「ハロー、ミスター。いらっしゃい」
カランコロン、と真鍮のベルが鳴る。
私はいつの間にか、見知らぬ店の入り口に立っていた。
カウンターに、向かい合わせの席が幾つか。食堂だろうか? それにしては狭い気もするが。
私は先程まで、この世界を旅するための車を整備していたはずだったのに。まるでワープでもしたみたいに、空間が切り替わったようだ。
私を出迎えたのは年若い女性の声。
カウンター奥を見れば、20代らしき女性が立っている。シャツにベストというかっちりした服装に、丁寧に編み込まれたシニョンがその人の美しさを完成させていた。
対する私は作業着のツナギのままだ。油汚れが目立つそれはこの場に不釣り合いで、忘れかけていた羞恥心が蘇る。
この世界にはもう私一人しか居ないのかもしれない。そう言う考えが身だしなみの油断を誘っていたのだ。
「お好きなお席へどうぞ。全席禁煙よ」
「ええと……ここは? 見たところ食堂のような場所だけれど」
「食堂? やーねぇ、ここは喫茶店。喫茶『エンドロール』よ。お客さん」
「きっさ……?」
何か本で読んだことがある。飲み食いをする店で、食堂なんかよりは少人数を対象としていたんだったか。
配給で生活するようになった昨今は、もう大昔の歴史に消えてしまったようだが。
配給所とはまた違う雰囲気ということは、わかる。
彼女の言う喫茶店というものについて、残念ながらこの程度の知識しか覚えがなかった。
配給も無くなって久しい今、知らないシステムに戸惑う。
「取り敢えず、席に座りなさいな。説明するのはそれから」
「あ、ああ……」
こんな小汚い服装で大丈夫だろうか、と尻込みしつつ、カウンター前の背の高い丸椅子に座る。ぴかぴかの革張りの座面がぎちりと音を立てた。
女性……店員だろうか? はそれを確認すると、ツヤツヤと輝くボードを取り出した。
開かれると、そこには写真と文字がズラリと並ぶ。一番上には「MENU」と繊細なフォントで書かれていた。
ここで出されるものの一覧だろうか。
「お水はサービスよ。おしぼりも。汚しちゃって良いから、その油まみれの手を拭きなさいな」
「こ、こんな綺麗な水を……!? いいんですか?」
横に置かれたグラスには透明で綺麗な水が注がれている。氷も入っていて、見ただけでわかる貴重品だ。グラスに伝う結露すら勿体なく感じる。
おしぼりというのは、一緒に出された蒸しタオルのことだろうか。こちらも綺麗に洗濯されていて、くたびれていないそれは触ることすら躊躇われる。
しかし、彼女はなんて事ないように遠慮するなと、使えと言う。
私は心のどこかで、詐欺を疑った。
「あの、これ……使ったら持ち物全部請求、とかされませんよね……?」
「貴方、私がそんな極悪人に見えてるの? 失礼しちゃう、善良なマスターなのに」
マスター、という肩書きはよく分からなかったが、彼女からは不思議と悪意も警戒も感じられなかった。
妙に安心できると言うか、心が怯えない。そんな穏やかな魅力が。
決して私が呑気だとか、無警戒という訳ではない。本当に不思議と緊張がほぐれるのだ。
私は促されるままにおしぼりを手に取った。暖かく、肌に馴染むような柔らかさ。蒸気がそっと強張りを宥め、油汚れを取り去ってくれる。
手どころではなく全身に当てたいほどの心地よさだ。人が目の前にいる手前、そんな事実行に移せる訳ないが。
手の汚れを落とした後、グラスに手を伸ばす。
シンプルなガラスのそれは、触れれば結露の水気と冷たさが指先を包む。
飲めば整備仕事で熱がこもっていた体にすーっと行き渡る、透き通った水の味がした。
塵もゴミも土も混ざっていない、濾過され冷やされた水。
生まれてこの方味わったことのない透明感だった。
どこか酸味も感じるが、これは純水特有のものなのだろうか?
「ちょっと、お冷だけで満足したみたいな顔じゃない」
「は、はぁ。しかし本当に美味しかったもので」
「ただのレモン水なんだけどな……。まぁいいいか、それでご注文は?」
「ええ?」
注文、と言われてもこの水だけで全てが満たされるような思いだ。
金銭も物資も、釣り合うようなものを渡せない今、何か頼むなんてことは出来なかった。
なんせこのサービスの水一杯だけで、私の車と同等かそれ以上の価値があるだろうから。
これからの旅路を思うと、無茶な出費は避けたかった。何もかもが足りない現状、ネジの1本でも持っていかれたら成り立たない。
「お代はいらないわ。こっちから求めるものは注文くらい。ここは『エンドロール』よ? お客さんに何かを請求すること自体主義に反するの。いいから、メニューから食べたいものを選びなさいな」
「え、そ、そんな夢みたいな」
「ここはそう言う場所なの。どんな食べ物かわからなかったら説明してあげるから、ほら」
そう言って彼女はメニューボードをトントンと指差した。
こんな死ぬ前の夢のような出来事があって良いのだろうか。もしかしたら自分は車の整備中に突然死したのではあるまいな?
と疑念に思いつつ、メニューボードに視線を向ける。
メニューに書かれた料理はそれぞれ鮮やかな写真が添えられ、時折追加トッピングという添え書きもされている。
ナポリタン、コーヒー、パンケーキ……。聞いたことのない名詞がズラリと並ぶ。
しかし写真の料理はどれも色鮮やかで、形はブロック状でも錠剤でもなかった。
気になったものをどんな味で、どんな大きさなのかを店員に聞く。
彼女に取っては当たり前のことなのだろうに、丁寧に教えてくれるお陰で目移りしてしまう。
「このメロンフロート、というのは?」
「シュワシュワした炭酸っていう飲み物……ジュースの上に、冷たいアイスクリームってお菓子が乗ってるのよ。アイスは……その氷を甘くしたような感じね」
「なるほど……迷いますね」
「どれも拘って作ってる物だから、嬉しいわ。悩むだけ悩みなさい」
プリンアラモードか、カレーライスか……。
あれこれと悩みながら、改めて店員を見る。
綺麗な女性だと思う。
スラリとした身体や、肌荒れのない顔。整った目鼻立ち。丁寧に編み込まれたシニョンは栗色で、そのツヤは天使の輪を思わせる。
うすく化粧をしているのか、目元はキラキラと光を反射する。
白いシャツは真っ白でパリッとしていて、黒いベストには輝く金ボタンが。
世界がこんな風になる前の上層民でも、こんな上等な服装はしていなかったはずだ。
彼女は一体何者なのだろう。
そんな考えも、やがてメニューの迷いに消えてしまうのだが。
「決めました、このコーヒーとナポリタンをお願いします」
「はーい。コーヒーはブレンド? それとも本日の豆?」
「えっと……オススメの方で」
「任されちゃった。少し待っててね」
迷いに迷って、贅沢を言って2つに決めた。
飲み物と、パスタという固形物の食べ物らしい。鮮烈なオレンジが印象に残って、つい頼んでしまった。
店員──途中でマスターと呼べと怒られてしまった──は、カチャカチャと料理の準備を始める。
鉄フライパンに、なにやらさまざまな料理道具らしき物を出している。
この時代、フライパンだってせいぜいレーションに焦げ目を付けるくらいの役割だ。
だというのに彼女は、滑らかな手つきで器具を、食品を操っていく。手際の良さは、長年の職人が武器を構えるかのような染みついた動き。
私は何をしているかさっぱり分からないが、パーツがどんどん組み合わさってひとつの料理として完成していく様は、なにかエンターテイメントを感じる。
鉄板の上に黄色い液体が流れ、それが熱されて固まり金色の絨毯のように変身する。
その上にオレンジを纏ったパスタが乗せられ、緑の何かや配給の干し肉のような物が混ぜられる。
「はい、お待たせしました」
あっという間に完成した「ナポリタン」。
ホカホカと湯気が立つ料理なんて、生まれて初めてかもしれない。
コーヒーは食後にすることにして、私は早速フォークを手に取った。
「……!」
おぼつかない手つきでパスタを巻き取り、口に含む。思いの外大きく取ってしまったせいで、大口を開けることになってしまった。
しかしそれで正解だったと思う。
口の中いっぱいに広がる、濃厚な甘味と絡みつくような酸味。とろりとした、しかしダレることないソースが口の中に染み込んでいき、えもいわれぬ旨みが脳内を支配した。
混ぜられた緑の何かは、ほのかな苦味と渋みの中にソースとはまた違った青っぽい甘みがあり、シャキシャキとした食感が楽しげに歯に響く。
肉らしきものは楕円形に切られ、噛み締めればジューシーな肉の味が一気に広がる。どこか香ばしさと程よい重さがあり、満足感がどっと増すのを感じた。
下敷きにされている黄色いもの……卵も食べられるそうなので、いただく。
端っこはパリッとしていて、中央に行けばソースが染み込んでしっとりじゅわりと濃い味に変わる。
パスタと一緒に食べると酸味が緩和されて甘みが強くなり、味の柔らかさが増してこれもまた美味しい。
黙々と食べ進めると、瞬きの間にプレートは空になってしまった。
お腹の満足感と、上がった体温、体全体に満ちた幸福感が、食べ終わってしまったことを遅れて知らせてくる。
「良い食べっぷりだったよ」
「……とても、美味しかったです。人生で一番」
「うんうん、ありがとう」
初めて感じる満腹感に呆けていると、いつの間にかプレートは下げられ、ひとつのカップが置かれていた。
真っ白なセラミックスのカップとソーサーは単純ながら美しく、その中に入っている茶色い液体が香ばしく苦味のある香りを鼻腔に届けていた。
これがコーヒーだろうか。
「本日の豆はブラジルだよ。ミルクとシュガーはお好みでどうぞ」
「い、いただきます……」
砂糖なんて、本当の上層民しか口にすることができない物じゃないか。そんな物を私が……良いのだろうか?
ミルクも、合成じゃないとしたらとんだ高級品だ。これ一杯のために、家財を売る人もいるだろう。
恐れ慄きつつ、コーヒーを口に含んだ。ミルクとシュガーを入れる勇気は無かった。
瞬間、口のなかに深い……今まで感じたことのない苦味が到来した。
不快ではない、不味くもないのだが、苦味が圧倒的に強いはずなのに何処か美味しさを感じている自分がいる。
鼻を抜ける酸味と喉に染み込むコクは、ナポリタンとはまた違った雰囲気だ。
ナポリタンが子どもも大人も楽しめる物だとしたら、こちらは……随分と「大人な」味がする。なるほど、砂糖がいる訳だ。
しかし、私としてはこの苦味を楽しみたいと思った。
甘さを引き立てるより、このままの頭に差し込まれるような苦さと香りを感じていたいと。
数口飲み込んだあと、ほっとカップを戻す。
「妻も……ここに連れてきたかった」
「あら、既婚者だったの」
「ええ。……もう、一人ですがね」
「……それは、聞いても良いことかしら」
「気にせず。おおよそ一月前に亡くなりましてね」
長年連れ添った相手だった。馬鹿で愚直な私に文句も言わずついて来てくれた妻。
子どもを作る余裕なんて無かったが、それでも幸せだった。
世界がこうなってしまってからは、二人三脚でなんとか生き延びて日々を過ごしていた。
しかしそれも、永遠には続かない。そういうことだった。
「私には勿体無いほどのできた妻でした。どれ程の迷惑をかけたでしょう。最後に、一緒にここに来たかなったなぁ……と」
「……そう、仲の良い夫婦だったのね」
「ええ、亡くした当時は何もかもが手につかないほどに。最近になってようやく、気力が湧いて来たんです」
最初こそ荒れた。自死を図ろうとした瞬間だって一度や二度ではない。
しかし、今や彼女の存在を知る者が自分しかいないと気づいた時、ここで生を断つのは早計すぎると思考が切り替わった。
終末。そう言って間違いないこの世界。
そんな終わりを待つだけの世界で、彼女が生きていたことを証明できるのは自分しかいない。いなくなってしまった。
私という男に、妻という素晴らしい伴侶がいて、仲睦まじく暮らしていたことを知るのは、もう自分自身しかいない。
その証が潰えてしまうのは、身を裂くような寂しさがあった。
存在証明というのは、人間を形作る上で一番大切だと思う。
自分が今ここにいること、生きていること、思考していること。
それを誰かに知ってほしい、覚えてほしい。承認欲求とも言われるそれは、当たり前に持っている本能なわけで。
私は誰かに知って欲しかった。私と妻の存在を。
覚えていて欲しかった。この世界で愛し合った二人がいたことを。
どうか、どうか。
「今となっては、妻の姿を遺す写真すらありませんが。ああ、ここで一緒に、ナポリタンを食べたかった」
「それは光栄だ。コーヒーを飲み終わったら……貴方はどうするの?」
「車の整備に戻ります。実はこの世界を、一周してみようと思ってまして」
「世界一周?」
終末と言って相応しいこの灰色の世でも、まだ私のように生き残っているものは居るはずだ。
その人を探そうと思った。世界に散らばる、生き残りの存在を確かめに。
そして私の存在を知らせる為に。
「無謀だと思いますか。私ももう若くはない。それでも、最後の最後に冒険してみようと思ったんです」
「無謀? まさか、立派ですよ。私は応援します」
「ありがとう。……ああ、もう飲み切ってしまった」
妻のことを話すうち、泣くのを堪えるようにコーヒーを飲んでいたら、もうカップの底が見えてしまった。
心も腹もみたされている。いつになく穏やかで、安らげる時間だったが、もう終わりが近づいているらしい。
「……ありがとう、マスターさん。貴女のおかげで、改めてこの旅への決心ができた」
「私も、覚えていますね。奥さんのこと、貴方のこと。ちょっと羨ましいな、そんな大切な人がいる事が」
「貴女にもきっとできますよ。私が保証します」
「ふふ、ありがとう。……それでは、ご来店ありがとうございました。良い終末を!」
その言葉と共に、私の視界は明転する。
そしていつの間にか、私はもといたガレージに戻って来ていた。油の匂いと、埃の混じった空気が頭をハッキリさせる。
ああ、不思議な体験だった。
しかし満ち足りた心とお腹は、そのまま持って帰っていた。
「よし……あともう一息」
最後の調整が終わったら、荷物を詰め込んで、思い出と別れて、世界へ旅立つのだ。
存在証明のため、亡き妻と共に。
「良い終末を……か」
送り出されたあの言葉を、反芻する。
これからの旅路が祝福されるような、見届けられるような頼もしい心だった。
*
ある世界の話だ。
世界大戦や貧富の差、世界的な物資の減少により、世界は混沌と灰に包まれていた。
いつか誰かが書いた、ディストピアと言うに相応しい。命も倫理も軽い代わりに明日の飯が何より重い世界。
世界政府はようやく危機感を持った。このままでは人類の滅亡……終末が訪れる。
もはや人口減少も文明の衰退も止められない。後に残るは鉄屑と苔のみ。色を失ったこの世で挽回できる方法はもう、存在しない。
となると、この世界の頂点に立つ自分達はどうすべきか。
そう、宇宙に逃げる事だ。
秘密裏に宇宙船を造り、ありったけの食糧と設備、自給自足のシステムを積み、星の外へ永遠の旅へ。
それは保身と死への恐怖から急ピッチで進められ、現実となる。
しかしここで、残される庶民に対する憐憫という者が、一応、まだ米粒ほどに連盟の人間には残っていた。
滅びを待つのみの人間はきっと発狂してしまう。そうなれば、世はもっと混沌とするだろう。混乱と悲鳴に包まれることになる。
それは、少しかわいそうだ。
そういう訳で、連盟は更に秘密裏にある薬品を作り出した。
対終末用精神防御薬「END ROLL」
この薬品は、服用した対象のセロトニン値やドーパミン、呼吸量から精神状態を確認し、一定数値以下……発狂寸前であることを確認すると「幻覚」を見せる。
その人のメンタルを落ち着かせ、終末の中生きていく精神を取り戻すような幻覚を。
これを全世界に散布すること。
それが、世界連盟が残されるかわいそうな庶民たちに贈る最後のプレゼントだった。
しかしこの薬、ろくな実験や治験も行われずに実用に移されたせいか、おかしな「効果」と「副作用」をもたらした。
その効果は、何故か見る幻覚が「喫茶店で美味しいものを食べる」という内容に統一されること。
そして「満腹感」という副作用だった。
連盟の人間は知る由もない、その薬品の効果。
最後を生きる人々への、おいしいの贈り物。幸福な満腹感。
それが終末喫茶「エンドロール」の正体だった。
マスターは今日も料理を作る。
心を壊しそうになった人々のために、幻の料理を。いつかの時代、当たり前のようにあった数々の料理を。
喫茶店のあたたかさを。
それがたとえ、エンドロールを待つばかりの人だったとしても。
誰にでも、味わう権利があるから。