その少女と話をするのに、どこを選ぶのが最も相応しいだろうか。
頭を悩ませたアクアが最後に辿り着いたのは、つい半月ほど前に自らが訪れた、あの場所だった。
神木輝と対峙したあのやや人通りの少ない一帯とは違う、それでも同じ並びにある、レインボーブリッジを望む展望エリア。
その植え込みの、縁石の上に、アクアは今腰掛けている。
「懐かしいね、ここ」
隣に座った彼女が、あかねが、ぽつりとそう、声を上げた。
「もう、三年近いんだ」
「……そうだな」
時は夜、欄干の先には眺望を楽しむ人々が屯し、周囲は電球色の暖かな照明が、夜の闇に光を灯している。そこからほんの少しだけ距離を取った場所にいるアクアたちは、故に誰からも注目されることなく、この場の中に溶け込んでいた。
互いに互いを顔を見ることなく、眼前に広がる漆黒の海へと目を向ける。そのままに、アクアは改めて口を開く。
「終わったよ。決着、つけてきた」
何のことかなど、今更口にするまでもないことだった。
「……知ってる」
あかねにしても、またそれは然りだ。
故にか、隣から聞こえるそれもまた、穏やかなものだった。
神木輝との顛末の一切は、あの二週間前の夜半には彼女の知る所になっていたのだから、当然と言えば当然だろう。
アクアが今の今まで彼女と二人きりの時間を作らなかったのは、その後始末の部分にそれだけの時間がかかったからに他ならない。
「怒られたんじゃない? ルビーちゃんにさ」
隣を向けば、そこには些かばかりの悪戯っぽい表情でアクアのことを見る、あかねの姿が見える。
図らずも浮かんでしまった苦笑と共に、アクアは頷いた。
「少しな」
「少しだったんだ」
意外だな、と彼女は言う。
「めちゃくちゃ怒られたんじゃないかなって思ってたよ」
含み笑いを交えて、半ば茶化すように、続けた。
実のところ、あかねの言葉はそう間違ってはいない。
神木輝との決着をつけに行った日。
アイに迎えられ、自室へと戻ったアクアの前に現れたのは、玄関で仁王立ちする我が妹――ルビーの姿だった。
アイがいる手前ということか、その場限りにおいてはある種大人しくしていた彼女だったが、しかし当のアイがリビングの方へと歩き去っていくなり、アクアのことを着の身着のままの姿で自身の部屋へと連行した。
連れ込まれた、彼女の部屋の中。
どうしたのか。そう問うよりも早く、アクアの身体が部屋の壁へと押し付けられた。
悲しいことに、アクアたち兄妹の膂力については、アイドル活動によって継続的に身体を動かし続けているルビーの方が完全に上である。四歳の時のあの事件のせいでアクアの身体能力がもとから貧弱であるという話はあれど、何にせよ彼女の振るう力に、アクアは抗うことなどできなかった。
そして、するつもりもなかった。
絶対に逃がさないとばかりにアクアの両肩を掴んで、ルビーが俯く。
「……聞いてなかったよ、私は」
そこから聞こえてきたのは、腹の底から滲み出てくるような、押し殺した声色の台詞だった。
――言ってなかったからな。
そんな風に茶化して返してみせるほど、アクアは人の心を解さないわけでもない。無神経でもなかった。
「どうして、お兄ちゃんはいつもそうなの」
「……ごめんな」
代わりにアクアはそう、ただ謝ることしかできなかった。
「これぐらいしか、俺には考えられなかった。もっといい方法が、あったのかもしれないけど」
「そういうこと言ってるんじゃないよ。わかるでしょ」
遮られる。アクアの身体を押し付ける腕の力が、その強さを増した。痛みさえ、覚えるほどに。
「お願いだよ。お願いだから、せんせはもっと自分のことを……っ」
ルビーの声の端が震える。それは怒りか、また別の感情なのか。アクアには、慮ることしかできない。
でも、だからこそアクアはそれに抗うように、縫い留められた肩の先、自らの手で、彼女の腕に触れた。軽く握った。
ぴくりと、反応があった。顔が、上げられた。
覗いた紅玉の瞳の、その輝きに向かって真っすぐに届けるように、アクアは静かに言葉をかける。
「ありがとう、ルビー。そうやって、心配してくれて。……だけど」
瞳の奥が震える。ルビーの腕に込められていた力が、ほんの少しだけ緩んだ。
「後悔、したくなかったんだよ。自分が出来ることは、全部やりたかったから。俺たち全員の、これからの為に」
彼女の腕を握る手に、僅かな力を籠める。それを合図に緩んだ縛めから脱して、アクアはしっかりと、己の両の足で立った。
ルビーの腕から手を滑らせる。その先の、両の手を握った。
「無茶はした。だけど、無理だとは思わなかった。心配させたのは悪かったけど、でも、おかげで今、俺はここにいる。お前の前に。母さんも、俺も、生きて」
「お兄ちゃん」。そう呆然と呟いたルビーの身体を、アクアは自身の腕の、胸の中に、ゆっくりと引き寄せた。
「終わったよ、ようやく。……終わったんだ」
静まり返った部屋の中に衣擦れの音が響いて、そこに互いの吐息が交ざる。
続くこと暫し、アクアの腕の中で、ルビーの頭が動いた。
上げられた顔が、その中の瞳が、アクアと合わされる。
「だったら、もう、こんなことはしない?」
「……そうならないように、手は打つつもりだ」
その、傍目から見ればいまいち煮え切らないであろうアクアの応答に、ルビーがほんの少しだけ、苦笑いをする。
「……まあ、それでいっか」
言葉と共に、腕が動いた。それがアクアの背中に回って、きゅっと力が籠められる。
アクアの胸に頬を寄せて、そしてルビーは、静かな声を上げた。
「おかえり、お兄ちゃん」
そんな、穏やかな声を。
「……実は、結構」
過日のそのやり取りを思い出し、訂正したアクアに、あかねが僅かな失笑を向けてくる。
「だよね。私がルビーちゃんの立場だったとしたら、多分ものすごく怒ってたと思うから、アクアくんに」
「そうか。……ごめんな、あかね」
そのIFに仮託しているだけで、おそらくあかねもまた、あの日のルビーと同じようなことを、アクアに対して思っているのだろう。
「ホントだよ。君が神木さんに刺されたって姫川さんから聞かされた時、心臓止まるかと思ったんだから」
茶目っ気を帯びて、しかし眼差しにだけは剣呑なまでの真剣さを宿した彼女が、微かに目を伏せる。
無論、同じ連絡の中でアクアの無傷は伝えられていたであろうから、彼女の心をいたずらにかき乱した時間はそう長くはなかったのだろうけれども、ただそれを聞かされた瞬間の彼女のことを思えば、アクアの心の中には僅かとは言えない悔悟の情が去来するのも、致し方のないことだった。
彼女に最後までその詳細を伏せることはおそらく最適解であったのだと、理性では分かっていても。
「本当に、ごめん」
故にそう、謝罪の言葉を繰り返したアクアに向かって、しかしあかねはゆるゆると首を振る。
その顔が、再び上げられた。
「いいよ。だってアクアくん、約束守ってくれたでしょ」
絶対、帰ってくる、って。
言葉と共に浮かんだその柔らかな笑顔が、アクアの心さえも衝く。
彼女がそれを望まないと分かっていても、胸の中に広がるものは、きっと罪悪感に似ていた。
そしてアクアのその心情は、あかねにはお見通しということだったのだろう。
彼女の浮かべる表情が、そこで変わる。
どこか、寂しさに似たものさえも、思わせるものに。
「……ねえ、アクアくん」
透明な碧玉の双眸が、アクアを捉える。声も穏やかに、けれどもそこに纏う空気が、僅かに震えていた。
「私、アクアくんの役に立てた?」
「なに、を」
思わず返したアクアの声に、あかねは答えない。
「分かってるよ。アクアくんが、私にずっと一線を引いてきたの。『恋人らしいこと』はたくさんしてきたけど、でも『恋人じゃないとできないこと』は、何もしてこなかった」
わずかに、あかねが視線を外す。投げ出されたアクアの左手に、彼女の右手が重なった。
「本当に、優しいよね、アクアくんは。イヤになるぐらい」
「全然イヤじゃないけど」と、そうくすりとした笑みと共に付け加えたあかねが、また視線をアクアに戻す。
そこには、確かな輝きがあった。アクアの視線を吸い寄せて離さない、引力さえも持った光だった。
「ものすごく優しくて、でもとっても臆病。だけど、そういうところが、私は好き」
そして今、あまりにもさりげなく、彼女は言った。
聞き逃しかけ、しかしその音を拾って思わず目を瞠ったアクアに、まるで念を押すように、あかねは繰り返す。
「好きだよ、アクアくん。ずっと、ずっと。だから私、君の力になれると思って、なれてると思って、嬉しかったんだ」
見上げるように、上目遣いに、あかねが今、アクアを見る。
それは過去の日々を振り返り、愛おしむような声だった。表情も、眼差しも。
固まったままのアクアを他所に、あかねは尚も、言葉を紡ぎ続ける。
「だからね。アクアくんが全部終わらせたって聞いたとき、ほっとして、嬉しくて、でも……ちょっと寂しかった」
「あかね」と、そう思わず名を呼びかけたアクアに向かって、少女が笑みを浮かべる。
努めて柔らかく、穏やかに。けれども、はっきりとぎこちなさを抱えた、そんな表情を。
「ごめんね、自分勝手で。でも、『ああ、これで終わりなんだな』って思うと、どうしても」
慌てた様子で言い繕って、あかねは再び背筋を正す。自らの膝の上に手を置いて、そして一度だけ、息を吸った。
「アクアくんの役に立ててたなら、私はすっごく嬉しい。これでやっと、アクアくんも自分のことを考えられるようになるんだって、思うから」
一瞬だけ目を瞑って、そこに間が出来る。
余人が何かを言うには些か短いその間隙さえも埋めるように、彼女はすぐさまに、二の句を継いだ。
「だったら。私たちのことも。私たちのこれからも、アクアくんが決めるべきだと思う」
それは気丈な声で、そして態度だった。
けれども、彼女の言葉はそこで止まる。
「だからね、アクアくん。だから……っ」
アクアに向けられた、その碧の双眸が今、揺れていた。
膝の上で握りしめられたその両の手もまた等しく、あかねの心情の一端を、アクアに報せていた。
懼れと、不安を。そして、覚悟も。
故に、アクアはようやく実感する。
だからこそ、それをけじめと呼んだのだ。責任だと。あの白い少女も、ルビーも、かなでさえも。
――いや、そうではない。思い直す。これは誰かに、何かに強いられるものでなど、ありはしない。
望んだのは、アクアなのだ。他の誰でもない。
目の前にいる少女に、黒川あかねという少女に、これから言おうとしていることは。
息を呑む、音が聞こえる。目の前の少女から。その瞳が、はっきりと震えた。
アクアは今、投げ出していた自らの手を僅かに伸ばして、彼女が膝の上で握っているその拳に、己の掌を静かに重ねていた。
そんなあかねのことを正面に見据えて、アクアはゆっくりと、口を開く。
「俺は。俺は多分、ずっと救われてたんだ。あかねに」
自らの心の内を辿るように、一つ一つ、言葉を重ねる。
「確かに最初は、打算だった。丁度ここで、今ガチで、あかねのことを側に置いてないといけないと思ったのは」
そこは、否定できない。星野アクアと黒川あかねという二人の人間の、その関係の端緒が決して綺麗な、理想的なものでなかったことは、認めなければならない。
「大体、『側に置く』ってなんだって話だよな。傲慢すぎた、今思えば」
あかねが、僅かに目を伏せる。
言いたいことはあるのだろう。けれども今、自分がそれに口を挟むことに意味がないと、きっと彼女は分かっていた。
だからこそ、言葉を換える。
アクアは少しだけ、あかねの手を握る自分の掌の力を強めた。
互いの熱が混ざる。はっと上げられた顔の中で、碧玉の星が二つ、輝いていた。
「でも。最初がなんだって、それは嘘じゃなかった」
一つ一つを思い起こすには、あまりにも数が多い。
それでも、分かる。ずっとずっと、あかねが自分の傍に寄り添い続けてくれたことも。
自分のことを、理解しようとし続けてくれたことも。
東ブレの時も、高千穂の時も、そこから先も。
今に至るまで。
「俺に道を教えてくれたのは、あかねだった。俺をここまで連れてきてくれたのは。俺にとっては、『手を引いてくれる人』だったんだ、あかねは」
言った瞬間に、すとんと、それが自分の中で腑に落ちた。
道に迷った自分に、進むべき先を示してくれた。
誰かを悲しませる選択を取りかねなかった自分のことを、咎めてくれた。諭してくれた。
一歩先に広がり続けている闇に、足取りを危うくしかけていた時には、何も言わず側に立って、支えてくれた。
「俺のことを、あかねはずっと見ていてくれた」
それは全て、あかねがしてくれたことだ。
「でも、それは。アクアくんのことを大事に思ってるってだけなら、私だけじゃなくて。ルビーちゃんも、かなちゃんだって」
「……そうだな。本当に、何でだろうなって、思うけど」
未だ微かに震えを残す声で、力のない反駁をしてきたあかねのその言葉に、思わず薄い苦笑いが浮かんだ。
「言われたよ、ルビーにも、かなにも。『好きだ』って、俺のこと。『本気かよ』って、思わなくもなかったけど」
「それ、二人に言ったら怒られるよ、アクアくん」
「分かってる」
「二人に告白された」というアクアの台詞に身を震わせた彼女が、けれども続く言葉にどこか呆れたように小さく笑って、小言を向けてくる。
それもまた、いつものあかねの振る舞いだった。本当に、いつも通りの。
「俺もさ」
けれども、それは本題ではない。伝えなければならないことは、その先にある。
首を振って、言葉を継いだ。
「二人のことは好きだよ。ルビーも、かなも。とんだ浮気性って言われてもしょうがないって、分かってるけど」
「……それも、知ってる」
「そうか。そうだったな」
あかねから、一度だけ目を逸らす。先に見える、夜の闇を内包した黒い海を、それが立てる小さな波が、この場の光を享けるようにしてきらきらと輝くさまを目に入れた。
「ルビーがずっと輝いていられること以上に、望むものなんて何にもなかった。いや、今だってそうだ。アイツがここで、ああやって生きていてくれること自体が、俺にとっては救いなんだ」
生きる意味だった。使命だと思った。アイも、母親のこともそうではあったけれども、やはり星野アクアという人間の中心にいるのは、いつだって彼女だった。ルビーだったのだ。
その本当の理由は、あかねにだって知り得ないだろうけど。
「一緒の事務所の中で、かなとバカやるのは楽しかった。あの子の努力が報われるのを見るのは、自分のことみたいに嬉しかった。かなのことをアイドルに推した意味があったって、本気で思ってる」
それはかな自身にも言ったことだ。
もしかしたら、建前の一切を取り払って人間と人間というだけの相性を評価するのならば、有馬かなという少女はアクアと最も波長の合う存在なのかもしれない。そう、思いもする。
あの灼けるような深紅の、柘榴色の双眸に、ルビーのそれと同じような眩しさを感じていたことも、また確かなのだから。
「だから、俺にとっては二人とも大事なんだ。それは、嘘じゃない」
本当に、そうだ。自分の周りに、それほどまでにかけがえのない存在がいるということ自体が、出来過ぎにも感じられるほどには。
しかし今、それでもなお、アクアは言いたかった。知らしめたかった。
視線を、あかねの方へと戻す。目を伏せていた彼女の瞼が、睫毛が震えて、上目遣いに、その視線が伸ばされてきた。
「けど、それでも。俺の一番弱いところを、醜いところを知ってるのは、あかねなんだ」
口にした瞬間、手が震えた。アクアのではない、あかねの手が。
「かなにも、ルビーにも。母さんにだって見せられなかった。でもそれを、あかねは知ってる。知っていて、それでも俺のことを、こんな俺のことを、あかねは認めてくれた。ずっと、側にいて。『いいんだよ』って、言ってくれたんだ」
右の手をも、伸ばす。両の手の中に彼女の温もりを覚えて、アクアは目を瞑った。
「だから、救われてたんだ。俺はずっと、あかねに。一生かかっても返さなきゃいけない恩が、あるんだ」
「そんな――そんなこと言ったら、私も」
「分かってる」
首を振る。「私もアクアくんに、助けられた。アクアくんに恩があるのは、私も同じ」。そう返そうとしていることぐらい、言われるまでもなく理解していた。
目を開けば、そこには顔を上げた彼女がいた。その蒼を含んだ黒髪が風に遊び、揺れる碧の双眸が、情動の全てをアクアに向かって伝えている。
「でもそれは、相殺できるようなものじゃない。それに――あかねがいなかったら、俺はもしかしたら本当にアイツと、神木輝と刺し違えてたかもしれないんだ。そういう道を、選んでたかもしれないんだ。それが正しいんだって、思って」
アイも、ルビーのことも、確かにアクアは愛していて、でもだからこそそれだけでは、そのままでは、アクアは自らの身を贄とする選択を捨てきれていたかどうかは分からない。
握り返された。両の手を掴んでいるあかねから、力が伝わってきた。
今までは、ともすれば痛みさえも覚えていたかもしれないそれが、しかしこの瞬間のアクアにとっては、どこまでも温かい。
「俺のそういうところを全部知ってるあかねが、それでも俺のこれからのことを考えてくれた。生きていいんだって、認めてくれた。だから」
少しだけ、身体を寄せる。二人の間に吹く風を、遮るように。
「『それでも生きていこう』って、思えたのは。あかねがずっと、隣にいてくれたおかげなんだろうって、思ってる」
そこには少しだけ、あの少女――「ツクヨミ」を名乗る真白の少女の手助けはあったのだろうけれども。
それでもなお、アクアが自分自身の「明日のこと」を考えるようになったのは、それを認められたのは、間違いなく今アクアの目の前にいる少女が、あかねがいたからだった。
だからアクアはここで、彼女に言おうとしている。
自ら選んで、それを願って、ここにいる。
今こそが、その時だ。星野アクアという人間の出した答えを、伝えるべき時だった。
目を瞑る。息を、大きく吸った。最後の覚悟を、心の中で定めるために。
できた沈黙を、緩やかに吹き抜ける風の中を、瞼を開くとともに発したアクアの声が、駆け抜けた。
「だから――あかね」
びくりと、あかねの肩が震える。アクアの言葉の中に、予感のような何かを、見つけたからなのだろう。
揺れる瞳を、覗きこむ。これから先、一瞬たりとも逃すことのないように。
「これが、『恩を返すこと』かどうかは分からない。いや、多分違うんだとは思う。俺が、俺自身が、したいことでしかないから。だけど」
力を込めて、引き寄せた。バランスを失い、アクアにもたれかかるようにその身を倒したあかねの顔を、アクアは目と鼻の先に見る。
口づけるような距離で、互いの双眸の中に互いの姿を見るほどの近さで、アクアは今、碧玉の目を見開いてこちらを見る、彼女に告げる。
「それでも、俺はあかねと。あかねが、望んでくれる限り」
明白な覚悟を持って、その言葉を。
二人の新しい関係を、定義するための言葉を。
「一緒にいたい。いさせて欲しい。二人の時間を、隣で歩いていきたいんだ。……許して、くれるか?」
今、口にした。
世界が、静止したかのようだった。
周りの音の全てが、消え去ってしまったようにさえ、思えた。
この世にいるのがただ二人だけで、それ以外の何ものさえもがなくなって、無限に引き延ばされた時間が生んだ空白の中で、目の前にいる少女の虹彩が、その中に煌めく光が、アクアの目の中に焼き付いている。
けれども、その永遠にさえ思えた時間も、決して本当の永久ではない。
それを示したのは、あかねの方だった。
彼女の纏った空気が、俄かに揺らいだ。
茫然と開き、アクアのことを覗いていたその瞳が、僅かに細められた。
――まるで、呆れているように。
「やっぱり、アクアくんはアクアくんだね。『好きだ』とは、言ってくれないんだ。『愛してる』、とかはさ」
反応の意外さに僅かに固まったアクアに向けて放たれたのは、糾弾にも、あるいは不満にさえも似ている言葉だった。
「いや、それは」
「分かってるよ。かなちゃんとかルビーちゃんとかと同じように、私のことも好きだって言いたいんでしょ?」
先回られた。全くもって、それは正しかった。
分かっている。アクアは未だ、自らが能動的にそういう類の感情――つまり「恋愛感情」を誰かに向けられるには、きっと至っていない。
雨宮吾郎の存在を、引きずっているからか。部分的には、そうかもしれない。
けれどもきっとそれ以上に、今のアクアは臆病だった。自分のそんな感情を誰かに向けることに、未だ忌避感を覚えていた。
そしてそのことは、あかねも分かっているのだろう。
当然だ。そういう部分も全て含めて、彼女はアクアのことを知っているのだから。よく、理解してくれているのだから。
「でも、しょうがないかな。正直、ここで『好きだ、あかね』とか『あかね、愛してる』とか言うアクアくん、ちょっと想像できないもんね。解釈違い、って言うかさ」
故に今、彼女はそう言って笑う。似ているような似ていないような、そんなアクアの声真似を、茶化すように口にしながら。
その無邪気さに声を奪われたアクアに向けて、同じ茶目っ気を保ちながら、あかねが更に、言葉を重ねた。
「――ま、でもいっか」
とん、と身体を押される。その反動で身を起こしたあかねが、正面からじっと、アクアを見る。
いつもの優しげな、慈しみさえ宿した、あの眼差しで。
「これからだもん。私も、アクアくんも。これからも、時間は沢山あるんだから」
だからね、と指を立てる。
無意識にか、意識的にか。彼女のその振る舞いの中には、
「言わせてみせるよ、アクアくんに。『大好きだ』って。『愛してる』って」
――だって。
「アクアくんの、『カノジョ』だからね、私!」
そしてその空気のままに、振る舞いのままに、あかねはアクアに向かって、ぱちりとその片目を閉じてみせた。
その、どこか吹っ切れたような少女の振る舞いに、アクアの胸が、確かに跳ねた。
今までとは違う色彩が、灯った気がした。
「――あ。そろそろ、時間だね」
呆然としたままの面持ちであかねのことを見るアクアの前で、あかねがスマホを取り出し、時間を確かめる。
それはこの場所にかかっていた魔法を解くが如き振る舞いだった。
現実へと引き戻された認識に、戸惑いながらも未だあかねの方を眺めるばかりのアクアに、あかねが薄く笑みかける。
「じゃ、晩御飯食べよっか。今日はアクアくんがご馳走してくれるんでしょ?」
「……そう、だな」
落差に戸惑うように、それでも何とか言葉を返したアクアに頷いて、あかねが縁石の上から腰を上げる。
二歩三歩と進み出て、くるりと振り向いた。中腰になって、アクアをのぞき込む。
「それじゃ、ご馳走になろっかな。ほら、アクアくん」
そしてその手を、伸ばしてきた。
「行こ」
差し出された掌の先で、あかねが笑む。
楽しそうに、嬉しそうに。童女のように、無邪気に。
故にそれに釣られて、アクアもまた笑った。
「……ああ」
一つ頷いて、差し出された手を握る。そのまま、立ち上がった。
同時に、あかねが動く。くるりとその身を翻し、アクアの傍に立って――そして腕を、アクアのそれへと絡めた。
「あかね?」
「いいでしょ?」
「……まあ、それは」
茫洋と返したアクアの声に含み笑いを零して、そして今、あかねは一歩を踏み出す。
引きずられるように歩き始めたアクアと歩調を合わせて、次の目的地へと、共に進んでゆく。
今までよりも、少し近づいた場所から。
二人の新しい距離を、これからの距離を、象徴するように。
それをアクアは、悪くないと思った。
――そこから、二ヶ月あまりの時が経つ。
新生B小町の躍進、そして盤外で起こった「爆弾」の爆発という二つの推進力を得て封切られた映画「15年の嘘」は、想定通りの――否、想定を大幅に超える動員を実現している。
正直なところ、昨今の映画産業、とりわけ国内の映画産業がアニメ偏重であることは疑いようもないことで、「ノンフィクション気味の実写映画」などというその風潮に真っ向から対抗する本作が予想外の躍進を果たしたのは、いくつもの幸運が重なったことによるものなのだろう。それを果たして手放しに「幸運」と呼んでよいものであるのかは、定かではないけれども。
いずれにせよ、映画「15年の嘘」は、その公開月における月間動員数ランキングにおいて首位を達成した。同月に、またその次月に大作のアニメ映画の類の公開がなかったことも、間違いなくその快挙の要因に相違なかったけれども。
ただ何にせよ、その映画は見る人全てに力強いメッセージを残した。
それは「アイ」と云う名の少女の、半生の物語だった。
彼女が抱いた願いが、十五年の時を経て結実に至る、希望の物語だった。
そしてその裏に流れるのは、彼女が直面し続けた芸能界という世界の負の遺産を、それが生み出してしまったいくつもの悲劇を包含し、そしてそれを精算するための物語だ。
あるいは、変革の物語だった。
自分の作り出した映画で、社会さえも動かす。
それを夢に見ていた五反田監督にとっても、この映画が世論に対して、あるいは芸能界に対して果たした役割というものは、きっと特別な意味を持っているだろう。
どれほどにちっぽけであっても、限られていても、巨視的視点の中では誤差でしかないのだとしても。
それでも、確かな一歩には相違なかったのだから。
話題の渦中にいるのは、アクアもまた同じだ。
いや、アクアだけではない。ルビーもアイも、当然にそうだった。
映画「15年の嘘」が封切られてから時を置かず、苺プロダクションは一つのニュースリリースを打つ。
それは所属する三人のタレントの、芸名の変更に対する周知文書だった。
誰のことであるかなど、隠すまでもない。
アクアは、「星野アクア」に。
ルビーは、「星野ルビー」に。
そして――アイを、「星野アイ」に。
それはつまり、世の中に対してアクアたちの「本当の関係」というものを公にする行為だ。
世の中が、アクアたちの真実を確かに受容するに至ったことの、この上ない証左でもあった。
アイは、今までの「天真爛漫でかつ神秘主義的な、永遠の若さを持つ元アイドルの女優」というキャラクター性に、「透徹たる覚悟を持って双子の子供を立派に育て上げた、強く優しい、また美しい母親」という新たな側面を加えた。
ルビーも同じだ。「伝説となった星に憧れ、その影を追いかけて、ついに正統たる継承者として名実ともにその名を引継いだ、『新たなる伝説』たるアイドル」という美名の上に、「母の夢を受け継ぎ、しかしそれを誰に対しても明かすことなく、母親の威を借りることなく己の夢を成し遂げた、健気で強い娘」という評価を得た。
アクアの思い描いていた心配は、全くの杞憂だった。「母と娘」という新たな顔を世に向けて明かした二人へと注がれる世間の目は、概して好意的なものに終始した。「いつか母娘共演のステージを」などと、望まれるぐらいには。
そして、その変化はアクアに対しても及んだ。
壱護社長の差し金か、あるいは鏑木の気まぐれなのか。アクアとしては知られようとも思わなかった、隠しておくはずだった、ここまでの水面下の努力が、世に向けて明らかにされていた。映画「15年の嘘」の制作秘話として。あるいは、新生B小町のこれまでの軌跡を語る文脈の中で。
「母の願いを叶えた孝行息子」。「妹の夢の最大の理解者」。「全てに妥協せず、そして全てを成し遂げた男」。
アクア自身からしたら羞恥に身悶えしたくなるほどの美辞麗句が、並べ立てられる。それを仕向けた「悪い大人共」に向かって思わず悪態の一つや二つ吐き出したくなるほどには、そうだった。
けれども、ある意味ではそれも責任なのだろう。アクアの個人的欲求を成就するために彼らを散々に振り回し、付き合わせたことに対する結果がこれであるのなら、そこに生まれる「需要」を満たすことで、その市場価値によって彼らに「還元」することは、「ベネフィット」をもたらすこともまた、アクアには求められるのだろうから。
「恩を売り、その売った恩を使って金を稼ぐ」。鏑木のその露悪的とも言える言葉を、アクアは今更ながらに噛み締めていた。
二か月という時の流れの中、それほどまでに変わった世界で、冬から春へと移り変わった季節の中でも、アクアたちの過ごす日々は、当然のように過ぎてゆく。
年度が変わり、アクアは大学へと進学した。ルビーもまた、そうであったが。
結局アクアは自らの進路を、医大へとは
雨宮吾郎ではない、星野アクアとしての未来を、アクアは選んだ。そういうことだった。
今に至るまでの十八年の中で得た新たな夢が、アクアの中には灯っていた。
――夢を持つ人々を、その輝きを、形にしたい。それを見守り、育てられるように。
先に見えているのは、五反田監督のような「映像制作」への道か。あるいは壱護社長のような、「芸能事務所の経営者」という進路であろうか。
具体化された姿を、アクアは完全に定められたわけではない。けれども今アクアには、そんな朧気ながらも確実に存在するビジョンを、心の中に抱いていた。抱けるように、なっていた。
故に、アクアは医大とは違う道に進んだ。
既に一年前にあかねが入学を決めたのと同じ、都内最高峰とも言える大学の、しかし彼女が選んだものとは違う学部。それが、アクアの定めた進路だった。
なんであれ、故に今アクアは「現役大学生」と「売れっ子タレント」という二足の草鞋を履く、慌ただしい生活を続けている。一年先んじる形でその世界へと入ったあかねと、肩を並べるように。
それはきっと、続いていく明日だ。アクアの想像の外側にある、可能性と不確定性と、確かな希望を内包した、無限に拓けた未知の世界だ。
アクアだけではない、誰にとっても。
アイにも、そしてルビーにしても。
時は四月中旬。数日前まで続いた花冷えもようやく過ぎ去り、やってきた暖かな陽気の中でも、午前五時ちょうど、日の出のわずかに前のこの時間においては、未だ肌寒さが世界の中には充満している。
その中を劈き、貫くアラームの音が、一人の少女の一日の始まりを告げる。
「朝だなぁ……お仕事だぁ」
払暁の明り差す街の中、カーテンを開いて、その金糸の髪を長く伸ばした少女が、窓の前で伸びをする。
僅かに出かかった欠伸を押し殺して、彼女は両の頬を自らの手で一つはたいた。
「よし! 今日も元気!」
言って、振り返る。
朝も早い故に、彼女には迎えの車が来る。おにぎりの類の軽食とはいえ、朝食もそこにあることを、彼女は知っている。
故に彼女のすべきは、身支度だけだ。顔を洗い、歯を磨き、髪をすすいで整えて、真新しい服に袖を通せば、彼女の一日が始まる準備は、すっかりと整う。
五時二十五分。約束の時間の五分前だ。この部屋を出るべき、頃合いの時刻でもある。
リビングから身を躍らせ、廊下へと出る。そこに待ち構えていたのは、二つの人影だった。
「おはよ!」
「そろそろだよな」
片や、跳ねるような底抜けの明るさと朗らかさを持った、女の声。
また片や、冷静さのなかに確かな優しさを秘めた、男の声。
少女にとって最も大事で、愛すべき、それは家族の声だった。
「おはよっ、ママ。お兄ちゃんも」
言いながら、彼女は二人の間を通り抜けて、玄関へと出る。
「ルビー。今日は午前上がりだったか?」
「もしかしたら午後一までかかるかもだけどね。あと四限に講義一個入ってるから、結局帰りはいつも通りかな」
「ああ、そうだったか。なら、気をつけろよ」
「分かってるよ。終わったらミヤコさんに迎えに来てもらうから」
いつも通りの会話を重ね、少女――星野ルビーが、部屋の玄関扉に手をかける。
僅かに力を籠め、開いた隙間に外の景色を覗かせて、彼女は今一度、アクアたちに向かって振り返った。
当たり前のようにそこにいる少女が、当たり前のように彼女のことを送り出そうとする自分の家族の姿を、今、その視界に捉えた。
そして笑う。快活に、明るく、希望に満ちた笑顔を、そこに浮かべた。
「それじゃ、いってきます!」
ならば――そう。
どこまでも、それはありふれた日だ。
ルビーに、アクアに、そしてアイに。誰にとっても、なんでもない日だ。
けれども。いや、だからこそ。
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい!」
――今日という日もまたきっと、みんなにとって素敵な日だ。
『天には星を、人には愛を』 了
このエピソードの投稿のタイミングで、以下のタグを追加します。
追加タグ: 「ハッピーエンド」
まずは、本作を何とか走り切ることができたことについて、ここまでお付き合いいただきました皆様のおかげです。
作者の長編二次として初の百万字の大台に乗る作品となった拙作、いろいろ「もっとうまく書けただろう」という反省点はありつつも、どうにか書きたいテーマやメッセージについては込められたのではないかと考えています。
ラストがアクあか気味(というより9割アクあかエンド)で終わったのは、作者側の趣味も2割ぐらいは入っていますが、やはり本作のアクアの精神性を考えれば必然的にこうなるかなというところが大きかったです。ここまでおんぶにだっこの状態でけじめをつけないのはあり得ないというか。
ともあれ、これで本作におけるアクアたちの物語は一区切りとなります。
このあとですが、まず一篇、来週の日曜、5/11(日)の母の日に合わせて「母の日短編(星野家編)」の後日譚を更新予定です。
その後ですが、もう一件ほど後日譚エピソードを書こうかと考えています。
ですので、その追加エピソードのテーマを何にするのがよいか、アンケートを取らせてください。期限は5/11までとします。
ご協力をお願いいたします。
最後になりますが、皆様に本作にお付き合いいただきましたこと、重ねてお礼申し上げます。
ここまでありがとうございました。
厳冬蜜柑 拝
後日譚の内容について、どのようなものが望ましいでしょうか?
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アクあか短編 (突撃! 黒川家編)
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B小町短編 (今ガチメンバー襲来編)
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星野家短編 (アイルビ親子ライブ編)