勇者ヒンメルの死から29年後。
北側諸国、ドラピツ山麓。
「……雲行きが怪しいな」
三か月にも及んだオルデン卿の依頼を無事完遂し、フリーレン一行は再び
要塞都市フォーリヒから、次なる目的地である魔法都市オイサーストへ。
その道程で足を踏み入れることになったドラピツ山麓の樹海の中で、ふと空を見上げたフリーレンの一言に他の三人は嫌そうな顔を浮かべる。彼女の視線の先では、山の頂に連れて濃くなる雲の影が群れを成していた。
「これは一雨来るよ」
「マジか……」
「マジですね。こういう時、フリーレン様の予感は大体当たります」
うへぇ、と心配そうに煙草入れを懐のより奥の方へ押し込むザイン。
しかし一方のフリーレンには、さほど気にする様子は見られなかった。
「でも大丈夫だよ。きっとこの辺りには山小屋があるはずだ」
彼女は側に聳えていた一本の木の幹へと静かに手を添えて、下から上へなぞるようにその全容を眺める。
天に向かって垂直に伸び進むその雄大な樹木は、頭頂部を除いて余計な枝葉が全て切り落とされていた。
それは紛れもない、人の手が入っている証。
更に言えば、この一帯に生え揃う木々には全て同じような加工が施されていた。
「ここの木には出荷を前提に手を加えられている。木こりの仕事だよ。なら、道具を置いたり身体を休めたりする場所が必要になるからね」
「なら、そこでちょこっとばかり雨宿りさせて貰えるかもしれないってことか」
「そういうこと。じゃ、急いで探そうか。腐葉土は柔らかいから、整備された街道より木こりの足跡も見つかりやすい。それを追っかけていけば、うまく辿り着けるんじゃないかな」
「もちろん構わないよ。雨宿りとは言わず、一日二日休んでいくと良い。山道をぬかるんだまま進むのは体力を随分と使うし、なにより危険だからね」
幸いにも、いざ雨が降り始めるか否かの間際でフリーレンたちは山小屋を見つけ出すことに成功した。
中に居たのはまさに木こりと言ったもじゃ髭の男性であり、彼は不慮の訪問者たる彼女たちを快く迎え入れてくれた。
「すまないね。普段ここを使うのは僕一人だから、そこまで準備がないんだ。足りない椅子は適当にその辺りの箱を使ってくれ」
「いや、俺たちからしてみれば屋根があるだけでありがたい。そこまで気を使ってくれなくても良いんだぜ?」
「いやいや。……さあ、お茶も温かいうちに呑んでくれ。雨となると気温も下がるからね」
差し出された湯呑を手に取り、揃って腰を下ろしたところで落ち着いたフリーレンたちは木こりの男性に改めて向き合う。
「ところで、どうしてわざわざこんな山の中に? 街道が通ってるのは麓の村の方なのに」
「それはですね。少々事情がございまして……」
代表して、フェルンがここに至るまでの流れを説明する。
――彼らが本来必要のない山中行軍をしていた理由は、偶然見かけた水鋸竜のせいだった。
まず切っ掛けとして、普通に街道を歩いていた彼らの上空を水鋸竜が飛翔していった。
その気配を探知したフリーレンが、「退治しといた方が良いでしょ。近くに被害が出る前に。別に依頼を受けたわけじゃないけれど。ヒンメルだってそうしたはずだ」と言い出した。
シュタルクは「(なんか流暢だな……)」と思いながら適当に頷いた。
ザインは「(なぜに倒置法?)」と思いつつ、とりあえず賛成の雰囲気を出しておいた。
フェルンは「(絶対巣にある魔導書とか狙ってる……)」と思ったが、口に出さずに賛成した。
そうして彼らはフリーレンの意向に従い、遥か彼方の空を征く水鋸竜の影を追いかけるべく、仕方なしに街道を外れてこのドラピツ山の麓へと足を踏み入れたのであった。
その後、なんやかんやあった末に彼らは見事竜を打ち倒した。
しかしその時には既に、彼女たちは街道からかなり外れた場所まで踏み入ってしまっていたのだ。そうなれば、もはや来た道を戻るよりもこのまま街道の先に出るまでドラピツ山麓を突っ切っていく方が早いのではないか。
そのような判断の結果、彼女たちは道なき樹海を突き進むことを選び、そして現在に至るのだった――。
「……というわけでございます」
「竜だって? 僕もこの山で木こりを務めて長いけれど、そんなものは見たことも聞いたこともなかったよ。こう聞くのは失礼だけど、本当かい?」
「最近この辺りを寝床に決めたばかりだったんだろうね。結局、巣には目ぼしい素材もなかったし……」
しょぼん、と何とも言えないような顔で残念がるフリーレンのことはさておいて。
なにはともあれ、今の彼らは手持無沙汰だった。
元よりそこまで広くない山小屋に身を寄せ合っているこの状況において、魔導書をいくつも広げたり、筋トレしたり、煙草をふかすスペースはほぼないに等しい。
そうなれば自然と、彼らの意識は元から山小屋に置かれている様々な品々へと向けられる。
加工の途中で保存液に漬けられている獣のなめし皮だったり。
仕事道具として丁寧に刃を研がれた鉈や斧だったり。
「へー、面白いな。なあ、これってどうやって使うんだ?」
「ああ、それはね……ここをこうして……」
外から聞こえる雨の音が段々と激しさを増す中、これまでの例にもれずすぐに男性と打ち解けたシュタルクが、その興味から林業に使う珍しい道具を見つけてはその従事者たる彼に様々なことを聞いてみる。
ザインとフェルンは、このドラピツ山で採れるという素材の瓶詰などを見ながら魔法薬の調合について議論を交わしていた。
その中で、フリーレンは目敏く一つの違和感に気が付いた。
虫も湿気も多いこの山小屋という空間を置き場所とするには到底相応しいとは思えない一品が、彼女の視線の先に鎮座している。
煤けた手製の木棚の端にひっそりと収められていた、その正体は……。
「……ねぇ。これって魔導書だよね?」
「――触るな!」
近寄って手を伸ばそうとしたフリーレンへ、木こりの男性から鋭い一声が突き刺さる。
これまでの物腰柔らかい様子を一変させて剣呑な雰囲気を醸し出した彼は、しかし、彼女が恐る恐ると言った様子で手を引っ込めたことに、すぐさま態度を落ち着かせて謝罪を口にした。
「あ、いや、すまない。だが、それは危険なものなんだ。気軽に誰かに触らせるわけにはいかなくてね」
「それほどまでに危険な魔法が記されているのですか?」
「それは……」
フェルンの問いに男性は言葉を詰まらせ、逡巡する素振りを見せた。
先の一声のせいで、他の面々の視線は全て彼の下へと集まっている。
彼らから驚きや困惑と言った感情を向けられる中で、その内心を浮き彫りにするように表情を色々と変えた後、やがて彼はその視線による圧に負けたかのように肩をがっくりと落とした。
最後に壁の一隅に目をやってから、木こりの男性は意を決したようにその首を横に振った。
「……分からない」
「分からないって、じゃあなんで……」
「危険かもしれないし、実際はそうじゃないのかもしれない。僕は誰かに魔法使いとして師事したことがないから、実のところその魔法について正しい判断を下せるわけじゃないんだ。ただ使えるだけさ」
男性は眉間に深い皺を刻みながら、自身の両手へ視線を落とす。
そこで何かを堪えるように少しばかり息を詰まらせ、引き寄せた椅子に腰を落として……ぱち、ぱちと暖炉に弾ける音を背景に、ゆっくりと続きの言葉を吐き出す。
「ただ、それで僕は恋人を殺した」
「えっ……」
「紛れもない、僕自身の手で彼女の命を奪ったんだ。それで十分だろう? あんな嫌な感覚は、他の誰かに味わわせたくないんだ。絶対に」
先ほど男性がちらりと見た壁には、額に入った一枚の写真が掛けられていた。
その中に立っているのは、髭を伸ばす前の若かりし木こりの男性と、一人の美しい女性。
仲睦まじく腕を組む彼らは間違いなく、この世の春を謳歌している真っ最中であって。
――それを終わらせたのが、他ならぬ愚かな自分なのだ。
「こんなこと、本当は誰かに話すものじゃない。だけど、もし聞いてくれるのなら、聞いてくれると助かる」
男性は続けざまに、そう己の罪を告白し始めた――。
「――自分で言うのも馬鹿らしい話だけどね。僕は今では、この辺り一番の真面目な木こりとして知られている。だけど元々はそんなきっちりした性格じゃなかった。この家業の木こりだって継ぎたくなくて、親に殴られながら嫌々やっていたんだ。なにせ森は虫は多いし魔物は出るし、なにより木を手入れするのに一々高い所まで昇り降りしなくちゃならないしで大変だからね」
「でもその時、彼女のことを知ったんだ。村一番可愛くて器量が良いって評判で、僕も他の村の男たちと同様、分不相応と分かっていながらも彼女が欲しくなった。それで初めて、真面目に仕事に取り組もうとした。……だけど、根っからの性格なんてそう簡単に変わらない。彼女の前で見栄を張って真面目になりたいのと、面倒くさがる本音がいつも頭の中で戦ってたよ」
「そんなある日、そう、ちょうど君たちと似たような理由だったかな。一人の魔法使いの女の子が迷い込んできたのをここに泊めたことがあってね。彼女は真摯に僕の悩みを聞いてくれて、お礼としてその【とにかくやる気になる魔法】の魔導書を貰ったんだ。「この魔法が貴方の所へ行きたがっている」とか言われて……それはよく分からなかったけれど、とにかく「木こりの貴方なら、これを使えば望む通り真面目に働けるようになるかもしれないね」って言われてね」
「ただし、彼女はその時一緒に注意もくれた。「この魔法は、決して人目がある時に使ってはいけないよ」……僕だって魔法で本性を騙して彼女の目を引こうとするなんて後ろめたかったから、そもそも最初から見られる場所で使おうなんて思いもしなかった。だからそれくらい大したことじゃない、って軽く考えてたんだ」
「この魔法を使ってみれば、これまで怠かった枝打ちや間伐の見回りがすぐに終わるようになった。なんていえば良いのかな? まるで僕の身体が僕のものじゃなくなったみたいになって……夢心地でなんとなく身体を動かしていたかと思えば、はっと目を覚ました時にはその日の作業がこれまでの半分の時間で終わってた。おかげでより広い面積を見られるようにもなって、収入も以前と比べて倍近くに増えたよ」
「それが村で噂になって、僕は村の大人たちの後押しも受けられてなんとか彼女を手に入れることが出来たんだ。本当に幸せだったよ。魔法でだらけ根性を誤魔化してることなんてつい忘れてしまうくらい、あの時の僕は絶頂期も絶頂期だったんだ。あの魔法使いの子から受けた魔法の注意点なんて、もう完全に頭の中からすっぽ抜けてたよ。……
「その日の僕は、毎日彼女が持たせてくれた弁当を家に置き忘れてきてしまった。それで、彼女はそんなことしなくてもよかったのに、わざわざ村から片道で二時間もかかるこの小屋まで届けに来てくれたんだ。……だけど僕はそんなことを知らなくて、いつも通りここで魔法を使った」
「彼女が小屋に来ていたことに僕が気づいたのは、いつものように魔法から覚めた後だった。目の前の地面に弁当の中身がぶちまけられていたのと一緒に、赤い血だまりの中にとうに息絶えた彼女の身体が沈んでいた。……何もかもが、手遅れだった」
「手に持っていた斧が赤く染まっていたから、すぐに僕が彼女を殺してしまったことに気が付いた。そこでようやく、魔法を貰った時の注意を思い出したんだ。あの時の感覚は……今でも残ってる。身体の芯はすぅっと冷えていくのに、握りしめた手の中にはいつまでも彼女の暖かい血の感覚があって……今も消えちゃいない」
「次に気がついた時には、全部が終わっていた。村の人が言うには、あの時の僕はずっと放心していたらしい。それを気遣ってくれたみたいで、彼らが処理を済ませてくれたんだ。彼女は偶然襲ってきた魔物によって殺されて、僕の斧が赤かったのは、復讐でその魔物を無我夢中のままに殺したからということになってた」
「皮肉にも、あの魔法で演じていた真面目さのおかげで村の人たちの信用を得ていたから僕は裁判にかけられなかったんだ。でも、だからと言って罪が消えたわけじゃない。誰も知らなくても、僕だけはこの真実を知っているから。いや、もう今は君たちもか……」
木こりの男性による独白は、それで終わった。
しばし、沈黙が場を包む。
それを破ったのはやはりと言うべきか、他ならぬその男性だった。
「急にこんな話を聞かされて、さぞ気分が悪くなっただろう。すまないね。でも、その魔法はそういう結末を齎しうるものなんだ。……この結末を招いたのは他ならぬ、僕自身の愚かさだ。だけど、他の人が同じ過ちを繰り返さないとも限らない。だからやっぱり、それは危険な魔法で、君たちにも使われないようにしたかったんだ」
「……言いたいことは分かったよ」
唐突に行われた男性の懺悔を、フリーレンはしっかと受け止めた。
しかし、それでもなお。
彼女は改めて、【とにかくやる気になる魔法】の魔導書をそっと手に取った。
「自分の罪の重さを自分でしっかりと認識しているなら、その点について私たちから言うことはない。そうだよねザイン」
「あ? ああ……女神様は俺たちに、己の罪と向き合うための手段として罰を与えてくださる。聞くからに、アンタはもう十分それに向き合っているんだろう。だから、俺たちから他の誰かに告げ口するようなことはしない。今の話は俺たちの中で留めておくさ」
「でも、それとは別にこの魔法の謎は解き明かしておかないと」
木こりの男性による不注意がこの事件の根幹であることは間違いない。
しかし、事件に関わる要素はそれで全て解き明かされているのかと言えば、そうではない。
「なんでそんなことになったのか。それをはっきりさせないままだと、きっといつかまた同じことが起きるよ」
「そうですね。この方も四六時中この魔導書を監視しているのではないでしょうし。……【とにかくやる気になる魔法】、何故人の目につくところで使ってはならないのでしょう? 見た人を殺してしまうからでしょうか。ですが、この方には元々そんな気はなかったようですし」
「そうだな。もしかして、本来は単にやる気を出させる魔法なんかじゃなかったりする……とかか?」
「つまりこの人にそれを渡した女魔法使いがだました、ってことかよ?」
「さてね。少なくとも聞いた限りは最低限の注意はしていたようだし、それは会ってみないと分からないんじゃないかな。……で、どう?」
様々な意見を出す仲間たちを見ながら、フリーレンは男性にもその如何を問う。
そも、魔導書の所有権は未だ彼の下にある。
それに、この魔導書に最も振り回されたのはこの木こりの男性なのだ。
ならば最終的な判断をするにあたって最も重要視されるべきは、やはり彼の意見だろうから。
俯いていた男性は、目線だけを彼女に寄こす。
その目に映るフリーレンの顔には、最大限男性の意志を尊重しようとする意図が見て取れた。
一つ大きな息を吐いてから……彼は、小さく頷く。
「お願いできるのなら。僕も知りたい。いや、知らなきゃならないんだ。よく分からないままに使った道具で過ちを犯してしまった、その責任を取るには。きっと……」
解き明かすと言っても、フリーレンが魔法の正体に突き当たるまで一時間もかからなかった。
永い時を生きるエルフである彼女の頭には古今東西の魔法の知識が詰め込まれており、今回は運よくその引き出しの一つにピカンとくるものがあったようだ。
「……うん、やっぱり。見覚えがあるね、この魔法構成」
「本当ですか?」
「元になっているのは統一帝国末期の魔法だ。【
フリーレンは独り、魔法の
そんな彼女に対して、知識を持たない他の面々は当然のように彼女に説明を求めようとした。
「ほー。……で、【
「これを使うと、まずとにかく“何か”を斬りたくてたまらなくなる。それと合わせて武器の刃に想念的な切断効果が付与される。――そうすると、なんでも斬れるって思い込んだ、思い込むだけ斬れるものが増える便利な兵士が出来るんだ」
「……どう見てもろくでもない魔法じゃねーか!」
「そうだね。帝国の末期はとにかく荒れてたから。四方から攻め入ってくる反乱軍に対抗しようとして、非人道的な魔法がいくつも当時の宮廷魔法使いたちによって作られたんだ。これもその一つだよ。当時これを作った奴の触れ込みは確か、『戦場に好きなだけ“英雄”を生み出せる、まさに奇跡の魔法』だった」
【
我が身を顧みることなく、少数で多数を撃破する。彼らは指揮官の魔法に惑わされるがままに戦場となった国境で敵味方構わず屍山血河を作り続け、そして死んでいく――その在り様はまさに、帝国の威光を守るに相応しい一騎当千、万夫不当の“英雄”たち。
しかもその“英雄”たちは大概戦場でそのまま帰らぬ人となるので、長引く戦争によって厳しくなっていた当時の帝国の懐事情にとってはありがたかった。なにせ、論功行賞が勲章一つとちょろっとした遺族への補償だけで済んだのだから。
少数の犠牲で最大の戦果を叩き出す、『費用対効果に優れた魔法』。
そんな過剰広告だけが独り歩きして、当時は無能な指揮官が何も考えずにこの魔法ばかりを使う特攻戦法が一時期流行ったりもしたものだけれど……と、そこまでのことは彼女は口に出さなかった。
だが彼女の賢い仲間たちは皆、少なからず表情を歪めている。
「続けるよ。……でも、もうこれは【
そうフリーレンは結論付ける。
ついで彼女は、この一件に係る付随情報を彼らに与えた。
「そして、実際こういったことは魔法においてままあることだ。本来の効果を伏せて偽りの名を与える、そうして術者のイメージを望む方向へ向けさせやすくするんだ。聖教の薬学にも同じような考え方があるよね? 強い思い込みが、時として本来薬の持たない効果を服用者にもたらすことがある」
「プラセボ効果のことか?」
「そう。魔法は理論も大事だけど、それ以上にイメージが重要になる。【とにかくやる気になる魔法】としての用途だけしか知らなければ、【とにかく切りたくなる魔法】は【とにかく切りたくなる魔法】じゃなくなる。これを教えた魔法使いは、そう考えたのかもしれない」
「……そうかもな」
つまるところ。
理論的には、この魔法を木こりの男性に渡した魔法使いの判断はあながち間違いでもない。
偽りの名前を以て本来の効果を覆い隠し、その上で丁寧に注意まで添えている。
それで本来は十分なのだ――ただ、与えられた人間が真面目に使ってさえいたならば。
「……そう言うことか。分かったよ」
結局、魔法を使っても変わらなかった男性の生来の不真面目さこそがこの悲しい事件を招いたのだ。
彼女や周囲の人間を騙すことは出来ても、自らの本性を騙し切ることまでは出来なかった。
故の、綻び。
取り繕い切れなかった中身が最悪な形で表出してしまった――それが男性のいうところの“報い”の正体だった。
「ありがとう、君たち」
しかし、その事実をはっきりと突き付けられた彼の顔は、不思議と先ほどまでよりも穏やかなものになっていた。
ともすれば、それはフリーレンたちをこの山小屋へ迎え入れた時に見せていたものよりも、より自然に近い表情のように見えた。
「正直、僕はまだ心の底でどこか期待していたんだ。……本当はあの魔法使いに騙されただけで、僕は実は悪くないのかもしれない、って」
「……」
「その魔導書を見る度、後悔と一緒にいつもそんなことを考えていた。そんな醜い保身を捨てきれなかったんだ。そうしてうじうじとしながら、「管理する」なんて言い訳をして、さっさと捨てればよかったものを残していた」
「……」
「でも、そうじゃなかった。……やはり、僕は。純粋な僕の過ちで、彼女を殺してしまったんだな」
男性はフリーレンの手から魔導書を取った。
「なら、もうそれを残しておく必要はない」
燃え盛る暖炉の中へ、彼は魔導書を放り捨てる。
表紙から溶けるようにして、その輪郭が揺れる光の向こう側へと崩れていく。
「無学な僕でも、過ぎたるはなんとやらくらいは知っている。これはきっと、ほとんどの人間にとってそういうものだ。だから、これで良い。……だけど、申し訳ないな。踏ん切りをつけられたお礼をしなくちゃならないんだけど、ここに君たちにお礼として渡せるようなものはなにもないんだ。どうしようか」
晴れやかな顔を一転させて困った様子を浮かべた木こりの男性に、フリーレンは答える。
「泊めてくれるっていったよね? それで十分だよ」
「真面目になりたい不真面目な貴方。どちらの“貴方”を選ぶのか、私の魔法が多少なりとも役に立ったようでなによりだよ。――選ばれたのは“真面目な貴方”。俗に「人はそう簡単には変われない」なんて言うけれど、それを見事裏切ってくれたね。ようやく心の整理がついた今、私にも貴方が得たその答えを示してくれるかな?
……しかし、かの【
少女の顔をしたモノは、安楽椅子に揺られながら手の中の木こりの記憶を反芻する。
その膝の上には、かの山小屋の暖炉に葬られたものとまったく同じ重みを持つ魔導書が静かに閉じられていた。