ハスキーさん書くの久々すぎて、つい筆が乗ってしまった。
眠る直前に余計なことを考えたからだろうか。夢見はまあ、控えめに言って最悪だった。しかも相当な悪夢を見ていたことだけは覚えているのに、具体的な単語や情景がまるで出てこない。振り返る事すら許されない後味の悪さだけが、覚醒直後のずきずき痛み重い頭にずっしりとのしかかっていた。
それでもあのまま延々と眠っていたよりは遥かにマシだろうと、先ほどまで自分が囚われていた悪夢のひどさを物語るような寝汗でぐちょぐちょになり体に重くまとわりつくシャツを脱ぎ捨てながら思う。いずれにせよその悪夢から助け出してくれたのは、ハスキーさんだった。なんでも話によれば、夕飯に顔を出さないので呼びに来たところ苦しそうな顔でひどいうなされ方をしていたらしい。ちなみに一緒にいたはずのラドリーはといえばその間、一切気が付かずにすやすやと快眠していたようだ。
そしてそのラドリーも、一足先にハスキーさんが夕飯に向かわせたため今はもういない。何度もこちらを振り返りながら出ていった彼女の心配そうな顔を思い返せば、余計な不安を与えた罪悪感と共に今の自分が一体どれだけひどい有様なのかもなんとなく察せられるというものだ。
―――――ハスキーさん?
「はい、御主人様。お呼びになりましたか?」
ラドリーが持ってきて以降、結局誰も片付けずそのままになっていたシャツをこれ幸いと着込んで扉越しに呼び掛けると、耳に心地いいハスキーボイスが即座に返ってくる。私が着替えている間、部屋の外で待ってくれていたのだ。変な汗をかいて体温の上がっていた私に比べてひんやりすべすべした手で私の手を取り、安心させるように握りしめた状態でいつ終わるとも知れない悪夢から起こしてくれた彼女の、何も言わずとも先回りして動いてくれるそうした細やかな気遣いが、今はただただ心にしみる。
―――――着替え、終わったよ。それと、まだ言ってなかったからさ。ありがとう、って
「勿体ないお言葉です、当然のことをしたまでですので」
控えめに扉が開き、小さく一礼したハスキーさんが再び部屋に入ってくる。立ち上がる気力も湧かずベッドの上で上半身だけを起こした状態の私の所まで歩み寄ってくると、片膝を立てて目線を合わせてくれる。
ひとつひとつの所作が洗練されつくした、優雅で完璧なメイド。一見すると、その表情は平然そのもの……しかしその長いまつ毛の一本一本すら見分けられるほどの近さでその顔をよく見ると宝石のような瞳はわずかに潤んでおり、どこかほっとしたような笑みがその口元にわずかに浮かんでいる。呼吸がほんのわずかに荒く聞こえるのは、先ほどまで抱えていたであろう不安の残滓だろうか。私がちゃんと起きられたからいいようなものの、それだけ心配をかけてしまっていたのだろう。
これ以上無用な心配をさせないためにも、せめて今からでも元気アピールをしておきたいところだけれど……あいにく、それはまだ叶いそうもない。体調ではなく、私のまだ回復しきれていないメンタル的な問題として。それにハスキーさんのこちらを見据えるこの瞳の前では、下手に取り繕ったところで即座に見破られて逆効果になるだけだろう。迷った末に私の口から出てきたのは、いかにも当たり障りのない内容だった。
―――――夕飯、今日は何かな?皆も待ってるだろうしもう少ししたら食べに行くけど、あんまり遅いと冷めちゃうよね
主人とメイドが一緒のタイミングで同じ食卓に着くというのが一般的な形でないことくらいは、いくら現代日本人の私とて知っている。ソースは漫画とかアニメとか。けれど理屈ではそれが正しい形と理解していても彼女たちを配膳、給仕のため後ろに侍らせ、ずっとひとりで食べる食事という形式にここに来て数日も経たないうちに早々にギブアップを宣言した私が、そこそこ無理を言って同じタイミングで食卓に着くように変えてもらったのだ。ついでにこれまた無理を言って私だけ一回り豪華なメニューの特別扱いも止め、食べるものも完全に彼女たちと同じものにしてもらった。いくら正しくない形だろうと生まれながらに平民の出でしかなく、食事の時くらいは気を抜いていたい私にあの空気は肌に合わない。
実際そうしたことで毎日の食事もずっと楽しくなっていたのだが、今夜はそれが裏目に出てしまった。あまり私が遅れると、皆としても食べ始めづらいだろう。
「……」
しかし、沈黙。普段私の言葉にはどんな些細なものであれすぐに答えてくれるハスキーさんらしからぬ間が空き、こちらの心の奥まで見通すような瞳に至近距離でじっと見つめられる。普段ならば嬉し恥ずかしなシチュエーションも、なぜだか今日に限っては妙な決まりの悪さが先立って。天上の美という概念を濃縮、具現化したかのような美しいその顔立ちにいつも通り見惚れて我を忘れることもできずに体感数分(実際のところはほんの数秒だったのだろうけど)ややあって、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、皆には私の方から先に食べておくよう、先ほど言い含めておきました。それよりも今は、御主人様自身のことをご自愛ください」
そう淀みなく言い切り、自分の頭をすっと指差すハスキーさん。なるほど、いつものテレパシーか。相変わらず便利なものだけれど、あの様子だとおそらく先に行ったラドリーが自分の見たまま感じたままに、しかし実態からは変に誇張された話を広めてしまう可能性がそこそこ高い。私が直接顔を出して、少なくともそんなに引きずるような話ではないと伝えた方がいいのではないか。
―――――でも……
「その方が、私も含め皆も喜びます。出過ぎた真似でしたら申し訳ございませんが……失礼しますね、御主人様」
弱々しく反論しようとした言葉を遮るように、ついと音もなくハスキーさんが立ち上がる。どうするのかと思う間もなく、その体がさらに一歩私の所に近付いた。すぐ近くにひとり分の重量が乗ったことで、ベッドが僅かに沈む感触を尻の下で感じる。ベッドの上に乗ってきたのだと理解できた時には既にふわり動いた空気に乗って彼女自身の甘い香りが流れ込んできて、かと思えば私の背中に優しく手が添えられた。
「僭越ながら、少し不安そうに見えましたので。何も心配ございません、御主人様。あなただけのメイドは、ハスキーは、ずっと御主人様のお傍におりますので……」
ゆっくりと、一定のペースで私の背中をさすりながら静かな口調で、しかし抑えた中に確かな感情を込めて紡がれる言葉。それは嘘偽りない本音であり確定した事実なのだと、控えめながらに自らの力量と精神への自信に裏打ちされた確固たる力強さに満ちたその口調が示していて。どうやら彼女にはこの突然の不調の原因が精神的なものであるどころか、私の抱えた不安の種までお見通しだったらしい。
本当につくづく、私は幸せ者だと思う。こんな身分になっておいて何を今更、という話ではあるが。それでもあの日、ハスキーさんと出会った時からもう幾度となく感じてきたわが身の幸福を、改めて心の底から実感する。先ほどまで私の体を強張らせていた、眠る直前に考えた自分の力不足への恐怖や内容すら思い出せない悪夢が置き土産に残した漠然とした陰鬱さが、私の背を撫でるその丁寧な手つきと計り知れないほどの愛情のこもった言葉を間近に感じて、ゆっくりと溶けて消えていく。
……もし仮に私が恐怖していたように、ハスキーさんが私を主人と見初めるまでに致命的な間違いがあったとして。仮に最初がそうだったとしても、今この瞬間のハスキーさんはここにいる私のことを見て、そのうえで私を迷いなく愛してくれている。いや、ハスキーさんだけじゃない。ドラゴンメイドの皆がそう思ってくれているからこそ、私はここにこうしていられるんだ。
―――――もう、大丈夫。ありがとうハスキーさん、だいぶ楽になったよ
「そうですか、お力になれたのでしたら何よりです」
落ち着いた言葉の中にも心底ほっとしたような響きと、ほんの少しだけこの時間が終わる事への残念そうな調子を混ぜながら彼女の手が離れていく。私だって残念だけれど、だからといっていつまでもこうしていたらそれこそ朝までかかる。
―――――じゃあ、夕飯……いや、先にお風呂入ってこようかな
着替えこそ済ませたとはいえ上半身だけだし、そもそもシャツを変えただけだから根本的には何も解決していない。せっかく気分も一新したことだし、栄養を摂るより前に一度体でべとつく汗を全部さっぱり洗い流したかった。正直なところ昼間にラドリーから無邪気に飛んできた体臭に言及するような言葉が、まだ少し尾を引いていたのもある。
後になって思えば、お互いにこの時は少し気が緩んでいたのかもしれない。私はともかくハスキーさんがそうなるなんて珍しいこともあるものだが、それだけ私が見てわかるほどに酷い調子で、それが立ち直ったものだから安心していたのだろう。
ともあれこの日、口を滑らせたのはハスキーさんの方からだった。
「入浴からですね、かしこまりました。でしたらお背中を流……し…………」
これは全部、私の都合のいい推論でしかないけれど。多分これは、ハスキーさんの本音だ。それも、普段は絶対口にしないししてくれないタイプの。それが気の緩みもあってついうっかり口をついて出てしまい、しかし自分が何を口にしているのか途中で理解したからこそ語尾は空中に消えていきほんの一瞬のフリーズがあった、まあそんなところだろう。気持ちはよくわかる。
そして私も、ここは聞かなかったふりをすればそれで済んだ話だった。実際、普段ならばそうできたはずだ。特にハスキーさんが普段その肌をほぼ出さない上品なメイド服に包み、それでも全く隠れていない慎ましやかとは程遠く暴力的なほどに悩ましい体の線を思えば、もはや事態は色々危ないでは済みそうもない。だけど私も私で、まだ起き抜けということもありうっかりしていた。欲望がダダ洩れになっていた、とも言う。緊張のあまり乾いた口を開き、よりにもよってこう言ってしまったのだ。
―――――じゃ、じゃあ、お願いしてもいい、ですか……?
重ね重ね主張しておきたいが普段の私は絶対にこんなこと言わないし、そもそも言えもしない。それこそ血の涙を流し土下座して地面に頭を擦り付けてでも一生のお願いとして頼みたいのはやまやまだが、そう簡単にそれが言えるなら苦労はしない。
ハスキーさんは最後にす、と口にしかけていた。すみません、とでも続いたのだろう。もしそちらの方が早ければ、それはそれでなかったことになってお互いこの場はそれで済ませられたはずだ。でも、さしものハスキーさんですらうっかり口を滑らせた動揺から立ち直るまでにはワンテンポかかってしまった、のだろう。そしてそのわずかな隙に、私の方が口を滑らせた。それも致命的に。
―――――え、っと……
私も私で自分が何を口にしたのか遅ればせながらに気付き、凄まじくぎこちない動きでゆっくりと振り返る。初めて会った日から数か月、見たこともないほどに顔を真っ赤にしてきゅっとメイド服のスカートを握りしめるハスキーさんと、目が合った。ほら、早く打ち消さなくてはいけない。今ならまだ、どこに出しても恥ずかしい立派なセクハラではあることは大前提としても辛うじて悪ノリの範疇で済ませられる。
「お湯加減いかがでしょうか、御主人様!」
―――――は、はい。気持ちいいです、はい!
ガチガチにテンパっているハスキーさんの声に続き、負けず劣らず緊張し通した私の声が響く。本当に、どうしてこうなったのだろう。私もハスキーさんも結局止めないものだからつい、そのまま本当にここまで来てしまった。
あれからお互いに目を合わせずに部屋を出て(ハスキーさんは顔を真っ赤にしつつも、先ほど私が脱ぎ捨てた服を回収してくれていた)、大浴場(そう、ただの風呂場ではなく大浴場だ。温泉並みに広いというかもはや温泉そのもの。余裕で泳げるほどに広い湯舟は空間を直接この世界のどこかに存在する、つまり当然前人未到の源泉と繋げてあるとか何とかで、源泉かけ流しが年中湧いているという凄まじい贅沢っぷりの場所である)への廊下を連れ立って歩き。誰か他のメイドが道中来てくれればあるいはどうにかなったのだろうけれど、こんな時に限り誰とも会うことなくとうとう辿り着いてしまい。途中で振り返りたいという誘惑を必死で我慢しながらぎこちない衣擦れの音を後ろに最速で服を脱ぎ、タオルを絶対外れないよう力を込めて腰に巻いて(とはいえ万一ほどけたとしても、落ちる前に勝手にどこにとは言わないが引っ掛かりそうではある……いやなんでもない)。シャワーを浴びているうちにとうとう、ハスキーさんが、入ってきてしまったのだ。
お互いにぎこちないにもほどがある、けれど大真面目な言葉を交わし、それ以上耐えられそうになかったので早々に視線を逸らして前を向く。ほんの数秒だけ見えた純白のタオル1枚体に巻き付けただけのハスキーさんの肢体は、タオルの上からさらに両腕で隠していたとはいえメイド服よりも布が薄いぶんよりはっきりと出るところの出具合や引っ込むところの引っ込み具合が見て取れ数段色々と凄まじく、にも拘らず全体的な均整は長身で足も長い彼女には完璧にとれていて。私にはあまりにも劇物過ぎて、これ以上見ていると危険だと感じたのだ。
「……では、お背中失礼しますね、御主人様」
ハスキーさんもハスキーさんで、自棄が一周回ってむしろ腹が据わってきたのだろうか。湯気で曇った鏡越しにわずかに見えるシルエットが尻尾で器用に椅子のひとつを掴んで私の背後に置くと、迷いなくそこに腰かける。そのまま床に垂らした尻尾が視界の端に見えたかと思った瞬間、彼女の方に向けた背中に布を押し当てられる感触。
「もし力が強すぎるようでしたら、すぐに言いつけて頂ければ」
上に下にゆっくりと、背中を泡立てたタオルで擦られる。もしやと思って一瞬鏡に目をやるが、彼女が手にしているそれはその体に巻かれているタオルとは別のものらしい。じんわりとした快感に耐えながら正直なところ、私は少しほっとしていた。
やっぱり、ハスキーさんはこうでなくては。随分とピンク色な方面にベタな展開ではあるがもしここでスポンジの代わりに私の身体で~、などと言い出しでもされたら、私は自分よりも彼女の方をよほど心配しただろう。真面目でなんでも完璧にそつなくこなす最高のメイドなハスキーさんだからこそ、背中を流すと言ったらちゃんと垢や汚れを落とせるようにタオルを使って正しく流してくれる。私はハスキーさんのことが大好きだし何より幸せなことに彼女も私に対し計り知れないほどの大きさ深さでそう思ってくれているけれど、だからといって仕事として行う事に一切の妥協はしない。今だってその気になれば小指一本でこちらの背骨だってへし折れるであろう脆い人間の体相手に、丁寧に丁寧にタオル越しの両手で力加減を調節してくれている。そんなまっすぐで真面目なハスキーさんだからこそ、私は誰よりも何よりも愛している。
……それはそれとしてほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、残念な気持ちもするのは何故だろう。
そんなことを考えているうちに、何重にも及ぶ磨きはようやくハスキーさんの満足のいくものとなったらしい。残った泡を洗い流されると、心なしか背中が一回り軽くなったような気さえした。
―――――ありがとう、じゃあ次はハスキーさんの番かな
そう、今度余計なことを言い出したのは私の方だった。身も心も前以上にさっぱりしたのと、とにもかくにも一大イベントを乗り切ったことで悔やんでも悔やみきれないほどに気が緩んでいた……というのは、見苦しい言い訳に他ならないだろう。慌てて取り消そうとして、デジャヴというのはこういうことを言うのだろうか。その最初の一文字を口にするより先にハスキーさんにしては珍しい、恥ずかしさのあまりか消え入りそうな声が確かに聞こえた。聞こえてしまった。
「身に余る光栄です……では、ほんの少しの間だけ、目を閉じていただければ」
―――――はいっ、すぐに!
慌ててその言葉通りに固く目を閉じ、全力を両の瞼に込めると、すぐに後ろでかすかに気配が動き出す。ふわりと漂うハスキーさん特有の甘い香りと共にその体温による熱気の揺らぎすら感じられるほどの距離で何が起きているのかをこの目で確かめたい衝動に抗うのは、私の人生でもそうはないくらいに難しい天国でも地獄でもある経験だった。
「……お待たせいたしました。では大変恐縮ですが、御主人様のお言葉に甘えさせてもらいますね」
緊張と喜び、そしてほんの少しの茶目っ気混じりな言葉に導かれるように目を開き、思い切って体ごと振り返る。そこに広がっていた景色を目にした瞬間、情けないことに思わず感嘆の声を上げてしまった。
まず最初に目についたのは、髪と角の艶やかな黒色と対比するかのように染みひとつない背中とその描く曲線。女性らしく線の細い肩と、髪を纏め上げた事であらわになったうなじの色っぽさときたら、眺めているだけでくらくらとしてきそうなほどだ。先ほどまで巻き付けていたタオルはさすがに全部外すような真似はしておらずその身体の前面に押し付けるような形で一応こちらの視界こそ遮ってはいるが、かえってそれが余計に全体的にあやしく魅力的な印象を抱かせるのに一役買っているような気もする。端的に言うと、これはこれですごくいい。
そして何と言っても欠かせないのは、ワインレッドの翼と白黒の尾の存在だろう。当然ながらこれまではメイド服越しでしか眺める機会がなかったそれらの部位の生え際、人間と何ら変わりない生身の体からごく自然に生えているドラゴンならではのその部位は私からすれば異質なものでありながら何よりもしっくりくる彼女の一部であり、やはりこれらの部位も込みでこそ彼女の人外の美貌と魅力は調和し完成しているのだと改めて唸らされる。
「差し出がましいようですが、そのままでは御主人様が風邪をひいてしまいます……それと、その。そのように熱心に見つめられると私としても大変嬉しいのですが、少々恥ずかしく……」
完全に見惚れて固まったままぼうっとしている私を見かねてか、ハスキーさんがおずおずと声をかけてくる。風呂場の蒸気越しに見えるハスキーさんの顔はその言葉通りほんのりと頬に赤みがさしており、おかげで我に返りはしたものの今度はそのあまりの色気に生唾を呑むこととなった。
―――――じゃ、じゃあ、始めます、ね?
「はい、御主人様のお心のままに」
いちいちドキリとするような言葉とともに、また前を向いてその背中をさらけ出すハスキーさん。緊張のあまり震える手で先ほど使っていたタオルに石鹼を泡立て、周囲が水だらけの場所にもかかわらずカラカラに口の中が乾いていることを自覚しながらそのタオルを目の前の背中に押し当てる。物理的にも余計な気遣いだとはわかっていながらも壊れ物を扱うように慎重に、丁寧に擦りながら、どうしてもその感触を意識してしまう。
日々メイドとして仕事をこなしているとは思えないほどに滑らかできめ細やかな肌、決して細すぎない身体を支える適度についたしなやかな筋肉。器用にピクピクとこちらの手に合わせて動かしさりげなく位置をずらしてくれる両の翼は被膜の端に至るまで一片の欠けも破れもなく、もはやそれ自体がひとつの工芸品のように美しい。
―――――鱗、意外と無いものなんだ
なんとなく思ったことが、ふと口をついて出る。生身の翼と尻尾はあまりにも人間離れしているものの、逆に言えばそれ以外にはドラゴンらしき要素がない。そんな疑問には、すぐさま答えが返ってくる。
「この『ハスキー』としての姿を取る際は、人の姿を強めに出していますので。この配分をもう少しドラゴンに寄せればそれに応じて鱗は浮かび上がりますし、逆にこの翼や尻尾すらも完全に人の身に寄せることで消すことは可能ですが。お望みでしたら、そのようにいたしましょうか?」
―――――いや、このままがいいかな
それはそれで見てみたい気もするけれど、やっぱり見慣れたハスキーさんが一番だ。そう答えるとかしこまりました、と小さく頷くのみだったが、それでもどこか嬉しそうな気配は背中越しにでも伝わってきた。
そしてそんな名残惜しい、本当に心底名残惜しい時間も、いつかは終わりを迎えることになる。身も心もさっぱりしたことで、先ほどまで忘れていた感覚……普段ならば夕飯を終えているような時間になってもまだ何も入ってこない事に対する胃からの猛抗議が入ったのだ。無視できないほどに大きく風呂場に鳴り響いた腹の音にさすがにきまり悪くて顔を赤くすると、ハスキーさんがちらと振り返って小さく微笑む。
「風邪をひいてはいけませんので、一度湯船に入りましょうか。そのあとで、夕飯にいたしましょう」
―――――はい……
正直なところもっともっとハスキーさんの柔肌に(タオル越しとはいえ)触れていたかったが、実際かなり空腹なのも確かなので大人しく言われたとおりにタオルを手放す。先ほどやってもらったようにシャワーで泡を洗い流すと、促されるままにその手へと受け渡した。
「私はもう少し身を清めますので、先に湯舟へお入りください。その、私の体形は、身体の前の方に少々汗が溜まりやすいですので……」
何がとは言わないけれどタオルと両腕で押さえつけているため、今はむにゅりと潰れている様子だけが見えるふたつの巨大なふくらみ。ここが大きいと内側だの裏側だのに汗が溜まったり蒸れたりで大変だなんて話は私も小耳に挟んだことがあったが、まさか実際にそれを生で聞くことになるとは思わなかった。私としてはそれを汚れだなんてとんでもないと言い切りたいところだけれど、ここで変態的な本音をぶちまけたところでそれこそ不毛だろう。大人しく私の視界を遮っていた最後の防衛線であるタオルを外そうとするハスキーさんから目を逸らし、広い湯船の端に身を滑り込ませた。
―――――はぁ……
適温の湯に首から下を包まれて、ほっと声が漏れる。天然温泉というだけでも贅沢なのに魔法の力で毎日場所の違う源泉に繋げてあるとかで、日々ここの湯の質は違う。幸いと言うべきか運のない事にと言うべきか今日の泉質のチョイスはかなり白色が強く、上から見た湯船の床どころか、浸かっている自分の体すらまるで見えない程度には色が濃い。なんならマナー違反を承知でタオルを巻いたまま入る必要もなかったかもしれないなどとぼんやり考え、いやそれはここを出る時に困るかとすぐ思い直す。
そうこうしているうちになるべく意識しないようにしていた背後のシャワーの音が止まり、音もなく歩く彼女の気配が近付いてきた。
「お隣失礼します、御主人様」
その声にほとんど反射的に、右へ視線を逸らした私のすぐ左隣。呆れるほどに広く果てが湯気で霞んで見えるほどの湯船にあって今にも肌が触れてしまいそうなほど近くに、こちらの心をかき乱すなんとも悩ましい吐息と共にタオルを再び全身に巻いたハスキーさんが入ってきた。いや近い近い近い、いくらでも場所はあるのにこんなすぐ隣にだなんて。おかげでせっかくちょっと落ち着いたのに心臓はまた張り裂けそうだし、顔はお湯とは別の理由で耳まで真っ赤に逆戻りだ。
しかしそのままお互い特に何かを喋るということもなく、また相手の体温すら湯の温度とは別に感じられ吐息による空気の流れすら把握できるようなあまりの距離の近さに、向き直って顔を合わせることもできず。なんとも言えない、しかしまったりとは言い難い沈黙が流れる。しかし、それも長くは続かない。今日はもうそういう日なのか、またしてもハスキーさんが沈黙を破り口火を切ったのだ。
「御主人様。先ほどの話の続きですが」
―――――うん?
先ほど、と言われても正直どれのことかわからなかったが、話の腰を折ることはせず大人しく頷く。いつもの耳に優しく包み込むような愛情を感じるハスキーボイスなのは同じでも、その中にも今からするのは真面目な話だという響きがこもっていたからだ。
「私は、いえ、私たちは今、こうして御主人様と共に居られて。とても、とても幸せなんです」
―――――……うん
言葉ではわかっているし、これが彼女の本音だというのも理屈では理解できる。それでも一瞬だけ答えるまでに空いてしまった間に、不安は消えたのにまだ即答できないのかと自嘲する……暇もなかった。
どうもそんな煮え切らない答えすら想定済みだったらしいとしか思えないスピードで、ハスキーさんが更に畳みかけてくる。
「そんな謙虚な御主人様も素敵ですが、そうですね。例えば私を例にとりますと、私は今、こうしてお慕いする御主人様の入浴にお付き合いできた幸運に、これでも凄く浮かれているんです。それこそこのように、メイドの本分を越えたはしたない真似もできるくらいには」
言うが早いが左半身に感じる硬質の感触とわずかな重み、そして人肌の体温。私の肩にもたれかかってきてその角と言わず二の腕と言わず、色々なところが当たっているのだ。本人の言葉通り普段のハスキーさんならば絶対にやってくれないであろう大胆な真似に狼狽する暇もなく、お湯の中でその右腕が素早く動いて私の左手を探り当て、手探りに五指を絡めるようにして俗に言う恋人繋ぎに固定する。
―――――ハスキーさん……!?
最初からこれがしたかったから、わざわざこんな近くに座ったのか。あまりにいい意味でハスキーさんらしくない積極的なスキンシップの早業に現実逃避じみてそんなことをちらりと考え、すぐにのぼせあがった思考に上書きされる。いやだってうわもう顔も近いし体も近いしこんなにぴったりくっつかれるといろいろ柔らかいし洗い立ての石鹸交じりの甘い香りもすごく近くに感じて、思わず顔を向けると見つめ返してきたのは澄まし顔に見えてよく見ると真っ赤な耳、緊張や私に嫌がられないかなんて恐怖で色々といっぱいになって少し潤んでいる瞳でたまらなく愛らしいし、もう少し視線を下げるとお湯とタオルでギリギリ隠れてはいるものの雄大でまんまるなふたつの北半球とそれらによって形作られる、雑に見立てただけで少なくとも私の手首から先くらいなら可能な限り指を伸ばしてもなお簡単に包み隠してしまえそうなほどに深く先の見えない谷間がかなり大胆に露出していて、なんだかもう生きててよかったなあなどとあまりにレベルの低い感想さえ抱いてしまう。
当然こちらにしなだれかかる艶やかな肢体も、絡みつかれた細くすべすべとした手も、振りほどくだなんて考えもするはずなく。なされるがままに固まる私の耳元に、口を寄せたハスキーさんがそっと囁く。
「ああ、このような私らしくない真似、なんだか夢でも見ているようです……でもこれも御主人様のせい、ですよ?」
もう、もうこの人は本当に。ただでさえ非の打ちどころもない完璧美人なのに、時折不意打ちみたいにこんな可愛いことも言い出して。ただでさえ骨の髄から惚れ込んでいるのに、ますます好きになるしかないじゃない。
もはや温泉の熱も感じられないほどに熱くなった体を持て余しながら、しばらくずっとそうやっていた。途中で私が長風呂にのぼせかからなければ、あのままいつまでもそうしていただろう。しかし幸せそうな表情から一転して平静を装いながらも大慌てするハスキーさんという極めてレアな絵面を見ることができたので、倒れかかった甲斐はあった。