私は神策府に走り込み、扉を潜り抜ける。そこには、表情を硬くしている景元と懐炎が立っていた。私は背中に抱き上げていた智械黑塔をそのままに、景元へと言葉を発する。
「景元さん、懐炎将軍。私たちの生成した壁で、一先ず羅浮には光矢が落ちないようにしました。そしてヒスイノと交易のある、曜青、朱明、羅浮、方壺の四艘には、バリアを恒常的に張るための方舟を向かわせています。」
「だけど、玉殿と虚陵はまだ。」
私の背中に寝そべるようにしてもらっている智械黑塔が、私の言葉に補足する。私は、将軍二人に智械黑塔がヒスイノの技術全般を発展させている仲間であることを伝える。そして「巡狩」の星神は、間違いなく仙舟の民も狙っていたことを、彼らに伝えた。
景元は口元を真一文字に固く結び、深く考え込む。懐炎は呻くように言葉を漏らした。
「…まさかこんなにも早く、わしの考えが現実になってしまうとはな…。」
「星海から剥き出しの「豊穣」が消えたとき、嵐は仙舟を狙う。薬師から長命を望む者が減り続けていることによって相対的に――もう嵐の討伐速度が、豊穣の民が生まれる速度を上回りかけているんだ。無辜の民が死ぬことを、私は望まない。」
私は智械黑塔の分析から得た、星海の状況を話す。そして私は声に力を込めて彼らに続けた。
「二人とも。元帥に…神秘の壁で仙舟を覆い、民を守る選択を彼女に取らせてください。」
――――――
半透明かつ色の無い壁で覆われた、仙舟「羅浮」。巨大建造物が光矢によって破壊されたという事実に、民は恐怖していたが、時間が経てば経つほど、平静になる者が増えていった。
仙舟外の戦場で幾度も光矢を見てきた雲騎軍の兵士たちも、落ち着きを取り戻していく。彼らは壁を見て、理解した。あの第三次豊穣戦争で仙舟「方壺」を守った深緑の騎士の主が、再び仙舟を守ろうとしていることを。
琥珀の壁は固く、拘束装置は「巡狩」の矢じりを留め、人のために活性化惑星を砕いた。その絶対的な守りが彼らを安心させたのだ。
だが雲騎軍の兵士たちは、気を引き締める。帝弓の光矢が射抜いた場所は幽囚獄であり、現在牢は完膚無きまでに破壊されて機能せず。囚人が生き残っていれば、仙舟の民に襲いかかるのは自明の理である。
兵士たちは、民を守るため街路を巡回する。雲騎軍の皆に、重罪人が脱走したと通達されたのは、それからすぐのことだった。
雲騎の影で、兵や仙舟の民に扮した者たちが、心の内に描いた理想のため動き始める。伝承でのみ知る、古き狼の栄華。
それこそ、我らにあるべきだと固く信じて。
そしてその古き狼。歩離人の戦首は幽囚獄を出る前、牢獄内を歩き回っていた。この忌々しいほどに厳重な牢で何が起こったのか、把握するために。
他の損傷をほとんど受けていない罪人は、解放された歓びのまま外へと走り去った。大罪を犯した者ほど、苦痛を長く与えられる。一時の自由も、刑罰の質を上げるための一要素でしかない。
だから彼らは思考停止で牢を去った。天から与えられたこの絶好の機会。思う存分利用し、積年の恨み苦しみを仙舟の民に与えてやろうと。
力を持たない者は街に潜伏することを選び、戦争の英雄たちは、雲騎と民に対して力をぶつけることを望んだ。
戦首、呼雷の思いは後者であったが、ただ暴れるつもりは無かった。
呼雷は幽囚獄を上へとゆっくり進んでいき、息絶えた人間の血肉を喰らっていく。これは呼雷にとって、700年以来の、久しぶりの食事だった。彼は仙舟に捕らえられてから今まで身動きが取れない状態で拘束され、何一つ食べることもできなかった。それでも彼は生きていた。
勘も体も鈍っていたが、血肉を喰らうことで少しずつ彼の体に力が戻ってくる。狐族を恐怖に陥れるフェロモン、狼毒が、呼雷から自然に漏れ出した。
彼が外へ出るまでの間、死にかけている囚人を度々見かけた。皆一様にもがき苦しみ、生きたいと叫んでいる。
呼雷は、下半身が光矢で消失した男性や、半身が瓦礫の山に押しつぶされた女性などが泣き叫ぶ様を見つめる。
「まだ、死にたくない…!ちくしょう、なんで…。」
「助けて…。」
「…丁度いい。」
呼雷はその巨躯を屈め、死にかけている人間たちをぐいと持ち上げる。次に呼雷は、彼らの生き血を全て啜り上げた。狐族や仙舟の民の絶叫が、野太く、低く変わっていく。
そして死にかけていた人間たちは、新生した。戦首の「紅月」の力により、彼らは狼となったのだ。
新生したばかりの狼たちは、己に突如現れた狩りの衝動と、自分たちを救ってくれた呼雷への想いを込めて遠吠えする。彼らの意識は本能に委ねられ、狼主と共に狩りを行うことを望みとした。
「――俺がいるところに、狼の群れあり!」
呼雷は裂けたように大きい口を歪め、狼の群れの中で最も大きい遠吠えを幽囚獄に響かせた。再び上げられた戦首の声は、まだ群れしか知らず。
呼雷は再び、仙舟の上空で遠吠えを響かせる。彼が望む戦いのために。
―――――
幽囚獄から抜け出すことができた囚人たちは、幸運でありながら不運でもあった。何故なら、この仙舟「羅浮」には今、強者が集まっているからだ。若く才能に溢れる剣士たち。戦場に出れば比類なき強さを誇り、敵を暴風のごとく薙ぎ倒す「曜青」の将軍。仙舟外から来た旅人たち。
そして元より羅浮には、冷たく鋭い「剣」がいる。約二千年にも渡って理性を保ち、己の技量を磨き続けてきた恐ろしき剣鬼が。生涯を斬ることに費やしてきた鏡流の前では、遠い昔に敗れて捕えられた豊穣の忌み物など、凡百と大差はない。
斬撃と共に振るう冷気が隠れ潜む罪人を凍りつかせ、力を持っていた過去の豊穣勢力の英雄も動きを止めていく。そして彼女と競い合うように、飛霄も、鏡流の孫弟子である彦卿も、彦卿に追いつかんとばかりに雲璃も力を振るっていた。
鏡流は剣だ。剣としての役割のみを望み、民からも将軍としてそう望まれている。
仙舟の実力者である三者と、外部から来た者たちは鏡流とは違い、避難誘導を行いながら罪人たちの動きを完全に止めていく。
「本当に数が多い…!ちゃんと捕えないと。」
「師匠たちに教わった、真の剣術を見せてあげる!」
「三月、もっと…こう!こういう感じで剣を振って!」
三月なのかと彦卿、雲璃は一組になって、街中を走り回る。実戦での訓練も大事だと、雲璃は三月なのかに言い、感覚的な指導を行い続けている。三月なのかは内心、変則的かつ急いでいるせいで、全く指導になっていないと思っていた。
彦卿が飛剣を操り、機動力を活かして罪人を戦闘不能へと持ち込んでいく。
少年の剣には冷気が混ざっている。仙舟の剣術へひたむきになり続けた結果であり、彼の成長を見守ってきた二人の師匠が志を託さんとした考えの表れでもあった。
かつて仙舟を守り、今も尚守り続けている「雲上の五騎士」の想い。彦卿は、鏡流と景元から多くを受け取り、そして今少しずつ返している。己の剣で、仙舟を守ることで。
仙舟の民を守るための戦い、その最後にて。三月なのかと彦卿、雲璃の三人は、鏡流の背中を見る。彼女の前にいるのは、「慧駿」の執綱者、造父。かつて歩離人と並び、豊穣戦争で仙舟同盟を打ち倒そうとした古き時代の長であった。
鏡流は後ろを見ることなく、孫弟子に言葉をかけた。
「…小僧。我は行かねばならんところがある。…ここは任せたぞ。」
「…はい。師匠!」
彦卿は彼女へ、自分の意思を伝える。剣は冷たくとも、少年の闘志は熱く。若い情熱を以て罪人を睨みつけた。
鏡流は、ふっと口端だけを緩めて笑い、高く跳んだ。身を捻り仙舟の空に体を重ねる彼女の姿は、三日月のように美しく、そしてどこまでも研ぎ澄まされていた、
―――――
呼雷は、彼の持つ力によって新生した狼たちを放った後、空を見上げる。無色半透明の壁が防壁のように、どこまでも広がっている。
これは何かと、呼雷は思考を巡らせたが、獲物から聞き出せばいい話だと歩を進める。光矢の影響で、周囲には人は存在しない。いやしないはずだった。
呼雷は遠くから人間たちが走ってくるのが見えた。狐の耳を携えた、歩離人に隷属し媚を売ることしか能の無い家畜、奴隷。
呼雷は狐族たちを見て、ある狼の顔が頭に浮かぶ。幽閉中、呼雷は最後の戦で相対した「比類なき剣」と同様、その狼のことを片時も忘れることはなかった。
狐族の集団の内、雲騎軍の鎧を着こんだ男性は、呼雷の元に跪いた。
「呼雷様!生きておいでだったのですね…!」
「やはり、戦首様は妖弓の矢にすら打ち勝つ強さなのだ…!」
「…貴様ら、何のつもりだ。その匂い――何故狐族の姿をしている。」
近くに寄ってきた時、呼雷は集団の正体を見破った。目の前にいるのは、狐族の皮を被った歩離であると。
「ああ…申し訳ございません、呼雷様!我らが羅浮に侵入するには、卑しい家畜の皮を被る他なかったのです!」
「…あの忌々しき駄犬が作り上げた穴をつくのは容易い!仙舟に尻尾を振る、牙の抜けた飼い犬め…!」
「駄犬だと?それは、どの猟群の狼だ。俺に聞かせてみろ。」
「はっ!やつは、かつて緑翠猟群を名乗っていたようですが…今となっては猟群の名さえ棄てたのです!狼の古訓を汚し続けた…意地汚い犬畜生!狂风です!」
呼雷はその名を聞いた瞬間に、笑った。大声で笑い続けた。
彼の元に集まってきた、狐族に化けた狼たちは困惑しながらも、笑い終わるのを待つ。
長く笑った後、呼雷は顔を押さえた。
「そうか…。奴は新しき歩離を叶えたか!ふ、ふはははは!」
それから呼雷は、狐族に扮した狼たちに狂风のことを聞く。ヒスイノの発展、その影響力についても。
呼雷は面白くてたまらなかった。かつて歩離の中で異端であった狼が、新しい世界を築いた。狼が、血と殺戮に飢えた存在ではなく、逆に星海を守るために動いているなど、信じがたい話だ。
だが呼雷は嬉しかった。呼雷が逃がした、才能あふれていた若者がさらに大きく、誰にも打ち勝てないほどの力さえ得た。そして狼の戦士の中で、強さは尊ばれ続けている。
これが新しい時代の狼なのだと。呼雷の理想とは違くとも、「何にも縛られず、自由を謳歌する歩離の姿」であると彼は思ったのだ。
集まった者は、既に滅びかけている大猟群の狼か、ヒスイノと交流している中で古き歩離の栄華に憧れた「犀犬猟群」の者であった。呼雷にとっては、形骸化した「狼の古訓」に思いを馳せるだけの弱き狼たちだ。
彼らが、大猟群の再興を願っていても、そこに古き狼はいない。
なら俺が、最後に「古き歩離」を見せてやろうと彼は宣言する。
呼雷は再び空を見上げる。この仙舟を覆う壁を狂风が築いたと聞けば、ますます彼は会いたくなった。700年以上「新しき歩離」のために生きてきた、狼。その力を、戦いに生きる歩離人として感じたいがために。