歩離の民には、古くから言い伝えられている話が幾つもあるが、その中の一つに「心臓」があった。本当かも定かでない話だった。
歩離の始祖、都藍は赤泉の水を飲みながら、それでも己の命と力は限りあるものであることに不満を抱いた。どこまでも野心を抱き続けた都藍は、願いを叶えるため、無数の同族と狐族の生命力を遺伝子巫術を媒介として、赤泉に投げ込んだ。すると、その結晶とも呼べるものが、赤泉の中に出来上がった。都藍は脈動するそれを、自身の心臓と入れ替え、無限の力を得たというものだ。
それが呼雷が言う「紅月」であった。私は伝説が真実であったことに、じわじわと胸が熱くなるのを感じた。
「これは戦首になる素質のある者…ここにいる巣父は、皆知っていることだ。だが、小さな猟群の巣父や、巣父候補は知らない。座標については、貴様と俺だけだ。赤泉はまだ潤っている。」
「ありがとうございます、呼雷様。…私は何が何でも、あなた方を勝たせたい。伝統を抜きにして。私たちの猟群から一部が、青丘の地に向かうことになります。」
「戦争以外の道はいいのか、狂风。…再三言うが、貴様が断ろうと、戦首になる力があるのだ。俺は、貴様の行動を認める。」
私は呼雷にこの十年で猟群が見てきた光景から、固めた意見を話した。仙舟同盟と豊穣の民の小競り合いは幾度となく器獣越しに見てきた。豊穣の民憎しと、死を厭わずに共倒れしていく姿であった。そして広く厚い情報網を持つカンパニーから聞いたことだが、仙舟同盟は何れ来る滅びを受け入れているそうだ。
一度得た長命は薬師からの賜物であるはずなのに、それが気に入らないからと裏切り、妖弓の力まで手に入れた。私たちをもし滅ぼしたとしても、その先には未来がない。そんな自滅的思考の集団に、生を望む我らが何故逃げ隠れしなければならない。
知れば知るほど、集団としての仙舟同盟と豊穣の民は相容れず、滅ぼし合うしかないのだと理解した。他の派閥とは手を組むことができると可能性を持てるが、仙舟同盟とは無理なのだと思い知ったのだ。
「私が望むのは、貴方と同じ、狼が宇宙を自由に駆けることのできる未来です。仙舟同盟はこちらとの和平には、絶対に応じません。豊穣の民を根絶やしにするか自身が滅びるまで、彼らの侵攻は止まらない。そんな存続をないがしろにした者たちに、力の弱い狼が怯えながら生きるなどごめんです。」
「…貴様が作り上げた猟群は特異だ。一つ俺の考えを話そう。貴様が、我らの一進一退をかけた戦いに加わるというのであれば、その姿を隠せ。貴様にはまだ後がある。緑の奇異な装甲を目立たせないようにな。」
呼雷は私に考えを話す。私たちには隠し玉としての役割を担わせると。そのとき一部の星系では知られている外骨格が表に出れば、それだけで目立ってしまう。また彼はこうも言った。自由に狼が駆けるには違う方法がある。それが私の考える猟群の在り方なのだと。今まで積み重ねた「翡翠の騎士」の立ち回りを捨てるのは、その方法を捨てるのと同じ。呼雷は今回の戦いで、古き伝統の歩離がどこまで戦えるのかを試そうとしているようだった。
私は細かな考えが抜けていたことを恥じた。一部でも緑翠猟群を掲げれば、間接的に数多くしてきた約束を反故にするところであった。呼雷が私の行いを異端ではなく、新しい可能性として終始見てくれていたことが胸に響く。
「狂风、俺はもうすぐ一斉攻撃をかける。貴様がかの地に行き、戻ってきた頃再び使者を送りだすだろう。次は戦場で会うとしよう。」
「…はい。黒染めの鎧でまたお会いしましょう。」
仙舟同盟と豊穣の民との戦いは激化の一途をたどるばかりだ。私は歩離の民の滅びを回避するために、私の思う強さで、狼を守り抜かねばならない。
私は鎧を黒で染め、戦える者と共に、呼雷の死を回避するために動くことになる。これは猟群として掲げる意思ではなく、狂风個人の考えである。
守るために抗戦する、それもまた強さだ。仙舟同盟にも終焉にも抗い抜く。私は瞼の裏に、あのとき見た終焉を思い浮かべた。呼雷を穿つ、氷の刃を。
呼雷から渡された青丘の地の座標は、ヒスイノからも儀式を行った星からも遠く、辿り着き、帰還するには大量の物資を積んでいくことになる。
私一人で青丘の地に向かうつもりはない。赤泉が残存しているのなら、その力の源を最大限使うことが、抗戦にもこれからの猟群にも道筋を補強することに繋がるだろう。私は白狼を連れて、ヒスイノまで帰還した。
艦の中は重苦しい空気で満たされていた。黙っていた白狼が口を開く。
「狂风様。ついに、歩離の滅びが近づいてきたのですね。狐族も多くが死ぬ…。助けたかった人たちが…。」
「そうだ。呼雷様が死に、歩離もまた死にゆく。このままいけば、掬い取れるのはごく僅かだろう。」
「戦首様を生き残らせ、狂风様の猟群も拡大させていく…。本当にどちらも上手く行きますか…?あたしは、狂风様や猟群の皆に死んでほしくはないですよ。…あ、もしかして、狂风様の猟群は歩離だと認識されていなくて、無事でいられるかもしれないじゃないですか!それに賭けましょうよ!」
白狼がわざとらしく、今思いついたかのように言葉を放つ。終焉を避けるには、その根源となる部分を変えなくてはならない。呼雷の前では勝てるようにと啖呵を切ったが、最悪でもやり直しが効く状況にしたいのだ。
そのためにはこちら側が戦場で死ぬ数を減らさなくてはならない。私は呼雷には言わなかった、もう一つの目的を白狼に話す。
「まだ三十年だ、師匠。独立した派閥と言えるほど、私たちは大きくない…。…何もせずに狼や狐族が殺されるのを待つより、戦場で死ぬ数を減らしたい。だから私は戦場に向かいたいのだ。」
「狂风様のそのお考えは、分かっていました。ただ戦力として向かうのは、貴方の考えとは違うと。…一つだけ約束してください。狂风、生き残るのです。危なくなったらすぐに逃げる。猟群はまだ育ち切っていないのですから。」
「ああ、絶対に生き残る。師匠も絶対に生き残ってくれ。」
師匠にはお見通しだった。私は微笑む白狼に誓った。
必ずや、この局面での終焉を回避する。そのために準備は念入りに行おう。私たちは、ヒスイノに着いてすぐ皆を集めた。
青丘の地。赤泉の湧き出る、我らが故郷はまだあるということ。伝説は真実だったということに皆は驚きを見せていた。これまでのやり取りで、特に信頼できるカンパニーの社員たち、クネーテと最近業績を上げたということで等級が上がったかつての同伴者たちも共に聞いてもらう。
「あの…クゥアンさん?ビジネスパートナーではありますが、わたしはカンパニーの人間です。そんな重要なことをわたしどもの前で話してしまうのは、うかつではないですか?」
「クネーテさんに、ここにいる社員の皆は、私たちの情報を広げてくれたし、技術力も底上げしてくれた。しかも歩離の技術を大っぴらにしないでくれている。これだけ助けてくれているのだから、私たちは同じ群れと言っても過言ではないだろう。」
「へ、へぇ…。クゥアンさんの群れ意識はだいぶお広いようで…。こほん!わたしたちは、信頼には信頼で応えます。ビジネスの芽はひっそりとじっくりと育てていきますよ!」
クネーテはメモを取らず目を閉じている。自身の耳のみで情報を覚えておくつもりのようだった。
最初に会えたカンパニーの人間が彼女でよかった。私は青丘の地で得られるものの回収と、伝説の再現を行うことを宣言した。小さな猟群、鑿歯猟群から派生した猟群にいた狼が、遺伝子巫術を知っている。私は遠征に向かえる人員を出来るだけ最低限にし、持って帰れる物を多くすることにした。
そして伝説の再現について。私はその生贄をどうするかを説明した。
「この座標をオムニックの皆がスキャンした。今の器獣の速さだったら一月ほどかかる距離だ。この間にいるスウォームの群れを狩り、器獣にその死体を詰め込む。加えて、研究用にヒスイノへ持ち込んだ肉片全部を荷物に収めてここへ向かう。着いた後、私の体も贄に捧げよう。これで生贄は確保できるはずだ。」
「狂风さん、俺もやります!再生能力には自信があります。」
狼の仲間たちの中でも、伝説の再現に強く興味を示す者がおり、協力したい者たちが名乗りを上げる。
話し合いの結果、青丘の地に向かう人員は、翡翠の鎧を纏う戦士に、遺伝子巫術を知る者、肉体強度の高い狼、そして故郷を一目でも見たいという狐族たちになった。翡翠の戦士たちの中にはストリボーグをはじめ、オムニックが十数体いるため、獣艦の進むべき地点を示す役割は彼らで行えそうだ。
そして私は、鎧を纏う遠征人員に、歩離の民全体の戦いのことを話す。そしてその戦場において、私が行いたいことを特に強調して。
彼らの反応はまちまちであった。戦いに進んで付いていこうと語る狼もいれば、ヒスイノを守りたいという者もいる。激化した戦場では、こちらから死人も出るだろう。皆、道半ばで死にたくはないのだ。
鎧の戦士たちが、口々に自身の置きたい立場を言った。
「俺はついていきますぜ。進んで殺しにはいかないにしても、戦えはする。狼の戦いに加わって、もし死ぬとしてもそれは名誉なことだ。」
「わたしは守りに徹します。狼の皆と違って、わたしは鎧が無ければ致命傷を負ってしまいますから。」
「自分は…皆を救出したいです。同族の狐が大勢死ぬのは嫌だ。ついていきます。」
守りが七割、戦いに行く者が三割に分かれる結果となった。人間はほぼ守りに徹することになり、狼と狐族の半数は戦いに向かう。私は再度話す。これは私の意思であることを。
「これは緑翠猟群の意思ではなく、私個人の戦いだ。だから緑の鎧はなく、代わりに黒染めの鎧となる。だがこの戦いでの名誉は、戦士の内でずっと語り継ぐこととしよう。」
私は青丘の地に向かう前に、暗い闇のごとき外骨格を、指定した人数分作ってほしいと研究員に伝えた。大規模な抗争は始まりかけている。帰ってきたらすぐに戦いに出なくてはならない。
私は人員を引き連れ、青丘の地に向かった。
航海は順調に進んだ。私と戦闘要員によって、遭遇したスウォームの群れを砕き、器獣に残骸を詰め込んでいく。保存するための巨大な箱からも漏れ出る蟲の匂いがひどいため、ところどころで人員を入れ替えながら星海を渡った。
一月程度が経ち、文明の陰が見え隠れする星群が現れる。どの星も無人であるが、度重なる内戦の跡らしきものが風化した建造物に刻まれている。その星群の中に、一際目立つ星があった。外側から見ても一部が赤く染まっており、星全体が脈を打っているようだ。私は、その赤い部分の縁に器獣を降ろすよう指示した。
星の環境は、とてつもなく豊かに見えた。赤を一部摂った花や木が一面に生え、動物たちも自由気ままに駆けている。歩離の民が直面した、人口爆発、生態系の崩壊、内戦がまるで無かったかのように。その豊かさの源は、目の前にあった。
赤泉。名の通り赤く、どろりとした血のような水が対岸が見えないほどに広がっている。私は遠い故郷の様子に目を絶えず動かしている中、手でその水を掬い口に含んでみた。
甘い。肉の塩味と強い苦味のみしか生涯感じてこなかった私にも、この未知の味が甘さだと分かった。赤泉の水は私の全身に行き渡るような感覚をもたらし、飢えを満たした。
共に来た人員も、少しずつ水に触れ口に含む。彼らの瞳には喜びがあった。
私は興奮のやまぬ皆に対して、大きな目的を果たすことを伝えた。狼たちはそれぞれの役回りに立ち、祈りを捧げる。
「赤泉よ…再び我らに力を貸してくれ。」
私は腕を切り落としては生やし、泉に沈めた。狐族の皆が率先して、スウォームの死骸や、食料以外の動物の肉片を落としていく。月狂いで再生能力を伸ばした狼も私に倣い、四肢を削いでいき、限界ぎりぎりになるまでそれを続けた。
私の薄緑に染まった体は絶えず再生し、最終的には私一人が肉を落としていた。体を削ぐたびに、どんどんと体力が削られていく。遺伝子巫術を使う狼も、術の行使に多大な体力を消費している。
成功を祈って狼と狐族が待つ中、赤泉の深部からさざ波が広がった。そして強い光が泉から放たれる。成功だ。私たちは、伝説の再現を確信した。
遺伝子巫術を使う狼の一人が気力を使い果たし、息絶え絶えのまま言った。
「狂风様…向かわれて、ください。猟群の巣父、戦首にさえ認められた狼として。」
「…ああ。行ってくる。」
私は皆に対して頷くと、赤泉に飛び込んだ。
赤泉の中は、不思議なことに息ができた。安心感さえ感じる水中を掻き分け、より深くへと突き進んでいく。
そして私は見つけた。さざ波の発生源、伝説にある「心臓」だ。
しかし、それは紅くなかった。私たちの象徴である緑色。心臓は満月のような丸さもなく、鋭くとがっている。私はそれに、月の満ち欠けを幻視した。三日月だ。
私はそれが二つあることに気が付いた。脈打つどちらもを手で掴み、その一つを呑み込んだ。もう一つは猟群の皆に与えられたものなのだと、私は感じたのだ。
呑み込むと全身が激しく脈打ち、次第に収まる。私の心臓に、月が刺しこみ同期する。深緑の三日月、「欠け月」は私の血潮に混ざり、今一体となった。
欠け月は昇らず、私の元に降臨する。地上から私たちを照らすために。