怠惰主義のユースティティア 作:亜宇羅、慈涯死露
かつかつと靴音が響く。一人の男が廊下を早足で歩いていた。その男の名はリュグナー、今から三十年ほど前、アウラに対して忠誠を誓った魔族である。
こうして彼が急いでいるのには理由があった。自らが入手したとある重大な情報を彼女に伝えるためである。聡明な彼には、これを知れば彼女が喜ぶだろうという確信があった。
「アウラ様、リュグナーです。至急ご報告したいことがございます」
主の部屋の前で立ち止まり、入室する前に断りを入れる。
「んー、入っていいわよー」
「失礼いたします」
許可を得た彼が中へ入ると、そこには椅子に腰かけるアウラ以外にも二つの存在があった。一人は片目が髪で隠れている男、もう一人は小柄な女だ。男はドラート、そして女の方はリーニエ。彼らもまたリュグナーと同じく、アウラに対して仕えることを望んだ魔族である。
ドラートは手にワイングラスを持ったまま彼女のそばで控えており、リーニエは彼女の紫色の毛髪をくしでとかしていた。
あの七崩賢とは思えないほどに完全にリラックスした状態のアウラ。人間たちどころか魔族からしても目を疑うような信じがたい光景だが、彼にとってはもはや見慣れたものだった。彼女の異常なまでの怠惰っぷりは今に始まったことではない。
「私に報告があるって? どんな内容?」
「はい。これを聞けば、きっとアウラ様がお喜びになるかと――」
唇を少し湿らせると、リュグナーはいよいよその言葉を発したのだった。
「勇者ヒンメルが死にました」
その瞬間、部屋の空気が固まった。ドラートもリーニエも、はたまたその言葉を口にしたはずのリュグナーでさえも、緊張感から表情が強張る。
勇者ヒンメル、その名を知らない者は魔族にはいない。あの魔王を倒し、世界を救った英雄だ。知らない方がどうかしている。
そして、それはアウラにとっても。なぜなら彼女は過去に一度ヒンメルが率いる勇者一行と戦っており、その際に敗北を喫しているのだから。しかしながら、その情報に対する彼女の反応は彼が思っていたようなものではなかった。
「……勇者ヒンメル? 誰? そいつ」
「え、あの、アウラ様? 誰というのは、その、ヒンメルをご存じないということですか?」
「知らないわ。うーん、でも、なんかどこかで聞いたことがあるような気も……」
「かつて魔王様を倒した人間です。あなたとも一度戦っているはずですが……」
「……あー、思い出した! あの剣士のことね!」
ややあって、ようやくヒンメルのことを思い出したらしい。アウラはぱんと両手を合わせた。
「そういえばそんなこともあったわねえ。けど、それがどうしたっていうの? たかが人間が一人死んだだけの話じゃない。それってわざわざ私に報告するようなこと?」
「私はこれを最大の好機だと考えました。アウラ様、今ならグラナト領を落とせます。過去の雪辱を果たすチャンスです」
「え、グラナト領を? なんでよ。確かに昔あそこを攻撃したことはあるけど、それは命令されて仕方なくやっただけだし……」
「怠惰を好むアウラ様の意向に反するのは重々承知しております。ですが、この戦いには数多くのメリットがございます。一つ目は今よりもよりよい暮らしができること。この古城もなかなか立派ではありますが、近頃は老朽化が目立つようになってきました。これまで幾度か補修と修繕を繰り返してきたものの、そろそろ限界かと。二つ目は軍勢の大規模な補充ができること」
「なるほどね。それで、三つ目は?」
「あなたがグラナト領を落とせば、魔族全体の士気が上がります」
魔王が敗れて以来、魔族と人間との力関係はじわじわと逆転しつつある。勇者という存在は人々に希望を与えた、魔族からすれば与えてしまったのだ。
リュグナーにはそれが我慢ならなかった。彼は典型的な魔族である。プライドが高く、人間どもはみな見下してしかるべき存在だと思っている。
「魔族全体の士気って……。私は魔王様じゃないんだけど?」
「アウラ様のお力であれば、その名を襲名するに申し分ないと愚考いたします」
「はあ……。ドラートとリーニエはどう思う?」
「俺は賛成ですかね」
「私はどちらでも。アウラ様に従います」
めちゃくちゃ面倒だからいや、というのがアウラの率直な感想だ。住居ならまた新しく探せばいいだけだし、軍勢の補充も別にそこまで急ぐようなことではない。それになにより、グラナト領なんて
しかし、こうしてわざわざ策を献上しにきた彼に対し、その一言で片づけてしまうのはさすがに少し憚られた。そこには彼女の方針への不満が表れていたからだ。
三人を配下にする際、アウラは彼らに必要な場合でない限りは人間と関わらないよう厳命した。彼女にとって人間はしつこい羽虫みたいなものだ。どれだけ追い払っても、自身の安寧を邪魔しに寄ってくる。そうなってしまうのなら、そもそも人間たちと関わろうとしなければいい、というのが長年を生きる彼女が出した結論だった。
だが、それはあくまでもアウラにとっての最良であって、他の三人にとっては違う。彼女と違って彼らはまだ若輩だ。人間という生物のうっとうしさを知らない。アウラの庇護下にあることも相まって、ちっぽけで取るに足らない存在だと思いこんでいる。ゆえに、今のこの窮屈な状態にフラストレーションをためこんでしまっていたのだ。
「……いいわ。好きにしなさい」
熟考の末、アウラはそう言い放った。配下たちの気持ちを酌んだ、というより、考えるのが面倒くさくなった、といった方が正しい。あるいは思考を放棄した、ともいえる。
「っ、本当ですか!? ありがとうございます!」
「魔王になる気なんてさらさらないけれど、たまったストレスなら解消させてあげる。一応、なにかあった時のためにこの子たちをあなたのサポートとしてつけておきましょう。私の軍勢の一部も貸してあげるわ。ただし、その代わり――」
彼女はそこでいったん言葉を区切ると、
「失敗は許さないわよ? 私の名を表に出すからには、絶対にね」
「……。御意に」
最後に一礼してリュグナーは去っていった。二人もその後に続く。
軽くおどしこそしたものの、アウラは彼が失敗するだなんてみじんも思っていなかった。なにせ彼はかなりの有能だ。頭が切れるうえ、魔法の腕もそこそこある。
ドラートとリーニエに関しても同様だ。ドラートはすばらしい裁縫技術をもっているし、リーニエはとても手先が器用である。三人ともが、彼女にとっては非常に優秀で便利な手駒だった。
「万が一失敗したら、まあ、その時はその時よね。多分なんとかなるでしょう。……さてと。誰もいなくなっちゃったことだし、ひと眠りするとしましょうか」
暇をもてあます羽目になったアウラはベッドにもぐりこむ。
ドラート手製のそれが彼女を夢の世界へと誘うまで、ほんの数分もかからないのであった。