ギターを持つ手が、震えていた。
《ギターと孤独と蒼い惑星》。
オーディションの時、がむしゃらに腕を動かしていた。私は後藤さんと一緒に、店長さんに「ギター二人、下見すぎ」と注意された。
あの時は、二人一緒に同じことを言われたね。
でも、あの緊張したオーディションすら、本番と比べれば大したことはなかった。観客はいない。審査員の店長さんとPAさん二人だけに聴かせる演奏なんて、今日と比べればなんて軽い緊張だったのだろう。
今日は台風の日。逃げ出したあの日とは違う、正真正銘の初めてのライブ。
場所はライブハウス《STARRY》の中。練習に。ミーティングに。バイトに。今では第二の家のように入り浸るようになった、無機質で華やかさの欠片もない、地下空間。でもどこか心を弾ませることができる場所。なのに、今日は雨の湿気で気持ち悪くて、暗がりが怖くて、静寂がうるさい。
観客は10人いるかもわからない。だからそれぞれの失望がはっきり見える。私たちに襲い掛かる、空気でも、振動でも、風でも、熱でもないエネルギーの塊。それはとてつもなく怖かった。
《ギターと孤独と蒼い惑星》は、失敗した。
《あのバンド》の時。
ギターを持つ手は、震えていたのだろうか。
MCのために握ったマイクが、冷たい。
いつも頼りになるリョウ先輩の顔が、どこか思い詰めている。
伊地知先輩の少し張り詰めたようなMCの促し。それでやっと、私の声は喉から搾り出てきた。
「次の曲も私たちのオリジナル曲でっ……つい先日できたばかりの曲で──」
どこか、他人事のように声は生まれては静寂に消えていく。
応援してくれる後藤さんのファンの二人も、心配気な表情で。
壊れた人形のように声を絞り出して。そうして次は、二曲目を歌わなきゃ。
私に歌えるのだろうか。
たった今、一曲目が失敗したのに。
作詞は後藤さん、作曲はリョウ先輩。そんな二人の頑張りが込められた曲が、私のボーカルでめちゃくちゃになってしまうのだろうか。
緊張して声が震える。まるで後ろにもう一人の私がいるみたいだ。もう一人の自分の脳が、声と、温度と、膝の震えと、生ぬるい空気の会場を理解してしまう。
そう。極度に緊張してしまうと、どうしてか情報は鋭敏に届いてしまうんだ。自分の体が、ぽっかりとなくなったように感じるから。
だからだ。そのギターの音が聴こえたのは。
(──後藤さん?)
MCのマイクなんて気にしないような音は、会場の全員をその元凶に向かわせた。後藤さんは今、猫背になって、ギターを奏でている。
どうしたのだろうと、考える余裕はなかった。奏でる音も会場の雰囲気もまったく違うけど……それでも私の中の“あの日”と情景が重なった。
『へぇー、感動! 後藤さんギター上手いのね!』
自分の教室。隣のクラスからやってきた後藤さん。どうしてか突然ボイパを始めた後藤さん。かと思ったら逃げ出して、廊下の物置スペースでギターを奏でていた後藤さん。
あの時の迷いのない演奏。練習でも、お手本として弾くときはとても上手だった。あの時ち同じ後藤さんが、今。私の隣でギターを奏でている。
ライブ特有の淡い白いスポットライト。そこに機材の埃が混じって、霞のように見える後藤さん。
後藤さんのギターの高鳴りが頂点に達して、そうして不意に、光が消えた。
どうしたのだろうと困惑する間もない。突然、伊地知先輩が、リョウ先輩が、私の背後で激しい演奏を始める。
《あのバンド》が、始まったのだ。
必死になって演奏を始める。十数秒もすれば、すぐにボーカルも始まってしまう。
でも──音が。どうしてか、大好きな先輩たちの音が、甲高く響いて、ほんの少しだけ煩わしくて。
私は、たった“ひとり”に目が離せない。
だから私は、自分の演奏もボーカルも、技術も何もかも気にする余裕なんてなかった。
だから、わからないんだ。
ギターを持つ手は、震えていたのだろうか。
息絶え絶えになっても、ライブはまだ終わらない。
それでも、観客の人たちは、拍手をくれた。
《あのバンド》は、成功した。
私に超能力なんてない。でも、後ろにいる伊地知先輩とリョウ先輩が笑顔でいるのが、当たり前のようにわかる。
「二曲目っ……《あのバンド》、でしたっ!」
そう言って、少しせき込んでしまう。
でも、休んでる暇なんてない。
後藤さんがぎこちなく伊地知先輩に顔を向けて、伊地知先輩は飛び切りの笑顔でサムズアップした。
そう。休んでる暇なんてないんだ。
休みたくなんて、ないんだ。
「じゃあ次、ラストの曲です……!」
このままでいたい。このまま、胸の高ぶりに身を任せていたい。
そうすれば、きっといい演奏ができるから。
最後の曲を奏で始める。《ドッペルゲンガー》を歌い始める。
二曲目を終えて、少しだけ余裕ができた。
だから目を離せないわけじゃない。私は、目を離さないんだ。
隣にいる後藤さんを。
まだ猫背でギターを奏でる、後藤さんを。
《ドッペルゲンガー》。結束バンドの三つ目のオリジナル曲。
最初、作詞に悩んでいたらしい後藤さんは、《ギターと孤独と蒼い惑星》を徹夜で作って以降、暇さえあればノートを出すようになった。私との学校での自主練の時も。
そうして《あのバンド》が、《ドッペルゲンガー》が生まれた。
一つのことにのめり込んでいく後藤さんは、私が知っていた数か月の女の子とは違う気迫があった。
考える。学校でよく見る、奇行が目立って、髪をあげると死んでしまうような後藤さんと。今、私の目の前にいて、雷鳴のように轟く演奏を奏でる後藤さんは。
いったい、どっちが本当の後藤さんなんだろう。
後藤さんから目を離さない。もちろん、初心者らしくコードを確認してギターを奏でる。タイミングを、声の張りを考えて喉を震わせる。
でも、私は目を離さない。緊張している私を見る、背後の私じゃない。ちゃんと、今ここにいる私が目を離さない。
そして納得した。
(ああ、そうか)
どっちも本当なんだろう。ただ、私が感じる後藤さんのイメージが間違っていただけなのかもしれない。
リョウ先輩に憧れて、リョウ先輩を追いかけて、《結束バンド》に入った。
一度逃げた私を迎えてくれる伊地知先輩は優しかった。
後藤さんが、たとえ偶然でも、私を繋ぎとめてくれた。
そうして、今。
私は、その人から目を離さない。
ギターを持つ手は、震える暇なんてどこにもない。
どっちも本当の後藤さんだ。ただ私が勝手に、後藤さんを身近にいる女の子なんだって思っていただけなんだ。
今、後藤さんは《ドッペルゲンガー》を奏でている。いつかの廊下の片隅のように、とても滑らかに、迷いなく。私にとってのリョウ先輩と同じように、輝いている。
そうして、私が見ていた後藤さんのドッペルゲンガーは。今、リョウ先輩と、伊地知先輩の横に並び立って、遠くへ行ってしまった。
(ああ、そうなんだ)
私はまた、ひとりぼっちになった。間違えて多弦ベースを買って、ギターと思っていたそれはうんともすんとも言わなくて、《逃げたギター》になった、あの頃に。
ああ、悔しいな。寂しいな。嬉しいな。
自然と笑ってしまう。普段から周りに合わせようとして作る飛び切りの笑顔じゃない。大好きなものに触れているから出てくる満面の笑顔じゃない。ちょっとぽーっとしてしまって、力が抜けてしまって、でもゆるんだ口元を引き締めることができない。夢の中にいるような、力が抜けた、微笑み。
この時間が楽しくて笑うわけじゃないんだ。
苦しい気持ちを抑えて笑うわけじゃないんだ。
ひとりぼっちになったことが嫌で笑うのでも、後藤さんがリョウ先輩と同じくらい輝くのが嬉しいから笑うのでもないんだ。
違うんだ。違うんだよ。
人に合わせるのが得意で、リョウ先輩を追いかけて出しゃばったとたんに失敗してしまった、特別ななにかになれない私が、今。
目指す道を、見つけたんだよ。
だから、汗を流して、体は火照って。
流し目で貴女を見ながら決めたんだ。私なんかを見やしないで、ギターだけを見ている貴女を見て、決めたんだ。
ドッペルゲンガーは行った。
ねえ、もっと、遠くに行ってよ。
私が届かなくなるくらい、星になるくらいに、遠くに行ってよ。
私の目指す道の、先の先まで。
その後ろで、支えられるように、なりたいから。
Xでも話題の喜多ちゃんの恍惚とした笑顔を見て、私は喜多ちゃんに惚れました。