、『有馬先輩』とか」
しかしそれには、すぐさま首を振られた。ついでに手も。
「いいわよそんなこと。というか、それはヤダ。『かな』でいいって、前言ったじゃない」
「そう、か……それじゃ、遠慮なく」
「うんうん!」
なんというか、ここまでの好感情を向けられることに、身に覚えがまるでない。
目の前で余りの上機嫌さに輝きすら放っているように錯覚するこの小柄な先輩に対してどうにも居心地の悪さを感じ始めていた矢先、アクアは後ろでむくれ声を上げるルビーの存在に気がついた。
明らかに何か言いたげな様子だったから、アクアはちらりとそちらに目を向けてみる。どうした、と無言で問いかけた。
「ねえアクア、この人馴れ馴れしくない?」
そして出てきた、開口一番がこれである。
「この人あれでしょ? 『重曹を舐める天才子役』の」
「『十秒で泣ける天才子役』! アンタいい加減にしなさいよ!」
そのまま流れるようにナチュラルに喧嘩を売りに行った。当然にというか、かなの方も基本的に売られた喧嘩は買う主義なのだろう、応戦し始める。
「えーだって、お互い様じゃない? アイのことを『媚び売るしか能のないアイドル』とか言ってくれちゃって」
「えーえーその節は悪ぅございましたとも! でも現場で駄々っ子が暴れてるの見たこっちの身にもなりなさいよ! なーにが『おうち帰して』よ、だったら勝手に帰りゃいいじゃない! 演技するわけでもないのに付いてきて、ブラコンも大概にしときなさいよっての!」
そうしたらもう悪口の応酬が出るわ出るわ、二人ともよくもまあそんな細かいことまで憶えていると思わされる。
ぎゃーぎゃー言い合うルビーとかなのやり取りに、アクアは反射的に頭を押さえていた。
「ルビー」
とりあえず、止めにかかる。
「なにお兄ちゃん、この女の肩を持つの!?」
「いや、この女って……」
二股男の修羅場じゃないのだからと、あるはずのない頭痛を覚えながら、ルビーの肩に手を置く。
「とりあえず、相手は先輩だぞ、多分一年上の。これから世話になるかもしれない相手なんだから」
「でも……」
「ルビー」
割と真剣みを込めて、アクアはルビーを窘める。数秒の間、不満げな表情を浮かべていた彼女も、その末に諦めたように息を吐いた。
「はぁい。……しょーがない。よろしくお願いしますね、
「コイツ、マジで……!」
「ルビー……」
それでも結局、そんな風に負け惜しみのような一刺しをするあたり、結局のところルビーとかなの間の第一印象というのは、相当ネガティブなものだったのだと思わされる。
というか、互いに執念深すぎるだろう。ルビーに関してはアイを馬鹿にされたことに怒り心頭なのは理解できなくもないが。アクアはまたも嘆息した。
結局は、兄として自分がけじめをつけなければならないということだろう。半ば諦めの境地で、アクアはかなに声をかける。
「その、なんだ。かな」
妹から放たれた再びの暴言に、そちらに向けて思いっきりメンチを切っていたかなが、はたとアクアに目を向ける。
目線が合ったことを確認して、アクアは小さく頭を下げた。
「まあその……これでも大事な妹なんだ。だからなんというか……よろしく頼む。ここに受かれば、だけど」
顔を上げた先、かなは毒気が抜けたような、呆気にとられたような表情でアクアを見ている。
二度三度と目をぱちくりさせて、その末にふと、もう一度相好を崩した。
「……そうね。その時はまあ、よろしくしてあげるわ。……よかったわねー、あなたのお兄さんあなたと違って常識人で」
そして、ついでにルビーのことを煽り返すのも忘れていない。
斯くしてまたやいのやいのと言い始めた二人にまたしても溜息を吐いて、アクアは付き合いきれないとばかりに首を振った。
時期は飛んで、芸能界編です。
しばらくは原作沿いで、ある程度穏やかな展開になります。
本作のアクアの演技力は、復讐のためのスマホ漁りに無駄に費やした4年間もなければトラウマによる感情演技縛りもないために原作よりもかなり強化されています。アイが生きていることで、アイからアドバイスをもらえるという点も大きいです。
また、積極的に役者の道に進むつもりのアクアが一般科にいる意味はゼロなので、普通に芸能科を受験しています。