僕らは人外に愛されてる 作:八潮汐
早朝、五時半に目を覚ます。
のそりとベッドから体を起こした。僕こと轡木正文の日常は、大抵この時間から始まる。
手早く着替えを済ませ、制服を羽織る。
「っと、寝癖直さないと」
栗色のくしゃっとした自分の髪。軽く櫛を通して直す…少しだらしないだろうか?
まぁ、いっか。誰も気にしないだろうし。
そう思いつつ、空色のマフラーを巻く。だいぶ使い古しているが、こればかりは変えられない。また補修し直しておこう。綺麗なままにはしておきたいし。
「…そう言えば、藍星さん…もう帰ったのかな?」
布団と辺りを見渡しても、誰もいない。
あの人(神様)ったらいつの間に帰ったのだろう。
別れ際の挨拶くらいしたかったのに、と肩を落としてスクールバッグを肩にかけた時だ。
勉強机の上に、昨日拾ったままの盃があった。
しかも何やら青い液体が注がれている。
「…飲めってか、飲めってことですか藍星さん」
はぁ〜〜…、とため息を吐く。
まったく、どうしたって僕がこんな怪しいものを飲むと思っているのだろう?
…『まぁ轡木くんなら飲んでくれるだろう』とか、そんな浅い見積もりだろう、どうせ。
「…んっ、……っ、うぇ…スースーする」
大当たりですよ、まったく。
一気飲みをした感想としては、強烈な薄荷味だ。サラサラとしていて飲みやすいが、清涼感が少し冷た過ぎて喉越しが痛い…何だろうこれ。
酒精って感じはしない。
から、学校に行っても生徒指導は喰らわないだろう。
「よし、行くか」
家族を起こさぬよう、そろりそろりと一階へ。台所へ行き、冷蔵庫に入っているおはぎを手に取る。
口に放り込んで、また忍足で玄関へ。
今日の空は爽やかな晴れ模様だった。
扉を開けてご機嫌になるくらいには良い天気。僕は解けかけたマフラーを巻き直し、学校に向けて足を進める。
「…ふう、少し憂鬱」
八津川町、───関東に位置するこのベッドタウンは、隣接する東京都のおまけのような扱いだ。
田舎としても都会としても中途半端。
そのくせ、小規模な神社が沢山ある。
おそらくだけど、この神社の数的に開発があまり進まなかったか、開発の波に乗り遅れたのだろう。
最寄りのバス停で少し待機。
この町は駅を境に二分される。神社のひしめく西区と、会社や役所関係が密集した東区。
学校やスーパーなどと言った民間的なあれそれは、ほとんど前者に位置している。
ので、バス停から見える景色は牧歌的だ。
畑、民家、空き地、温泉。
学校のみんなは、それを「つまらない」というが、僕はその「つまらない」が好きだった。
変わり者だとは、よく言われた。
「…あ、やっば。盃置きっぱだったな…」
バスを待つ中で、そんなことを思い至る。
まぁ多分、大丈夫だろう。兄はともかく、お母さんは勝手に人の部屋に入ったりとかしないし。
とかなんとか思っていれば時間だ。
ノロノロとやってくる始発のバス。僕はそれに乗って、通学先へと足を向ける。
…何気に始発に乗るのは初めての体験だ。
これも藍星さんの正体に迫るため。
僕は少しでも長く、図書室に入り浸る時間が欲しかった。ようは、一刻でも早く彼女のことを知りたかったのだ。
なぜかはわからないけど、彼女がそう望んでる気がした。
◆
───私立明徳学院。
八津川町西部に位置する、さして語るような特徴もあまりない学校だ。強いて言えば中高一貫校であること、そして図書室の蔵書量がやや多いという程度。
僕は、そこの一生徒だ。
栗色の髪、幼い顔立ち、高めの声、程々の身長。
さして語る特徴もない自分は、特にクラスで浮いてもなければ目立ってもいなかった。
ああ、そんな奴もいたな。
クラスを変えたら揃って皆がそう呟く存在感。
「日本神話、日本神話…。
いや、地域伝承の方がいいのかな?」
朝っぱらから図書館を利用しても、特になんのヒソヒソ話も聞こえないのは好都合だ。
落ち着いて調べ物をすることが出来る。
「八津川町・伝承録…これだな」
古めの本を手に取り、開く。日本神話という大カテゴリで見ることも考えたが、記憶にある限り『藍星』という名の誰それは、聞いたことがなかった。
となると、古事記に乗らなかった存在だ。
…日本には八百万の神がいる。記録からあぶれてしまった存在も、そう珍しくはないだろう。
実際、この本には多くの存在が記されている。
因幡の白兎と関わりのある『鰐鮫』の血筋、血のあるものならなんでも食べたらしい『黒顎』なるもの。
こんなの、便覧にも乗っていなかった。
この本はこのまま借りてしまおう。
「…ん、なんだこれ」
ぺらり、とページを巡る。
目に入ったのは『落ち延びた大百足』という項目。
山をも覆うほどの体躯を持つ大百足。
その頭部はかつて、息絶え絶えの中、この近辺にやってきたらしい。当時の人々はこれを恐れ、誰も近寄ろうともしなかった。どころか、無いものとして扱った。
ただ巨大だから、ではない。
その頭は毎夜毎朝「口惜しい、口惜しい」と恨み言を吐いていた。分かりやすいほど、人を憎んでいた。
加えて、その頭部の断面はこんこんと血を吐き出す。
それでも百足の頭は死んでいない。
そしてうわごとのように呟き続ける。
我は七巻き半、奴は鉢巻と。
…調べるまでもなく『三上山の大百足*1』だ。龍をも害する存在、だけど人の唾液を忌み嫌うもの。
それゆえに人の身に敗れた大怪物。
この資料が正しいのなら、その頭部は滋賀から関東圏まで移動していたことになる。
「…でも、これが本当にあの方の正体か?」
頭をよぎるのは、藍星さんの『ヒント』だ。
彼女の指を口に含まされた、あの一瞬。
ぞわりとした感覚もあったが、そこに悔しさとか、憎悪とかは無い。そもそも、そんな感情があったら、昨日みたいに添い寝なんてしてくれない筈だ。
第一、人の唾液を苦手とするなら先ずしない行動も…その、していたし、百足関連は除外だ。
となると、ヒントとしては…僕が彼女の指を咥えたことが重要なのだろうか?
「……名も知れない人身御供でしたーとかじゃないだろうな…ヒントもクソもないぞ、そしたら」
最悪な可能性を考えつつ、貸出手続きを踏む。
小脇に本を抱えたまま、図書室を出た。
…時間帯としてはまだまだ早朝。廊下にいても、窓からやる気のない運動部の声が聞こえてくる。
秋晴れの日差しはガラス越しでも温かい。
肌寒い大気に縮こまった体が、穏やかに、ささやかに解けていくのを感じていた。
この感覚は、嫌いじゃない。
「うん? 待てよ…」
嫌いじゃない、そうだ。
あの人は僕の口の中に触れることこそ、躊躇わなかったが、一言もそれを『苦手』とは言わなかった。
その逆もまた然りだ。
人の唾液に触れることが好ましいとも言わなかった。
あれは、単なるヒントなんだ。
「なら、あながち百足の系列も───うわとと、ごめんなさい」
そんな思考に没頭していたせいだと思う。
僕は、僕より大きな人にぶつかった。
謝ろうと、咄嗟に顔を見上げる。
アシメショートの真っ黒な髪。光の薄い黒目。ちらりと覗くギザギザな歯。短く折り込んだスカートに、裾を出したシャツ。季節通りの厚ぼったいジャケット。
失礼だけど、大変ガラが悪かった。
極め付けは、顔にある手当の跡。絆創膏やら何やらがあって、アザみたいなのもちらほらと。
…一目でわかる、不良だった。
彼女はジロリ、と僕を見つめてくる。
だるそうな目、敵意はない。無かったはずだ。だけど、彼女がスン、と鼻を鳴らした時。
「…オイ」
倦怠が、苛立ちに裏返った。
そう気づいた時には、もう遅かった。
「かはっ…!」
胸ぐらを掴まれて、持ち上げられる。
身長差のせいで僕の体は宙ぶらりん。いやでも気道が狭まって、呼吸が薄くなる。
苦しい、痛い、怖い。
そんな感情が頭を回る。胸ぐらを掴む手を解こうともがくけど、万力のような握力はびくともしなかった。
「…オマエ、臭ェンだよ。気付いてンのか?
…クソッ…嫌な臭い振り撒きやがッて…」
「な、ん、…っの、こと、か…っ!」
彼女は僕に臭いと言った。
僕はといえば心当たりが全くない。お風呂は毎日入ってるし、洗髪も洗体も欠かしたことはない。
なのに、臭い、なんて───。
そこまで考えて、ボクは乱暴に床へ落とされた。
腰に盛大な痛みが走る。気道が広がり、否が応でも咳が出る。そんな僕を、名も知れぬ真っ黒な彼女が、まるで蔑むかのように見下ろしていた。
「ハッ、なんのことか、と来たか。
…馬鹿なやつ。オマエ、やらなくても良いことでもやりやがッたか? …もう助からねェよ」
馬鹿馬鹿しい、と彼女は言った。
咳を吐く中で、僕はその言葉を反芻する。
やらなくても良いことをやった。
そして、もう助からない。
何のことかは分からないけれど、心当たりはたっぷりあった。でもそこは重要じゃない。
大事なのは、彼女がそれを察知したこと。
おそらく、僕の知らない沢山のことを、目の前の不良は知っているのだろう。
「…なんだその目。生憎だが、オマエに教えるもンは何もねェ。せいぜい勝手に自爆しろ。
その方がまだマシな死に方は出来るだろうよ」
「待っ───ッ!? ! !?」
去ろうとする彼女を追おうとした。
けれど不意に、海のような匂いが辺りを包む。穏やかな渚の香り。鼻腔にそれが突き抜けた時、足を止めてしまう程の雄大な大海原を幻視する。
白波を携える深い青。
恐らくはそれが彼女と、僕の本当の距離。ここは学校の廊下で、僕と彼女の距離は短いけれど、それでもきっと追いつけない差があると理解する。
僕の見た幻視は、きっとそういうもの。
「…ままならないなぁ…」
ぺたり、と廊下に腰を落としたままの僕がいる。
海の幻視は、彼女の姿が見えなくなったと同時に治っていた。ここにあるのはただの廊下だ。
…でも僕は、ある種の確信があった。
あの幻視はきっと僕由来のものではない。疲れとか、寝不足とか、そんなのが理由じゃない。
きっと、起点はあの黒い不良である彼女から。
それは翻って、彼女が人外の身だという証左でもある。
…ああ、はっきりと確信出来る。
だって僕はあの幻視を一度体験している。
初めての体験は、きっと藍星さんが由来のもの。
どうして忘れることが出来ようか。
幼い頃に見た、あの綺麗な風景を。藍星さんと一緒にいてあげたいと願った、あの日のことを。
「……今度、聞けたら話を聞こう」
ゆっくりと床から立ち上がる。
そもそも、ボクは人外についてあまりにも知らない。藍星さんの正体に迫るためにも───今は少しでも、知識が欲しいのだ。