春はどどめ色   作:薔薇結石

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九話 未だ見えぬ蛇

 暗い水底から浮かび上がるように、カーテンから差し込む朝日が瞼を照らすように、別世界の訪れを肌で感じる。

 

 言葉にしにくい感覚だが、精神が肉を得たような、実体を得たような感じだ。絵画世界という特殊な環境に身を置いた影響だろう。

 

 目を開けると、既にして見慣れた部室。日は完全に落ち、絵画世界に入った時からそれなりの時間が経っているようだった。時間の流れは、こちらとあちらでそう変わらないものらしい。

 

「布瀬、布瀬」

 

 床で穏やかに寝息を立てる布瀬に向けて呼びかける。

 

 呼びかける度、体や瞼がピクピクと反応してはいるものの、返事をする気配はない。

 

 肥え育ったネガティブに突き動かされ、胡乱な妄想が背筋を走るが、はたと思い至る。

 

 絵画世界突入前にしておきながら、愚かにも忘れかけていた口約束をここで思い出し、躊躇いがちに口を開けては閉じる。

 

 大きく息を吐いて、呼吸を整える。舌を定位置に戻し、万が一にも噛んでしまわないよう、可能な限りの努力を以てその音を発する。

 

「……夜須美」

 

 ぱちり、と目を見開く布瀬の姿を見て、ほっと胸を撫で下ろす。同時に、無用な心配をかけさせた彼女に仄かな憤りを感じてもいた。

 

「起きてたならリアクションくらいしてくれ」

 

「約束したじゃんか」

 

「そうだけどさ……はぁ」

 

 肩の荷が下りたことで、なんだか疲れが一気に押し寄せてきた。

 

 もう夜も遅い。お互い、家族も心配していることだろう。早いとこ送り届けて、明日に備えなければならない。

 

「早く帰ろう」

 

「ん」

 

 仰向けに寝転がった体勢から、腕を伸ばした姿勢で固まる布瀬。

 

 手を取って引っ張り上げてやると、その軽さに驚いた。

 

 ちゃんと食事摂ってるんだろうか。

 

「絵はもう大丈夫?」

 

「ああ。なんとかなった」

 

「やっぱり。八雲くんがなんとかしちゃったね」

 

「布……夜須美の助けがなきゃ、そもそも部室に入れなかったよ。僕一人じゃどうにもならなかった」

 

「ふーん」

 

 寝起きだからか、布瀬は不機嫌そうだ。

 

 こういう時は不用意に言葉を重ねるべきではないと、妹との生活で学んだ僕は口を噤むことにした。

 

 だが、予想外にも布瀬は頬を緩めて、口火を切った。

 

「次は、わたしにも協力させてよね。同じ部の仲間としてさ」

 

「……ああ」

 

 正直、この手の怪異化物絡みの案件に一般人を巻き込みたくはない。

 

 ああいうのは、文字通り住む世界が違う。

 

 お互い不干渉でいるのが自然なのだ。

 

 その不文律を破ったイレギュラーに対処するのが先生の仕事であり、バイト業務の一部でもある。

 

 畢竟、積極的に関わろうとさえしなければ、彼らは危険でも何でもない。

 

『まあ、今回は特例みたいなもんか』

 

 心中で吐き出す言葉は、この三年で培った経験によるものだ。

 

 実際、学校内に出現した例はかつてなかった。

 

 今後も、そう多くあるとは思えない。

 

 怪異化物魑魅魍魎には、出会おうと努力したとしても、そうそう出会えるものではない。

 

『それでも万が一が怖い』

 

 だから、僕が彼女と共にいるのは、監視役としての側面もあるのだ。

 

 取り返しがつかなくなる前に連れ戻す、或いは、その事後処理のために。

 

 そうだ。その名目がいい。先生も納得してくれる。

 

「そうだ!先生!」

 

 直帰というわけにはいかない。報告に行かねば。

 

「うわ、びっくりした!先生?」

 

「あ、いや、なんでもない。早く帰ろう。なんか寒いし」

 

 そう言う僕を、布瀬がジロジロと観察している。

 

 彼女の視線はくすぐったいようで、不思議と嫌な気はしなかった。

 

「そういえば、学帽と学ランは?来るとき着てたよね?」

 

「あ!ああ……」

 

 うっかりしていた。

 

 確か、蛇と対峙した時に絵画世界の校庭で脱ぎ捨てたはずだ。

 

 一条喜依の言葉がフラッシュバックする。

 

『訪問はひと月に一回と決めておきましょうか』

 

 今月分はノーカンであることを期待しつつ、僕と布瀬は夜の校舎を後にした。

 

 

 

 

「報告!絵画の乙女の引き起こしていた案件ですが、絵画世界に巣食っていた大蛇が原因であると判明し、当該個体の排除に成功しました!

 絵画世界の本来の主である一条喜依は対話での交渉が可能だったため、今後コレは私の元で管理する運びとなりました!

 絵画の乙女案件は、以上をもって終了したものと思われます!」

 

 夜間、路上にて。

 

 僕は現在、黒光りする革ジャンを身に纏った怪しげな女性を前に、絵画を懐に報告を上げていた。

 

 布瀬を送り届けてからどこからともなく現れた、先生その人である。

 

「前から思ってたんだが、報告の時おかしくなるのはなんなんだ」

 

「メリハリあった方がいいかと思って」

 

「学ランはどうした」

 

「忘れました。絵画世界に」

 

「減点一だな」

 

「はい……」

 

「……ま、及第点をくれてやってもいいか」

 

「ありがとうございます!」

 

 深々と頭を下げ謝意を示す。

 

 普段は割とフランクに接しているが、仕事が絡むとなれば話は別だ。

 

 人としてはどうかと思うこともある先生だが、怪異化物と相対した時の彼女は素直に尊敬できるのだ。

 

 それに、僕が今なお生き永らえているのは彼女のおかげでもある。

 

 そういう事情もあって、敬意を示すのに適した場面であれば、こうして伝わりやすいよう態度を改めいるのだ。

 

「一条喜依と対話したと言ったが、何を話した?」

 

 鋭い視線とともに問われ、僕は一条喜依との会話内容を一語一句漏らさず説明した。

 

「陰気な男か……」

 

 吐き捨てるように呟いた先生の顔は憎々しげに歪められ、視線で人を射殺せそうなほど殺気立っていた。

 

「知ってる奴ですか?」

 

「確証はないが、思い当たる奴は一人しかいない」

 

「どんな奴なんです?」

 

 既に先生の顔はいつもの怜悧なものに戻っていたが、その裏の感情がにじみ出ていた。

 

 どうも、並々ならぬ因縁があるようだった。

 

「今を生きる魔術師の中で、奴より魂へ造詣深い者はいない。

 素人に魂の転写を唆し、直接乗り込むことなく絵画世界に干渉できるうえに、陰気となれば奴以外に考えられん」

 

 先生にそこまで言わせるとは、とにかく凄い魔術師なのだろう。魂への造詣が深いとはどういうことか、何ができる奴なのか、いまいちピンとこないが、なんかもうすごいことができるのだろう。

 

「名前は?」

 

 そして僕は、当然聞いておくべきことを質問した。

 

 耳鳴りがした。

 

 知らなければ知らないと、知っていれば過不足ない答えを返してくれる普段の先生には似つかわしくない、不自然な沈黙があった。

 

 先生は奇妙な沈黙の後、何でもないように口を開いた。

 

「ラーガ」

 

 それが、件の魔術師の名前らしかった。

 

「異名ですか」

 

「ああ」

 

「先生が“クラルス”と名乗ってるのと同じですか」

 

「いや、ラーガというのは奴の使う魔術に由来して、勝手に呼ばれ始めたものだ。奴が自分からそう名乗ってるワケじゃない」

 

「詳しいんですね」

 

「まあ、な」

 

 いつになく歯切れが悪い。聞かれたくないことがあるのだろう。

 

 気の使える教え子である僕は、ごく自然に話を変えることにした。

 

「それで、どうしましょうか」

 

「決まってる。とっ捕まえて、真意を聞き出す。一般人に手を出すなんて、魔術師として三流もいいトコだ」

 

「でも、一条喜依と接触したのは十年前ですよ。見つかるもんですかね」

 

「私の推測が正しければ、ラーガはまだ近くにいるはずだ。なんせ、目的が果たせてないからな」

 

 ラーガの目的。一条喜依に魂の転写を教え、抜け殻になった肉体を持ち去った目的。

 

 魔術的見地に乏しい僕には、見当もつかない。

 

「なにが目的なんでしょうか?」

 

「ど……いや、まだ知らなくていい。外れている可能性もあるからな。

 とにかく、奴はまだ近辺に潜んでいて、似たような事をしでかすだろうということさ」

 

「はた迷惑な奴ですね」

 

 通常と異常は相容れない。在り方からして異なるもの同士が、共存などできるはずもない。

 

 だから極力、僕らは距離をとるべきだというのに。ラーガは距離をとるどころか、自分の都合で一人の少女を騙し、こちら側の住人にしてしまった。

 

 許されることではない。

 

 たとえ一条喜依が望んだことだとしても、ラーガが唆さなければ、彼女は異常になることもなかったはずなのに。

 

 ラーガは一条喜依が得るはずだった、普通で平凡でなんてことない、他の何にも代えがたい幸福を奪い去ったのだ。

 

 普通を異常に変えてしまう行為は、きっと何より罪深い。あまつさえ奴は、再びそれを起こそうとしている。

 

 その行為に、僕は憤らねばならない。異常な人生を送ることを強いられた人間として、それだけは見逃してはいけない。許してはいけない。次を出しえてはならない。

 

 いま僕は、自分のために憤りを感じていた。三年前の僕のために、普通を奪われた僕のために、そして、異常を受け入れてしまった僕のために。 

 

「まったくだ。正直、後手に回ると不利だ。何をしてくるか予測がつかないからな。先にこちらが見つけ出して対処する必要がある」

 

「僕は何をすれば……」

 

「精々、周りの人間が妙なことに巻き込まれないか見張っておけ。私としても、手札は可能な限り伏せておきたいからな。

 お前は派手に動くな。いいな?」

 

「……わかりました」

 

 不本意ではあるが、実際、広域を捜索する手段が僕にあるわけでもない。勝手に動いて先生の邪魔をするのも、気が引ける。

 

 協力したいのにできない歯がゆさ。布瀬もこれを感じてのあの言葉だったのだろうか。

 

 一通り、その後の方針を確認しあったところで、その場は解散となった。

 

 

 

 

 翌日、ささやかな緊張を持って教室で休み時間を過ごしていると、思わぬ者の来訪に僕は面食らった。

 

「あの天使を譲ってはくれまいか!!!」

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