パルラの尻尾に絡めとられながらの食べさせあい。嬉し恥ずかしというか男の夢というか、体感ではあっという間に過ぎ去ったその最後の一口がお互いの口へと消え終わった時、ちょうど十二時の鐘の音が屋敷に響いた。他のメイドの皆もぼちぼち昼食だろうな、そんなことを私がぼんやり考えていると、腰回りをがっちり縛っていた感触が緩む。どうかしたのかとすぐ横のパルラへと目をやると、しまった、と言いたげな顔でその長い尻尾を引っ込めていた。
―――――パルラ?
「うわっ、もうこんな時間……?嘘でしょまだ余裕あると思ったのに!ごめんマスター、これ以上は私怒られちゃう!あ、ティルルによろしくねっ!」
それ以上は、どういうことかと聞き返す暇もなく。私の両手をぎゅっと握りしめて(柔らかいし温かかった。これは以前ふと気になってそういった知識に明るそうなナサリーに聞いてみたことがあるが、どうにか理解できた部分だけ私なりに噛み砕いてまとめると、少なくともここにいる彼女たちは一口にドラゴンといっても爬虫類としての性質が他よりもやや薄いくくりの種であるらしい。そのほか常に体内を循環する魔力が影響して、こういったはっきりわかるほどの『体温』が存在する、とのことだ)頭をひとつ下げたかと思うと、くるり踵を返して疾風のような勢いで厨房から出て行ってしまった。
後に残された私が一人何が起きているのかまだよく理解できずに首をひねっていると、ちょうどパルラと入れ替わるようなタイミングで厨房の入り口に新たな人影が現れる。
「……ご主人様!」
―――――ティルル?
今さっきまで走りでもしていたのか、わずかに呼気荒い赤髪のメイド。勝気で気の強そうな表情が印象的で実際そうした一面も見られるのだが、少なくとも身内(身に余ることに私もその中に含まれる)に関しては情深くて優しい、どんな仕事でもきっちりやってのける偉い女の子だ。
そんな彼女の真っ先に目につく特徴といえばやはり、頭頂からぐるりその頭部を囲うような形に伸びた、まるで天使の輪のように(別にこれは彼女に限った話ではないが私のような人間よりも圧倒的に上位存在であり、非の打ち所のない人外美少女であり、気立てもよくスペックも高いとあながち間違った比喩でもないと思う)円環状に伸びる水色の立派な角。そして何がとは明言こそ避けておくものの、ハスキーさんをはじめとして巨から爆と形容していい様々ではあるが大変豊かな平均値を持つこの館においてもなお私の見立てでは単独トップのサイズ感を誇る、その雄大な山脈だろう。張りがある、柔らかい、幸せな重み……形容こそ様々だが言ってしまえばあくまでただの脂肪の塊でしかないそれに、しかしどうしようもなく惹きつけられてやまない人種というものは確かに存在する。例えば私のように。
……ということをこうして書き出すのも我ながらどうかと思われるが、別に私とて年がら年中下半身だけで物事を考えているわけではない……多分、きっと、おそらくは、メイビー。いや本当にそうだろうか、異性に縁などなかった灰色の青春時代はまだしも、少なくともここに来てからは本当にそうだろうか。少し自信がなくなってきたので、これ以上の深堀りはよしておこう。
しかしお菓子作りを得意とする彼女が仕事着として愛用しているエプロンドレスは、その仕様上体の前面にかかる布地が特に多く露出も少ない。にもかかわらず、それすらも内側から押しのけはっきりと自己主張するふたつの膨らみ。この手の視線は男の側がどれだけ隠したつもりでも、見られる本人からすればわかりやすいとはよく聞く話である。それが真ならば、というか日頃の様子から察するに今回もまず間違いなく本人からはバレバレなのだろうと観念しつつもつい視線が引き寄せられ、悪いと思いつつも服の外から横目に拝むだけでも既に寿命が延びた気にすらなれる。
こんなことでいつもありがとう、などと面と向かって言えるほど私の面の皮は厚くはないが、実際そんな気分にもさせられるというものだ。
それはそれとして、それでじろじろ見られる方はいい迷惑だろうが。わかってはいる、わかってはいるのだが。
「やっと見つけた……あの。視線、わかってますよ」
口を尖らせ頬を赤らめ、視線を遮るように両腕を組むティルル。正直、もうこの反応だけで可愛いうえに。
「……まあ、私も?その、ご主人様がお望みなら、一言おっしゃってくれれば全然いいんです、けど……」
これだ。申し訳程度に口先だけの釘は刺してくるが、それはそれとして彼女は甘い。甘いを通り越して、もはやチョロいの域に両足突っ込んでいる。普段はそうでもないしちゃんと叱る時には叱ることもできるまともなお姉さんなのだが、黙って聞いていると不意にそのラインがぶっ壊れて判定がダダ甘になる箇所が多々あるのだ。
例えば、この手のセクハラ行為全般がそれである。もっともこれに関しては以前パルラから聞いたことがあるのだが一応の理由もあり、話は彼女たちが出会った当初にまで遡る。
……一口に昔といってもその実、悠久の時を過ごす彼女たちがこの館に住みこむようになった時期にはそれぞれ、人間の私からすれば結構なバラつきがある。そんな中で珍しくほぼ同時のタイミングで主の居なかったこの館のドラゴンメイドとなったパルラが、ティルルに対し「いやデッッカ」という身も蓋もない、けれど気持ちはよくわかる(ここは本人には口が裂けても言えないが)感想の元で散々セクハラ三昧を仕掛けていた時期があったらしい。本気で怒られたり嫌われたりしない流せるラインを見極めるのはやたら上手いパルラのことだ、そこは本当に上手いことやったのだろう。さすがに今はその頻度もだいぶ落ち着いたようだが、その時期に怒り疲れたのもあって彼女の中ではセクハラ行動に対する閾値が随分と広がってしまったとのことである。正直色々とツッコミどころも多いのだが、そんなティルルの態度と言葉に私自身ずるずると甘えている面があるのも否めないので結局何も言えないでいるままでいる。
―――――その。ごめんね、いつも?
良心が疼くのは嘘偽りない本音だけれど、卑怯なものだとは自分でも少し思う。だって、そもそも本気で怒っているわけでもない彼女は、私がこう言えばきっと。
「い、いえ!」
こうやって、すぐに赦しをくれるのだから。それがわかっていて謝罪の言葉を口にしている、そんな自分の存在を、私は否定できない。だから、こうして話題を変える。
―――――それで、どうかした?随分走ってきたみたいだけど
「そ、そうです!ご主人様を探してたんですよ!昼前から急に姿が見えなくなって、パルラに聞こうにもあの子もどこに行ったか分からなかったから。この様子ですと、随分お楽しみみたいでしたけど?」
こちらのちょっと卑怯な思惑など知る由もなくぱっと顔をあげて腕組みを解いたティルルが、彼女にしてはやや珍しい、どこか面白くなさそうなものを感じるジトっとした声色を浴びせてくる。次いでその顔をまだ片付けに手を付けてすらいない厨房、そしていまだ私が着たままのパルラお手製エプロンに向け、上から下までじっくりと眺めてちょっと拗ねたような視線を正面からぶつけてきた。
……なんだか、セクハラ指摘時よりも機嫌が悪くなっているような。
「その残存魔力、パルラのですね?いいですよ、これからは私にも付き合ってもらいますから。とりあえず、そのエプロンは脱いでもらえませんか?後片付けは、『私と』ご主人様でやりましょう」
私にというよりもむしろ自分に言い聞かせるように力強く言い切り、厨房内へと踏み込んでくるティルル。なんだかよくわからないその迫力に、これから片付けならまだエプロンは付けていた方がいいのでは?という疑問を口にすることすらできず、勢いに呑まれて大人しく頷くことしかできなかった。
そして結論から言えば、さすがに彼女が手伝ってくれるとなると早かった。日頃からお菓子作りでこの館の誰よりもこの場所に来ている彼女にとって、いわばこの厨房は主戦場でありホームグラウンド。どこに何があるのかや皿の汚れの落とし方ひとつといった知識面はもちろんのこと、単純に慣れているだけあってあらゆる所作が洗練されている。
だが彼女が本当に凄い所はそこではなく、自分でもそれだけてきぱきとするべきことをこなしながら、横にいる私への気遣いを忘れないことだ。この状況ではむしろ私の存在は邪魔にしかなっていないはずなのに、まるでそう感じさせないように適時こちらにも手伝える仕事を的確なタイミングで振ってきてくれる。言葉にも態度にも出しこそしないが確かに感じられる、身内想いな(そして私がその枠組みに入っているという、たとえ人生を百度やり直しても二度と掴めないようなこの幸運をしみじみ噛みしめる)彼女ならではの心遣い。
そうやっているうちに最初は微妙に拗ねているようだった表情もすっかり明るくなり、気が付けばその尻尾の先端も上機嫌そうにゆらゆらと揺れていた。とにもかくにも機嫌が直ってくれたようでほっとしていると、水気を拭き取った最後の皿をしまい込んだ彼女と目が合った。
「これで、全部ですね。お疲れ様です、ご主人様」
―――――とんでもないよ、もともと私が出した物なんだから。むしろこんなに手伝ってくれてありがとう、ティルル
「それこそ当然です、私はご主人様のメイドなんですから……それに、時間もないし」
―――――時間?
ぽつりと付け加えられた最後の言葉に引っかかりを感じ、聞き直してみる。思えば今日は朝から、ラドリーもパルラも妙に時間を気にしている。もちろん彼女たちにだって掃除洗濯といった仕事はあるのでそれ自体は別におかしなことでもないのだが、そもそも外から訪ねてくる相手がいるわけでもないここで暮らすだけならばそんなに急ぐような用事もないはずなのに。二度あることは三度あるとはいえ、ここまで続くとどうにも引っかかる。
「えっ?あー……そうだ、ご主人様!私、ご主人様とどうしてもやりたいことがあったんですよ!」
嘘、ではない。そう直感した。少なくとも今の言葉は真実であり、まるっきりの嘘ではない。実際私とやりたいことがあって、それで走り回って探していたのだろう。
だが、今の歯切れの悪さはこの言葉が全くの真実だけでもないことの表れでもある。話題反らし、と言ってしまうのもそれはそれで悪意のある解釈だけれど、これはどう見るべきか。
「ダメ……ですか?そうですよね私、突然……」
いや、それこそ無意味な問いかけでしかない。何か私の知らないことが起きているのはもう公然の秘密として、ドラゴンメイドの皆がそうしたいのならば私はそれに乗っかるまでだ。
ティルルの両手はよく見ると体の横でぎゅっと固く握られていて、普段メイドとして自分の欲求をあまり見せてくれない彼女にしては珍しいこの「わがまま」にはそれだけ思いが込められていることが見て取れる(そもそも遠慮がないパルラやラドリーはともかく、例えばナサリーあたりは責任感も強いが要領もいいため私に対しても要求を通したり甘えてきたりといった行動をごく自然体でとってくる。かわいい。そういった面々に比べてティルルは常に肩肘張っているというか力の抜き方にやや難がある傾向にあり、なんというか性格で損することが私が傍から見ていても多い。それはそれで間違いなく彼女のいい所でもあるけれど)。それがどんなことであれ、今は彼女たちを信じて真っすぐ受け止めよう。それに普段から彼女の献身的な態度には甘えっぱなしなのだから、少しでもこちらから日頃の感謝を返せるというのならば安いものだ。
―――――いいよ、よくわからないけど……それで、どこに行けばいいの?
ただ一言で先ほどまでの落胆を懸命に隠そうとする様子から一転、パアアと効果音が幻聴できるほどに顔を明るくしたティルルを見ていると、今の自分の判断は断じて間違っていなかったと確信できる。
「あの、ですね。ご主人様は、たんぽぽコーヒーってご存じですか?」
―――――まあ、話くらいは
確かその辺のたんぽぽを引っこ抜いて、その根っこを乾かして粉にしたもの……だったはずだ。飲んだことはないけれど、なんでもそれでコーヒーそっくりの味になるらしい。辛うじて持っていたその程度の知識を伝えると、そうなんですと頷く。
「お屋敷の近くに、野生のたんぽぽがたくさん生えているところがあるんです。私もまだ飲んだことがなくて興味があるので、よろしければ一緒に採りに行きませんか?もちろん、お茶菓子は私が腕によりをかけたものをお出ししますので」
なるほど、コーヒーか。どちらかといえば紅茶派の私だし皆もそれを承知しているけれど、別にコーヒーだって飲めないだとか嫌いだとかといったわけではない。たんぽぽコーヒー、話にしか知らない代物なので純粋な興味もある。それにティルルの作るお菓子も付いてくるのならば、味はもうすでに保証されているようなものだ。
―――――わかった、じゃあ一緒に行こうか
「はいっ……え、あの、ご主人様……!?」
テンションがいつもより心なしか高いせいもあってか、今日の彼女はころころと表情がよく変わる。やはり長いことひとつ屋根の下で一緒に暮らしていると、多少なりともお互いに似通るところは出てくるということなのだろうか?身体の発育具合はまるで違うのだが(という言い方もよくはないのだが)それでも今の彼女の態度は、全体的にどこかテンション上昇中!な時のラドリーを想起させる。
―――――え?あっ
だからだろうか、ついやってしまった。背伸びしてエスコートしたがりな彼女相手によくやっているように、何気なくその手を取って握りしめたのだ。目の前で話していた相手がいきなり手を握ってきたら、いくら私が主といえどもそれはこんな反応にもなるだろう。
ましてティルルはこの屋敷のドラゴンメイドの中でもあまりスキンシップを好む性格ではなく、会話こそ積極的に行ってくれるし私との間に態度の壁を感じるようなこともないものの、たまに一緒に歩いても常に私の三歩後ろを維持するようについてきて(それはそれで何か違うのではないかと思わなくもなかったが、どうも先述した彼女の真面目で肩肘張った言動の一環らしい。『メイド』『従者』としての立ち位置を彼女なりにこうと決め込んで、それを完璧にこなそうというわけだ)、何かある時だけそっと前に出るような位置取りをとることが多い。つまりこれだけ長いことここで暮らしていても、彼女相手に関しては今日に至るまでまだ手を繋いだこともなかったわけで。
これで、咄嗟にこの手を離せればまだ最低限の言い訳もついたろう。でも炎属性を持つせいか微妙に他のメイドより体温の高いティルルの手は温かく、女性特有の柔らかさも兼ね備えていて。思わず心臓が高鳴り、そのせいもあって余計に反応が遅れてしまう。
―――――えー……っと
何とはなしにお互いの視線が絡み、正面から端正なティルルの顔が視界に入る。いつもとはまるで違うしおらしい表情は、全体的にその綺麗な赤髪のように紅潮していて。なんとも微妙な沈黙の瞬間を経て、まだ握りっぱなしだった私の手がおそるおそる、といった調子で向こうからも小さく弱く握り返される。
「もう少し……もう少しだけ、このままでお願いします」
そしてようやくこの沈黙を裂いたのは、一体どれだけの勇気を振り絞ったのか肩を小さく震わせながらの弱々しい彼女からの一声。言葉通りに手だけはしっかりと繋いだままぷい、と私に背を向けた彼女はしかし、髪の間からちらちらと見えるその耳までしっかりと紅く染まっていて。
ここに至って初めて、致命的に対女性への経験が無い私にも理解ができた。ああ、そうか。彼女は別にスキンシップに興味がないとかするつもりがないのではなく、これまでずっと遠慮していただけなんだと。温かいを通り越して熱さすら感じるほのかに汗ばみしっとりとしたその白魚のような手と、そこに込められたぎこちない力の入れ方からはずっと抑圧されていたものへの開放感、そして絶対離したくないという意思が伝わってくる。
結局それきりなんとも言い難く甘酸っぱい空気に包まれたまま、しかしお互い暗黙の了解のように頑として握りしめた手だけは離そうとせず。適当なザルに清潔で薄手のタオルを被せたものを見繕い、私たちは連れだって屋敷の外に出たのだった。
彼女が口にしていた当初の目的地であるたんぽぽのたくさん咲いた箇所というのは、ほんの数分ほど歩いたところにある開けた平地のことだった。というのもこの屋敷そもそもが森の中、ドラゴンメイド以外には見渡す限り誰もいないような土地に建っている。あちこちの木々にはいかにも美味しそうな果実が実り、すぐ近くには澄んだ川が流れ込む綺麗な泉があり、目を遠くに向ければ……といっても半日もあればピクニックに行って頂上を拝んで帰ってこれる程度に近くには名前も知らない(異世界だから知る由もないのだが)山がそびえ立ち、それで気温や湿度は常にいたって快適。小さな羽虫の類もまるで見たことがないとそういう場所なのかなんらかの魔法が作用しているのか、こうして条件を並べてみるとつくづく随分と都合のいい立地である。まあ私としてはこの好立地が仮に全て存在しなかったとしても、このドラゴンメイドたちと一緒にいられるだけで既に自分は他のあらゆる人間よりも上の幸福と幸運の持ち主なんだと胸を張って言えるのだが。
ともあれそんな話はさておき。現実にこの屋敷が存在しているのがそういう立地である都合上、こんな風に太陽の光がしっかり当たる野原のような場所はやや珍しい。むしろ毎日の仕事に全力投球でいつ見ても忙しそうなティルルが、よくこんな所を知っていたものだ。
―――――いい所じゃない、風も気持ちいいし
正直凄く名残惜しいけれど、本当はまだこのままでいたいけれど、一応たんぽぽを採りに来る、という大義名分がある以上いつまでもこうして手ばかり繋いでいるわけにもいかないだろう。重ね重ね名残は惜しいけれど、本当に心底惜しいけれど、手を放そうとしたちょうどそのタイミングで。ぽつり、と彼女が先手を打つように口を開く。
「……その、ですね。ご主人様。私、ご主人様にひとつ嘘をついていたんです」
―――――うん
余計なことは言わず、ただ先を促す。勇気をかき集めているのか、握られたままの手に力がこもる。
「ご主人様がこちらに来られてから、私、ずっと他の皆のことが羨ましかったんです。ずっと、ずっとお会いしたかったご主人様にようやくこうしてお仕えできたのに、どうしても皆みたいに距離を縮める勇気が出なくて。前に厨房で一緒にお菓子を作った時のこと、覚えていますか?あの時も私本当は凄く舞い上がっていたのに、嬉しかったのに、結局それをお伝えできなくて……」
ぎゅっと強く(といってもあくまで人間の常識的な範疇で。彼女がドラゴンの膂力を全開にすれば、人体でしかない私の手など簡単に握り潰せるだろう)握られた手は、よほど感情が高ぶって炎の力が表に出てき始めているのか、もはや緊張とかそういったレベルでは言い訳が効かないほどに明らかな高熱をもっていた。でも、そこには決して不快さや痛みはない。もっとも仮にそう感じたとしても、私もこの手は離さなかったろうけれど。私の顔を見つめるその瞳は、普段に比べ確かに潤んでいた。
「だから今日もご主人様の隣にいられる何かいい理由はないかって、書庫で偶然たんぽぽコーヒーの書いてある本を見かけて、それで……本当は理由なんて、こうしてご主人様と一緒にいられればそれで何でもよかったんです!」
これまでよほど溜め込んでいたものが溢れ出したのか、堰を切ったように感情的に喋り続けるティルル。そして仮にも主なんて立場に就いた身としては、ここまで溜め込むほどそのことに気づけなかった私に第一の責任がある。それに個人的にも月並みな、むしろ今では時代遅れの感性に近い言葉だけれど、やはり女の子には常に幸せにしていて欲しい。
そして幾度となく、彼女には感じてきたことだが。なんというか、決して本人はそれを疎んだりしないしこういう目で見ることこそがむしろ失礼と紙一重であるというのは承知の上で言わせてもらえば、先述の通り本当につくづく損な性格をしている娘だと思う。
『ドラゴンメイドの真面目側な方』、『手のかからないできるメイド』……なまじ一人で大概のことはどうにかできてしまうほどに高いスペックに支えられた生真面目な彼女の気質は、しかしあくまで上に立って他のメイドを使うものではない。あくまでも彼女は、分担された仕事を仲間とこなす使われる側の立ち位置のはずだ。
しかし手がかからないということは、それだけ個別に目を向けられる機会も少ないということで。上に立つ側のハスキーさん(や私)に余計な負担をかけたり気を遣わせないためにも『いい子』でい続け、『彼女ならできて当たり前』を維持するのはいつしか『だからまず先に目先の対応を』に変化して。周囲から褒められ慣れないような日々を積み重ねてきた結果、こうして本人も自覚なくここまで溜め込むことになってしまった……のだろう。
なら、私にできることは。
―――――ティルル?
「……あっ。も、申し訳ございませんご主人様!ご迷惑でしたよね、こんな事突然……!」
―――――いや、こっちこそごめん。急ごしらえだけど、今から少しでも埋め合わせはさせて。ほら、座って
さっきまで赤かった頬を一転、我に返った瞬間さっと青ざめて平謝りに頭を下げようとするのを、身振りでどうにか押し止める。繋いだままの手を下に引っ張って無理にでもその場に座らせ私もその隣、密着するほど近くに腰を下ろして足を投げ出す。もうしばらくはここから動かないぞとの無言のアピールに、至近距離で見るいまだ半泣きに潤んだ目に不思議そうな色が灯る。
「あの、ご主人様……?」
私は本来間違っても、こういうことができるような柄ではないのだけれど。ここまで彼女を追い込んだのもそれに気が付かなかったのも私なら、責任を取るのもやはり私がやるべきだ。
さあ、覚悟してもらおう。この手の羞恥プレイへの耐性は、大体パルラのせいで鍛えられている。繋いだままのこの手はお互いに相手の逃亡を禁止する至近距離でのチェーンデスマッチ、議題は普段の彼女の仕事ぶりとその優しさ面倒見の良さ、そして心遣いといった人格面。軽く咳払いして、まず何から話しだすかと軽く考える。まあいいか、どうせ片っ端から語っていってもキリがない。緊急開催ドラゴンメイド・ティルル耐久褒め殺しの会、開幕だ。
……ものの五分もしないうちに音を上げられたけど、それでこの手を離すつもりも口を閉じるつもりもない。結局褒め殺しは、中断が入るまでそこから二時間ほどぶっ続けで行われることとなった。
ドラゴンメイド・ティルル
典型的ツンデレ……のように見えてツン要素はほぼポーズのみ、初手から既にデレッデレで糖分過多なご主人様ラブ勢。三歩後ろを歩きがちなのは並んで歩くと口元は緩むわ尻尾はぶんぶん揺れるわ顔はみるみる熱くなるわを誤魔化しきれないからで、スキンシップが控えめなのも即キャパオーバーを迎えかねないため。自制心が強く出がちなその気質も相まって主人にも見抜かれている通り何かと損することも多い星の元に生まれているが、紆余曲折を経ても必ず最終的にはそこそこいい位置に着地できる幸運の星を持つタイプでもある。彼女自身は無自覚だったが内心でのもっとイチャつきたいという欲求を上手く出力、制御できなかったことは彼女の竜生でもトップクラスのストレス源であり、それが解放された今後はもう少し箍が外れることが予想される。
持って生まれたスタイルの良さは平均値が凄まじく高いドラゴンメイド内でも随一であり、これまでは羨ましがられることはあれど正直邪魔なので持て余していたがどうも愛しの主人に特効が入るらしいことに気が付いてからは一転して密やかな自慢と誇りになった。
主人第一は大前提としてかなりの仲間思いでもあり、実はちょっと自分の性格が重いのではないかと気にしている。