怠惰主義のユースティティア 作:亜宇羅、慈涯死露
予感はあった。己の決断が誤っているという予感が。しかし、だからといってこのまま魔族との戦争を続ける訳にもいかなかった。なにせもう三十年近くになるのだ。人間にとってあまりにも長い年月である。そのうえ、未だ終わりそうな気配もない。否が応でも神経を張りつめざるを得ない毎日に、民も兵もすっかり疲弊してしまっていた。いくらフランメの防護結界があるとはいえ、これほどまでに長引けば当然不安な気持ちも生じてくる。
やつらは息子の仇だ。殺してやりたいほど憎い。けれども、グラナト家の当主である以上、彼は私人ではなく公人としての判断を下さなくてはならなかった。
「こうして直接会うのは初めてね、グラナト伯爵」
「ああ、そうだな」
これが七崩賢のアウラか、と彼――グラナト伯爵は目を細める。
初対面ではあったものの、すでに彼は彼女の強さを感じとっていた。懈怠の異名で知られるとは聞いていたが、その立ちふるまいには一切の隙がない。道理でリュグナーらが従う訳である。かの伝説の勇者一行でもなければ彼女を倒すことは、いや、彼らであっても街から撃退するのがやっとだったらしい。本当、結界がなければどうなっていたことだろうか。
「私たちと休戦協定を結びたいという話だったわね? 和睦ではなくて」
「……お前たちとの長きにわたる戦争はただ人々を不安にさせただけで、結果としてなんの利も生まなかった。儂も同じ気持ちだ。いい加減、この無意味な争いを終わりにしたい。……だが、和睦は結べん。こちら側はまだお前たちのことを完全に信用した訳ではないからな」
「なるほど、分かったわ。こっちとしてもそれで構わないわよ。期限はどうするの?」
着々と意見をすり合わせていく二人を、両陣営の配下たちは静かに見守る。
「最低でも十年はほしいところだ。とりあえずそこまでは様子を見たい。その頃なら多分まだ儂も生きているだろうしな」
「いいわ。それじゃあこれから十年間、お互い相手への攻撃はなしってことで。他になにか話しておきたいことはあるかしら?」
「……そうだな。もしこの協定が破られることがなければ、十年後の儂はお前たちとの和睦を本格的に考えるようになるかもしれない、とだけ言っておこうか」
「和睦を結ぶ、とは言わないのねえ。覚えておくわ、その言葉」
やがて、両者の会談は終わりを迎えた。
ちょうどそのタイミングで屋敷の使用人がワインとグラスを持ってくる。
「あら、気が利くわね。これはいわゆる友好の証ってやつかしら?」
「そんなところだ。一応言っておくが、毒なんて入れておらん。疑うようなら誰かに毒見させるが……」
「別にいいわよ。配下からは、あなたがたいそうな人情家であると聞いているわ。そんな人物が、わざわざワインに毒をしこんだりするとは思えない。するならもっと直接的にするでしょう? リュグナーたちに剣を突きつけた時のようにね」
「……。その件については――」
「ああ、怒っている訳じゃないの。いきなり和睦なんて提案されたら普通そういった反応になるわ。そこは見通しが甘かった私の落ち度よね。……さて、つまらない話はここまでにしましょう。せっかくのワインがまずくなってしまうわ」
来客用のソファーにて、我が物顔でゆったりとくつろぎ始めるアウラ。相も変わらず隙があるようでないその姿を見て、伯爵はおもむろに口を開いた。
「魔族もワインを嗜むのか。お前たちは普段どんな暮らしをしているんだ?」
「んー、あなたたち人間とそんなに変わらないわよ? 個体にもよるけれど、食事や雑事、睡眠に排せつ……後は魔法の研究や鍛錬ね。魔族にとって、魔法は自らの誇りそのものなの」
「お前も自身の魔法に対してを誇りを抱いているのか? 死体を操作するなど、儂ら人間からすれば異常な魔法としか思えんが」
「ないことはない、って感じね、私の場合は。私にとっての魔法はあくまでも日々を平穏に過ごすための手段に過ぎないもの」
「つまり、〈死体を操る魔法〉を身につけたのはそれが効率的で汎用的だったから、という訳か」
「まあ、そうなんだけど……。それ、前提がちょっと間違ってるわよ?」
「……どういうことだ?」
「うーん、考えてみればおかしな話よね。〈死体を操る魔法〉だなんて、いったいどこの誰が最初に言いだしたのかしら? 私自身はそのことを
その瞬間、伯爵の全身を寒気が襲った。
彼はありとあらゆる想定をしたうえでこの会談を設けた。彼女の不死の軍勢を街に入れなかったのもそのためだ。万が一相手が襲ってきたとしても対処できるように、そしてもし自分たちの手に負えないようであれば、結界を操作して彼らをこの街に閉じこめた後、その場で自害するつもりであった。防護結界魔法は口伝によって先祖代々継承されてきたもの、ゆえに彼が死ねばそれは誰にも操作することができなくなる。
最悪の事態が起こる可能性は十分考慮していた。だが、結局のところ予感はあたってしまった。己は失敗したのだ、それも決して取り返しのつかない致命的な失敗を。
「まさかっ! お前たち、武器を取れ――」
背後にいた兵士たちの首がいっせいに飛んだ。
ショックを受ける間もなく、
「〈
■
突然、フリーレンがいる牢屋の扉が開いた。驚くフリーレンだったが、そのまま中に入ってきた人物を見て、彼女はさらに驚くこととなる。
「――っ! 大丈夫?」
その人物は、なんと全身が血にまみれた兵士だったのだ。いたるところから出血しており、すでに虫の息である。ここまで傷が深ければ、もはや魔法を使ってもどうにもならない。彼女はそのことを瞬時に悟ったが、それは兵士も同じであった。
息も絶え絶えに、彼は彼女に語った。この街でなにが起こったのかを。魔族と休戦協定を結ぼうとしたグラナト伯爵がどうなったかを。そして、七崩賢のアウラが用いる本当の魔法を。
「〈服従させる魔法〉……」
「た、のむ……。この、ことを、みなに、広め……」
その言葉を最後に兵士は事切れた。
使命を果たした遺体にそっと両手を合わせると、フリーレンは牢屋を出る。そして、彼女はしばらくぶりに地上へと戻ってきた。
「……むごい」
そこは地獄だった。どこもかしこも血や臓物が飛び散っており、赤く染まっている。当然臭いもひどかった。少し嗅ぐだけで胃がむかむかとしてくる。鼻を覆ってもまったく意味がない。
かつての平和な街の面影などかけらも残っていなかった。道端で談笑する婦人、はしゃぎまわる子どもたち、客寄せに精を出す店の主人。確かにここにはそれらが存在したはずなのに。アウラが関与していた以上この街も長くないと思ってはいたが、それでもたった数日でここまで悲惨な状態に変わってしまうなんて。
目立たないよう黒い外套をその身にまとい、フリーレンは街の北門を目指す。その時であった。とっさに彼女はその場から飛びのいた。魔力の発生を感じとったのだ。彼女が歩いていた場所を、糸が、斧が、血液で形成された鎌が、それぞれ同時に切りつける。
「八十年ぶりねえ、フリーレン。元気にしてた?」
どうやら見つかってしまったらしい。これ以上の隠密は無駄かと、外套を脱ぎ捨てて同じように挨拶を返す。
「久しぶりだね、アウラ」
頭部から生えた二本の角、紫色の毛髪、隠された魔力、それから左腰に吊るされた剣。八十年前の頃とまったく変わらない姿で彼女は、七崩賢のアウラはそこにいた。ふよふよと宙に浮いたままフリーレンを見下ろしている。そんな彼女の周囲を守るように囲んでいるのは、リュグナーを筆頭とした配下である三人の魔族と、数えるのも億劫になるほどのおびただしい数の
〈服従させる魔法〉――天秤に自身と対象の魂を乗せ、魔力の大きさを比べる。そしてその際、魔力が大きかった方が相手を意のままに操れるようになるという、まさに七崩賢の名にふさわしい人知を超えたとんでもない呪いである。
(魔力量に自信があれば本来気にする必要もないんだけど、肝心のアウラの魔力量が分からないところがネックだ。おかげでこちらはうかつに魔法を使えない)
場合によっては、奥の手を出すことも考えなければならない。
しかし正直なところ、今の段階で彼女に勝てるイメージはまったく頭に浮かんでいない。かつて黄金郷のマハトと対峙した時と同じだ。このままでは間違いなく無駄死にに終わる。
「グラナト伯爵はどうしたの?」
「死んだわ。私が殺した」
「へえ、そう。もしかして私も殺すつもり?」
「んー、実はちょっと迷ってるのよ。始末しようと思えばできるし、配下の一人からもそうするべきだって言われたんだけど、費用対効果を考えるとそこまでうまみがなさそうだし……。フリーレン、あなた、魔力を制限してるでしょ?」
「……驚いた。どうして分かったの?」
「私があなたよりも圧倒的に強いから。うーん、どうしたものかしら。エルフ一人と軍勢の二割を天秤にかけたとして、得られるリターンとかかるコストの差は……。あー、でも、久しぶりに大規模な軍勢を動かしたから、今日はもう疲れちゃったのよね……」
しばらくの間考えた末、最終的にアウラはこう言い放った。
「よし、決めた。見逃してあげる。帰っていいわよ」
「……」
屈辱的だった。依然として自分は彼女にとって取るに足らない相手だと、そう捉えられている。そして、その分析は正しい。正しいからこそなおさら屈辱的であった。
「なによ、まだなにか言いたいことがあるの? ひょっとして私と戦う気? 頼りのヒンメルたちもいないのに?」
まあ、いても無駄でしょうけどね。そう言って彼女は軽くあくびをする。
自然と杖を握る手に力がこもる。だが悔しい思いを抱きつつも、フリーレンはこの場を立ち去ることを決めた。フェルンとシュタルクのためにも今ここで死ぬ訳にはいかない。彼らにはまだまだ教えたいことがたくさんある。それに旅の目的地である
手元から杖を消すと、彼女は二人との合流を目指して再び歩き始めたのだった。最後に一つだけ言葉を言い残して。見苦しい捨て言葉だったが、これだけはどうしても告げておきたかった。
「アウラ、お前はいつか必ず私が殺す」
「そのセリフ、もう死ぬほど聞き飽きたわ」
■
「さて、お前を殺しにきたぞ。七崩賢、懈怠のアウラ」
「ようやくだらだらできるようになったと思えば、今度はなに? というか、あなた誰?」
「私はゼーリエ、大魔法使いゼーリエ。お前たちがその恐怖を忘れるほど大昔に存在した、神話の時代の魔法使いだよ」
「はあ、本当に面倒ね……。うらむわよ、シュラハト」