僕らは人外に愛されてる 作:八潮汐
現在、夜の九時十五分。
藍星さんからお許しが出たので、晴れて帰宅。結局のところ一夜を明かしたりはしなかった。しっかり家に帰してくれたので、多分今日のあの方はご機嫌だったのだろう。いいお酒でも貰ったのかな。
僕は自宅の前に立っている。
閑静とした住宅街の中に佇む一軒家。他の家と比べて大きく、西陽が当たるので多分高い、色々と。
表札の『轡木』の文字を見て、少し笑う。
ちょっとお腹に力を込めて、深呼吸をしてから恐る恐るとドアノブを回した。
「ただいまー」
微妙に広い玄関に入る。出迎えはない。まだパートの時間かしら、とか思ってると、リビングの方から怒鳴り声が飛び込んで来る。
『何であなたは素直にうんって言わないの?』
『っせえなぁ!!はいはい頷きゃぁ満足か!?』
『何なのその態度!!』
『母親だからって偉いのかよ!!』
「はい、いつもの」
まーた喧嘩してるよ母さんと兄さん。最悪だ。さっさとお風呂入って二階上がって寝よう。
あの二人、折り合い悪すぎるんだよ。
顔合わせの時から睨んでたし。兄さんが。
僕はそそくさとバスルームに入って制服を脱ぎ、ぱぱっと体と髪を洗う。シャワーを浴びてる最中も怒鳴り声がBGMだ。慣れたとはいえ、気分が悪い。
お風呂を上がる頃にも、怒鳴り声ばっかだった。
うるさくて敵わないな。
喉がよく保つものだと感心する。
まったくだ、畏敬の念すら覚える。
でも僕には関係ないこと。
僕は脱いだ制服を持って二階に───なんか固いものがある。何だろうか、上着の内ポケットの中、に…これ藍星さんから投げられた盃だな。やばいな。返すの忘れてた。今度霊峰に行ったら返そう。
「…いつも瓢箪から直で飲んでるし、まぁ一日くらいなくても大丈夫かな、うわばみだし」
「は?」
「っ!? …気のせいか?」
…今なんかキレた藍星さんの声が。
流石に気のせい…だと思う。
現実逃避もしたくなるよね、こんな日じゃ。
そう思いつつ、自室へ入る。
ここは今日も変わらずに殺風景だ。
背の低い洋服ダンス。空の本棚。空色のカーペットに真っ白なベッド。何も置いてない勉強机。
でも窓際にベッドを置いたのは正解だった。
アラーム要らずに起床出来る。
「殺風景な…趣味はないのか?」
「特には。強いて言えば散歩かなぁ」
スウェットを着て、ベッドに飛び込む。
…怒鳴り声は継続中。今日はイヤホン必須だ。スマホとイヤホンを充電しておこう。ノイズキャンセラーは個人的に神だと思ってる。あ、そういうこと思っちゃうんだ、君って。買ってよかった品物第一位だ。
「…宿題は、どうしようか」
さて、思考は否が応でもそこに移る。
藍星さんから渡された一つのこと。彼女の正体に迫れという出題。正答した場合は…少しその思考は横におこう。問題なのは、彼女のいうヒントが一体なんだったかだ。
恐らくだけど、三つの内どれか。
唾液に関連した存在である。
人喰いの逸話をもつ存在である。
指を用いた何かを示す存在である。
…はっきりとはわからない。候補があるにはあるが、確証には至らない。明日、図書室をひっくり返してみよう。高校のものでも、ある程度の手がかりは得られる筈だ。
まぁそもそも、あの人の中にある知識と、僕の中にある知識にズレがありすぎてヒントがヒントとして機能していない可能性があるのだけれど。
だとしても、一応全力は尽くさないと。
出された問題にはちゃんと応えないとね。
「……───っ、うわ…っとと」
どすどす、と不機嫌そうな足音。
大方、兄さんが母さんに負けたのだろう。咄嗟に部屋の鍵を閉める。八つ当たりに巻き込まれたくはない。まったく、何で自宅なのにこんなびくびくしてるのか。
ちょっと憂鬱になってしまった。
イヤホンを耳に突っ込む。
ノイズキャンセリングは最大で。
こうなると兄は絶対にギター弾き始める。
家に騒音の元が二つもある。
普通に頭おかしくなりそう。あーあ、母さんも無理に再婚なんてしなくてよかったのに。
ため息を吐いて、ベッドで仰向けになる。
こんな日じゃ溜息も腐る程出る。
ちょっと、いやかなり参ってしまう。
「騒音ばかりじゃ心も病むだろう」
「全くですよ、…あれ?」
ぽん、と僕の頭に手が当たる。
ひんやりとした心地で、少し心が楽になる。
どうしよう、僕はもう寝落ちたのかしら。
「いやはや、興味本位で覗くものじゃ無かったな」
「………煙管とお酒の匂い」
「私の匂いを学んでるようで何よりだ」
青空色の長い髪。その髪の中で煌めく星々のような色と形。肌は雪のように白く、目は深海を思わせる藍。
今までの妙ちきりんな組み合わせじゃない服。
白装束にも一枚の着物のみの姿。
どうしよう、藍星さん、もしかしてここに居る?
「っ!? なんっ───」
「はい、起きなくてよろしい」
起きようとする僕の身体が、片腕一本で制される。これが夢じゃないと、その感覚で理解する。
仰向けのまま困惑する僕。
藍星さんはうっとりと笑って、ひらひらと僕に手を振りながら囁いた。
「いるとも、いるともさ」
「…呼んでないです」
「そうだね、私は呼ばれてない」
「……そんなふうに来れるならいつも山と繋げる必要ないと思うんですけど…」
「いやまぁ、自宅には来て欲しいだろ?」
「…そう、ですか」
◆
少年、轡木正文の部屋は静かだった。
水を打ったような、凪いだ沈黙があった。
ギターの音も、ヒステリックな叫びも聞こえない。ただ暗い藍色に満たされた部屋の中、少年の息遣いだけが、淡々と規則正しく聞こえる。
ベッドの上には、人影が二つ。女性のような影と、少年の影。女性の方からずるり、と長い尾のような影が現れ、少年の体を巻き取り、自分の方へと寄せた。
青い髪の女が、少年の栗色の短い髪を撫でる。少し傷んだそれには、いくつか白髪も混じっていた。
「…家忍び込んだ上にそういうことします?」
「嫌なら大声でもあげるといいさ」
「やめときます、多分無駄でしょうし」
「よくわかってるね」
轡木は何となく理解していた。
自室を包む藍色は、きっと夜の暗がりではないと。
彼は隣に寝転ぶ藍星を見上げる。
「…冷たいですね、身体」
「ひんやりしていて気持ちいいだろう?」
「…まぁ、毛布とセットだと抗い難いです」
諦めたように彼は笑う。あどけない顔立ちも、少し白髪の入り混じった黒髪も、今は眠りに揺蕩い出していた。
藍星の指が、人間の髪を梳く。
すると少年は、その指に甘えるようにすりよる。彼自身はその行動に気づいてないのか、眠たげなままだ。
「………ん」
「…ゆっくり、眠るがいい」
そ、と彼女の手が少年の瞼を閉じる。
まるで、死に顔を安らかなものにするかのように。
途端、少年からは穏やかな寝息が聞こえる。
安息の真っ只中にいる呼吸。静かで密やかで、規則正しいそれは、彼が正常な眠りに落ちた証だ。
夢見も悪くないのだろう。
彼の顔に歪みはない、悲痛さもない。
ただ一つ、異なる点があるとすれば。
彼の右手は強くシーツを握り締めていること。
まるで幼子のような寝相だ。
やがて彼は頭からシーツを被り、外界の光も音も遮断する。そこに自らの安息があると信じて疑わない動き。自己の殻に閉じ籠るような一動作。
それを見た女の瞳は、濁る。
「……いじらしいな、私の巫は」
蛇のように鋭く、虫のように無機質。
そんな彼女の瞳には、轡木しかない。
「…君を迎え入れるには、もっと力が必要でな」
ずずず…、と長い尾が少年を取り囲む。
庇護するように、隠すように。
このまま彼を攫ってしまいそうな所作。
しかし、彼女は悲痛な顔をする。
「もう、私の価値は無くなった。
だから好きに生きたいんだ。君と一緒に酒を飲み、空を眺め、共寝をして夜を明かしたい。
死に、腐った私を看取った君だから」
尾に囲まれた少年の頬に、唇を落とす女。
それは宣誓のようでいて。
「どうか辿り着いておくれ。私の真名に、私の正体に、私の縛鎖に。私が君を迎えるために」
どこか呪いじみていた。