少ししっとりな方。そして……あとは、本編にて。
黒川家のリビングの中、あかねの家族とのとりとめのない歓談は、夕方五時を回る頃まで続いた。
夏も近づくこの時節、夕刻とはいえ日は未だ高くあって、時の流れというものをふと忘れそうになる。けれども壁に掛かった時計が指し示す時刻は、既にこの家の中で夕食の支度を始めなければならないことを意味していたらしい。
ダイニングを引き払い、あかねの母親が夕食の支度に手を付け始める。それに追随するように、あかねもまたキッチンへと立ち入っていく。
どうやら今日の夕食は、彼女たち二人が用意してくれるようだった。ご相伴に与ることになっているアクアは当然のこと、「僕も手伝うよ」と台所に入ろうとした理も「今日はいいから」とそこから追い出されて、斯くして野郎二人は夕食が出来るまでの一時間と少しの間を、手持ち無沙汰のままに過ごすことになった。
いや、それは正しくない。
あかねを追いかけてキッチンに向かった理が、しかしそこから体よく追い払われたあと、アクアのことを誘った。曰く、「もう少し、二人で話をしないか」、と。
どうやら、女性陣二人に何か言い含められたらしい。アクアとしても彼の提案を断る理由があるわけでもなく、故に彼のあとについていく形で、このリビングから出る。
行き先は、階上にある理の書斎だった。
「お邪魔、します」
「どうぞどうぞ。あんまり片づけられてないけど」
そんな謙遜交じりの彼の言葉とは裏腹に、案内された部屋の中は暗色系のシックな色彩でまとめられ、よく整頓された空間だった。
とりわけアクアの目を惹いたのは、一方の壁面全体を覆う本棚だ。レイアウトそのものは五反田監督の作業部屋のそれとは似ていても、整理のされ方、物の置かれ方は天と地ほどに異なっている。
これが妻子持ちのキャリア警察官僚と「子供部屋おじさん」の差か、などと大変に失礼な感慨をアクアは持ったが、しかしそれよりもアクアにとっての興味の中心は、並べられた本のラインナップにこそあった。
法学、法哲学の基本書。
ポケット六法や別冊ジュリストをはじめとする判例集。
そして、犯罪心理学にまつわる論文誌や、専門書。
「気になるかい?」
整然と並ぶそれらに思わず目を奪われていたアクアの横から、声がかかる。
そちらを見れば、理が彼らしい穏やかな目線でもって、アクアのことを見ていた。
「今じゃ僕もバックオフィスっていうか、現場に関わるような仕事は全然しなくなっちゃったけど、昔は結構前に出てたんだよ」
「キャリア組でも、ですか?」
「勿論。そりゃ、流石に交番に詰めたり警邏活動したりみたいなことはなかったけどね。でも結構色んな刑事事件にも関わったし、捜査で大きいホシを挙げたことも一度や二度じゃない」
これでも結構優秀な捜査官だって言われたこともあるんだよ、と、どこか得意げに眼鏡を持ち上げながら、彼は言った。
人は見かけによらないもの、ということだろうか。そう、アクアは思う。今の穏やかな、柔和が服を着て歩いているような彼の佇まいからは、なかなか想像がしづらいものもあるのは事実だった。
アクアの反応におかしさを感じたか、微かに息を漏らしながら理は笑う。そしてそれまでのアクアと同じように、整頓された書物の並ぶ本棚へと、顔を向けた。
「それで。その時に活用してたのが、これだった」
言いながら正面に手を伸ばして、何かを手に取る。
それは一冊の本だった。
――「犯罪心理学・行動学入門」。
「プロファイリングって、知ってるかな」
「ええ、一応。それこそ、あかねが役作りによく使っているやり方だって」
「ああ。……そうだったね」
「そう言えばそうだった」とばかりにこつんと自らの頭を一つ小突いて、理は小さく笑った。
「そうなんだよ。小さかった頃のあかねに、あのやり方を教えたのは僕だ。どうにも、『人の心が分かるようになりたい』って、頻りに言っていてね」
「そんなことを。難しいことを考えるものですね」
「だよね。あかねは昔からそういうところがあったんだ」
僕に似たのかな、などとあっけらかんと言う理を尻目に、アクアは考える。
人の心というものを、正確に理解することは難しい。どだい不可能であると言ってもよい。
人間の心理は、不確定性の塊だ。数式のような一意の解を持つものではないし、時と共にいくらでも移ろいゆくものだ。
けれども、そうであってもなお、それを理解したいとあかねは言った、らしい。幼いころの彼女は。
「……そうですね。あかねらしいと思います」
それは才覚か、特殊性か。いずれにせよ、アクアの口にしたことに偽りはない。
ずっと感じていたことだった。あかねの人格の底流にあるものは、他者に対する飽くなき探求心と、知的好奇心であると。
でも、それだけではない。その知的好奇心の更に源泉にあるのは、紛れもない利他心なのだ。
相手のことを理解したいと願うのは、その相手の為に自分に出来ることが一つでもあるのではないかと、考えているから。
それが黒川あかねという少女であることを、アクアは知っている。他でもない自分は、そんな彼女にずっと助けられてきたのだから。
「だから、一度あの子の前で僕のよく使うプロファイリングのメソッドを見せたことがあるんだ。こう、分析したい相手のいろんな情報を片っ端からメモとか付箋に書いて、雑多に広げてから、クラスタリングしたり、相関関係や因果関係を探ったりするやり方をね」
「マインドマップ、みたいな話ですか?」
「そうそう。それに似てるかな」
それで、と理は言葉を継ぐ。
「結局話したのはその一回きりだったんだけど、あかねはそれを一発でモノにしたんだよ。本来の使い方とは、ちょっと違うんだけどね」
つまり、それこそが「役者・黒川あかね」の役作りの方法論の起源だったということである。
同時にアクアにとっては、彼女と縁を繋ぐに至る直接のきっかけでもあり、また理由そのものでもあった。
「才能があった、ということなんだろう」
役者のか、あるいはそういう分析や洞察にまつわるものか。
彼はそれをはっきりとはさせなかったが、きっとそのどちらでもあるのだろう。
手許に視線を送り、手に取った犯罪心理学の、プロファイリングの入門書の背表紙を撫でながら、過去に思いを馳せるように、理はため息をつく。
「あの子にあれを覚えさせたことが正しかったのか、そうじゃなかったのかは、分からないけど。でも結果としてあかねは夢を叶えたんだから、多分あの子のためにはなったんだろう。勿論、アクア君みたいな人と知り合えたのもね」
「それは……過分な評価、畏れ入ります」
「畏まりすぎだよ。そこまでしてもらわなくてもいいから」
敢えて堅苦しく頭を下げてみせたアクアに、苦笑を交えて彼は答えた。
「だけど」
しかし、そこでその表情が引き締まる。手の中の本を本棚の中に再びしっかりとしまい込んでから、彼は背筋を正してアクアのことを見た。
「いや、だからこそかな。僕はアクア君に訊かないといけないんだ。あかねのいないここで」
本題に入った、ということだ。変わった空気に自ずと背筋を伸ばしていたアクアに向かって、理は一つ、咳払いをする。
そして、アクアに問うた。
「これから、君はどうするつもりなのかな。あかねと」
眼鏡の奥の彼の双眸が、柔らかではあれども力強い光を放っていた。
向けられた言葉の意味を、アクアは理解する。
わざわざ彼が今、プロファイリング云々の話をアクアに聞かせた、その理由も。
あかねの得意とする人格分析の技術の出元は、他でもなく今目の前にいる人間、黒川理だ。彼はそれを、自らの警察官としてのキャリアにおける犯罪捜査にずっと活用してきた。
その上で、彼はあかねから、今に至るまでのアクアとの三年間のあらましを既に聞いている。それだけではなく、彼女がアクアに対して持っている為人の印象にしても、きっとそうだろう。
そして今日、とうとう彼は直接にアクアと会って話をした。ならば結果として彼の手元には、おそらく十分な素材が揃っている。
星野アクアという人間の性質を、洞察するための材料が。
「君が今までどういう気持ちであかねと接してきていたのかは、理解しているつもりだ。君が優しい人間だということも、よく分かった」
だからこそ今、彼の語り口にあるのは、はっきりとした確信の響きだ。同時に主張でもあった。
アクアは、答えられない。如何なる繰り言を言おうが、すでに明白な根拠をもってアクアに語り掛けている理には、響かない気がした。
「でも、だからこそだ。君は、まだ結論を出していない。そうなんじゃないかな?」
「それは……はい」
何故ならばこれほどまでに彼は、アクアの内心に切り込んでくるからだ。
この僅か二時間と少しの短い間に、いとも簡単にそれを為すのが、黒川理という男だからだ。
本当に、血は水よりも濃いものなのだと、思い知らされる。
「僕がこういうことを言うのは越権も甚だしいのかもしれない。君からしたら不躾だろう。でも、僕にとっても他人事じゃないんだ。あの子の、父親だから」
「いえ、それはごもっともだと思います。だからこれは、僕の弱さです」
「そうは言ってないよ。寧ろ君は誠実だ。あかねの人を見る目は間違ってなかった」
ふっと、その口元が緩む。手を伸ばし、机の前の椅子の背を持って引き込んで、理がそこに腰掛けた。
くるりとそれが回って、再びアクアの方へと向く。
「だけど、一応聞いておきたい。君はあかねとの未来を、考えてはいるのかな。結論は出ていないとしても」
そこに見えた彼の表情は、再び真剣さを取り戻していた。
暫し、目を瞑る。
アクアにとって、これは予期していた問いだった。
寧ろ、きっとこれを訊かれると思っていたからこそ、今日この場にやってくることに決意が必要だったとも言えた。
何となれば、これはアクアにとっての未来のイメージを、ともすれば一つに定める行為だからだ。
アクアのことを慮ってか、理は言葉をぼかしてはいるが、裏にある真意は、一つしかない。
「あかねとの未来」。つまりそれは、「あかねと寄り添い続けるつもりはあるのか」という、非常に重い意味を持つ問いなのだから。
そして――だからこそアクアは今、それに対する答えを、慎重に選ばなければならない。
「お恥ずかしい話、ですが」
呼吸を、一つ。数秒ほど流れた沈黙を、アクアは破った。
「僕は今まで、自分のことで精一杯だったんです。あかねとのことも、きっかけは確かに僕が手助けしたことかもしれませんが、けれどもそこからはずっと、あかねには助けられてばかりでした」
「……それは、さっき『チャラにした』と言っていなかったかな」
「貸し借りとか、負い目とか、そういう意味ではそうです。でも、そんな話ではないんですよ」
それは、あかねには決して直接は言えない言葉だ。彼女に面と向かって伝えることに、きっと意味はない。
理解を、共感をしてくれるのだとすれば、まさに今目の前にいる彼だけなのだろう。
あかねの父親として。彼女のことを、たった一人の愛娘として、溺愛する者として。
「あかねは、僕のことを理解しようとしてくれました。黒川さんもずっと、おっしゃられている通りに。でも僕のほうはまだ、そこまでは行けていない。同じ深さで、あかねのことを見れているわけではないんです」
言いながら、自分自身の言葉をアクアは咀嚼する。
過日の自分には、これが難しい要求だったことは分かっている。時間が足りなかったことも、余裕がなかったことも。
でも今、全てを終わらせたこの時において、それは紛れもなくアクアにとっての宿題だ。
あかねと同じ視座に立つこと。彼女のことを理解すること。
それが出来ない限り、これ以上先の場所に、アクアは進めない。進むわけにはいかない。そう、心のどこかで考えていたのだ。おそらく、今の今まで。
正しいことであるのかは、分からないけれども。
あかねがそれをアクアに望んでいるとは、限らないけれども。
黙したまま、理はまるで見守るようにじっと、アクアのことを見ている。
その彼を、アクアもまた見据えた。眼鏡のレンズの向こうにある瞳孔の中さえ覗きこむようにして、互いの視線がぶつかった。
「『自立した二人の人間が寄り添うことに意味があるんだ』って、あかねが言っていました。僕も、そう思っています。だから」
肚に力を籠める。そして、アクアは静かに言い切った。
「あかねと同じ場所に立ちたい。そこに立てたと思った時に、あかねには言うつもりです。まあ、その時まであかねが僕に愛想を尽かしていなければ、ですが」
つまりそれが、おそらくは理の問いへの答えだった。
酷く不定形でありつつも、現状のアクアの出すことが出来る、最も誠意のある回答だった。
「そうか。なるほど」
静寂は、あまり続かなかった。
頷きながら、目の前の彼は立ち上がる。
「まあ、僕としてはもう少し肩の力を抜いて考えてもいいんじゃないかとは、思うんだけど」
僅かに一度その目を閉じて、次にそれが開かれたとき、そこに見える彼の表情は、俄かに綻んでいた。
「でも、だったら君には、もっとあかねのことを知ってもらわないといけないね」
言葉と共に、空気もまた等しく和らいでいく。
「どうかな。知りたいとは思わないかい? あのアルバムには残ってないような、あの子がもっと幼かったころの話とか」
「……それは、魅力的な提案ですね」
「だろう?」
彼のおどけたような声の調子に釣られて、口元を吊り上げながら答えを返したアクアに、理は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いくらでも話せるよ。例えば……あかねは昔、ピーマンが大嫌いだった、とか」
言いながら片目を瞑った彼の佇まいに、アクアはとうとう小さな失笑を返していた。
「いいですね、その話。もっと詳しく聞かせていただけませんか?」
そこから、二人の話は俄かに熱を帯びていく。直前まで支配していた張り詰めた空気など、全くもって嘘であるかのように。
一つ一つの思い出を、その中に見えるあかねへの溺愛ぶりを恥ずかしげもなく披露する理と、それに相槌を打って先を促しつつも興味深く耳を傾けるアクアとの語らいは、誰にも遮られることなくノンストップで続いた。
夕食の準備が出来たことをアクアたちに告げに来たあかねが、自身の過去にまつわるあまりに赤裸々な話をアクアに饒舌に語っている父親のことを顔を真っ赤にしながら制止しにかかる、その時まで。
夜が、家の中へとやってきた。
共に夕食の食卓を囲む時は過ぎて久しく、十時を過ぎてから少しずつ降り出した雨は今、雨だれのアルペジオを屋根の上に、窓に響かせ、奏でている。
梅雨の季節だ。ここ数日は晴れ間が多く、その認識をどこかに置き忘れていたような気がするけれども。
あかねは、雨が嫌いではない。前触れとして立ち上るペトリコールも、静かに降り注ぐ1/fゆらぎを伴う水の音も、どこか郷愁さえ帯びた情念を、胸中に湧き起こさせるからだ。
そういう瞬間が、あかねは好きだった。
遠く聞こえる不規則な水の音を聞きながら、階段を上る。スリッパが床を叩く乾いた音を響かせて、自らの部屋に向かった。
そこには、一人の先客がいる。
「おまたせ、アクアくん」
すでに電気のついている部屋の中にノックをせずに入れば、あかねのよく知る、金色の柔らかな髪の少年の姿が見えた。
「……ああ」
ワンテンポ遅れて、彼が反応する。
あかねのベッドの上に腰掛けている姿勢のままに、あかねに向かって視線を合わせた。
見れば、彼の前髪は僅かな湿気を帯びて、何本かがその額に張りついている。
纏っているのは、水色のチェック柄の半袖のシャツに、同じ色を一色染めにした薄手の半ズボンだった。
あかねの目に見慣れぬそれは、アクアのパジャマ姿だ。
客人ということで先んじて風呂に入っていた彼は、あかねもまた同じように風呂から上がってくるのを、この部屋の中でこうしてずっと待っていた。
今日、アクアはこの家で、あかねの家で、一夜を明かす。
そうするように誘ったのはあかねであり、両親だった。そして彼はその提案を受け入れて、今もここにいる。
「ごめんね、特に何もない部屋で」
彼が座っているベッドの縁の、そのすぐ隣に腰を下ろす。ポケットコイルのスプリングは特に軋むような音を立てることもなく、あかねの身を柔らかく受け止めた。
「いや、別に。それは全然」
「そっか」
隣に座るアクアから、仄かにシャンプーの香りが漂う。
嗅ぎ慣れた匂いだ。あかねがいつも使っているものと同じなのだから、当然だろう。
けれども、今あかねが身を寄せている少年からそれが薫っている事実に、胸の奥がざわめく自分を、あかねは止められなかった。
「それよりさ」
けれども、そんなあかねの心中を特に気にするようなそぶりもなく、アクアは正面を向く。
「あれ」
そう言って、人差し指を伸ばした。
あかねがそれに沿って視線を向けた先にあるのは、壁だった。
無論、それはただの壁ではない。ノートパソコンが置いてある机の横一面にあるその壁は、他の四方のそれとは違う補強がなされている。
何故か。理由は一つしかない。
「あの壁使って、いつも役作りしてるのか?」
そこに鋲で留められているのは、セロテープの類の脱着に繰り返し耐えられるように設計されている、光沢のある模造紙だ。
かつて部屋の壁紙に直にメモ用紙を貼り付け、そして剥がす作業を繰り返していた時に、一度壁紙を剥がしてしまったことがあった。それを見た父が考えてくれた対策だった。
「そうだよ。こう、メモを書いて、それをセロテープでペタペタ貼ってくの」
「なるほどな」
身振り手振りで真似をして見せれば、アクアが小さく笑う。
「なんか、あれだな。刑事ドラマとかで出てきそうなやつだな、それ」
「……たしかに?」
言われてみれば、そうだ。そんなことを、あかねは思った。
例えば、かつて自分がアイ――星野アイの人格の分析をしたときのこと。
例えば、アクアの血縁上の父親、カミキヒカルのプロフィールを解析しようとしたときのこと。
雑誌の切り抜き、ウェブページのプリントアウト、書き足したメモ。そう言ったありとあらゆる情報をこの壁面一帯に無造作に並べ、その間に線を引いて、関連性を見出そうとしていた。
あの時の自分を遠目から見れば、「刑事ドラマで難事件を追っている捜査本部」のワンカットに、見えなくもない、のだろうか。
「なんて言うか」
深めていた思惟に、ふと声が割り込む。
隣を見れば、アクアはあかねの方ではない、正面を見ていた。模造紙の貼られた壁を見つめていた。
「血は争えない、のかな。そういうところも」
見えた横顔に、ずきりと、あかねの心が疼いた。
最近のアクアは、変わりつつある。とりわけ、ゴールデンウィークが終わったあたりからの彼は。そんな印象を、あかねは彼に対して持っていた。
優しいことに、変わりはない。あかねのことをいつも思いやってもくれる。
けれども彼は、前よりも表情が明るくなった。言葉遣いもそうだ。
ほんのちょっとだけ意地悪になった気がしないでもないけれど、可愛げの範疇だろう。遠慮がなくなったと思えば、寧ろ少しだけ嬉しくもある。
彼の妹の、ルビーと会った時も、同じようなことをあかねは聞いた。
彼女は、それを違う言葉で表現した。
――今のお兄ちゃんは、昔のお兄ちゃんに戻ろうとしている、と。
彼にとってたった一人の、血を分けた双子の妹であるルビーが言うのだから、そうなのだろう。
ならばきっと、今の姿こそが本来の星野アクアなのだ。やっと、そこに立ち戻ることができ始めている。両の肩に重くのしかかっていた、責務という名の重荷を、ようやく彼は下ろせる。下ろそうとしている。
けれども今、あかねの横でどこか茫洋とした視線を壁面に向けている彼は、纏う雰囲気が僅かに過去のそれへと、あかねのよく知るそれへと巻き戻らんとしている気がする。どうしても、そう思ってしまった。
そしてその理由も、何となく分かってしまった。
夕食の前、彼のことを呼びに父の書斎の中に入ったその時に、アクアはあかねの隠しておきたい過去の話で父と共に大変に盛り上がっているようでありながら、しかしその合間合間に覗いた表情に、今と同じような色を滲ませていたのだから。
「あかね?」
考えるより先に、身体が動いていた。
腕を伸ばす。彼の肩に、向こうの腕に。掴んで、引き込んだ。
「えっ、ちょっ、おい……!」
薄手のパジャマ一枚だけを隔てて感じるその身体は、あかねが思い描いているよりもずっと細い。その理由をあかねは知っているのに、それでもなお、胸を支配する疼きは強くなる。
それはやがて、衝動へと変わってゆく。引き寄せた勢いで平衡を失った互いの身体が、そのまま投げ出された。縺れるようにベッドの上に倒れ込んで、それでもあかねは彼のことを離さなかった。
アクアの身体が強ばる。焦ったような声も聞こえた。
けれども、それでも、彼は抗うことはなかった。だからあかねはそのまま、アクアの身体を、頭を、強く掻き抱いていた。
衣擦れの音が収まり、外に聞こえる雨だれの静かな音と、互いの息遣いだけが部屋に降り積もる。
暫く続いたその時間を、一つのため息が遮った。アクアのものだった。
「……どうしたんだよ、あかね」
胸の中から、くぐもった音が聞こえる。どこか呆れたような、そんな響きの声にも思えた。
戸惑っているのだろうか。そうなのだろう。けれども、そんなことはどうでもいい。
「いいんだよ、アクアくん。君は、今の君で」
心の赴くままに、言葉をかける。びくりと、腕の中に震えを感じた。
「……何の話だよ」
「こっちの話。でも、アクアくんの話でも、あるんでしょ?」
アクアは、暫く答えなかった。答えなかったことが、答えだと思った。
あかねの家族と向き合って、父と、理と語り合って、その中で彼が何を思ったのか。
全てを訊くつもりはない。あかねにそれをするに足る理由は、おそらくない。
けれども最低でも、あかねがアクアのことをこの家に招いたのは、こんな表情をして欲しいがためでは決してなかったから。
「幸せなんだよ、私は。今のままで、十分すぎるぐらい」
だから、あかねはアクアを引き戻す。温もりを交わして、気持ちを伝えて、アクアの今を肯定する。
未だ、油断すればあの日に戻ってしまいそうな彼のことを、繋ぎ止める。
そうすれば――ほら。
むずがるように、身体が動く。少しだけ腕の力を緩めれば、アクアの頭が動いて、あかねの方を向いた。
そこに見えた彼は、僅かな苦笑いを浮かべていた。
「なんか。このままだと、ダメ人間にされそうだな、あかねに」
冗談交じりに、そんな憎まれ口を彼は叩く。
ならば、あかねもまた同じような言葉でもって返事とするまでのことだ。
「そうなったら、アクアくんのお尻は私が叩いてあげる」
絶句するように、アクアが目を丸くする。
その反応がおかしくて、愛らしくて、あかねは思わず笑っていた。
「それに。そうならないのが、アクアくんでしょ。良くも悪くもさ」
「……敵わないな、あかねには」
「そりゃもう。カノジョですから」
だからこそ、だろうか。
自らが発した言葉を理解して、咀嚼して、あかねの心が静かに、ぞわりと沸き立った。
「――そうだよ、アクアくん。私、君の彼女なんだから」
ぼそりと、呟く。
抱きしめる腕の中に、恋人が、星野アクアがいる。すぐそばに。
その事実に、まるで衝き動かされるが如くに、身体が動いた。理性を追い越していくように。
緩められていた腕の力をもう一度強めれば、彼の中性的でありながらも精悍な顔立ちが、海の色の蒼の瞳が、その奥に見える星屑の輝きさえも、ほど近くに見えた。
見開かれ、唇が開いて、言葉を形作ろうとする。
けれどもその一歩先に、あかねは今近づいて――彼との距離を、ゼロにした。
目を閉じる。
視覚を絞り、その代償に得た柔らかく湿った感触は、脳の根本、奥底さえ蕩かし、痺れさせる毒にも似ていた。
不意打ちに固まったアクアの身体を、もう一度引き寄せた。
長く、ただ永く、続けと願う。
「止まれ、汝は美しい」。そんな戯曲の一節を、思い出すほどに。
けれども、それは決して永遠にはならない。
互いに止めている呼吸に限界が訪れた辺りで、自然と二人の距離は離れた。
瞼を開いたあかねの目の前に現れたのは、未だ戸惑いを隠せない表情でこちらのことを見る、幼ささえも錯覚させるようなアクアの姿だった。
「だから今は、これぐらい」
未だ早鐘を打っている己の心臓を隠しながらもそう言ってみせれば、茫然としたままだった彼が、どこか諦めたような表情と共に、息を一つ吐く。
「――やってくれたな」
ほんの少しの悔しさを滲ませながら、でも仄かに楽しげな声色と共に、彼の額がおもむろに、あかねのそれと合わされた。
肩を掴まれる。視界の全てを覆うほどの、蒼き星の輝きが、あかねの目を、世界さえも灼いた。
「いいよ、仕返ししても」
それにどうしようもなく目を奪われながら、けれどもそうアクアのことを挑発してみせれば、程なく彼は僅かな苦笑と共に、あかねの身体から手を離す。
「……いや、今日はいい」
「ヘタレ」
「何とでも言え」
ベッドから身を起こして、彼がゆっくりと立ち上がる。僅かに乱れた着衣を直しながら、一つ息を吐いた。
「けどまあ、吹っ切れたよ。あかねのおかげさまで、色々とな。だから」
そこで、振り返る。同じように上体だけは起こしつつ、未だベッドに座ったままのあかねを見て、その口の端を吊り上げた。
「楽しみにしてるよ、夏の旅行。
不敵で、蠱惑的でもあって、挑みかかるような彼の笑顔に、胸が一つ、大きく高鳴る。
けれどもそんな彼を前にして、あかねは自然と、泰然と、笑っていた。
「私もだよ、アクアくん」
外に未だ降り続く雨の音が、二人の間を繋ぐ。
胸を躍らせるような確かな予感と共に、夜は更けてゆく。
それはとても素敵なことだと、あかねは思った。
これにて、予定の後日譚分は終了です。
あとは作者の中の創作欲ゲージが溜まったら各種後日譚・番外編などを書くかもしれません(旅行の話はそのための含みとしてわざと残していたりします)。
一先ずこれまでお付き合いいただき、本当に感謝いたします。
ありがとうございました。