紅莉栖は、目の前のホワイトボードと槙島聖護の表情を交互に見つめながら、心の中で様々な感情が交錯していた。彼女は今、自分がこれまで築いてきた信念と科学者としての使命感、そして槙島に対する微かな依存心の狭間に立っていた。彼の言葉は論理的で、確かに筋が通っているように感じられる。それでも、何かが違う。それを強く感じていた。
「紅莉栖君、君がここまで成し遂げた成果は素晴らしい。君自身がそのことを一番よく理解しているはずだ。だからこそ、君にはこの力を手にする権利がある。」槙島は、まるで紅莉栖の心を包み込むように語りかけた。
だが、紅莉栖は心の中である確信に辿り着きつつあった。槙島がどれだけ彼女を知的に支えてくれたとしても、彼の目的が倫理的に正しいとは思えなかった。そして彼が「世界を正す」という言葉を使う度に、その裏には危険なほどの自己中心的な思想が隠されているように感じられた。
「でも、私は…」紅莉栖は、声が震えるのを感じながら続けた。「私は自分の手でこの力を使いたくない。時間を操作するということがどれほど危険なことか、今なら分かるわ。どれだけ理論が完璧でも、それはただの学術的な成果であって、世界を変えるための道具じゃない。」
彼女の言葉は、槙島にとって予想外のものだったかもしれない。彼は一瞬表情を動かしたが、すぐに再び穏やかな笑顔を浮かべた。「君がそのように考えるのも理解できる。科学者としての責任感が強い君だからこそ、その倫理的な悩みを抱えるのだろう。でも、紅莉栖君、君の手にあるこの力を放棄してしまうのは本当に正しい選択なのか?」
「正しいかどうかは分からない。でも、私は自分の意志で決めたいの。あなたに影響されるのではなくて、私自身の力で…」
紅莉栖は槙島の目をしっかりと見つめながら、はっきりとした声で言った。その瞬間、自分の中で何かが吹っ切れたような感覚があった。彼女は初めて、完全に自分の意志で選択をしたのだ。
槙島はその言葉を聞いて、しばらくの間黙っていた。しかし、彼の目には依然として冷静な輝きが宿っていた。「そうか、君がその道を選ぶのならば、僕はそれを尊重しよう。ただ、覚えておいてほしい。君が選んだ選択が、今後どのような結果をもたらすかは、君自身が背負うことになる。」
「それでいいわ。私は自分の責任で、この力を封じる。どれだけ優れた理論でも、時間を超える力なんて、人間が持つべきじゃない。」
紅莉栖は決意を固め、槙島の元から一歩後退した。その場の空気が急に冷たく感じられる。彼女は自らが選んだ道の先に待っているものが何であれ、自分で受け止める覚悟をしていた。
「そうか。ならば君は、僕とは別の道を歩むことになるのだろう。」槙島は、少し残念そうに微笑んだ。「だが、覚えておいてほしい。人間の意志は、時間の流れに抗うことができると信じる者にしか理解できない。いつか、君がそのことを再び考える時が来るかもしれない。」
その言葉には、どこか意味深な響きがあったが、紅莉栖はそれに対して何も答えなかった。ただ静かに頷き、自分の研究資料をまとめ始めた。彼女はもう、槙島と共にこの研究を進めることはできない。自分一人で、タイムマシン理論を封じ込めるための道を模索するしかないのだ。
槙島はそんな彼女をじっと見つめた後、静かにドアの方に向かいながら最後に一言残した。
「紅莉栖君、君の選択が正しいことを祈るよ。」
その言葉と共に、槙島は静かに研究室を去っていった。紅莉栖はしばらくその背中を見送っていたが、再び深呼吸をして自分を落ち着けた。槙島が去った後、彼女は静寂の中で立ち尽くし、考え続けた。
---
紅莉栖は、その後、槙島の助けなしで自らのタイムマシン理論を封じ込めるために取り組み続けた。彼女は一度手にした時間を超える力を、誰もが手にすることができないように厳重に管理することを決意した。彼女の研究は、次第に公にされることなく、個人の中に秘められたものとなった。
しかし、彼女の心の中にはまだ一抹の不安が残っていた。槙島が語ったように、彼女の選択が正しかったのかどうか、その答えはまだ出ていない。時間を超える力は恐ろしいものであり、同時に魅力的でもある。だが、彼女は今の自分がその力を使うべきではないと信じていた。
やがて、紅莉栖は新たな目標に向かって進み始めた。タイムマシンの研究から手を引き、自分の知識と才能を別の分野で生かすことに決めたのだ。彼女の未来は、まだ未知の領域に広がっている。
そして、ある日、未来ガジェット研究所という奇妙な場所から、一通の招待が届いた――それが、彼女を新たな物語へと導く一歩となることを、紅莉栖はまだ知らなかった。
---
これが彼女が選んだ1つの選択です。