アクアがやり残した、もう一つのことのお話。
EX-1. 貴方に赤の花束を
芸能界――というより、所謂「ゲーノー村」の歳時記において、世間一般における休日や休暇の類がそのままオフとなることは稀だ。売れっ子であれば、なおさらのことである。
我らが苺プロの所属タレントとて、決して例外ではない。と言うよりも、年が明けてからこの方
どういうことかと言えば、つまり新生B小町として精力的に活動するルビーも、トップタレント兼女優としての活動を続けているアイも、そしてアクアにしても、今年のゴールデンウィークは実質的に返上となるほどの仕事が寿司詰めになっていた、という話である。
「嬉しい悲鳴」と言うべきか、それとも新たな生活に慣れる暇もなく、押し寄せる波の如くにやってくる仕事に文句の一つでもつけるべきなのか。
一体どう現状を評価すればいいのかは、難しいところではあったが。
いずれにせよ、アクアたちにとっての年度明けのひと月は、次々やってくる仕事と共に矢の如く過ぎ去ってゆく。
けれどもその中で一日だけ、アクアは絶対に外せないオフの日を作っていた。アクアだけではない。ルビーもまたそうだった。
「五月、第二日曜日」。
その日は今のアクアとルビーの二人にとって、この上なく大きな意味を持っていたからだ。
そして、アイにとっても。
時は朝、日曜日であるというのに早々に仕事に出掛けて行ったアイのことを見送ったアクアたち双子は、事前に計画していた通りに、早速とばかりに行動を始めた。
二人にとって、今日と言う一日は長い。無駄にするわけには、いかなかった。
「持ったか? 荷物」
揃いの黒い帽子と、角縁のサングラス。そして白と黒のジャージ。
気づけばすっかり「芸能人」めいてしまったアクアたちの素性を隠すその装いをそれぞれに身に纏った状態で、玄関先にてアクアはルビーに問う。
対するルビーは、心なしか得意げな顔で己の右の手を掲げてみせた。
そこにあるのは、大きな手提げ袋だ。百貨店のロゴがプリントされた、紙袋だった。
「だいじょぶだいじょぶ。このままミヤコさんのとこなんだよね?」
「ああ。だから俺も、だな」
言いながら、玄関脇に置かれているシューズインクローゼットから、アクアもまた一つの荷物を取り出す。
ルビーのそれとよく似たその紙袋を腕から提げ、玄関扉に手をかけて、アクアは改めて、ルビーを見返す。
「それじゃ、行くか」
彼女の返事を待つことなく、アクアは鍵の開いたそのドアを、大きく開け放った。
今日と言う、長い一日の始まりだ。
アイと、そして
そこから、二十分ほど。
「そういえばさ」
辿り着いた第一の目的地の中、隣を歩くルビーが、思い出したようにアクアに向かって声を上げた。
長く伸ばした黄金色の髪を一房だけ結ったいつもの髪型とは違う、ポニーテールにまとめられた金紗が、顔と、そして身体の動きに合わせるように揺れている。
「こういうとこに二人でって、全然なかったよね、今まで」
彼女が握っているのは、ショッピングカートの柄の部分だ。いくつかの食材をその上に載せ、カートを押して運びながら、サングラスの向こうに微かに見える紅玉の瞳が、きらきらとした輝きを放っていた。
アクアたちの家と、斉藤夫妻の家。その大体真ん中あたりに位置しているスーパーマーケットの中に、今アクアたちはいる。
二人揃って、食材を選ぶ。アイの手も、ミヤコの手もまた、借りることなく。
それはすなわち、これからのアクアたちの予定に関連するものだ。正確には、今日の夜に向けての準備だった。
「まあ、そりゃな。気をつけなきゃいけなかったから。今までは、色々」
スマホの中にメモしてある、「今日の献立」のために買い揃えるべき食材の数々を確認しながら、アクアはルビーのことを先導するように、売り場を巡ってはバスケットの中に品物を放り込んでいく。
ルビーに向けて答えた言葉の通り、こういうある意味所帯じみた場所に、こうして二人で出向くことは、今まであまりなかったのは確かだ。
アクアたちが高校に上がるより前は、アクアが五反田監督の家に入り浸る時間が長かったことで、単純に機会がなかった。
そして高校の三年間においては、ルビーがアイドル活動を始めたこともあって、スーパーなどと言う人目につくような場所に彼女の姿を晒すわけには、もういかなくなっていたのだ。
「でも、それこそ中学んときとかはミヤコさんと二人で来てたりはしたんだろ? 買い物」
「そだよ。じゃなかったら、私こういうお店で何すればいいかとか、全然わかんなかっただろうし」
「だけどまあ」、と口にして、ルビーは立ち止まる。
じっとアクアの方を見ながら、彼女は少しだけ、悪戯っぽく目を細めた。
「そう考えるとさ、お兄ちゃんってあんまミヤコさんと『お母さん』っぽいこと、してないよね」
「……まあ、そりゃな」
アクアとしても、正直ルビーの言うことには頷かざるを得ない。
確かにアクアとルビーの母親は、血縁という意味ではアイただ一人だが、それでもミヤコは、そして壱護社長も、戸籍の上での両親であり、アクアたち二人にとっては「家族」である。最低でも、書類上は。
けれども、アクアにとってその実感というものは、正直なところ今一つ薄かった。今この時においてさえ、である。
壱護社長は、アクアにとってあくまで雇用主であり、また同時にアイに関する因縁を終わらせるための、ある種の同志のようなものだと考えていた。
そしてミヤコに関しては――正直なところ、一言で表現することは難しい、ように思う。
かつて、乳飲み子であったアクアとルビーの二人の子守りをしてくれた人ではある。
けれどもそれがすぐさまに、アクアにとって「もう一つの母親」と呼べるような存在になるかと言えば、そうでもない。
「事務所の副社長」、であるとか、「雇用主の社長夫人」であるとか、そうとだけ言って切り捨ててしまえるほどには、疎遠でもないのだが。
ならば一番近いのは、「親戚の女性」、だろうか。そんな立場の人間を、アクアは吾郎であった時代から一人として持ってはいない故に、その形容が正しいのかさえも分からないが。
「それを考えたら、ルビーの方がよっぽどか」
「だね。私とミヤコさん、仲良しだから!」
これ見よがしにウインクしてみせたルビーに向かって、アクアは苦笑交じりに息を吐く。
なるほど、彼女にとっては間違いなく、ミヤコもまた家族の範疇であるという実感を持っているのだろうと。
だからこそ今日、今から出向く先に、彼女は斉藤夫妻の家を選んだのだろう、とも。
ならばきっと、多分それは、アクアも見習わなければならないものだ。
それが、今日という日の意味なのだと、知っているから。
よっと、と軽く声を上げながら、ルビーが今一度歩き始める。
立ち止まったままだったアクアの隣に並んで、しかしそこでまた、足を止めた。
「でもさ、やっぱり」
正面を向いたまま、アクアの方へは目を向けずに、まるで思い出したかのように、口にする。
一瞬だけ、俯く。けれどもそれも束の間、彼女は吐き出した息と共に顔を上げた。横を向いて、そしてアクアのことを見上げてきた。
「こうやってお兄ちゃんと二人でお買い物するの、良いなって思うよ」
アクアの方の答えも聞かず、ルビーは表情を和らげる。
「他の人からしてみたら、当たり前かもしれないけどさ」
そのまま前を向いて、ルビーはまた歩き出した。
その足取りも軽やかに、カートを押しながら。
跳ね、揺れて、躍る。その金糸の髪の後ろ姿を見ながら僅かの時間立ち尽くしていたアクアも、しかし置いて行かれぬようにと、足早に歩き始める。
「……そうだな。本当に、そう思うよ」
彼女には聞こえないほどに小さな声で、そう、答えを返した。
アクアたちが次なる目的地、つまり斉藤夫妻の家に辿り着いたのは、丁度太陽が上天高く架かる昼頃のことだった。
家の主たる壱護社長とミヤコの二人は、当然に仕事ということで家を空けている。そういうわけで、アクアたちは呼び鈴を押すこともなく、持っている合鍵で中へと入った。勿論、彼らの留守中にお邪魔することに関しては、事前に伝えた上でである。
他人の家とは言え、見慣れた光景だった。
土間のすぐそば、靴箱の上を見れば、そこにはいくつかの写真が、そしてグッズの類が、陳列されている。
壱護社長とミヤコ、それにアイとアクアたちの、五人の写真。
アイがB小町のセンターであった時代のものから、アクアたちが小学校に、そして中学へと進学するたびに撮られた、その時々の制服姿が、フレームの中に切り取られ、並んでいた。
もちろん、それだけではない。アクアたちの芸能活動の軌跡を証明するようないくつかの小物も、綺麗に整頓されて並べられていた。
B小町時代のアイのグッズに、ルビーのブロマイドやサイン色紙も。またあるいは、アクアのそれも。
その全てを目にするたびに、アクアは自覚する。いや、理解する。
アクアの認識はどうあっても、この家の主たるあの二人から見たアクアたちは三人共に、単なる事務所の所属タレントではない何かでは、あるのだろうと。
それをただ安易に「家族」という二文字に押し込めてしまうことが正しいのかは、アクアには未だよく分かっていなかったけれども。
ともあれ、道中のスーパーで調達したのは生鮮食品だ。早々に然るべき場所に納めておかねばならぬ類のものである。
よってアクアはルビーと二人、まず何より先にキッチンへと入って、買ってきたそれらを片っ端から冷蔵庫に押し込む。
十分ほどの時間をかけてそれを済ませた頃には、まさに時計は正午、十二時を指し示していた。
ルビーに家のことを任せ、アクアは一人買い出しに出掛ける。二人して摂っていなかった昼食を調達するためだ。
しかし、それだけではない。もう一つ、今日この日だからこそ必要となるものを、アクアは用意しようとしていた。
コンビニで適当に食べるものを買い揃えた後、その足でアクアが向かったのは、園芸店だった。
用件は、ただ一つ。つまりアクアが買い求めようとしていたのは、花だった。
「二束の、切り花」だった。
それが日の目を見るのは、今日の夕刻のこと。
今日と言う日の主役が、アクアたちの待つ家へと帰ってきてからのことである。
必要なものを全て調達し終えたアクアは斉藤夫妻の家へと戻り、そこからアクアとルビーの二人は、いよいよもって準備に本腰を入れる。
サンドイッチの類いの軽い昼食で腹ごしらえを済ませた二人が最初に取り掛かったのは、部屋の装飾だった。ルビーの持ち込んだ紙袋の中から取り出した、色とりどりの折り紙で作られた輪飾りを、二人がかりでこのリビングの空間の中に張り巡らせてゆく。同じように、紙で作った花もだ。
「なんか、あれだよね」
共に黙々と作業を進める中、ルビーが声を漏らす。
「見てるだけで、なんて言うかワクワクするよね! なんかこう、手作り感! って感じが!」
出来上がりつつある飾りを見ての感想だ。
脚立の上に足を乗せ、打った鋲に輪飾りを通していくアクアの背後で、彼女はまさしく目を輝かせていた。
振り返って、アクアはしばし無言でそんな彼女のことを見る。
「……なに? お兄ちゃん」
その視線に気づいたか、どこか怪訝そうなというか、ともすればバツが悪そうな表情で見上げてきたルビーの顔に、気づけばアクアは小さな笑みを漏らしていた。
「いや、別に。――同感だなって」
全くもって、言葉の通りだった。
改めて部屋の中を見渡して、アクアは思う。
なんとステレオタイプな、ホームパーティーの趣だろうか。けれども同時に、そういう空間を今ルビーと二人で作っていることを、そして
「ともかく、もう少しだからペース上げるぞ。これから料理もあるんだからな」
「らじゃっ!」
そこで一頻り緩んだ空気を引き締めるように改めて声をかけたアクアに、ピンと手を伸ばしたルビーが、どこかおどけたように答える。
斯くして二人、そこからも手を携えて協力しあいながら、この祝いの場を一つ一つ、着々と作り上げていく。
アイが、そしてミヤコが帰ってくるまで、あと四時間。
この日アクアとルビーが主催するパーティーの、
そして、夕方。
帰宅の予定から寸分違わぬそのタイミングで、アクアと、そしてルビーの待ち人はやってきた。
「たっだいまー!」
呼び鈴が鳴り、同時に鍵の音と共に開かれた玄関扉の向こうから、一人の女性が快活な声を上げながら、颯爽と土間の中へと割って入ってくる。
もう今年で三十五歳にもなろうというのに、アイドルを引退した二十二歳の頃から、歳を重ねることそのものを忘れてしまっているとしか思えない。
そんな無邪気さと若々しさを、そして美しさを内包し続けている彼女――アイが今、アクアとルビーの待ち受けるこの家に、姿を見せた。
艶めき、煌めく黒髪を遊ばせて、その出で立ちは、また笑顔も声も、彼女が現れた空間それ自体を一気に華やいだものへと変貌させるほどの存在感を持っている。
けれども、それはあくまで普段の話だ。今日は、今日ばかりは、アイという存在が作り出す華やかさよりもなお煌めく彩りでもって、アクアたちは彼女のことを迎えようとしていた。
「って、えぇ!? なにこれ!」
故にそれに続くようにして発されたアイのその驚きの声は、アクアと、そしてルビーのこの場における「準備」の何たるかを何よりもよく表していた。
今、彼女のことを迎え入れたこの空間――斉藤夫妻の家の玄関と、そこから続く廊下の一帯には、普段のこの家には絶対にないであろう、彩りに溢れた装飾が施されている。
七色の飾り布と、金色のモール。それが玄関から一直線に、廊下の壁を伝ってリビングの扉へと伸びている。この家にやってきた人を、奥へと誘うように。
「……すごいわね、これ」
当然にというべきか、アイに続いて家の敷居を跨いだこの家の主――ミヤコもまた、どこか呆気にとられたような表情で、普段とは全く違った表情を見せる自身の家の風景を見渡していた。
更にその後ろの、壱護社長もである。
得意げに鼻を、そして頬を気持ち膨らませているルビーの、ある意味彼女らしいとも言える姿を横目に、アクアもまた少しばかり頬を緩めながらも息を吐く。
予想以上とも言える反応に気をよくしている自分を、否定はできなかった。
もちろん、家主である壱護社長とミヤコの二人には、事前にこういった
しかしその完成図がどのようなものであるかは、アクアも流石に伝えてはいなかった。
「おかえり、母さん。ミヤコさんも、お疲れ様でした」
「ほら、ママもミヤコさんも、早く早く!」
それもまた、当たり前のことだろう。
なんとなれば彼女も、ミヤコもまた等しく、この場におけるゲストであるからだ。今日という一日において、もてなしを受けるべき主役の一人であるからだ。
かねてからアクアが、そしてルビーが、考えていた通りに。
ともあれ、しかしそれは序の口も序の口である。
リビングの扉を開けば、中から漂う「ご馳走」の香りに目を輝かせたアイが、テーブルの上に広がる光景に歓声を上げる。
入口と同じ、いや、それ以上に煌びやかに飾り立てられた部屋の中の光景に、ミヤコが目を丸くしていた。
新鮮な、そして期待通りの反応だ。準備をした甲斐が、あったというものだろう。
彼女たちの後ろに立って、アクアはルビーと二人、ばれないように音を立てずに、小さなハイタッチを交わした。
「そういうわけで」
アイの見せていた興奮が一段落つき、大人たちがそれぞれに準備を整えてから、全員で囲んだテーブルの上で、アクアは改めてそう呼び掛ける。
いつぞやのB小町の祝勝会と同じく、この場における音頭を取るためだった。
この場の皆の注目を集めてから、今日の集まりの趣旨を、アクアは敢えて宣言する。
「今日は、母の日です。母さん、憶えてたか?」
「え? あー……? そうだった、かな?」
唐突にアクアから矛先を向けられたアイが、どこか曖昧に首を傾げた。
そうだろうなと、アクアは内心で頷く。
帰宅して直後の振る舞いからも、彼女がこの飾りつけの理由そのものに意識が向いていないことは明白だったからだ。「なんかよくわからないけどアクアたちがパーティーをしようとしている」、ぐらいの感覚だったのだろうことは想像に難くない。
寧ろアクアは、彼女がそういう認識であることを分かって、敢えてアイのことをこの場に招いた。勿論、今日の趣旨については何も伝えることなくである。
つまりそこにあるのは、ある種のサプライズの意図だった。
そしてそれは、決してアイだけに向けてのものではない。
「そうなんです。というわけで、今日は僕たち二人で、
「そう! ママと、ミヤコさん!」
もう一人、アクアが敢えて何も伝えなかった彼女が、ミヤコが、ルビーに名前を呼ばれて僅かに目を見開いた。
そのままリビングの壁の中央、アクアたちが掲げたメッセージボードの方に視線を向けて、そこに書かれた一文に、はっと息を呑む。
まさしくそれこそが、アクアたちがこれほどの準備をして彼女たちを迎えた意味というものを、今日の趣旨そのものを、端的に伝えていたからだ。
すなわち――「Happy Mother's Day! Ai & Miyako」、と。
「なので――」
果たしてそこで、ある種満を持して、アクアは自身の腰掛ける椅子の横に置かれていた紙袋からその中身を取り出す。
ラッピングされた、二つの花束。それは今日の昼にアクアが買い求めた、今日と言う日の象徴の花だ。
――深紅の、カーネーション。
取り出したその片方を、アクアの隣にやってきたルビーへと渡す。
そして二人それぞれに、互いが花を渡すべき相手の前へと進み出た。
ルビーは、アイへ。
そしてアクアは、ミヤコへ。
隣に立ち、真っすぐに彼女たちの顔を見て、手に抱えた鮮やかなその赤を、しずしずと差し出す。
「母の日、おめでとうございます、ミヤコさん」
「母の日おめでとーございます、ママ!」
それと同時、アクアとルビーは二人息を合わせて、そう唱和した。
母の日に贈るカーネーションの色を、赤とする意味。
いや、赤に
起源を辿れば、元来この日に贈られるカーネーションは、白いものだったという。
真白のカーネーション。それは「死せる母親への手向け」だ。母の日にこの花を贈る風習は、その原初においては祝福のためのものではなかった。惜別の、哀悼の、鎮魂の思いを、込めたものだった。
だからこそ今、白ではなく赤の花束をこうして二人に差し出せていることの、どれほどに尊いことかと、アクアは考える。
それだけではない。三人の、否、五人の「家族」の誰もが欠けることなくこの場に集って、今日と言う日を祝えていることだって、何一つ当然でないと、知っている。
十五年前の、あの朝から。
あるいは、雨宮吾郎として生まれた、その瞬間からさえも。
広がったのは、沈黙だった。
差し出された花束に、アイも、そしてミヤコもまた、何も言葉を発さない。身動ぎさえ、することはなかった。
呆気にとられたような表情だった。特に、ミヤコは。その顔の上に浮かんだ、言葉には決してならない言葉の意味を、アクアは読み取る。
――どうして、私が、と。
しかしそれにアクアが何かを言うより先に、彼女の対面で、声がした。音が聞こえた。
「え、すっご、え、ほんとに?」
当惑と歓喜の、入り混じったような声。
「てか、この料理とかも全部だよね?」
言いながら、アイが改めて気づいたかのように、テーブルの上、大皿に盛られ、並べられた料理を見回す。
そこに座しているのは、決して凝った類の、小洒落たメニューではなかった。
ハンバーグに唐揚げ。
チキンライスにミートソーススパゲティ。
それに、シーザーサラダ。
「大きなお子様ランチだ」という表現が、相応しいだろうか。改めて自分たちの作り上げたそれを眺めながら、アクアは思う。
なんとも、ありふれたものだろう。この場を彩る、張り巡らされた装飾の類も含めて、ともすれば陳腐だという向きさえ、あるかもしれない。
けれども同時に、今日という日に限っては、その陳腐さこそが何よりも必要なものであると、アクアは考えていた。ありふれているということにこそ、意味があるのだと。
そう考えているのは、ルビーもきっと同じだろうとも。
それはなにも、「アイが子供舌だ」と言っているのではない。
けれどもおそらくこれは、アイが子どもであった時代に、決して得られなかったであろう光景だから。
そして、あのドームの日に負わせてしまった彼女の心の傷によって、アクアとルビーに対して、アイが見せられなかった景色でも、あるだろうから。
「そっか。……そっかぁ」
ルビーから差し出された花束を受け取って、吐息交じりのような言葉を漏らすアイの表情は、そこに内包されている感情は、どう表現するのが正しいのだろうか。
アクアその憶測は、的を外していないだろうか。
本当のところは、分からない。けれども、アクアは見た。
僅かに、彼女の瞳が閉じられる。渡されたカーネーションを、その鮮やかな赤を、胸に抱えた。
手に、力が籠められる。壊して、潰してしまうことのないように、それでも絶対に、離さないようにと。そんな趣を、アクアは感じ取った。
「――ありがと」
そして次に目を開けて、彼女が見せたその笑みは、柔らかく、温かく、朗らかで、この世の何よりも美しいものだった。
そう、感じられた。
「ミヤコさんも、ですよ」
だからそこで、アクアは改めて腕の中のそれをミヤコに向けて差し出す。
正面から、その姿を見た。栗色の髪も、琥珀色の瞳も、華やかでありつつも、慈しみと優しさを湛えた顔貌も、その彼女が今浮かべている、茫洋とした表情も、また。
「確かに、俺たちからすればミヤコさんは、本当の親、とは言えないのはそうです。書類の上の関係と、言ってしまえるかもしれない」
けれども、と首を振る。ルビーに目配せを送れば、彼女もまた頷いて、ミヤコの方に真っすぐに視線を向けた。
「でも、ミヤコさんがいてくれたから、僕たちはこうやって三人で
「そーそー。ミヤコさんいてくれなかったら、私たちを産んだ後、ママは多分限界になっちゃってたと思うしさ?」
ルビーが横から、口を挟んできた。
十五年以上前の、子供の時の話かもしれない。けれども、それは今だからこそ振り返る意味があるものだ。
「それだけじゃ、なくて。壱護社長が営業とかで忙しくしている間、事務所を守ってくれたのも、俺たちのことをずっと気にかけてくれたのも、ミヤコさんですから。『ダンナの事務所の所属タレントだから』とか、そんな話じゃなくて」
ずっと、言えなかった。
気恥ずかしさもあったかもしれない。ガラじゃないという思いが、なかったとは言えない。
けれどもきっとそれ以上に、アクアは自分がそれを彼女に言う資格など、あるはずがないと思っていた。
ルビーより、ずっと希薄な関わりしか持たなかった、持てなかったアクアには。
これまで向き合ってきたものを、何一つ彼女に打ち明けることのなかった自分には。
実の母の、アイのことさえも「母親」だと断言出来やしないのに、ましてミヤコのことをそう思おうとするなど、滑稽以外の何と表現すればよいだろうか、とも。
「俺たちは多分、ずっとミヤコさんという庇に守られていたんだって。気づいているところでも、気づかなかったところでも。……だったら俺も、言わなくちゃいけない。いや、言いたいんです」
しかし、それは違った。
十五年に亘る旅の、辿ってきた路の全てを振り返って、ようやく分かった。
言わなければ、伝わらない。
そして伝えなければ、変わらないのだ。何一つ。
「ミヤコさん。いや、壱護社長も。書類だけじゃない、俺にとっては、母さんと同じ、ルビーと同じ、『家族』なんだって。だから」
半歩、近づく。互いに合った視線と、覗く瞳を逸らすことなく、彼女の胸元に押し出すように、手の中の深紅のカーネーションを、花束を、もう一度掲げた。
「だから、ミヤコさんも。――受け取って、
敢えて崩した言葉遣いに、きっと彼女は、ミヤコは今、アクアの意図を理解した。
大きく息を吸う音が聞こえて、同時にゆっくりと、腕が伸ばされる。アクアの手の中にあるその「赤」に、微かに震える彼女の手が、触れた。
花束のラッピングが、それが擦れ合うかさかさとした音が、部屋の中に響く。アクアが手を離すと同時、そちらに向けて落とされていたミヤコの視線が、再び上がった。
静かに、アクアと見合う。もう一度だけ彼女の手許から、花束から、くしゃりと音が鳴った。その花束を、握る音が。
「――」
声にならない声が、吐息が、漏れた。口の端が、震えていた。
けれどもそれは一瞬のことで、そこでミヤコの表情が、確かに緩んだ。
笑みが、見えた。
「――ええ」
アクアを見て、ルビーを見て、そしてアイを見る。
全員から向けられている視線を理解して、ミヤコは改めて、アクアに正対する。
綻んだ蕾の如き晴れがましい笑顔を、そのままに。
「ありがとう、
彼女は、そう言った。
斯くして、パーティーは始まる。
早速とばかりにテーブルの上に所狭しと置かれた料理に飛びついたアイが、歓声をあげながら、アクアと、そしてルビーのことを褒めそやす。
そこに、憂いは見えなかった。かつてのように、アクアがキッチンに立つことへの、その中で刃物を扱うことへの拒否感を、もう彼女は示さなくなっていた。
その意味するところを、アクアは知っている。
アイはようやくあの場所から、ドームライブの当日の早朝のあの玄関の心象風景から、抜け出せたのだ。彼女があの日よりずっと抱えてきたであろう、軛から。
それはどれほどに、祝福されるべき瞬間だろうか。
片や、シャンパングラスに注がれたスパークリングワイン――もっとも、このあとアクアたちの送迎があるためにノンアルコールではあるのだが――で口を湿らせながら、ミヤコがこれまでの思い出話に花を咲かせる。
彼女だけではない。壱護社長もだった。遥か昔、ルビーがアイドルを志すことを明白に宣言した、あの幼稚園の「おゆうぎ会」の直後から今に至るまでのある種の苦労話を、改めて彼女たちは語っていた。
今はもはや美しい思い出として、どこまでも楽しげに、愛でるように。
ならばそこにも、もう憂慮すべきものは一つとして存在し得ない。
いつかこんな日が来ればよいと、ずっと夢に見ていた。
何としても取り戻したい景色だった。
そうあるべきだと、思っていた。
それでもなお、その中に自分が、星野アクアがいる今日を、かつての自分がどれほどの現実味を持って想像できていたかと言えば、きっと答えに窮するのだろう。
作り上げられた大団円の只中に、自分の存在を含めることを無意識のうちに忌避する心理がなかったかと問われれば、否定するのは難しかったからだ。
そのことを、浅ましいと感じてしまう自分が、確かにいたからだ。
しかし、今は違う。
そして違うと言えることこそが、今までの十九年もの歳月の意味なのだろう。星野アクアの、きっと「成長」なのだろう。
そう、何となく、訳もなく、アクアは思った。
そこから二時間あまり続いた母の日の祝いの席の中で、この場に集った五人は、紛れもなく「本物の家族」として、一つの食卓を囲んでいた。
遠慮もなく、気負いもなく、自然体のままでいることが出来ていた。
アクアとルビーが生まれてから、十九年。
「あの日」から、十五年。
漸く、もう一度、止まっていた時計が、動き始めた。
それを実感できただけでも、こうして「母の日」を祝おうという試みには意味があったのだと、アクアには思えた。
「いやぁ、楽しかったなぁ」
すっかり夜の暗闇が広がった街の中を、ミヤコの運転する車に送られながら、後部座席の真ん中に座ったアイが、両脇にいるアクアとルビーに話しかける。
「ありがとね、今日。本当に嬉しかったよ!」
こちらのことを覗きこむ瞳は星の如くの輝きを強く放ち続けて、彼女の言葉に一片の嘘もないことを、アクアたちに告げていた。
「ミヤコさんもそうでしょ?」
「……ええ、そうね」
ついでにそう、ハンドルを執るミヤコの方にも同意を求める。
そうすれば彼女の方もまた、流れてゆく街の光を一瞥しながらもバックミラー越しにアクアたちの方を見遣って、小さく笑った。
「随分大掛かりにやったものだと思ったけれど……楽しかったわ、私も」
隣と、正面。両方からの視線を受けて、アクアは僅かに視線を逸らす。
「そっか。なら、よかったよ」
彼女たちから向けられる瞳の輝きを正面から受け止めるのは、どうにも気恥ずかしかった。
これがルビーであれば、きっと全く物怖じすることなく、同じ質量の笑顔でもって返すのだろうけれども。
「ねえねえ、じゃあさ!」
それを証拠に、アイを挟んで反対側に腰掛けているルビーが今、言いながら身を乗り出した。
「いいことを思いついた」と言いたげに、彼女の紅玉の虹彩もまた、アイのそれに負けないほどの鮮烈な煌めきを宿している。
「
出てきた台詞に、その言葉に、アクアの目は無意識のうちに見開かれていた。
「それいい! ね、どうかなミヤコさん!」
「私はいいと思うけど……だけどそれ、あなたが決めることじゃないでしょう」
「そか、確かに。じゃあ――」
そんなアクアのことを他所にして進んだ会話の末に、もう一度アイが振り向く。
「アクア、どうかな?」
「いいよね? お兄ちゃん」
隣のルビーと並んだ、その二対の双眸に見据えられながら、アクアは一度、目を瞑る。
向き合ったのは、己の中の感慨だった。
――また、来年も。
当たり前のようでいて、しかし決して当たり前ではない。
その言葉の重さを、改めてアクアは噛みしめる。
一度だけ、息を吸って、吐く。視線を、彼女たちの方へと戻した。
「……ああ、そうだな。また、やろう」
結果として出たその声に乗っていたのはどのような情感であったか、アクアには分からない。
けれども今、アクアのその返事に表情を輝かせながら歓声をあげる
――彼女たちの今の表情を引き出せただけでも、今日という日の意味はあったのだろう、と。
燥ぐ彼女たちを横目に、窓の外を見る。
夜の帳の中、流れてゆく街の光が滲んで輝くありふれた東京の風景にふっと息を漏らして、アクアは静かにその両目を閉じた。
口元に、微かな笑みを湛えながら。
アンケート締め切りました。
投票いただいた皆様、ありがとうございました。
投票の結果を踏まえまして、もう一篇の後日譚は「アクあか短編 (突撃! 黒川家編)」となりました。
一週間~二週間ほどかかりますが、更新までお待ちいただけますと幸いです。