天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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前話で宣言した通り、最終回(前編)です。
書きたいことを全部書いていたところとうとう文字数が三万文字近くになってしまったので、前後編に分けさせてください。

ですので、本日は二話更新となります。本日十二時の更新にて、完結となります。


6-9. 18年後の、僕等の答え

 アクアが神木輝との決着をつけてから、一週間の時が経った。

 それはアクアの認識においてはある種の引導であったが、いずれにせよその日起きた事件の結果として始まった神木輝への聴取と捜査の中で、捜査当局は一つの事実をマスコミに向けて明かした。

 

 あの日アクアに対して刃を向け、殺人未遂という凶行に及んだ三十代の男は、彼の血縁上の父親に当たる人物であった、と。

 そのあまりにセンセーショナルで、ゴシップ的でさえある話題の提供に、テレビ局をはじめとしたマスコミも、当然に週刊誌のようなゴシップの記者たちもまた、俄かに慌しく動き始めた。

 

 客観的には「今を時めく俳優兼マルチタレント」であるアクアの、そしてその双子の妹にして、最近東京ドームライブを伝説的な成功へと導いたトップアイドルであるルビーの、隠されたプロフィール――血縁についての話だ。

 

 もともと、アクアにせよルビーにせよ、そのプライベートについては頑なと言っていいほどに伏せられ続けてきた。その判断を下したのは壱護社長であり、ミヤコであり、そしてアイだ。理由は、言うまでもない。

 アクアたち二人については、その名乗りもまた如何にもという芸名であって、その名字についてもまた、限られた人しか知ることはない。ある種の徹底ぶりが、そこにはあった。

 

 けれども今、そのヴェールが剥がされようとしている。

 どこまでも厳重に封じられ続けてきた、秘すべき場所の向こう側が、顔を覗かせた。しかも、「刃傷沙汰」などというセンセーショナルな話題と共に。

 

 そうなれば彼らマスコミの動きは当然というよりなく、故に今壱護社長は、或いはアクアもまた、一つの決断を強いられていた。

 

 

 

 いや、違う。強いられたのではない。

 より積極的に、意図をもって、アクアはたちはそれを仕掛けることを決めたのだ。

 

 

 

 アクアとルビー、そして神木輝の血縁関係が世に広く明らかになったまさにその日、それを追いかけるような一つの声明が、苺プロダクションより出される。

 

 ――『当事務所所属タレント「アクア」の今回の事件につきまして、当方より皆様にお伝えしたいことがございます。つきましては明後日、公開の形での記者会見を実施させていただきたく存じます。参加を希望される新聞社、テレビ局、雑誌記者の皆さまにおかれましては、弊社に対して所定の方法にてお申込みいただきますようお願い申し上げます』。

 

 それはつまり、宣戦布告だった。

 

 

 

 

 

 苺プロサイドが用意した会見場は、都内にあるホテルのバンケットルームだった。記者会見場としては、一つのセオリーでもあるだろう。

 壇上にて並みいる記者たちを睥睨するのは、四人の男女だ。

 

 苺プロダクション代表取締役社長、斉藤壱護。

 同事務所所属タレント、アクア。

 同じく、ルビー。

 そして――()()

 

 この場において、彼女は本来蚊帳の外の人間のはずだった。如何に苺プロダクションの看板タレントであるとはいえ、彼女は今回の事件にも、またそれが暴いた「隠された秘密」についても、決して関係はしないはずの人物だった。対外的には、客観的には、そのはずだ。

 

 なのに、どうして彼女がこの場にいるのか。記者たちは当然に疑問に思い、けれどもそれに対して彼らが答えを与える暇もなく、壇上で立ち上がった壱護社長が、手にマイクを取った。

 

「それではこれより、先日捜査当局より公表のあった、当事務所所属タレント『アクア』に関する報道についての記者会見を始めさせていただきます」

 

 いつもの彼の出で立ちに倣い、かっちりとスーツを着込んで、しかしそのサングラスを普通の細身の眼鏡に掛け替えた壱護社長の畏まった言葉が、この場そのものの始まりを告げた。

 

 

 

「まず初めにですが、この場における前提をご説明させていただきます」

 

 そんな言葉にて口火を切った壱護社長が、そこから現時点までに至る経緯を、時系列に従って説明していく。

 

 一週間と少し前に起きた、事の発端。アクアが東京は湾岸エリアにて、何者かに刺されたこと。

 しかし()()()その刃は胴体を逸れ、アクアは奇跡的に怪我もなく健在であり、アクアのことを刺した男は現行犯として警察に確保されたこと。

 その後の調べで男の身元が明らかになり、「警察の発表によれば、彼は今回の事件、殺人未遂事件の被害者であるアクアと血の繋がりを持つ、生物学的には父親である人間であった」という旨の報道が、マスコミ各社からなされたこと。

 

「以上が現時点における時系列となります」

 

 それはこの場の誰もが知っている、単なる客観的事実である。よって居並ぶ記者たちもまた特段の反応を示すこともなく、シャッターを切る音すらせずに、壱護社長の話を黙って聞いている。

 

 一頻りそんな彼らのことを見回して、壱護社長はもう一度、口を開いた。

 

「早速ですが、弊社としてこの発表の内容について、事実関係を述べさせていただきます」

 

 呼吸を、一つ。顎を引き、前を見据えてから、彼はきっぱりと口にした。

 

「結論から申し上げますと、各種の報道は全て事実です。弊社所属タレントである『アクア』とその双子の妹である『ルビー』は、現状の戸籍としては私ども、つまり私『斉藤壱護』と『斉藤ミヤコ』を両親とした普通養子縁組を結んでおりますが、彼らの生物学的父親に当たる人物は、今回の事件の加害者でもあります、『神木輝』に相違ございません」

 

 わずかなどよめきが広がる。シャッターを切る音も聞こえた。

 そこにあったのは、新たな事実でもあったからだ。

 

 『アクア』と『ルビー』の双子は、苺プロの社長夫妻である『斉藤壱護』とその妻『斉藤ミヤコ』の養子である。

 今まで一切明らかにされてこなかった、二人のタレントのプライベートの一端だ。

 俄かに見えてきた、彼らを取り巻く複雑な家庭事情のようなものに、記者たちは嗅覚を働かせる。「これは、何かある」と。

 

「しかしながら正直なところを申し上げますと、ここまでの話だけであれば特段このような会見の場を設けずとも、文書の形でのご説明で十分であることも事実です。つまるところ、本日このような形で皆様にお集まりいただきましたのは、この件につきましてもう一つ、皆様に向けてお知らせしなければならないことがあるから、ということになります」

 

 故に今、ここに醸成されつつある雰囲気に先立って、まるで先手を打つようにそう述べた壱護社長に、そして彼の口調に、視線に、そして表情に、一際強く、この場がざわついた。

 

 どこか『予感めいたもの』が、空間の中に満たされ始める。

 その空気を掻き分けるように、あるいは切り裂くように、まさしく今壱護社長は、息を吸い、口を開いて、声を発した。

 

「『アクア』、『ルビー』の両名の『生物学的母親』についての話です」

 

 彼がその言葉を口にした瞬間、恐らく誰もが理解した。

 

 どうしてこの場に、彼女がいるのか。

 唯一の部外者であった、そのはずであったアイが、双子の横に座っているのか。

 

「単刀直入に申し上げます」

 

 そして今、壱護社長の口から、決して後戻りのできない『爆弾』が、この場に投下された。

 

 

 

 ――皆さまお気づきのことかと存じますが、今この場におります『アイ』、弊社所属タレントの『アイ』が、両名の血縁上の母親です。

 

 

 

 アイが立ち上がり、眼前の人々を見渡して、しずしずと、おもむろに、頭を下げる。

 予期はできたかもしれないとはいえ、それでもその言葉が、その事実がこの会見場に与えた衝撃は、計り知れないものだった。

 

 絶好のシャッターチャンスであったはずの「アイの頭を下げている姿」を、しかしその場にいる記者たちの誰もが、自らの手にしたカメラに収めることができなかったほどに。

 

 

 

 事務所側がこの場において公表しなければならないものはそれが全てで、故に場は質疑応答へと移る。

 案の定、というべきだろうか。その質問の向けられる先は、アクアとルビー、そして神木輝の関係についてなどではない。一つとしてない。

 

 アイだった。アイと双子との関係に、あるいは「かつて一世を風靡したアイドル・アイに隠し子がいた」という事実そのものに、この場の全ての人々の関心は向けられていた。

 

 

 

 ある記者は、問うた。「何故今、この場においてそれを公表しようと思ったのか」。

 答えたのは、壱護社長だった。

 

「両名の血縁上の父親にあたる人物が逮捕されたことで、捜査の進展に従ってアクア、ルビー両名の血縁関係について捜査当局の側から情報が流出する可能性がございました。我々のコントロールできない形でこのような重大な事実が公表されるのは決して本意ではなく、従いましてこちらの方から、先んじてこれら事実関係を皆様にお伝えしなければならないと考えた次第です」

 

 とあるフリージャーナリストが、声高に主張した。「アクアとルビーと、アイの年齢差は十六である。そうなのであれば、彼女は十五歳の時点で二人を妊娠したということを意味する。未成年タレントを監督する立場として、苺プロダクションのかつての管理体制には多大な問題があったのではないか。そのことをどう考えているか」。

 

「耳の痛いご指摘です。大変お恥ずかしい話ですが、十九年前、私ども苺プロダクションは芸能事務所として非常に規模が小さく、スタッフもほとんど雇用できておりませんでした。基本的には社長である私と、そして妻のミヤコのほぼ二人で運営していたというのが実状です。そうしますとどうしても所属タレントの管理体制に行き届かない面が生じてしまうのが本当のところでして、それがこのような形で表れてしまったことにつきましては、申し開きのしようもございません」

「ならば今現在においては、十分な再発防止策を取られているということでしょうか」

「その通りでございます。現在の弊社所属タレントにつきましては、基本的に恋愛などの個人の意思決定そのものに過度に干渉する方針はとっておりませんが、しかし特に未成年者の活動における監督は、マネージャーを中心に重点的に行うように徹底しております」

 

 いつもの壱護社長からは想像もつかないような、まさに鉄壁と言ってよい質疑応答ぶりである。

 と言っても、この辺りは事前にいくらでも想像のつく想定問答である。会見に臨むにあたって無策でこの場にのこのことやってくる阿呆などいはしないのだから、対応も対策も抜かりないのは、社会人として当然であると言えなくもなかった。

 

 

 

 だからこそ、この場における本題は、そして肝心の部分は、その次にこそあった。

 さるテレビ局の社会部の報道記者が、言う。

 

「アイさんに、お伺いさせてください。十九年前、十五歳の時点でアイさんはアクアさん、ルビーさんのお二人を妊娠したとのことですが、何故そのようなことになったのでしょうか。そして何故、アイさんはお二人を産むことを決断されたのでしょうか」

 

 会見場が一瞬、静まり返る。

 それはきっと、この場の誰もが知りたいと望むことだった。けれども同時に、それは非常に危険な問いでもあった。

 

 何故なら、彼女はアイドルだったからだ。

 しかも、ただのアイドルではない。「伝説的な」という接頭語がつくアイドル、「B小町」の、絶対的センターという存在であったからだ。

 そして今もなお、絶大な人気を誇る女優にして、タレントでもあるからだ。

 

 

 

 彼女たちアイドルが売るのは、夢である。幻想と言ってもよいかもしれない。

 その幻想の中には、どうしても『処女性』というものが含まれる。どれだけ言い繕おうが、それを否定することは誰にもできない。

 ならばかつての彼女が、人気絶頂のアイドルであった十数年前の彼女が、しかしその処女性において明白な嘘をついていたという、そしてあろうことか『経産婦でさえあった』という事実は、『アイドル・アイ』のブランドはおろか、今現在の『タレント・アイ』のブランド価値そのものをも、著しく毀損しかねない。

 

 まさに今、アイの口にしようとしている、その答え次第では。

 

 

 

 全員の注目が、一つの場所へと集まる。

 それはもはや無言の重圧のようなものですらあって、けれどもそれを一身に受けているであろう彼女は、アイは、黙したままに、穏やかな表情を崩そうとしなかった。

 

 ゆるりと、動く。

 再びその小柄な身体が、自らに与えられた席から立ち上がった。

 

 会見場の光を受けて、その夜を梳きこんだ長い黒髪が、輝きを放つ。

 一挙一動の全てで、この場に居合わせたありとあらゆる人々の視線を、注目を浚った彼女が、そこでゆっくりと、テーブルの上に置かれていたマイクを手に取った。

 

 

 

 小さな咳払いの音が、マイクに乗る。

 微かな、息を吸う音も。

 

「わかりました。ちょっと長くなりますけど、大丈夫ですか?」

 

 そして出てきた台詞は、普段の彼女とは異なる丁寧さを宿していつつも、けれどもその声色の趣は、どこまでもいつも通りに凪いでいた。聞く人全てを魅了する、アイの声に他ならなかった。

 

 自身の前置きに無言の会釈で応えた報道記者を真っすぐに見据えて、斯くしてアイは、自身の話を始めた。

 文字通りの、全てを。

 

 

 

 

 

 結果として、その日の会見は途轍もない新情報の塊とも評すべきものとなった。

 アクアとルビー、神木輝の血縁関係についてなど、もはや些末事に過ぎないとすら言えるほどの。

 

 それは十九年前の、あるいはそこから遡って二十数年前における、この芸能界の仄暗い部分を抉り出すが如き行いだった。

 

 神木輝と、アイの関係。そこから遡って、神木輝と、姫川愛梨という女優の間に存在した、未成年者への性的搾取の事実の公表。

 そしてそこから更に遡った、「姫川愛梨自身が受けていた芸能関係者からの性加害の事実の告発」に至るまで。

 

 その全てを曝け出し、ぶちまけたその会見は、もはや事態を単なる「苺プロ所属タレントの中の醜聞にすらなるか怪しいスクープ」などという、謂わばコップの中の嵐に留め置くことを、世界に対して許さなかった。

 結果として、アイにとって場合によっては致命的なパブリックイメージの毀損になったであろう「十五歳での妊娠、十六歳での出産」という「最大の隠し事」は、彼女の芸能人生にも、そしてキャリアに対しても、ほとんどダメージを与えることはなかった。

 

 

 

 そしてこれこそ、アクアがこの会見において狙っていたことだった。

 アクアとルビー、としてアイとの間の血縁関係を、どのような形でなら公表できるか。その問いに対する答えは、一つしかない。

 それよりもよほどに大きいニュースで、あるいはスクープで、大衆の関心をアイのそのある種のスキャンダルから、遠ざけてしまえばよい。

 これを報道の世界においては「スピンコントロール」と呼ぶ。もっとも、これは元来政治の世界の用語であるのだが。

 

 そのための条件に、「アクアが神木輝から実害を受けること」が含まれていた。それをきっかけにすれば、アイとアクアたちとの親子関係の話題の俎上に、神木輝の存在を載せることが出来るからだ。そして彼から繋がる、この世界(芸能界)の闇の煮凝りとも称すことのできるような、一連の負の連鎖のこともである。

 

 つまり、今日に至る全てのものは、一本の線で繋がっていた。

 あの映画の、「15年の嘘」の企画を立ち上げた瞬間から、その出資者に神木輝を巻き込んで、零号試写を見せ、インタビュアーを担わせて、アクア自身と、アイと対面させることも。

 ルビーたちの東京ドームライブを成功させ、その後に映画の公表をスケジュールすることも。

 ドームライブの成功を下地に映画のプレミア試写会を企画して、神木輝を誘引することも。

 

 そして、アクアが彼に直接手を出されることも。

 

 一つとして、欠けてはならなかった。全ての条件が揃ったことで、アクアは自らの目論む通りの世論を、この世に現出させることに成功した。

 アイの、そしてルビーの将来を、守ることが出来ていた。

 

 

 

 しかし、要因はそれだけではない。アクアの机上の計算が、計略の類だけが、今を作り上げたわけではない。

 

 会見の中で、アイは言った。

 どうして彼の、神木輝のことを、受け入れたのかという問いに。

 「結局あなたもまた、その『彼』が姫川愛梨さんから性被害を受けたように、その人のことを拒めなかったのではないですか。ならばあなたも同じように、『性被害を受けた側』の人間なのではありませんか」。そんな、アイの心に寄り添っているようで、しかしその実アイのことを貶めてさえいるであろう、問いに。

 

「そう言う人も、いるのかもしれないですね。『十五歳なんて子供でしょ』って。まあ、実際子供なんですけど」

 

 薄っすらと苦笑して、けれどもアイは、首を振った。

 

「でも私は、そういう言い方はしたくありません。あれは全部、私が私の責任で決めたことです。そうしたいって、思ったことです」

 

 彼女の言葉は、明瞭だった。

 そしてそこからは、「愛」だの「恋」だのといった、個人の情念に関わるような全ての言葉が、排除されていた。

 

 分かっているということだ。記者会見という公的な場でそんな私情の類を語って、謂わば「浪花節を打つ」のは、聞くもの全てを白けさせるだけでしかないのだと。故に余計な反感を買うだけだと。

 

「そうじゃないと、私はアクアにもルビーにも、顔向けできませんから」

 

 だから代わりにアイが持ち出したのは、毅然とした「母親の顔」だった。

 

「それが、あの日私がアクアとルビーを産むことを決めた責任なんだって、思ってます」

 

 責任という、二文字だった。

 

 

 

 故に人々はアイのことを、彼女の決断を、そしてアクアとルビーとの親子の情を、美談として受け入れた。

 斉藤壱護と斉藤ミヤコという大人の手を借りながら、それでも必死にアクアとルビーの二人を一人前の大人に育て上げた、そんな立派な母親であると、解釈した。

 

 無論、かつてアイドルであったアイが十六歳の時点で隠し子を持ち、世間を欺いて自らのファンに愛を語り、また歌っていたことへの反感の声は、決してゼロではなかった。「裏切られた」と感じるかつてのファンの素朴な感情を、否定することは誰にもできない。

 けれども、アイが会見の中で見せた態度は、それを見ていた人々の心を確かに動かした。

 故に生まれた世論の大波が、そうした否定的な意見を押し流し、アイとアクア、そしてルビーとの親子関係を、祝福すべきものとして世界の中に定義してみせた。

 

 

 

 もってアクアたちの存在は、世間に受容された。

 だからそれは、全員の勝利だったのだ。

 

 アクアとルビー、壱護社長にミヤコ、そして、アイの。

 

 

 

 

 

 

 

 そして――だからこそ今、アイは今までずっと燻っていた心残りへの、けじめをつけようとしている。

 冬の盛り、寒風吹きすさぶ二月の頭に、ただ一人壱護をその場に伴って、やってきたのはとあるマンションの一室だった。

 

 アイはそこに住んでいるのが誰であるのか、知っている。

 『彼女』をここに住まわせることを決めたのが、他ならぬアイであり、また壱護であるが故に。

 

 呼び鈴を鳴らし、しばしの間待つ。

 そうすれば、部屋の扉の鍵は開かれ、その奥から現れた一人の女性は、アイにとってはどこまでも顔なじみの相手に相違なかった。

 

「やっほ」

 

 努めて明るく、アイはその彼女目掛けて手を挙げる。

 けれどもアイの視界の向こう側にいる相手は、そんなアイの挨拶に対して確たる反応を示さない。

 

 アイを見て、そして隣にいる壱護の方にも目配せしてから、玄関扉に手をかけたままの姿勢で、彼女はゆっくりと頭を下げる。

 

 鳶色の髪をボブに切り揃えた、アイよりも少し年上のその女性。

 すなわちニノが、新野冬子が、アイと、そして壱護のことを、部屋の中へと招いた。

 

 

 

 今更の話ではあるが、この物件は壱護が、苺プロの持ち物として彼女に、冬子に与え、住まわせているものだ。

 その構造は、かつてアイがアクアとルビーを産んでより暫くの間、壱護たちに用意してもらって住んでいた部屋のそれと、似通っている。

 

 部屋の中、半オープン型のカウンターキッチンの向こうに据えられたダイニングテーブルを、今アイが、壱護と冬子もまた、囲んだ。

 

 

 

「終わったよ」

 

 しばしの間続いた沈黙を破り、口を開いたのはアイだった。

 全ての前提を省略した、たった一言だ。けれども、その意味はこの場の誰もが知る所でもある。

 

「見てるでしょ? ニュース」

 

 答えを促したアイに向けて、黙したままに冬子が肯く。

 伏せられていた顔が上げられて、その翠の瞳が、アイのことを真っすぐに捉えた。

 

「アイ。あなた、アクアさんたちのこと」

「うん、明かした」

「よかったの」

「まあ、いつかは必要なことではあったし。それに、私だってアクアたちに、表でもママって、呼んで欲しかったからね」

 

 冬子の口が、僅かに動く。「そういうことを言っているんじゃ」、そんな趣にも見えた。

 けれども結局、彼女はその言葉を飲み込む。顎を引いて、ただ一度だけ、アイに向かって頷いた。

 

「そう」

 

 そんな、短い言葉と一緒に。

 

 

 

 ぎこちない沈黙が、またやってくる。互いに向け合う言葉を、探すようでさえあった。

 けれども、違った。アイには、言いたいことが初めからあった。だからこそ、ここまでやってきていたのだから。

 

「あのさ、ニノ」

 

 故に今、アイは意を決して声を上げる。共に真っすぐ、ぶつかった視線が、この場に緊張感のようなものさえも生み出した。

 そしてそれを振り払うように、アイは言葉を重ねる。

 

「私ね、言おうと思ってたことがあるんだ。全部、終わったら」

 

 何が全部で、何が終わったらなのか。その抽象的な発言の意図を問うものは、この場にはいない。

 ここにいるのは、偏に文脈を共有する者達ばかりであるからだ。

 十五年前のドームのことを、神木輝のことを、かつてのB小町から続いてきた因縁を、ずっとずっと意識し続けてきた人々であるからだ。

 

 そればかりではない。不運とすれ違いの果てに、拗れ、壊れ、解けてしまった、B小町という小さな社会を共有する、仲間でもあったからだ。

 

「私はさ、ずっと。ずっと、みんなと仲良くしたいって思ってたんだ」

 

 故にその言葉に、アイの言葉に、冬子の目が見開かれる。

 

「分かってる。私のせいなんだって。でもどうすればいいかわからなくて、私はあんな生き方しかできなかったから」

 

 ねえ。そう、アイは冬子に呼びかける。

 

「アクアから聞いたよ。ニノさ、『アレ』読んだんだって? 私が書いてた、あのブログの」

 

 言った瞬間、冬子の肩がびくりと跳ねた。

 

「もう何年前? 十七、八年? ずいぶん昔の話だけどさ。私もアクアに言われるまで、そんな記事書いてたってことも忘れてたよ」

 

 苦笑気味に肩を竦めたアイが、しかしそれでも、真剣な眼差しで冬子のことを見つめる。

 

「でも。でも、あれは、嘘じゃないんだ。だって私はね、ずっと、ずっと」

 

 瞳が揺れる。唇がわなないた。冬子のそれが。

 「やめて」。そう、言いたかったのだろうか。「そんなの、あなたじゃないでしょう」と。

 

 しかし、ダメだ。冬子には、聞いてもらわなければならない。

 何故ならそれが、責任だからだ。冬子の、そして、アイ自身の。

 

「仲直り、したかったよ。仲良くなりたかった。……友達に、なりたかった」

 

 奥歯を噛みしめる音が響いた。アイの視界の向こうで、堪えきれないかのように、冬子が俯く。

 

 理由を、アイは慮ることができた。

 あのブログの記事を読んだ後に冬子が何をしたか、アイはアクアから聞いていたからだ。

 

 つまり、彼女は見なかったことにしたのだ。記事を消し、ブログそのものも消し、そんなものがこの世に存在したという痕跡それ自体を、世界から抹消した。

 それがどういう意味なのかも、アクアが話してくれた。自分に対して新野冬子という人間が向けている、多層に屈折した感情のことも。

 

「無理だよ」

 

 だから、そんな風に冬子がアイに答えるのは、当然のことだったのだろう。

 

「だって、もう手遅れじゃない。あなたは被害者で、私は加害者。神木さんと関わって、リョースケくんがあなたのことを殺そうとしてたのも知ってたんだから」

 

 冷めた目と、力のない笑みで、冬子がアイのことを見据える。

 

「昔みたいになんて、なれるわけない。見ないふりして、忘れたふりして、なんて、そんな」

 

 ――諦めちゃったのか、ニノは。

 そう、アイは思った。

 

 

 

 一度だけ、アイは自らの隣を見る。そこに座っている壱護の方に、視線を向けた。

 サングラスの奥に目線を隠した彼は、今までずっと黙ったままだった。アイと冬子の間の会話に何も口を挟まず、ただ二人の話を聞いていた。

 

 考える。

 彼にとって、アイの考えは甘ったれたものなのだろうか。

 彼は冬子のことを、許せないのだろうか。彼女には、もうそんな資格なんて、ないんだろうか。

 

 そこまで思考を進めて、しかし内心でアイは笑った。

 

 だから、どうしたというのだ。

 いつから自分は、こんなことで他人の目を気にするようになったのだ?

 

 そうだ。そんなこと、知ったことではない。考えるべきは、一つだけだ。

 自分が、どうしたいかだけだ。

 

 今までずっと、そうしてきたように。

 

 

 

「そんなことが、聞きたいんじゃないよ、私は」

 

 上げた声に、視線が集まる。冬子からも、壱護からも。

 けれども、アイがたじろぐことなどありえない。そんな必要なんて、どこにもないのだから。

 

「『出来るか出来ないか』なんて、興味ない。だってそれを決めるのは、私だもん」

 

 身を乗り出した。逃さないとばかりに、冬子のことを覗きこんだ。その、目の奥までも。

 

「聞きたいのはね。『したいか』、『したくないか』、それだけだよ」

 

 もう一度、アイは言う。

 この場にやってきた意味を、遂げるために。

 

「私はね。今でもニノとやり直したいって、思ってるよ。全部終わった、今だから」

 

 そして目線で、冬子に向けて問いかけた。

 ――ニノはどう思ってるの? ニノも私とおんなじに、やり直したいって、思ってくれているのかな?

 声ではない声で、言葉ではない言葉で、アイはそう、彼女に伝えた。

 

 

 

 長い沈黙が、またやってくる。

 アイはただ何も言わず、正面に座る冬子のことを見つめる。

 答えを聞くまで、それを逸らすつもりなどないと、言外に伝えるかのように。

 

 そんな、ずっと向けられ続ける視線にとうとう根負けしたか、冬子はふと、息を漏らす。

 

「変わらないね、アイのそういうとこ」

 

 半分恨みがましささえ感じるその言葉に、アイは思いっきり笑ってみせた。

 

「当たり前でしょ?」

 

 言い放てば、それを聞いた冬子が暫し、目を閉じた。

 息を吸って、吐く。何度か続いた繰り返しの果てに、ふるりと睫毛が震えた。意を決した表情と共に、閉ざされていた瞼が開かれる。

 

「だったら、聞いて。私が今まで、アイのことをどう思ってたか。全部」

 

 そして彼女は、語り始めた。

 心の中に抱えていたものの全てを。ニノという人間の、本当を。

 

 

 

 故にその日、アイとニノ――新野冬子は、初めて本当の意味で、本音で語り合った。

 胸襟を開き、膝を交え、内心の何もかもを、隠すことのないように。

 

 結果として生じたアイと冬子との間の関係は、過去のそれを取り戻せたとは決して言えはしなかったけれども、それでも紛れもなく、新たな始まりだった。

 

 止まっていた二人の間の時間が、漸くにして、再び先へと進み出した。

 欠落した十五年という長い時の流れを、取り戻そうとするかのように。

 

 

 

 

 

 斯くしてアイのけじめは、新たな時間を刻むための儀式は、そこに確かな果実を生んだ。

 ならば今一人の方、アクアもまた、自らの最後の役割を、果たさなければならない。

 

 

 

 

 

 アイが新野冬子と本音のぶつかりを演じてから、一週間ほど後のこと。

 アクアの身は、都内某所にある拘置所の中にあった。

 

 その理由は、たった一つだ。アクアが顔を合わせなければならない相手が、この場所に拘留されているからだった。

 

 

 

 所定の時間の通りに面会室にやってきたアクアの対面、ドラマの類でもよく見かける、あの分厚いアクリル板を隔てて、一人の男が座っている。

 未決囚である彼が纏っているのは、故に彼自身の私服だ。その表情と相まって、彼――神木輝が現状獄中の人物であることを、一瞬忘れてしまいそうになる。

 

 けれども、そんな彼の斜め後ろに控えている刑務官の存在が、アクアに現実を教えていた。

 

「それで」

 

 斯くの如き環境の中で、輝が声を上げる。

 

「面会って、何の用かな? もう、君は僕と会うつもりなんてないだろうって思ってたけど」

 

 首を竦めながらもそう口にする彼は、あくまで自然体だ。故にそれに相対するアクアもまた、同じ態度のままに答えた。

 

「あるさ、用事なら。……アンタ、未決囚だからテレビ見れないだろ。だからアンタが捕まってから起きたこと、伝えられる範囲で伝えておこうと思ってな」

 

 口にしたアクアの向こう、輝の背後で、刑務官が身動ぎする。

 職務に忠実な職員だ。しかしながら、すでにアクアは面会の手続きを取る最中に、今回の要件について拘置所側から許可自体は得ていた。

 故にアクアはそちらに向けて軽く会釈を向けてから、改めて輝に向き直る。

 

 そして、この場に持ってきた話題を、話し始めた。

 

 

 

 神木輝の逮捕によって、アクアと輝との間の父子関係が世間の知るところになったこと。

 それに伴って、週刊誌経由でいらぬスクープが露呈することを恐れたアクアたちが、先手を打って「アイとアクアたち双子の血縁関係」を明かしたこと。

 その記者会見の中で、アイが自らの、そして神木輝の身に起こった過去のことを、隠すことなく詳らかにしたこと。

 

「おかげさまで、業界はてんやわんやだよ。二十年前なんて時効と言えば時効なんだけど、起きたことが起きたことだからな。枕営業なんて公然の秘密だろって言い分はあるんだろうけど、でも『秘密じゃなくなった』なら、取り上げないわけにはいかない。特に最近の世間の流れを考えれば、猶更だな」

 

 実際、今の世間はこの話題で持ち切りだ。

 

 アクアが輝に刺され、そして輝が逮捕された。その事件自体は世間からしたら些細なもので、それだけなら一週間と言わず三日もあれば忘れ去られてしまうような取るに足らないものではあった。犠牲者も出ていないのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。

 けれどもそれが生み出した余波は、まさに激震となって業界を襲っている。

 

「よかったのかい? アイと君たちの親子関係なんて明かして。隠し子疑惑なんて、マスコミの格好の餌だろ?」

「だからだよ。アイに全部ぶちまけてもらったのは。おかげで業界含めてみんなそれどころじゃない。母さんのことなんて、話題の隅っこだ」

「……なるほどね。やっぱり、君は僕とよく似ている」

「そりゃどうも」

 

 皮肉気な笑みを浮かべた神木輝を前に、アクアはそう吐き捨てる。

 

 彼の言うことは、正しい。本当に最後まで、アクアは周囲の状況を利用しつくした。

 おかげで今、盛大に割を食っている組織がいくつかあるのも、事実だった。

 

 その中には、壱護社長の苺プロ自体も、含まれている。もっとも、降りかかった火の粉の多さで言えば、少ない方ではあるのだけれども。

 

「だけど」

 

 ぽつり。そう、口を開く。

 首を傾げた神木輝に向けて、アクアは視線を合わせた。

 

「意味があったよ、あの会見は」

 

 出てきたそれは、明白な実感を帯びた台詞だった。

 

 

 

 あの会見におけるアイの暴露によって、世の中は動き出した。

 この国の中に公然の秘密として伏せられ続けていた芸能界の中の「性」の実態が、改めて白日の下に曝け出されたからだ。

 

 過去のことに過ぎると、一笑に付そうとする意見もあった。

 アイの、いわば「告発」に近い物言いをでたらめなものだとして、名誉棄損訴訟を起こそうとする動きもないわけではなかった。

 けれども、今の日本のタレントの中でもトップクラスといってよい絶対的影響力を持つアイの言葉は、決して無視できない。

 

 トドメとなったのは、そこから相次いで出された二つの声明だった。

 苺プロと、()()()()()()。彼らがアイの暴露した事柄に対する正当性の保証を与え、その過去に関する反省の弁を述べたことで、世間の論調は決定的なものとなった。

 

 そして当然にその動きは、決してその二つの組織の中だけの狭い世界に留まるものではない。

 

「芸能界っていう世界が、たった一人の人間が声を上げたことで変われるほど単純なものでもないのは、俺だってわかってる。正義とか正論とか、そういうもので何もかもを押し通せるような、おままごとみたいな場所じゃないってこともな」

 

 ――だけど。

 しっかりと、正面から、アクアは輝のことを見据える。

 

「でも、それが何もしないでいいということには繋がらない。一歩でも先に、前に進んでいくのが、俺たちの仕事だ。変わっていこうと努力することが」

 

 「違うか」と、アクアは無言で目の前の男に問いかける。

 彼は、答えない。ただずっと、あの紫紺の瞳を、その視線を静かに、アクアに対して傾けていた。

 

 それでよい。アクアとしては、彼から何らかの言葉が欲しいわけではなかった。

 ただ、伝えたかっただけだ。今日アクアがこの場所に来た意味を。

 

「それが、一番真っ当な形でアンタの恨みを晴らす方法なんだって、俺は信じてる。……もうこれ以上、アンタみたいな存在を、生み出さないためにも」

 

 そして、神木輝という人間に対して、アクアが出した結論というものを。

 

 

 

「だから、まあ、なんだ」

 

 そこから、暫く。

 自らの宣言に、押し黙ったままで何も言葉を返さない神木輝を前にして、アクアは少しだけ肩を竦める。

 

「今日俺がここに来たのは、アンタに対して『勝利宣言』をするためだよ」

 

 どこかおどけ気味に、そう自身のこれまでの言葉の全てをまとめてみせれば、神木輝はその前で、同じように肩を竦めながら、目を閉じる。

 

「そのために、わざわざここにってことかい? 大概な性格をしているね、君も」

 

 心底呆れたような、けれどもほんの少しの柔らかさまでもが宿っているような。

 そんな彼の言葉に、アクアは対面で口の端を吊り上げる。

 

 面会の制限時間が近い。アクリル板の向こう側にある無機質な掛け時計を一瞥して、アクアはおもむろに席を立つ。

 

「そりゃ、そうだ。なんたって、俺はアンタとよく似ているらしいからな」

 

 輝に対して背を向けて、そこからアクアは振り向きざまに、そう言い放った。

 

 

 

 それが、この日の()アクア(息子)との間に交わされた、意味のある会話の中の最後の台詞となった。

 

 

 

 

 

 拘置所から外へと出る道すがら、アクアは一人考える。

 ――これで次の日、輝の面会相手に「あの人」が現れたら、彼はいったいどんな反応を示すだろうか。

 

 あの人というのは、つまりアクアが神木輝に対して仕込んだ「最後の一手」に関連する人物のことだ。

 いや、勿体付ける理由もない。すなわち、金田一敏郎のことである。

 

 

 

 今回の顛末において、アクアは大輝と、そしてあかねと一緒に、金田一に対して話をつけに行っていた。あの事件――輝によるアクアの殺人未遂事件が起きてすぐのことだ。

 映画のことから始まり、神木輝という人間のこと、彼と自分との血縁関係に、そしてアイと輝との因縁のことも。

 

 それだけではない。輝と姫川愛梨、そして姫川大輝のことについても、アクアは金田一に向かって話した。正確には、「そのことについて認識している」ことを。

 

 それは金田一曰くの、「若いころの失敗」そのものだ。二十年越しにやってきた過去を直視せねばならないことに、あのある種の偏屈ささえ持っている御仁がどういうことを思ったかは、想像に難くない。

 けれども、彼は仁義を通した。見ないふりは、決してしなかった。

 劇団ララライという組織の中で起こった歪みと、それに起因して生じたいくつかの悲劇の果てに出来上がった今に対して、金田一は責任を感じていた。とりわけ、神木輝という人間に対しては、そうであった。

 

 アクアの読みは、当たっていたということだ。だからこそアクアは金田一に対して、今回のことで協力を依頼した。

 

 一つは、アイとアクアたちとの親子関係を明かすことになる会見でのことで、援護射撃をしてほしいということ。

 ただそれは事実上、劇団ララライ自体にも火の粉が降りかかるということを意味している。随分と勝手な頼みごとだと思いはしたが、それでも彼は、金田一は、そんなアクアの依頼を引き受けた。

 

 ――けじめだからな、これは。

 そう語る彼の顔は、はっきりとした覚悟を、高潔な矜持を、その中に宿していた。

 

 

 

 そしてもう一つが、他でもない神木輝のことである。

 

 現状の彼の罪状は、銃刀法違反と殺人未遂の二つだ。量刑の重い方で起訴されるのが日本の司法制度の常であるため、刑事訴訟という意味においては、彼は殺人未遂に問われることになる。

 

 ただ、逆に言えばそれだけだ。結果としてアクアは特段の傷も負っていないし、彼には前科もない。彼自身の認識が、そして行状がどうであれ、日本の司法制度の枠組みの中においては、彼は初犯だ。

 

 そうなれば、彼にはほぼ確実に執行猶予のついた判決が下ることになる。初犯の殺人未遂程度でいきなり実刑判決が出るような慣習は、この国には存在していない。

 

 つまり、彼は今からそう時を置かずに社会復帰してくるということだ。

 そしていざそうなったとき、彼が再びあんな蠢動をすることのないように、誰かが常に目を配っている必要がある。

 

 アクアはその役目を、金田一に託した。

 ただそれは、何も輝への「お目付け役」というばかりの意味ではない。

 

 神木輝には、「居場所」が必要だった。

 アクアと同じだ。「誰かが自分を見ている」、「自分のことを案じている」、その事実だけで、人は自分の行動にブレーキがかかる。それが、社会的動物である人間の性のようなものだからだ。

 そのためには、それは簡単に振り払えるようなものであってはならない。神木輝という人間を、「無敵の人」にしてはならなかった。

 

 だからこその、金田一だった。

 輝が劇団ララライを脱退してもなお、持続的な交流を持っていたらしい彼こそが、その役割を演じるに最も相応しい人間であろうと、アクアは信じた。

 姫川大輝に対しても、そう振舞っていたように。

 

 

 

 無論、全てがうまくいくとは思っていない。アクア自身もまたきっと、これから短くない時間を、神木輝に対して割かなければならないだろう。彼のことを、「人間の世界」へと戻すために。

 

 しかし、それでもよかった。それが、アクアとアクアの周りの人々の明日を購うために必要なことなのであれば、その労力というものを、アクアは惜しむつもりなどなかった。

 

 

 

 拘置所の外に出る。時は夕触れに至り、二月の寒風はより強く吹きすさんで、アクアの髪を横殴りに揺らす。

 

「大概だよね、君も」

 

 しかしそこに、思わぬ人影がいた。

 アクアただ一人だけであろうとばかり考えていたこの場所の、拘置所の塀にもたれかかるようにして、一人の少女が今、アクアのことを見ていた。

 

 真白に輝く髪と、漆黒の衣。蠱惑の声に、浮世離れした、その美貌。

 

「何でいるんだ」

「いいでしょ別に。私がどこにいたって」

 

 半ば呆れの交じった声で返したアクアに、彼女が、ツクヨミと名乗る少女が、小さく鼻を鳴らす。レンガ塀に預けていた背中を小さな掛け声と共に浮き上がらせて、アクアに向かって正対した。

 

「それより、君だ。星野アクア」

 

 すっと、その人差し指が伸びてくる。真っすぐに、突きつけられた。

 

「随分と綺麗にまとめたものだって思ったけどさ。……まさか、自分のことを刺してきた父親まで、救おうとするとはね」

 

 先ほどのお返しだとばかりの呆れ声だ。

 いや、声だけではない。表情もまた、然りだった。

 

「烏滸がましいってか?」

「いや、別にそうは思わないさ。けど」

 

 指が下ろされる。ツクヨミの口の端に、笑みが浮かんだ。

 どこか、やんちゃな子供を前にした母親の如くの、困ったような笑みが。

 

「本当に、救い難いほどのお人よしだよ、君は」

 

 年恰好に不相応なまでのその表情に、アクアの胸の奥が僅かに揺れる。

 ――つくづく、自分はこういう表情に弱いらしい。

 そう、半ば己の内心に呆れながら、アクアは眼前の少女から、ほんのわずかに視線を逸らした。

 

「別に、アイツのためってわけじゃない。必要だったから、出来るから、したまでのことだ。俺たちにとって、全員にとって、あれが一番だと思ったから」

「……そうかい。まあ、いいさ」

 

 くすりとした小さな笑い声が、視界の外にいる少女から漏れ出る。

 しかし、それも少しの間のことだった。

 

「星野アクア」

 

 呼びかける声の調子が、変わる。視線を戻したアクアの先にいたのは、再び真剣な表情をその顔の上に宿した、少女の姿だった。

 

「とにかく、おめでとう。君は、無事やり遂げた。私の予想を上回る結果だったよ、本当に」

 

 でも。

 そう、小さな声で言葉を繋いで、彼女は真剣な眼差しのまま、アクアを見据える。

 

「君にはまだ、あと一個だけ宿題がある。そのことは、分かってるね?」

 

 突きつけられた問いに、アクアは思わず、小さな笑いをこぼしていた。

 

「お節介だな、君も」

「知ってるからだよ、君がずっと逃げ腰だったことをね」

 

 ずいっと、一歩を踏み出してくる。

 

「いいかい? 『あれ』もまた、立派な君の使命の一つだよ」

「……そんな御大層なものかよ」

「当たり前さ」

 

 被せるようにアクアの言葉に反応してから、ツクヨミは再び一歩、その身を離す。

 くるりと反転して、背中を見せた格好から、顔だけで振り返る。

 

「だってあれも、君が取らなきゃいけない『責任』なんだから」

 

 そしてそう、悪戯な笑みを浮かべた。

 

 

 

 そんな少女の振る舞いを目の当たりにして、アクアは目を閉じる。

 

「……そうか。そうだな、確かに」

 

 気づけば再び、自らの口の端には笑みが浮かんでいた。

 

「取るさ、責任は」

「そうかい」

 

 再び目を開けたその時、彼女は再び振り返って、アクアを見ていた。

 

「それじゃ、せいぜい『健闘』を祈るよ」

 

 ずっと浮かべていたからかい交じりの笑顔を、崩すことのないままに。

 

 

 

 

 

 その言葉を最後に彼女はこの場を去ってゆき、アクアもまた家路につく。

 斯くして次の日のこと、アクアは一人の少女に連絡を取った。

 

 約束を、責任を、果たすため。

 アクア自身の望んだ、最後のけじめをつけるために。

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