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こちらは比較的軽めの話です。
多層に折り重なった人々の話し声が、ガヤと言う名の雑音となってこの場を覆っている。
ダダ広い空間の中、点在する円形のテーブルに腰掛けて談笑を続けているのは、誰も彼もが若者だった。
当たり前ではある。
ここは、そういう場所だからだ。
昼時の、大学の学食。
食堂の中を埋め尽くす学生たちが、昼の憩いのひとときを、それぞれに友人と、あるいは一人で、思い思いに過ごしている。
「春学期も半分、だね」
そしてそれは、この場にいる二人にとっても同じだった。
「なんか、あっという間な感じがしちゃうよね。来月にはもう期末考査で、そしたら夏休みなんて」
「まあ、そう、だな。終わるんだもんな、六月」
窓際のテーブルに陣取ったその人影に、真昼の光が差し込んでいる。
梅雨の晴れ間の陽光に照らされて輝くのは、蜂蜜にも似た柔らかな金糸の髪と、角度によって蒼にも黒にも見える、長く伸ばされた艶やかな黒髪だ。
「アクアくんにとっては、最初の期末考査だね。どう? 準備とかしてる?」
その片割れ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら語り掛ける少女、黒川あかねのことを正面に捉えつつ、言葉をかけられた少年――つまりアクアは、眼前に置かれた学食のカツカレーを、黙したままに口に運んだ。
アクアがあかねと同じ大学に入学して、三か月になろうとしている。
奇しくも――と言うほどではないが、学部が違えども同じキャンパスに通っているアクアたちは、二限と三限の講義を入れている日はこうして必ず落ち合って、共に昼食のテーブルを囲むのが入学してよりこのかたの習慣となっていた。
高校一年の夏から始まった、あかねとの都合三年にもわたる「宙ぶらりん」の関係は今、一先ず健全と言うか、真っ当な形の交際へと発展している。
とはいえ、だからと言ってすぐにアクアとあかねとの間に顕著な進展が見られたかと言えば、実のところそうではなかった。
真剣交際を自認する間柄になって半年足らず。見る人が見れば、アクアとあかねは「中学生同士の恋愛でももう少しなんかあるだろう」と野次を飛ばされても致し方のないほどの、よく言えばプラトニックな、悪し様に言えばおままごとのような、そんな無菌状態とも言うべき「清い交際」を続けている。
下手に三年間もの間育んできた、育んでしまった二人の距離が、今になって互いに互いの間合いを測ることを難しくさせている、と評するべきなのか。「その先」へと踏み出すことを躊躇させている、と表現する方が正しいのか。
アクアからしても、黒川あかねという少女は「吾郎の時代」に付き合いのあった女の子たちとは根本的に勝手が違っている。経緯も、立ち位置も、そしてともに過ごした時間も、何もかもがそうだった。
だからかつての手練手管の類が使えるものでもなければ、また使う気にもなれなかった。尤もこんなことを内心で考えている時点で、それを目の前の彼女に知られれば、アクアはシメられても全く文句は言えないだろうが。
いずれにせよ、アクアとあかねの二人の関係は、斯くも穏やかなままである。
とは言っても、かつてのアクアとあかねの間に存在した空気と今のそれに何一つ違いが存在しない、というわけではないのもまた事実ではあった。
「……今のところは、特にだな。板書のノートと講義の録音データをAIに投げつけて、文字起こしと要点まとめをしてるぐらいだ」
頬張っていたカレーを嚥下し終えた後、投げかけられていた問いに答えたアクアに向かって、あかねが目を丸くする。へぇ、と、そんな感嘆にも似た声すら、彼女は上げていた。
「意外だなー、それ。アクアくんがそんないかにも『最先端!』みたいなことしてるなんてさ」
「あのな……俺のことどういう目で見てるんだよ」
「『SNSやらない系男子』」
「いやまあ……それは事実だけど」
あかねからのあまりに明け透けな言葉に閉口し、嘆息して、腕を組む。
「けどそれとこれとは話は別だ。俺たちみたいな人間にとっては、SNSをやるリスクは大きすぎる。隙は晒せない、だからやらないってだけだよ。便利だと思ったものは使うし、必要だと思ったものは取り入れる。あかねもわかってるだろ、俺のやり方はずっとそうだったって」
そこから意図せずに熱弁を振るっていたアクアに、あかねは答えを返さなかった。
ただ、意味深と言うか、どこか変な温かさを感じる視線で、黙したままアクアのことを見つめている。口元に、小さな笑みを湛えながら。
「……なんだよ」
「いや、ね。なんて言うか……アクアくん、可愛いなって」
それを聞いた瞬間にアクアがしてしまった表情を見てか、とうとう堪えきれないとばかりに、あかねがくすくすと笑い出した。
「あっ、ごめんごめん。でも、そういうのもアクアくんらしいよ。これはホント」
「……まあ、いいけどさ」
諦念の情と共に、吐き出す息に交えるように言葉を零したアクアに向けて、あかねがまた楽しそうに、あるいは慈しみの趣すら含んで、目を細める。
そんな彼女の顔を直視するのがどうにもむず痒くて、アクアは思わず窓の外へと視線を逃がしていた。
事程左様に、と言うべきだろうか。
近頃のあかねは、アクアとの向き合い方がはっきりと変わった。
初めてあかねと出会ったあの今ガチの中の、どこか自信がなくおどおどとした引っ込み思案な振る舞いでもない。
高千穂の夜を経て出来上がった、秘密と使命を共有する「共犯者」のような関係の中でずっと彼女が見せてきた、静かで張り詰めた、理知的でかつ冷厳でさえある、凛とした態度ともまた違う。
どこにでもいる、年頃の少女のような。
それでもアクアに対して、少しだけからかい交じりの、「お姉ちゃん風」を吹かせるような。
それが、今の黒川あかねだった。
彼女の中に何か変化を、変容をもたらすようなものが、あったということなのか。あるいはそれとも、これこそが黒川あかねという少女の素の部分なのだろうか。アクアに対しては、今までずっと見せてこなかっただけで。
まあ、何でもいいだろうか。そう、アクアは思った。あかねが楽しそうなのであれば、きっとそれに越したことはないのだろうと。
とはいえ、アクアとしてもいつまでもそうやりこめられたままではいられない。
あかねからどう見られているかはともかくとしても、最低でもアクアの中にはずっと、三十手前まで生きた産科医の、雨宮吾郎としての記憶と知識、経験がある。
ついこの間二十歳になったばかりの女の子にいいようにされるのは、決して悪い気がしているわけではないけれども、癪なものは癪だった。
「それより、夏休みの話だけど」
そういうわけで、アクアは俄かに話題を転換する。
「今年は、あれだって言ってたよな。九月に入るまで仕事は抑え目だって」
「えっ? ああ、うん。そう」
彼女からしてみれば些か急に向けられたであろう話題の矛先に少しだけ目を開いて、けれどもすぐにあかねはいつもの穏やかな表情に戻る。
横から差し込む陽の光の、眩いまでの輝きの中で、彼女は頬杖をつきながらアクアの方を見ていた。
漂う埃が乱反射する、その光の粒さえ、纏うようにしながら。
「CMとかは、色々入れられてはいるんだけどね。でもああいうの単発の仕事だからそんなに拘束されないし。お金はまあ、けっこう入ってくるけど」
「それは重畳。で、九月からはまた映画だったっけ」
「そうだね。あとは、冬クールにドラマ。……って、これは知ってるか。アクアくんと一緒だもんね」
どこか淡々と、けれども先の展望に胸を弾ませるようにあかねは語るが、しかしアクアにとっての主題はそこではない。
「ああ。……まあ、それはいいんだ」
目をぱちくりとさせ、やや首を傾げて、あかねがアクアの方を見る。
既にすっかり片づけられている彼女の前のトレーの中身と裏腹に、未だ三分の一ほど残っているカツカレーをまた一口口に運んでから、アクアは今一度真正面に、あかねの姿を捉えた。
「夏休みの予定、そろそろ本決めしとかないとなって思ってて」
口にしたその言葉の意味を理解せんとしてであろうか、あかねは暫し黙って首を捻らせる。
けれどもそこから数秒と経たず、彼女はアクアの意図へと辿り着いた。
「それって……」
俄かに、口ごもる。わずかに眉根を寄せ、顔を俯けて、口元を手で覆い隠す。
そのまま上目遣いにアクアのことを見つつ、どこかおずおずとした声音で、あかねが訊ねてきた。
「旅行の話、だよね」
その顔は、頬には、テーブルを挟んで椅子に腰掛けているアクアからも分かるほどに、はっきりと朱が差していた。
あかねがそういう反応を示すのには、訳がある。
彼女の言葉の通り、アクアとあかねとの間にこの話題が出たのは、今日この場が初めてではなかった。
初めて二人でそのことについて話をしたのは、一か月ほど前のことだっただろうか。とはいえ、大事なのはそれがいつの頃の話だったかではない。
「ああ。いくら取るのが二人部屋だからって、あんまぐずぐずしてたら部屋もなくなるからな。盆休みど真ん中ではないにしろ」
アクアがさらりと、どこまでも自然体に発した単語に、しかしそれを聞いたあかねが首を竦めた。
どうにも煮え切らない、挙動不審とも言えそうな態度だ。心なしか、視線もアクアから逸れているように見える。
「どうした、あかね。何か変なこと言ったか?」
「いや、そのっ」
つまりあかねは、分かりやすく言葉に窮していた。
全くもって、アクアの思った通りに、である。
あかねとの、二人きりの、初めての旅行だ。
そこには他に目的とすべき何かがあるわけでもない。邪魔が入る余地もない。純粋な観光と、娯楽のための計画だった。
だからそれは本当の意味で、恋人同士としてのたった二人の時間だ。
そういう機会を、アクアは初めてあかねと持とうとしていた。
ならばそこに、彼女が何を思うか。あるいは、予感しているか。ともすれば、期待さえもしているか。
アクアは、当然にそれを分かっている。
と言うよりも今のアクアは、そのあたりのことはまるっと理解した上で、敢えて白を切っていた。
つまりそれは、つい先刻までのちょっとした仕返しだった。
口の端を吊り上げて自身のことを見ているアクアの姿に漸く意識が向いたのだろう、それまで随分と慌て気味の様子だったあかねが、途端に頬を膨らませる。
「……もーっ」
目つきもまた、絵に描いたようなジト目だ。
わざわざ思わせぶりな言い方をしたアクアに自分がからかわれていることを理解してか、彼女は僅かながらの恨みがましい視線を送ってきていた。
ただ、そこには迫力と呼ぶべきものは全く存在しない。寧ろひたすらに可愛らしいばかりである。
これもまた、彼女の変化だろうか。以前からこうした振る舞いが見え隠れしていたとは言え、かくも純朴なと言うか、ともすればあざとさすら感じさせるような感情表現を全く遠慮しなくなったのは、ここ最近のあかねの変わりようを端的に表していると言えた。
「ごめんごめん。分かってるって」
一頻りあかねのむくれ顔を堪能したところで、アクアは両の手を合わせておどけるように頭を下げる。
「ま、でもそういうの抜きにしても、楽しみではあるんだよ。二人で旅行するの」
ほら、とあかねに手を向けた。
「随分前だけど、高千穂の。二人でいろいろ回ったの、正直結構楽しかったからさ」
全くもって、それは嘘ではない。
雨宮吾郎としての自分が憶えていた、あまりに勝手知ったるあの宮崎の山間の田舎街でさえそうだったのだ。互いに楽しめる、新たな発見のある場所であれば、その楽しさもまた一層のものになるだろう。
アクアはそれを、疑いないものだと考えている。
あかねのことを真っすぐに見つめながら、敢えてそう断言するように口にしたアクアの物言いに、子どもっぽく頬を膨らませ続けていた彼女の表情が変わる。
どこかぽかんと、目と口を開くようにしてアクアのことを見て、しかしその数秒後、ふっとそれが綻んだ。
「私も、だよ。それは」
柔らかな笑みと、柔らかな声だった。
「だから、うん。私も、楽しみ」
そんな目の前のあかねに、さしものアクアもこれ以上妙な混ぜっ返しをする気にはなれなかった。
故にその代わりに、アクアは皿の上に残っていたカレーの最後の一掬いを、黙って己の口に向かって運んだ。
とまあ、そこまでで終わってくれれば、この場は綺麗にまとまったのだろう。
しかし、なかなかそうは問屋が卸さないのが現実である。
暫し二人の間に横たわっていた沈黙を、あかねが発した小さな音が破る。
「あっ」と、何かを思い出したかのような声だった。
「そうだ、忘れてた。アクアくんに言わなきゃいけなかったことがあったんだった」
音を立てずに両の手を合わせて、あかねが居住まいを正す。
見れば、その表情が少しだけ引き締まっていた。
「俺に?」
「うん」
改まったような彼女の態度に、自然のアクアの背も伸びる。
互いに空になった昼食の皿を置いたまま、テーブルを挟んで向かい合う中、あかねがそこから些かばかり言い淀む素振りを見せた。
「……あかね?」
「うん。えっと……」
促すように名を呼んだアクアに向けて、一つ頷く。えっと、と一拍だけ間を置いて、僅かの間俯いてから、顔を上げた。
「夏休みの旅行、行く前に。会ってもらいたい人がいるの」
それを聞いた瞬間、たちどころにアクアは察した。
あかねが何を言おうとしているのか。なぜそれを逡巡するような振る舞いを見せたのかも。
「『そろそろ、紹介してくれてもいいんじゃないか』って。その……」
最後の最後、一瞬の躊躇いを見せてから、彼女は言い切った。
「お父さんが」
つまりそれは、「彼氏の責務」ということだ。
あかねと恋人という関係になっている以上、男として乗り越えなければならない壁である、とも言えるのかもしれない。
もっとも、これまでの十五年あまりの、アクアたちを巡るあれこれに比べれば、それは随分とささやかというか、他愛のない話ではあるのだろうけれども。
その週の週末、日曜日のこと。
前日に収録を含めた仕事を片付けて丸一日のオフを確保していたアクアは、いつものそれより幾分か気合いの入った格好で、家を出た。
生成り色の麻地のデザインシャツの上に、細い水色のストライプ柄のサマージャケットを羽織って、手にはそこそこの大きさの紙袋を提げている。言わずもがな、手土産だ。
つい先刻、自身のことを送り出したアイとルビーの浮かべていたどこか微笑ましげな表情のことを、アクアは思い出す。
今日の外出の趣旨は、無論のこと彼女たちの知る所だった。数日前にはそれについて既に話していたのだから、当然ではある。
これから、アクアが単身で向かおうとしているところ。「魔王城」と言うのは些か以上に言い過ぎのきらいはあるが、どうしても相応の心構えを持って訪れなければならない場所ではある。
彼女に、あかねに三年もの間やってきたことを冷静に考えれば、尚のことだろう。
すなわち――行き先は、あかねの住む、彼女の実家だ。
交わした約束を果たすべき時が、早速やってきたとも言えた。
今ガチの時のあの騒動に際しても思ったことだが、アクアたちの今住んでいるマンションと、あかねの家との距離は比較的近い。徒歩でも三十分、タクシーの類を使えば十分やそこらで辿り着いてしまう。
手配したタクシーから降り、アクアはその場所の前に立つ。
昼下がりの太陽が照らしているのは、白のタイルを基調とした、しっかりとした一軒家だ。玄関扉の手前に塀と門のある構えが、立地そのものと相俟って、その持ち主の社会的階層の高さを見る者に示している。
この外構そのものは、アクアにとってもいくらか見慣れたものだった。あかねのことをここへと送り届けた経験は、二度や三度ではない。
けれども今日の用事は、そこから更に一歩踏み込んだ先の場所にある。
そのことを意識し、一度呼吸を挟んでから、門扉の横、塀に取り付けられた「黒川」の表札の下にあるインターホンを、アクアはゆっくりと押し込んだ。
そこから三十秒も経たないうちに、アクアが見つめるインターホンのカメラの方ではない、もっと奥の方から、くぐもったばたばたとした音が聞こえてくる。
何人かの足音だ。アクアがそれに気がつくのとほとんど同時に、がちゃりとした金属音を、つまり玄関扉のサムターンの回る音を、アクアの耳は拾った。
目線を上げ、そちらを見る。開いたドアの中から覗いたのは、二人の女性の顔だった。
長く伸ばした黒髪に、碧玉の虹彩を輝かせる少女。
彼女とは少しばかり風合いの異なるウェーブのかかった髪をショートヘアに切り揃えている、やや年嵩の女性。
アクアにとって、よく知る二人だ。
「いらっしゃい、アクアくん!」
ぱっと顔を輝かせ、玄関から飛び出して門扉を開けに来た彼女――あかねと、そしてその後ろであかねのことを微笑ましげな表情で見ている彼女の母親のそれぞれに、アクアは目を向ける。
「どうも。今日は、お世話になります」
そしてその場で一つ、頭を下げた。
あかねが開いた門扉を抜け、アクアは初めて、彼女の住む家の敷居を跨ぐ。
「いつもお世話になっております」と挨拶がてらにあかねの母に持ち込んだ紙袋の中身、手土産を渡して上がりこんだそこは、アクアたちの住む所謂「分譲高級マンション」のそれと比べれば洗練されてはいなくとも、確かな温かみを感じさせる空間だった。
落ち着いた色調のLED照明と、パステル調のインテリア。そういった視覚情報も、大きく寄与してはいるのだろう。
けれどもそれ以上にきっと、アクアに今のような感慨を抱かせる理由の根本にあるのは、この家の中そのものに流れる空気のようにも思えた。
横に立って、いつものような穏やかな笑みでアクアのことを見てくるあかねも、その対面の場所で彼女とよく似た笑顔を浮かべたままの、あかねの母親も、また。
けれども今、アクアの心理に強く働きかけているのは、彼女たちではない。
土間から上がったアクアの正面に、一人の男性が立っている。
アンダーリムの細身の眼鏡の奥にあかねのそれとよく似た色の虹彩を輝かせた、すらりとした体躯の、柔和でありながら理知的な眼差しと顔立ちの人だ。壮年と呼ぶべき年頃であるにもかかわらず整った顔立ちと佇まいに、そしてその髪色にも、「水よりも濃い血の繋がり」というものを意識せずにはいられない。
ライムグリーンのデザインシャツをかっちりと着こなし、顎にはほんの少しだけの髭を生やしているその彼が、アクアの前で今、口を開いた。
「『星野アクア君』、ですよね?」
立ち姿に、相貌に違わぬ温和な声で、その彼は今、アクアに向かって語りかけた。
「あかねの父です。あかねが、いつもお世話になっています」
すなわち彼こそが、今日アクアとこうして顔を合わせることを望んだ人物だった。
他ならぬ、アクアが対面しなければならない相手だった。
黒川あかねの、父親だった。
「『アクア君』、と呼ばせてもらっていいかな?」
「ええ、それは勿論」
やってきたのが昼下がりのおやつ時であったことも相俟って、早速とばかりにリビングダイニングへと案内されたアクアは今、早々に彼――あかねの父親とテーブルを囲っている。
隣には、当のあかねが座っていた。その身に纏っているのは、フリルで縁取られた真白のブラウスに、クリームイエローのミニスカートの取り合わせだ。
事前に「普段着のままで構わない」と伝えてはいたものの、どうやら彼女はそういう気分にはならなかったらしい。それはあるいは、今日アクアがこういう形で自身の父親と顔を合わせるのに、自分ばかり部屋着でいることを躊躇したということなのだろうか。
生真面目なことである。これもまた、あかねらしさではあるのだろう。頭の片隅で、アクアはそう考えていた。
飲み物とお菓子――これはアクアが持ってきた手土産だった――の類を準備してくれているあかねの母を待ちながら、目の前に座る彼は今、おもむろにポケットから何かを取り出す。
「僕の方ばかり名前を知っているのもどうかという話だよね。だから、これを」
白い、小さなカード状の何かだ。遠目に見た瞬間、アクアはその正体を理解した。
くるりと向きを変え、両手の指で挟んで、それがアクアの前に差し出される。
「『黒川
名乗りと共に、「黒川理」と名乗った彼が押し出してきた紙、つまり名刺を、黙礼と共に受け取る。
しかしその瞬間、アクアの目は大きく、それは大きく見開かれていた。
縦長の、楷書体で書かれた名刺。
その時点で、文面を読まなくともおよそ目の前の彼の身分は察することが出来る。
つまり、公務員か政治家だ。もちろん例外はあるが、大体の場合はそうである。
そして事実、今受け取った小さな紙面の上に記されていた名乗りと身分は、アクアの予想をこの上ない形で裏付けるものだった。
――警察庁刑事局捜査第一課長。
――
今目の前に座っている、柔和な表情でアクアのことを見つめている彼は、日本の警察行政を司る、キャリア入庁組の警察官僚という身分の人間であると、この小さな紙片は物語っていた。
黒川あかねという少女が、それほどの人物のたった一人の娘であるという事実も、また。
そこからほどなく、準備を整えてやってきたあかねの母も交え、四人でテーブルを囲む形になったアクアたちの間で、会話が始まった。
「あかねから、色々聞かせてもらってるよ」
口火を切ったのは、理だ。ちらりとあかねの方に目配せして、軽く一度だけ頷いてから、彼はもう一度アクアの方に目線を向ける。
その「色々」という単語に込められた意味は、次いで放たれた彼の言葉が端的に表していた。
「君も、大変だったみたいだね、今まで。僕も、まあこういう立場ではあるけど、あんまり詳しい話が入ってくるわけでもなかったから、そのあたりのことは」
思わず、アクアは隣を見ていた。そこに座っているあかねもまた、アクアの方へと目を向けている。そして今、それをわずかに伏せた。
なにか、こちらに向かって謝ろうとしているかのような。
「ああ、あかねから聞いたのは全部が終わってからだよ。それまでは、あかねは何も言わなかった」
そんなアクアの、あるいはあかねの振る舞いに何を思ったか、弁明のような言葉を投げかけてきた理の方へと、アクアは視線を戻す。
「……いえ、大丈夫です。それは、信じていました」
ちらりと、一瞬だけあかねの方を見てから、アクアは己の真意を伝えた。
信じていなかったわけでもないし、ましてや咎めようと思ったのでもない。
寧ろ、逆だった。もし彼が、あかねの父親である黒川理が、そのこと――アクアとあかねの間にこれまであったことの何たるかを本当に知っているのであれば、自分には言わなければならないことがあると、アクアは考えていた。
「ですが、そうしたら僕は」
「ああ、大丈夫、分かってるよ。だからそういうのも全部含めて、今日僕は君に会って話がしたいと思ったんだ」
しかしそれは、他ならぬ理の言葉によって遮られる。
眼鏡の奥の双眸に理性の光を宿らせながら、彼はその両目をほんの少しだけ細めた。
「けどまあ、まずは『これ』にしよう。せっかくいただいたお土産だからね」
言って、自らの手元に視線を落とす。
アクアが手土産として持ってきたケーキと、横に置かれたアイスティーを一瞥して、彼はその口元を俄かに緩めた。
それはどこか、おどけたような振る舞いだった。
そこからのひとときは、アクアの事前に予想していた、というか、覚悟していた以上に和やかなものだった。
主に話題の中心にあったのは、アクアと言うよりあかねだ。もっと言えば、彼女の幼少期だった。
話の取っ掛かりを作ったのは、アクアだ。
あかねと知り合ってからのここ三、四年ほどの話を後に回すとなると、話題の俎上に上げられるものは限られる。
ただそれ以上に、アクア個人としても、あかねの幼いころのエピソードは聞きたいことの一つだった。勿論、あかねがそれを恥ずかしがるだろうことは、分かっていたけれども。
「これが、あかねが最初に舞台に立った時の写真ね」
リビングの奥の方に仕舞われていたアルバムをテーブルの上に開いて、あかねの母がアクアに向かって差し出してくる。
彼女が所属していた児童劇団、「劇団あじさい」の公演の一つと思しき写真だった。
「それ……! お母さんまだ持ってたの!?」
慌てた様子で正面の自らの母に詰め寄るあかねを他所に、アクアはそこに映る幼き日の彼女を見た。
おとぎ話の中の一シーンだろうか。ティーカップそのままの形をした衣装を纏い、真剣な顔つきで両手を広げている。
切り取られた風景の中のあかねは、ずっと一生懸命だった。
劇団の公開稽古の一幕か、指導員の話を聞き漏らすまいとメモを抱えている立ち姿を。体幹トレーニングやストレッチに精を出す横顔を。
小学校の運動会だろうか。不安げな表情を見せながらも、クラスメイトとコミュニケーションを取ろうとしている奮闘もまた、ファインダーの中に納められていた。
今よりもはるかに幼く、愛くるしい姿だ。
しかし彼女の性質も性格も、今のそれと地続きであることを、アクアは意識する。そんなあかねのことを今までずっと育ててきた父親と母親が、どういう思いを彼女にかけてきたのかも。
愛されていた。愛されて育ってきたのだ。
彼女の未来に夢を見ているのは、希望を抱いているのは、あかね自身だけではない。
今アクアの隣に座っているのは、そういう少女だった。その意味を、重さを、意識する。
「……こう言ってはなんですけど。ちょっと、羨ましいですね」
ずっと視線を落としていたアルバムから、顔を上げた。
僅かに、場の空気が揺らいだ。アクアの言った「羨ましい」という言葉の意味を、どう捉えたか。
星野アクアという人間の家庭環境に、「父親のいない子供」という境遇に、意識が向かったのだろうか。
けれども、違う。そういうことではなかった。
「黒川さんが、ですよ。お母さんも。あかねみたいな娘さんを持てて、可愛くてしょうがなかったんじゃないですか?」
口の端を緩めながら、理の方を見る。
隣に座るあかねがびくりとその身を震わせたのを視界の端で感じ取ったが、アクアは敢えて黙殺した。
対する理の方もまた、アクアに視線を合わせてふっと相好を崩す。
「そうだね。本当に、可愛かった。勿論、今でもだけどね」
「ちょっと、お父さんっ」
褒め殺しというか、歯が浮くような台詞を発し続けているアクアと理に挟まれる形で、頬に朱を散らしながら、あかねが小さな抗議の声を上げる。
彼はそんなあかねの方をちらと一瞥して、けれどもまたすぐにアクアを見た。
あかねの方に向けて浮かべていた穏やかな笑みが、すっとそこで、色を失くした。
「だから」
居住まいを正す。空気が引き締まった。
「ずっと君には、お礼を言わなくちゃいけないと思っていたんだ」
理は今、鋭ささえも帯びた眼差しで、アクアのことを見ていた。
「お礼……ですか」
「うん。あかねの、あの番組の話だよ」
彼の言葉に、その謂わんとすることがなんであるかを理解する。
固有名詞こそ出さなかったが、逆にそれを出さなかったこと自体が、黒川理という人物が今もかの番組に抱えている複雑な思いを象徴しているような気がした。
言うまでもない。「今ガチ」のことだ。
「止めておけばよかったって、本当に思ったよ、あの時は」
「……心中は、お察しします」
改めて事実を整理すれば、あの時生じた「大衆」と言う名の不定形な悪意は、この国の警察組織の中核を担うほどの人物のたった一人の愛娘の命を、危うく奪い去るところだったということになる。
民意の暴力の前には、どれほどの権力を持つ人間とて全くの無力だ。勿論、恐怖政治を敷き、抑圧によって民衆を支配する絶対的な独裁者ならば別だが、この国の中でそれを論ずることには何の意味もない。
そして芸能界という世界は、その恐ろしさと常に隣合わせでもある。
アクアがそれを絶えず意識して、この十五年という歳月を闘ってきた通りに。
「あの時、もし本当にあかねが死んでしまったら。もしかしたら、家族もバラバラになっていたかもしれない。この家だって、多分手放してたと思う。死んでしまったあかねの部屋があるこの家にいつまでも居続けるなんて、絶対に耐えられないから、僕には」
理の語り口に、俄かに力が籠る。あの日のことを、思い出しているのだろうか。
お父さん、と掠れた声がした。誰が言ったかは、瞭然だった。
「アクア君」
隣で僅かに俯くあかねのことをちらりと見て、彼は伸ばしていた背を、アクアに向けて少しだけ乗り出す。
「君はあかねにとってだけじゃなくて、僕たち家族全員にとっての恩人なんだ」
そしてそのまま深々と、理はその頭を下げた。
「だから――ありがとう」
絞り出すような声で、そう言った。
アクアはそれに、一体どう答えるべきだろうか。
その礼は受け取れないと、言うべきなのだろうか。
必ずしもそれはあかねのためだけではなかったのだと。
そもそもあんな破局に至る前にアクアに出来ることはいくらでもあったはずで、だから自分にはその礼を受け取る資格はないのだと。
視線が流れる。隣の、あかねの方を見た。彼女もまた、アクアの方を見ていた。
その目の中にある色も、含意も、アクアはよく知っている。
――それは違うよ、と。
「顔を上げてください、黒川さん」
ならば今ここで、アクアが口にすべきものは自ずと一つに定まっている。
下げていた頭を僅かに上げてアクアへと向けた目の前の彼に向かって、呼気と共に言葉を吐き出した。
「お礼は、謹んで受け取らせていただきます。ですけど、僕にとってもあの番組は、すごく意味のあるものでした。大事なものでした」
一つとして、それは嘘ではない。
ちらと、視線を隣に向けた。変わらずアクアのことを見ているあかねに向かって軽く頷いて、また理を見る。
「あかねがいなかったら、ああやって会えなかったら、最低でも今の僕はいなかったんです。本当に、心の底からそう思っています。それぐらい、ずっと助けられてきたんです、僕はあかねに。あかねからどれぐらい詳しい話を聞いておられるかは、分かりませんが」
彼は、何も言わなかった。ただほんの少しだけ、目を閉じた。
「だから、僕たちの間ではチャラになってます、その話は。もう、お互いに負い目なんて持たないでいいんだって。貸しも借りもなくて、そういう対等な関係でいようって。そういう風に、決めてるんです」
そしてそこに次ぐアクアからの言葉に、顔を伏せた。息を一つ、吐き出した。
どことなく、張り詰めていた何かが霧散したような、そんな気がした。
言葉を結んだアクアを前に、しばしの沈黙を守っていた理が、顔を上げる。
「なるほど、ね」
その目も、開かれていた。眼鏡の向こうに見えたのは、納得の光のように、アクアには思えた。
「二人とも、もうそこまで決めているなら、僕から何か言わないといけないことは、ないのかもしれないね」
発される声色も、今までよりもずっと柔らかなものだった。
一つ、大きく頷いた彼が、そこであかねの方に向いた。膝の上で手を組んで、柔和な笑みを顔に浮かべる。
「いい人とご縁があったね、あかね」
理の言葉に、あかねもまた頷いた。
机の下で、彼女の手が伸ばされる。アクアの膝に、手に重ねられたそれが、きゅっと握られた。
「うん。本当に、そう思ってる」
そう言った彼女の声は、穏やかで、そして静かでありながらも、やけにアクアの耳に残る、そういう色をしていた。
彼女の体温も、声色も、横顔も。五感の全てから、想いが伝わってくるような。
そんな気が、確かにしていた。