歩離人は狼の古訓を重んじる。犀犬猟群や白狼猟群といった特殊な群れは別として、彼らに従属させられている狐族は、狼の餌となるか戦争の弾除けになるのみである。この主従は遠い昔、狼と狐が赤泉を飲んだときから変わらず、ただ使い捨てられるしかない。
ただ、奴隷であり外界からの情報を遮断されている狐族の内にも、ひそかに言い伝えられている話がある。楽土を創る、純白の法衣を着た緑翠の群れ。そこに加われば、好きなだけ飯を食べられ、疲れたときは好きなだけ眠れるという。この言い伝えは途切れそうになっても、細い糸で繋ぎ留められ、陥落地の窟慮たちに希望を持たせた。
だから狐族たちは諦めない。狼主たちからどんなに苦しい圧政を受け、道半ばで命が尽きようと、自由を求める心は絶えず胸に宿るのだ。
しかし中にはこの言い伝えを、ただの現実逃避で御伽噺であると信じない狐もいる。そういった彼らは、目に見える自由の象徴を心の支えとした。それは、流れ星を掴む巨人である。
狐たちは同族の幼子に囁く。陥落地から見える星空に、一際目立つ「流れ星」が通ることがある。流れ星は、歩離語で十を数える前に消えてしまっていたが、近年それは星空に長く停止することが多くなった。流れ星の進行方向には決まって大きな人影があり、時折赤みがかった黄色か、深い緑色に煌めくのだと。
あるところ。数ある陥落地の一つで、その新しい物語を聞き、流れ星と巨人に思いを馳せるようになった幼子が、一人また一人と生まれ出た。同じ穴ぐらで育った二人の少女は、自由を求める。狼主の鞭と鎖にいつまでも縛られぬように。
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蝕月猟群。衰退していく古き歩離の中でも未だ大きく、しきたりを忠実に守らんとする群れの一つ。私が生まれ育った群れであり、今も昔もその在り方は変わらない。呼雷という強き巣父を失ってから柔軟性が更になくなり、凶暴性を増している。手段を選ばず、個体数を短期間で増やして、群れの維持を行っているのだ。
蝕月猟群に所属する群れ一つにつき、略奪以外の道を望む狼は一匹いれば良い方である。
陥落地の解放は「抗う者」、深緑の騎士の双方で進めており、仙舟「曜青」との協力関係も確立されてきている。そして今回の活動では、曜青の青丘軍とかち合うこととなった。
陥落地へ次々に青丘軍の船が降りていく。智械黑塔が表情を変えず私に告げる。
「ここにも矢が撃たれるから。この惑星のX20452、Y40531、Z7620の位置に船を配置する。矢の直線軌道上に入らないように、あなたから伝えて。」
「ああ、もちろんだ。それでは行ってくる。」
智械黑塔は既に、深緑の騎士たちへ嵐の撃つ矢の座標を共有している。そのため私が伝えるのは、曜青の軍に対してだ。
古き狼の群れを一掃することは容易いが、それでは嵐の大雑把なやり方と何ら変わらない。私たちが狼と相対するのは狩猟のためではなく、狐族の解放と豊穣の精神を心内に少しでも持つ狼を見つけ出すため。古き猟群が変わらないように、私たちにも変わってはいけない、変えない矜持がある。血に酔わず、民を豊穣と存護の元で育むという生き様が。
私は智械黑塔に小さく手を振ってから、普段から乗船している巨大宇宙船から降りる。幾度も行ってきた、曜青との一時的な協力が始まる。
星の裏側、狼の群れをいかに崩すか作戦を練っている青丘軍に、私は深緑の騎士を連れて近づいた。青丘軍の門衛が私たちを視認すると、検査が行われる。
「検査完了です。増援に来てくださり感謝いたします!」
「これで今回の戦も、死傷者ゼロになってくれそうだ…。」
「ああ、奴らの狼毒はますます強くなっているしな…既存の丹薬だけじゃ体が固まっちまう。」
狐族の兵士は仲間内で呟きながらも、仮拠点の門を開いた。私は会釈すると、曜青の将軍の元へ歩みを進める。
今代の将軍は月御と名乗る女性で、時に慎重に、時に迅雷のごとく兵を動かす強者だ。彼女もまた、混血の狐族で、歩離の民の戦奴であった。
先代の将軍が彼女を救助した時、私はその場に居合わせなかったが、幼い頃の彼女を私は知っている。数十年前、嵐の矢がまだ私を撃とうとしていた時から、彼女は武器を振り戦に出ていた。そして今、月御将軍の武器は弓となり、「忌み物」を射抜くようになった。
白髪で気の強い狐族の女性を見ると、私は師匠の後ろ姿を思い浮かべてしまう。そして曜青の将軍が師匠と同じように、狐族の解放のため先陣を切っていることを想うと、私はどうしても力添えをしたいと願ってしまうのだ。
月御将軍は、厳しい表情で作戦会議を行っている。また月御将軍の傍には、桃色の毛並みをした狐族が立っており、彼女の策に助言をしているようだ。将軍の指示を兵士は受け、戦の準備は慌ただしく進んでいる。
「久しいな月御将軍。私たちも掃討に加わるぞ。」
「狂风…来るとは思わなかった。随分と目がいいじゃない。」
「…将軍、僕はやはり反対です。狼を招き入れるなんて、危険すぎます。」
月御の瞳がこちらを貫き、僅かな驚きを浮かべながら好戦的に笑う。彼女から溢れ出る戦前特有のぎらぎらとした戦意が、私の緊張をほぐす。やはり私は強い意思をたたえた目が好きだ。
月御の横から、桃色の狐が口を挟む。彼は確か、椒丘といったはずだ。細めた目元から黄色い眼光が覗いた。彼は私に対して恐れを抱いているようだ。
月御はゆっくりと首を振り、椒丘に言う。
「彼のどこが危険なの。椒丘、あなたも私のお付きの医士として長い。戦場を渡り、見てきたでしょう?狂风の軍が、こちらの被害を最小限に留めてくれている。」
「どうしてそう割り切れるのですか。あなたは、歩離人に苦しめられてきた。今もそうです!僕は戦場で命を落とす最も足る原因、毒の血が流れるやつらを許容できません…!」
「彼らが、言い伝えの主だから。今日まで生を望めたのは、緑翠の群れの話があったから…。椒丘、いつかきっと分かる。戦場で武器を振るい続けられる兵には、芯となる導きがあるのだと。」
ぐっと握り拳を作り、一旦は月御の言葉を受け入れる椒丘。私は彼に少しだけ言葉をかける。その後、打って変わってじとりとした瞳が月御から私に注がれた。
「椒丘さん、種族によって信用できなくても仕方のないことです。ですが一つだけ覚えておいてください。私たちはより多くを救えるように動いている。医士である貴方たちが、無力感に苛まれないように。」
「…ええ、頭では分かっています。共に戦ってくれている相手に対して、失礼が過ぎました。」
「椒丘、痛感したでしょう。これだけあなたが罵倒しても、彼は苛立ちさえ見せない。狼ではなくて、大きい犬だと思いなさい。」
あんまりな言い分に、私は思わず笑ってしまう。椒丘も口元を扇子で隠したが、緩ませていることは分かる。彼の激情は、強い憎悪から放たれたものではなかったようだ。若干の緊張状態がほぐれ、私は青丘軍と作戦の共有を始めた。
嵐の放つ矢は戦況を変えるが、私たちが拘束装置を使うようになってからは、地に落とされる物ではなくなった。そのため光矢は、合流した仙舟の軍と分けるようになり、結果多くの武具に使われるようになっている。小規模な敵相手には、力を分割した矢だけで十分だ。
仙舟の軍と一部において、帝弓の矢に対する認識は変わりつつある。
月が昇り、嵐の矢が降ると予測される時間。私たちは、古き狼の群れをそれぞれの目的を以て制圧する。
―――――
狐族の少女たちは、顔を見合わせる。二人の視界には、狐族の奴隷の無残な亡骸が映っている。狼主から逃げ出そうとし、哀れにも捕まってしまった同胞だ。
一人の少女が身を震わせながら呟く。同胞の死に恐れと悲しみを感じているのだ。
「本当に今夜にするの…?あいつら気が立ってて、逃げてもすぐに捕まえに来るよ…。」
「大丈夫、流れ星が近くで見えたんだもの。今日こそ巨人が星を掴んで、あたしたちは自由になれる。」
「震えが止まらない…薩蘭、手を握ってくれる?」
薩蘭と呼ばれたもう一人の少女が、友の手をしっかりと握った。青ざめた少女に目を合わせ、力強く言う。
ただ前を見て、走る。死が追い付かない内に。
月が出た。少女たちは狼主の動向を探り、ついに逃走のための準備を整え決行する。
薩蘭が狼主の寝首を掻き、手を血で染める。狼たちの混乱と憤怒の咆哮が、荒れ果てた森全体に響き渡った。まだ体内器官の未熟な幼子は、空を横断する流れ星を、前だけを向いて必死に走る。
「はあはあっ!もう苦しいよ、まだ追ってきてる――?」
「まだいる!だから逃げないと!見て凝梨――巨人の影が目の前にいるよっ!」
「えっ!?ほ、ほんとうだ!はあはあ…でももう、無理だよ…。」
狐族の少女、凝梨は冷たい空気で喉が赤くなり、ぼろぼろの素足が限界を迎える。気づかない内にどんどんと距離が離れていく薩蘭の後ろ姿を見ながら、精神まで締め付けられる思いであった。
歩離人たちに捕まれば念入りに甚振られ、生涯で最も苦しい痛みを受けた上で殺される。焦燥感と追いつかない脚で、凝梨は涙さえ流していた。目の前に自由があるのに、手が届かない。
歩離人の駆ける音が近づいてくる。他の窟慮たち、そして親友の薩蘭に思いを馳せながら、凝梨はついに足を止め目を閉じた。
歩離人の息遣いが聞こえ、残酷な牙が間近に迫る。そのときだった。
凝梨の近くで、どすんと重い音がし地響きが起こる。歩離人の吠え声が次第に小さくなっていく。凝梨は目を開き、後ろを振り返った。
「月を蝕む群れ…略奪を望む狼に、未来は無し!幼子よ、あちらへ向かって走れ!」
凝梨が見たのは、巨大な白であった。風が白いローブをはためかせ、その正体を明らかにする。純白の狼が凝梨を護るように立ち、月光に照らされた斧槍を振るった。
純白の狼が手を振るうたびに高い土壁が出来上がり、荒れた地表に草花が咲く。また、深緑の鎧を着た見知らぬ軍隊がやってきて、歩離人と戦闘を開始する。凝梨は目を擦り、夢ではないことを再確認した。
そして凝梨は気づく。上空に、流れ星を包む巨人がいることを。凝梨は何故か万全になった体で、薩蘭の後を追う。
純白の法衣の主と、巨人。狐の伝承、その二つが私たちを守りに来てくれた。凝梨は熱い涙を月の反射で光らせながら、走り抜いた。
―――――
私は先陣を切り、狼たちに問いかけながら戦う。壁を築き、仲間の体を治癒させ、戦況はこちらが一方的に有利になる。
一部の狼は、私の用いる力に気が付き、声を震わせて叫ぶ。
「き、貴様…もしや薬師様の――!?」
「恐れ、己が内の獣を殺すがいい!」
だが狼たちは降伏することなく、殺戮への道を突き進んだ。この群れにおいて豊穣の道を行ける者はおらず、青丘軍に狩られていく。
私はどんどんと狭まっていく古き歩離の行く末に、寂寥を感じながら支援を行い続ける。この地にも平穏な日々を過ごす原住民がいた。狼たちは、私たちが復興を進める前に惑星を乗っ取り、資源をすべて奪い尽くしたのだ。彼らが故郷に帰れるまでの時間は延びてしまった。私は略奪によって失われる営みに思いを馳せる。
狼の群れがいなくなる頃。散開して狐族の救出に向かっていた、青丘軍と深緑の騎士が私たちの元に戻ってくる。ボロ布に身を包んでいる狐族たちは、空を見上げて歓喜した。
私も空を見上げる。そこには拘束装置を起動させた宇宙船があり、巨大なロボットの手には嵐の矢が握られていた。
その後月御と合流すると、私は信じがたいものを見た。保護された狐族たち、その内に二人の少女がいる。その片方は、私の記憶にある彼女によく似ていた。
「似ている…師匠…。」
目元は少し違うが、顔の造形はそのものだ。最近は親しき者とよく似ている顔に出会ったが、まさかこんな奇跡が起こるなんて。彼女と私には関わりがないというのに、私の目頭にひどく熱がこもる。
月御が隣から言う。朗らかに笑う彼女の名前は、薩蘭というそうだ。戦奴には珍しく、名をつけられている。
「彼女は、曜青で生きたいと言った。もう一人の子――凝梨は、ヒスイノに向かいたいそう。そんなに気になるのなら提案しておくけれど、どうする?」
「…いや、無理強いは良くない。曜青で保護してもらうのがいいだろう。だが月御将軍…また彼女の姿を見たい。少しでいいんだ。元気に成長出来ているか…それだけ知れれば。」
私は月御に頼み込み、保護した狐族の情報をもらえるようにした。混血の狐族の多くは、青丘軍へと入る。薩蘭とその友も加入するのだろうか。どう生きようと、ただ健やかであってほしい。
何十回も行われた曜青との協力の一つ。だが私にとっては、確かな成果であった。私は宇宙船に戻った後、狼の支配から抜け出した狐に生の謳歌があらんことを、静かに祈った。