浦和の桜吹雪   作:Simca Ⅴ

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 今回は番外編です。
 前々から書き溜めていたものを今回整理して出してみました。
 本編はまた近日中にお出しするのでお待ちください。

 また、歴史の講釈、及び改変要素が含まれているので、退屈とか不愉快に感じられた場合にはブラウザバックを推奨します。

 ちなみに、こちらで描かれている歴史は、筆者が設定及び世界観の一部をお借りしている本家様、及び公式とは関係がございませんので、ご了承くださいますようお願いいたします。

※2025年8月16日追記……アンケートを設置しました


番外編「黒松家の歴史」※後書きにおまけ有り⭐︎

黒松家の歴史

 ハルノウラワなど多数の重賞馬を所有する「ハグロ牧場」。

 その代表取締役こそが、揚羽 梓・美鶴親子と共にクロススキッパーの共同馬主でもある黒松義隆という男性。

 黒松宗家の当代当主でもある彼の一族、即ち、「黒松家」について今回語ろうと思う。

 

 その宗家当主について、義隆は五代目である。

 

 遡ると初代当主は、戦前から戦後の混乱期を生き延びた黒松万丈(ばんじょう)(1900〜1973)であり、その後、二代目の黒松重源(ちょうげん)(1934〜2001)、三代目の黒松義三(よしぞう)(1963〜)、四代目の義安(よしやす)(1958〜2023)、そして現当主の五代目、義隆(よしたか)(1969〜)へと受け継がれている。

 

 驚くことに、この一家の当主に当たる人物というのは、代々九州の黒松牧場の牧場主が務めるのが慣わしになっていた。

 (ただし、2000年代以降、つまり、五代目当主・義隆の代以降では少し話が変わってくる。理由は後述する)

 これは万丈が、「何があっても牧場を潰すな」という遺言と、「黒松家の始まりは牧場にあり」という黒松家独特の信念に基づいている。

 

 そんな黒松家の直系の先祖は、意外な人物に辿り着く。

 

浅井休政(やすまさ)

 話は戦国時代にまで遡る。

 西暦にして1570年。

 この前後に起きた出来事といえば、この3年前に織田信長は美濃の斎藤氏を滅ぼして、尾張と美濃の二ヶ国を統べる戦国大名となり、翌年、京への上洛を果たし、足利義昭を室町幕府第15代将軍に就任させた。

 しかし、足利義昭は信長と対立を深めていき、後の信長包囲網に繋がっていったが……その経緯についてはこの話ではあまり重要ではないので、割愛させていただく。

 

 信長は、上洛の際に呼応しなかった大名の内、朝倉義景の討伐のため、1570年4月、越前国への進撃を開始。

 この朝倉家討伐に異議を唱えたのが、この時、近江を統べていた浅井家だった。

 しかしその一方で浅井家の当主であった浅井長政は、織田信長の妹である、お市の方と婚姻し、義兄弟の関係を構築していた。

 

 この朝倉討伐が原因で、浅井家が織田軍をいわゆる「金ヶ崎の退き口」で窮地に陥らせることになるのだが、驚くべきことに、ここで信長を救ったのは……何と、浅井長政とその家老であった遠藤尚経らだった。

 そして、長政は、浅井家が幽閉から解放した父の久政に乗っ取られた事実を信長に告げて釈明したとされ(諸説あり)、家老たちと、妻のお市、嫡男万福丸らを信長に託し、自身は父による裏切りの後始末のため、織田軍撤退の殿(しんがり)を任された木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)らと肩を並べて、浅井久政の追撃軍と戦った。

 残念ながらこの戦いで浅井長政は命を落とすが、その際の奮戦ぶりを、生き延びた秀吉が信長に語ったことにより、久政討伐後も浅井家の存続は許されることとなった。

 

 時は流れ、1580年。

 浅井長政の嫡男万福丸は信長、及び秀吉に仕えて16歳の元服を迎えていた。

 万福丸は実父・長政の死後、秀吉の奉公となり、やがて万福丸と秀吉は親子のような関係を築いていったことから、彼は生涯に渡り、秀吉を父のように慕っていた。

 そのため、元服時には秀吉の名から一字を賜り、「浅井(あざい)吉政(よしまさ)」を名乗ることになる。

 浅井吉政は父由縁の北近江の地に当初は居城を構えていたのだが、秀吉による天下統一後は、九州の中津城に家族を住まわせ、自身は太閤豊臣秀吉の元で仕えていた。

 この頃に、吉政は茶人として後世にも知られる千利休とも出会い、彼の思想に触れたことが、彼の人生を変え、後に戦国武将であり茶人としても後世にその名を残すことになるきっかけを与えた。

 さらに、それが千利休の人生の明暗すらも分けることになる。

 秀吉と利休の仲はあまり良くなく、むしろ、秀吉の側が利休を疎ましく思っていたのは、歴史に残った多数の資料からも散見される事実であろう。

 そんなことがあったために、ある時、秀吉は利休を処刑しようとしたが、吉政は秀吉に利休の助命を強く嘆願した。結果、その命を取り下げさせるが、これにより太閤秀吉は機嫌を損ねて、吉政を自身から遠ざけてしまったという。

 吉政は失意のまま、自身の居城がある中津城へと利休を連れ帰って住まわせた。

 ただし、秀吉も吉政も、親子のような関係を築いてきたこともあり情も切り難く、1年ほどで和解したらしい。

 

 ところが、太閤秀吉が病に倒れてしまい、吉政は同時期多忙を極めていたらしく、その死に目に間に合わず、これが一生の後悔として残った。

 秀吉が病死した後、吉政は利休から一字を賜り、「浅井休吉(やすよし)」を名乗った。

 

 ここで、秀吉の後継は休吉になり得たのだが、休吉は上記の経緯と、後述の関係性故から一足早く後継者争いから離脱し、浅井家は、その後対立する徳川家と豊臣家に対して中立を保とうと奮闘した。

 

 その後、関ヶ原の戦いが幕を開け、中津に本家を移していた浅井家の中でも西軍と東軍に参陣した家臣たちが数人いた中で、休吉自身は彼らを中津浅井家から遠ざけた。ちなみに、休吉自身も実は石田三成からの参陣要請を悩みつつも拒否していた。

 一番大きな理由としては、関ヶ原の戦いが勃発する1週間前、利休が落馬して昏睡状態に陥ったことが挙げられる。

 利休は生死の境を彷徨っており、休吉は「恩師の傍にいなければならない」、「実父の死に目(自身がまだ幼い頃の合戦の中で命を落とした)に、太閤の死に目(育ての父でもあった秀吉公)にも間に合わなかったというのに、恩師の死まで間に合わないなど許されていいものか!」と、怒りと悲しみの混じった返答の書にそう記していた。

 (これ以外にも諸説あり、休吉は秀吉の側室であり妹だった浅井茶々(淀殿として知られている)と仲が悪かったとされており、甥に当たる秀頼と対立していた、などの逸話がある)

 

 一旦は利休も意識が回復したが、その後、容体が急変(現代の研究では、落馬の際に出来た頭の傷が原因でくも膜下出血を起こした説が有力)。

 そして、関ヶ原で石田三成が討死したのと同じ頃。休吉の居城中津城にて、千利休は亡くなった。78歳だったという。

 

 徳川家康は1603年に征夷大将軍の地位を賜り、江戸幕府を開くと、休吉は東軍側に着いた家臣らを含む数人と共に江戸へと赴き、家康らに茶を振る舞ったという。

 この際に、休吉は(名目上だが)豊臣陣営からの離脱と家康への翻意がないことを示すため、「浅井休政」(読みは「やすまさ」とも、「きゅうせい」とも言われている)に改名し、元服した息子に当主の座を譲り、息子の名も、征夷大将軍・徳川家康の名を賜って「家政(いえまさ)」とした。

 

 休政はその後、1642年9月18日(旧暦では8月18日)、家族に看取られながらこの世を去った。

 奇しくも、彼が心の師匠として仰いでいた利休と同じく78歳で没したという。また、休政が亡くなった日は秀吉の命日でもあった。

 

 その後、浅井家が歴史に明確な名を残したのは江戸時代の初期頃までであるが、近代史にてその末裔が徐々に姿を表すことになる。

 

黒松家と黒松万丈

 明治時代の後期。

 後に九州の豪族として名を馳せることになる黒松という家系が鹿児島にて登場する(黒松宗家)。

 この黒松家こそが浅井長政、浅井休政らの血を引く直系の子孫であるが、明確に「黒松一家」として勃興していくのは明治末期から昭和時代の頃からである。

 1900年。鹿児島県鹿児島郡中郡宇村大字宇宿(現在の「鹿児島市宇宿町」)にて黒松万丈(ばんじょう)は、その地で農場主をしていた黒松政義の四男として生を受けた。

 彼が生まれた当時の黒松家は主に鹿児島湾で隔たれた大隅と薩摩の地でそれぞれ農業(薩摩黒松家)と畜産(大隅黒松家)の牧場経営を行なっていたが、1914年に政義一家が経営していた薩摩側の農場が火山噴火の影響を受け、後々廃場を余儀なくされた(桜島の大正大噴火)。

 政義らは火山噴火が収まり、1924年に薩摩の黒松農場の土地を売却すると、大隅黒松牧場に居を移し、ここが後に「黒松牧場」となる。

 

 桜島の大噴火が起きた時の万丈は14歳であり、農場経営が危機的状況に陥った挙句に廃場と土地の売却を経験したことから、そもそも農業と畜産業だけでは食っていけなくなることを幼い頃から危惧した万丈は猛勉強の末に九州帝国大学に入学。実家で家族・兄弟たちと農業を手伝う傍ら、税理士・公認会計士を目指した。

 後に、万丈は税理士・公認会計士の資格を得て、福岡に居を構えて結婚し、税理士事務所を開業。これが後に黒松家を九州全域で一番影響力を持つ一族へと成長させる足掛かりになった。

 

 しかし、この時、世界は大恐慌の時代を迎え、日本にもその影響が波及しつつあった。

 やがて、日本は太平洋戦争の戦火へと包まれ、それは九州の地も例外なく襲われた。

 

 戦後、日本中の都市圏が空襲によりほぼ焼け野原となる。福岡にあった黒松万丈の税理士事務所と家族の住まいも例外なく焼けてしまったが、幸いにも彼は家族と従業員たちと共に実家の黒松牧場へと疎開していたため、彼の家族や従業員たちには人的損失は無く、万丈は戦後の事業再開を何とか行なえたという。

 黒松万丈はその後、畜産と農業により九州一帯の飢えを満たすことに心血を注いだため、福岡の税理士事務所は息子の三兄弟(玄英(げんえい)重源(ちょうげん)大河(たいが))に継がせることにした。(ちなみに、黒松万丈の子は5男1女であり、玄英・重源・大河はそれぞれ三男四男五男である。長兄は1925年生まれの「政飛(まさとび)」、次兄は1929年生まれの「馬義*1」であるが、政飛は1945年の太平洋戦争末期に特攻隊に志願して戦死、馬義は戦前に養子に出されて以降、音信不通となっている)

 

黒松玄英・重源・大河の三兄弟

 1962年。

 この年に鹿児島では「本州最南端にある競馬場(当時)」として知られていた鹿屋競馬場が廃場となり、図らずもこの出来事が黒松家が日本競馬界に参入するきっかけを産むことになった。

 後に二代目当主になる重源と、その兄・玄英(1932〜2022)は幼い頃から競馬に慣れ親しんでいたのだが、実家の最も近くにあった鹿屋競馬場の廃場には、生涯に渡って後悔の念が残ったという(なお、鹿屋競馬場が廃場した当時、まだ玄英は30歳、重源は28歳の若者に過ぎなかった)。

 重源はこの翌年に妻と共に福岡から鹿児島に戻っており、いよいよ力仕事に難を感じた万丈の牧場運営を手伝い、その傍らで、牧場の経費見直しと削減に注力し、経営基盤を盤石なものにしていった。

 

 一方で兄の玄英は家を先祖ゆかりの地である中津に新居を構え、福岡の税理士事務所の運営を大河に(一旦は)一任し、自身は中津の市長選に出馬した。

 市長選では1967年の選挙より4回立候補するも3回落選してその度に税理士に復帰したが、1979年の選挙で漸く中津市長となる。玄英はその後、4期16年の長期に渡って中津市長を務めることになり、中津競馬場の運営にも特に深く関わっていく。これが後々、中津競馬場の運命すらも変えていくことになるとは、本人たち以外は誰もが夢にも思わなかったかもしれない。

 

 万丈の末息子である大河(1935〜2016)はそのまま生涯に渡って福岡の税理士事務所を運営していき、やがては日本全国にその税理士事務所を広げていく足掛かりを作った。

 

 また、黒松家は九州限定ながらも不動産業も手掛けることになる。これは、万丈の兄、三畳(さんじょう)(1896〜1970)の一家が起業したものであった。

 

 このように、多角経営によって財を得た二代目・重源の時代には、「九州一帯でその名を知らぬ者が居ない」と言わしめるほどに一家の影響力を拡大させ、万丈の子孫の何人かは政治家になり、後述する義三(よしぞう)は国会議員、後には日本国首相(2018〜2026)にまで上り詰めている。なお、義三の息子の一人である義忠(よしただ)は騎手となっている。

 

二代目・古今亭朝次

 そんな一家の中にもはみ出し者がいる。

 その筆頭が落語家である二代目・古今亭(ここんてい)朝次(ちょうじ)こと、黒松朝次(あさつぐ)(1954〜)である。

 朝次は三畳の次男として生まれるが、父の不動産業や叔父の税理士としての仕事に自分の運命を感じなかった彼は、高校卒業を期に上京。叔父の玄英たちと同じく税理士事務所を経営する親戚の家(大河の妹・春子(1939〜)と、その夫である中川幸夫(1930〜2024))に居候して東京大学を受験する。

 一度落ちて浪人となるが、彼の落ち込みぶりを見かねた中川夫妻が、ある日、落語の寄席に朝次を誘った。

 これがきっかけで、朝次は落語家を志すことになり、改めて落語研究会がある青山学院大学を受験して合格する。

 実は同校の落語研究会のOBには後々、六代目・三遊亭円楽となる三遊亭楽太郎(当時)がおり、時には学業そっちのけ(最終的には留年せずに済んでるが)で彼の師匠である五代目・三遊亭圓楽の落語を研究し、教えを乞うこともあったという。

 そんな後輩の熱意に押された若き日の楽太郎は、彼に自身の師匠らが行なう落語協会の講演に誘った*2

 この時に高座に上がっていた落語家たちの中で、朝次にとって一際輝いて見えたのが、あの三代目・古今亭志ん朝だったという。

 1977年。朝次は大学を卒業してすぐに志ん朝に弟子入りすると、志ん朝は朝次が()()黒松家の出自であることに因み、所縁のある地である鹿児島から一字を取り、「古今亭(ここんてい)朝鹿(ちょうか)」と命名した。この時、朝次こと朝鹿は23歳だった。

 

 その後はひたすらに志ん朝師匠や兄弟子である古今亭朝太(後の古今亭志ん輔)たちと共に落語の学びに没頭する日々を送るが、翌年、九代目・桂文治が亡くなると、彼の弟子だった桂文太(後の七代目・桂才賀)が志ん朝の門下に移籍してきた。この時偶然にも桂文太は芸名を「古今亭朝次(ちょうじ)」に改名したのだが、朝鹿自身の本名と字が同じ(読みは違うが)ということにシンパシーを感じ、これが縁で二人は親しくなる。

 

 また、三遊亭若圓遊(後の五代目・三遊亭圓遊)とは古くからの飲み仲間であり、初対面ではお互いに落語家だと気付かなかった。

 

 1983年の春頃、三遊亭朝三(後の四代目・三遊亭圓之助)、三遊亭吉窓、金原亭駒之助(後の金原亭生駒)、柳家小満女(後の柳家一九)、古今亭菊正(後の古今亭菊輔)と共に二ツ目に昇進した。

 三遊亭朝三とは生涯の友になり、後に弟子についての悩みを告白し、これが後に五代目・三遊亭小圓遊の誕生に繋がる。

 1990年には真打ちに昇進した。三遊亭朝三改め三遊亭圓之助の真打ち昇進に遅れること2年7ヶ月だったという。

 この際に兄弟子でもあった七代目・桂才賀が以前名乗っていた「古今亭朝次」を襲名、二代目・古今亭朝次となり、現在に至る。

 

 ちなみに、1992年、二回ほど欠席した三遊亭九楽に代わり、『笑点』に出演。これを皮切りに、その後も度々笑点に顔を出すようになる。

 2016年から17年。五代目司会者だった桂詩丸勇退に伴い回答者席に空白が出来たことから、番組プロデューサーのアイディアで週替わり*3に様々な落語家を出演させてみることになる。

 その中で古今亭朝次と、彼の元弟子である五代目・三遊亭小圓遊も出演し、また、1988年の降板以来、29年ぶりに七代目・桂才賀も2017年1月の特番において、師弟大喜利に出演を果たしている。なお、この時に弟子役の席に座ったのが他ならぬ二代目・古今亭朝次であり、それに対する六代目・三遊亭円楽らのツッコミから始まり、ネット(主にニコニコ動画やYouTubeの動画サイトなど)では「レギュレーション違反だろ!?」と言われて大いに盛り上がった。

 

 主な演目として、後述するナコウトケストレルを題材にした「飛翔馬娘」がある。

 

黒松牧場による競走馬生産の始まり 〜ナコウト冠の登場〜

 ここで、黒松本家の話に戻る。

 1973年、黒松家の礎を築いた万丈が息を引き取った。73歳だった。

 それ以降、1980年代後半までは重源が二代目当主として黒松宗家を率いることになるのだが、彼こそが兄の玄英と共に黒松牧場をサラブレッド生産のオーナーブリーダーとして勃興した張本人である。

 

 戦後、万丈は数年を掛けて福岡での税理士事務所の業務を戦前と同じぐらいの水準まで立て直すと、自身の息子たちである三兄弟の何れかに事業を引き継がせるため、世代交代することにし、自身は黒松牧場に戻ることにした。

 これに、長男の玄英と、次男の重源は応じて、2人とも27歳までに税理士と公認会計士の資格を得ていた。

 そして、1962年には、玄英は父の事業を本格的に引き継ぐ段階にまで至っており、重源は玄英の右腕として活動していた。

 そんな風にデスクワーク漬けであった2人も、たまの休みに実家に戻れば、父の万丈やその家族を手伝って牧場で働くことも多かった。

 福岡に戻れば税理士として忙しく働き、実家に戻れば牧場での力仕事、そのような日々の繰り返しだった彼らだが、実家近くの鹿屋競馬場で開催される競馬に楽しみを見出し、やがて「いずれは黒松牧場から優秀な競走馬を輩出してみたい」という野望を抱くようになっていった。

 

鹿屋競馬場の廃場と置き土産 〜ナコウトアリソン〜

 1962年。

 この年に起きた出来事といえば、経営不振が原因で鹿屋競馬場が廃場になったことである。

 戦後から70年代に掛けての時代、日本各地に点在していた地方競馬場はその多くが廃場に追い込まれており、鹿屋もその一つになった。

 だが、その鹿屋競馬場に足繁く通っていた黒松兄弟にとっては耐え難い出来事であり、前述の2人の野望に拍車をかける事態になった。

 

 ただし、当時の地方競馬場のいくつかは今の形態と異なり、厩舎が併設されていないものもあった。

 鹿屋はこれに該当しており、競馬開催日に競走をしていた馬たちの出所はというと、実はそのほとんどが宮崎競馬場所属だったことを知る。

 居ても立ってもいられず、2人は宮崎まで繰り出してその馬を見に行くのだが、そこである牧場を経営していた馬主が事業に失敗して廃業することを知り、その馬を買い取ることに決めた。また、その馬を世話していた厩務員数人も黒松牧場に雇い入れることになり、ついに黒松牧場でのサラブレッド生産が始まることになった。当然、独断での行動で父親の万丈からは大目玉を喰らうのだが、2人が買い取ってきた馬たちは何故か重源たちよりも万丈に懐いたため、その馬たちの行動に免じて兄弟を結局は許したらしい(なお玄英は「命を救ったのは俺たちなのに……」とぼやいていたという証言が残っていて、本人もその発言を認めていた)。

 その時に引き取った馬から生まれたのが、浦和競馬場にて1966年にデビューしたナコウトアリソンであった*4

 「アリソン」という名前は、1940年代に主にアメリカで使われていたレシプロエンジンに因む。

 

 また、黒松兄弟が考案した「ナコウト」という冠名は、万丈の生誕地である中郡宇村(おりむら)に因み、それを構成していた中村(なかむら)郡元村(こおりもとむら)宇宿村(うすきむら)の頭文字をそれぞれ取って作ったものであり、「ト」は「人」を意味し、つまり、「ナコウト」とは、「中郡宇村(なかこおりうむら)(ひと)」ということになる。

 この冠名は2000年代に入りハグロ牧場が誕生し、九州の旧黒松牧場が逆さ合併の末に「第二次メジロ牧場」としてスタートした後も、ハグロ牧場産の馬のほとんどに受け継がれて使われ続けている。

 

 ナコウトアリソンは1964年産の牝馬であり、1966年にデビュー後、浦和競馬場で1970年まで現役だった。

 その家系はなんと父母(つまり父方の祖母)にクリフジ、母父にセントライトという夢のような配合であったが、肝心の競走成績はパッとしなかった。

 しかし、このナコウトアリソンが強烈な成績を残すのは繁殖牝馬になってからである。

 

ナコウトケストレルの軌跡

 1973年、ナコウトアリソンはこの時点で既に二頭産み出していたが、両方とも残念ながら死産だった。この年、最後のチャンスとして種付け相手に選ばれたのは、1966年まで中央競馬に在籍し、引退後、黒松牧場に買われたコウタローという馬だった*5*6

 この父・コウタロー、母・ナコウトアリソンという配合で産まれたのがナコウトアリソンの1974(牝)であり、これが1976年、黒松兄弟が満を辞して、黒松牧場産の「ナコウトケストレル」として初めて中央に送り出された競走馬になった。

 「ケストレル」とは「チョウゲンボウ」のことであるが、実は重源の名の由来も同じくチョウゲンボウから来ていた。

 ナコウトケストレルは1976年の7月中に新馬戦を無事に勝ち抜き、翌月の小倉3歳ステークス*7も勝利した。

 しかし、3戦目の府中3歳ステークス*8にて、後に「伝説の怪物」とまで称されるようになるマルゼンスキーとぶち当たった。

 最終的に10馬身以上の大差を付けられての惨敗を生で見せつけられた重源と玄英の兄弟は顔面蒼白で心が折れそうになったという。

 それでも諦めずに次走を阪神3歳ステークス*9に定めて、ここでナコウトケストレルは2着に対して10馬身差以上をつける逃げ切り勝ちを決めてみせて、レコードを記録した。

 その強い勝ち方から牝馬三冠ではなく、クラシック三冠の皐月賞へと舵を切るのだが、マルゼンスキーは外国馬故に皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞への参加が認められなかった。

 この状況に怒ったのは誰か。実は意外なことに、玄英が最も怒っていた。

 府中での惨敗で心が折れそうになった黒松兄弟であったが、ナコウトケストレルの一番の仮想敵と見定めていたマルゼンスキーがいざクラシックに不在という状況も彼らにとっては全くつまらなかった……今でこそ黒松家は日本競馬界に絶大な影響を誇る存在になっているが、ナコウトケストレルを中央に送り出した当時の彼らは、片や田舎者の牧場主で、片や政治家になり損なった税理士というコンビの新米馬主に過ぎず、彼らが激怒したところで何も変化を起こせなかった。

 しかし、ナコウトケストレルが1948年のヒデヒカリ以来29年ぶりとなる牝馬による皐月賞勝利を飾ると、ここで玄英と重源は、「ちょっとした逆襲」を思いつく。

 皐月賞をトウショウボーイとの接戦の末に勝利したナコウトケストレルであるが、陣営は次走を優先出走権のある「日本ダービー」ではなく、マルゼンスキーが出走する「日本短波賞」へと進路を変更したのだ。

 今でこそG3の格が与えられた「ラジオNIKKEI賞」として知られている同競走であるが、当時は日本ダービーに敗れた馬や、日本ダービーに出走権がない外国産馬の出走が許された「残念ダービー」と称されていた黒歴史苦い歴史が存在する。

 日本ダービーへの出走を蹴ってまでマルゼンスキーとの勝負に固執する黒松兄弟の決定を冷ややかな目で見る者もいたが、JRAはスター不在の日本ダービーが盛り上がらないことを危惧して再三に渡ってナコウトケストレルの日本ダービーへの出走を黒松兄弟に打診したものの、玄英と重源の提示した条件は一貫していた。

 即ち、「日本ダービーにマルゼンスキーを出走させろ。それが通らないなら応じることはできない」との返答だった。

 結局のところ、マルゼンスキーの日本ダービーへの出走が叶わなかったが、代わりに日本短波賞にてナコウトケストレルとの頂上決戦が催されることとなり、しかもJRAが危惧した通り、この年の日本短波賞の観客動員数は日本ダービーを僅かながら上回ってしまっていた。

 当然、同レースの一番人気はマルゼンスキー、二番人気はナコウトケストレル、この二頭が人気を文字通り二分していた。

 そして肝心のレース結果であるが、1着のマルゼンスキーに対して、ナコウトケストレルは必死に追い縋るものの、ハナ差の2着で敗北という結果に終わった。さらに悪いことに競走後、ナコウトケストレルは右後ろ脚の骨にヒビが入っていることが判明した。

 予後不良こそ免れたが、ナコウトケストレルは長期の療養による離脱を余儀なくされ、一部からは批判的な意見も取り沙汰された。

 しかし、圧倒的な実力を誇った「怪物」に真っ向から立ち向かい、惜敗にまで持ち込んだナコウトケストレルと黒松兄弟の心意気は世間の人々の心を掴むことに成功し、当時の日本の馬産関係者に「外国産馬>日本馬」という力関係を覆す活力と希望を与えることになった。

 ところが、このナコウトケストレルの長期療養中に、マルゼンスキーは札幌で開催された短距離ステークスを勝利した後、調教中に埒に激突した事故で屈腱炎を発症してしまう。マルゼンスキー陣営は年内の目標を有馬記念に定めて懸命にリハビリを行なったものの、結局は有馬記念を前にして屈腱炎が再発してしまい、引退を余儀なくされた。

 これはマルゼンスキーとの再戦を願っていたナコウトケストレル陣営にとって、大きな喪失感を抱く出来事だったことは言うまでもないことであったが、翌年に入るまでに何とか気持ちを切り替え、4月に開催された小倉大賞典を勝利する。

 続く日本経済賞*10に出走するものの、菊花賞馬グリーングラスの4着で終わる。

 その後、8月28日開催の小倉記念に出走。ここでナコウトケストレルはマルゼンスキーを彷彿とさせる大逃げを披露し、2着馬から最終的に5馬身差まで詰め寄られたものの無事に勝利する。

 これでナコウトケストレルは小倉3歳ステークスも合わせて、小倉での重賞で三冠を飾ったことになる(同年の北九州記念は小倉記念の2週間前に開催していたため、ナコウトケストレルの脚への負担を考慮して出走しなかった)*11

 しかし、黒松兄弟は、宿敵を失った上に、ナコウトケストレルの競走能力が限界に達していることに気付く。

 一応は年末の有馬記念を終えて引退する計画で調教を重ねるが、有馬記念への出走を1週間前に控えて中山競馬場で最終調整を行なっていた段階で、以前完治したはずの右後脚で痛みが再発。

 検査の結果、屈腱炎を発症していたことが判明し、これ以上の現役続行に限界を感じた黒松兄弟は、ナコウトケストレルの引退を決断した。

 1977年の有馬記念。そこには“怪物”マルゼンスキーも、それに粘り強く立ち向かった“蛮勇”ナコウトケストレルの姿もないままだったが、テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスらTTGトリオたちが1着、2着、3着を独占する、いわゆる「TTG対決」が見る者たちを唸らせた。

 そして、彼らの激闘を讃えるかのようにその後ナコウトケストレルの引退式が執り行われることになったのだが、そこには故障した脚を治療したマルゼンスキーの姿もあり、かつて激闘を演じたライバルたちは二頭同時の引退式となった。

 

 生涯戦績は9戦6勝。

 今の基準で言えば、ナコウトケストレルはG1を2〜3勝、G3を2勝したことになるが、当時の日本競馬にはグレード制が存在しなかったこと、小倉記念がG1になるのが改修後の2018年であることなどから、単純な比較が出来ない。

 

 ただし、牝馬ながらタフな走りを見せたナコウトケストレルについて、後世の評論家たちは「初代女傑」、もしくは「女勇者」という異名を与えた。

 

 ナコウトケストレルは骨折を完治させた後、1979年に繁殖入りし、マルゼンスキーとの間に3頭の産駒が生まれることになる。

 それぞれが「ナコウトフューリー(1980年産)」、「ナコウトデモン(1981年産)」、「ナコウトファントム(1983年産)」であった。

 この内、初年度産駒のナコウトフューリーは中京競馬場でデビューするも、中央での成績は未勝利戦を勝利するもイマイチ振るわず、4歳期(現・3歳期)の半ばで浦和に移籍する。結果的に生涯成績は39戦9勝に留まった。

 一方、ナコウトデモンとナコウトファントムは、あの著名な三冠馬たちとの対決を余儀なくされた。

 ナコウトデモンの場合は同期にシンボリルドルフとその一歳上世代のミスターシービー、牝馬のナコウトファントムの場合はメジロラモーヌが、それぞれ巨大な壁として立ち塞がったのである。……ただ、彼ら彼女らの激闘を語り続けると切りが無くなるので、大変申し訳ないが、この場では割愛させていただきたい。

 

頻発した当主交代 〜ゴーアレディ活躍の裏で〜

 1980年代から90年代に掛けて、黒松牧場産の馬たちは九州の競馬場や福山競馬場などにも姿を表すようになっていくが、それらの馬たちの中でも、最も頭角を現した競走馬の一頭がゴーアレディであった。

 後にゴーアレディと名付けられる「ハギノトップレディの1993」は、父にアメリカ二冠馬のイージーゴア、母にハギノトップレディという良血馬であった。

 黒松兄弟は新しい血が黒松牧場に必要と感じ、セリに出されたこの牝馬を買い取ったのだが、その後の戦績は別の項で語っているので、そちらを参照願いたい。

 

 ゴーアレディは北から南まで、当時サラブレッド系の競走が存在した競馬場を練り歩いて走る「地方巡業」を繰り広げており、重源はゴーアレディを孫娘のように可愛がってもいたのだが、その裏では、黒松牧場は後継者問題で揺れていた。

 「揺れていた」と表現はするが、別段、黒松家は兄弟同士・近縁の親戚同士で仲が悪いわけではなかった。だが、ゴーアレディが生まれた当時、重源はいよいよ還暦に迫っていた。

 

三代目当主・義三

 重源は40代の頃から、自分の息子、ないしは玄英や大河の子に黒松牧場を継がせたかったのだが、いかんせん、牧場も畜産から競走馬生産まで手広く展開していたために管理が複雑化しており、跡を継ぎたがる者が中々現れなかった。

 そんな時、当時16歳だった義三(よしぞう)が後継者に名乗りを上げた。1963年生まれの義三は玄英の次男坊(ちなみに玄英の三人目の子なので「義三」)であり、後述する義安の弟にあたる。

 しかし、玄英と重源は「(牧場を継ぐことには嬉しいと思いつつも)大学を卒業してからにしなさい」と口を揃えて言ったため、彼は渋々、従兄弟・朝次の後を追うようにして青山学院大学の経済学部に入学。ここで経営のノウハウを学び、卒業後は重源を手伝い、25歳で次期当主の有力候補に躍り出た。有力候補とはいえ、競合する相手がいなかったし、このまま順調に行けば、義三は間違いなく黒松牧場の牧場主になるに違いない、そう誰もが思っていた矢先に、事件が起きた。

 

黒松義安に降りかかった悲劇と、四代目当主継承

 玄英の長男、義安(よしやす)(1958〜2023)は、結局は父の後を継いで政治家になることを決意するのだが、高校時代は従兄弟の朝次と弟の義三が居を借りた中川家で義安も世話になり、都内の工業高校に通学していた。

 義安は、その傍らで様々な資格試験を受けていた。高校生時代の義安を知る元クラスメイトによると、「必ず月一回は何らかの資格試験を受けていた」と証言もある。

 結果、彼は工業高校在学中に、税理士、第一種電気工事士、溶接など複数の資格を獲得して卒業し、附属の大学も卒業した。大学時代は校舎が埼玉県宮代町にあったことから偶に浦和まで足を運び、20歳の誕生日には友人たちを誘い、大学をサボって浦和の桜花賞を見に行ったことすらある*12

 しかし、様々な資格を取得しても、義安にはどの仕事にもやり甲斐を感じなかったため、大学卒業後に鹿児島へと戻り、25歳で鹿児島で県議員になった。

 1987年。義安は29歳の時、国鉄大隅線廃止を阻止し、そのまま大隅線が国鉄から移管したJRに引き継がれるまでを見守るという大仕事をこなしていた。

 しかし、これで無理が祟ったためか、義安は1993年、35歳という若さで心臓発作を起こした。幸いにして彼は発作を起こしてたったの5分で病院に担ぎ込まれて後遺症もなく一命を取り留めたが、県議会での討論は心臓と精神に負荷が掛かると医師に警告されたため、政界を引退することになった。

 そこから紆余曲折あり、最終的には義三が政界へと進出し、義安は代わりに義三が管理していた牧場を引き継ぎ、四代目当主になる。

 当初は後継ぎの代理という印象が強かった義安であるが、結局のところ、義隆が正式に五代目当主になる2007年までの実に14年間、黒松家を率いていた。

 義三は、1990年には名実ともに黒松牧場の代表者兼黒松家の三代目当主に着いていたがたった4年でその座を退いたため、つまり、1990年代だけで黒松家では当主の交代が2回起きていたことになる。

 また、世間ではバブル崩壊による景気悪化で暗い雰囲気が漂っており、まさに黒松家にとっては波乱の時代であった。

 

中津競馬場と黒松義三の大仕事

 そのバブル崩壊が日本の経済に与えたダメージは大きく、その後、()()()()2()0()()と呼ばれる暗い時代を招いた。

 当然、その影響は日本競馬界にも波及し、地方競馬場も幾つかが廃場に追い込まれた(上山競馬場、益田競馬場、三条競馬場、北見競馬場など)。

 西日本でも高知競馬や福山競馬、そして、中津競馬も不景気の煽りを受けて赤字に転落する経営状態に陥り、廃止か否かの議論が活発に行なわれていた。

 1990年代初期に中津の市長だったのがあの玄英であるが、1995年に市長を任期満了で退職。その後任になったのが、義三だった。

 義三は後に日本国首相・内閣総理大臣にまで上り詰め、汚職議員の追放、国民投票の義務化、反日思想の日本国内での厳罰化、及び中国共産党のシンパの国外追放と日本国籍剥奪など、徹底した国会の大掃除を敢行して「苛烈の義三」とまで称されることになるのだが、そんな彼の政治家としての第一歩は中津競馬場の存続であった。

 当時、様々な問題を抱えて赤字経営を余儀なくされていた中津競馬場について、市民の間では存続か廃止かで世論が二分していた。

 しかし、「金で解決できるなら(存続を)やったろうじゃないか!」と、若き日の義三は存続反対派の議員たちに啖呵を切り、なんと、自身の私財を投げ打ってまで、中津競馬場の存続に力を入れた。しかも、その大金の出所も税金ではなく、黒松グループのポケットマネーから支払っていた*13

 重源はこの騒動の最中、2001年に心臓発作でこの世を去ってしまうが、玄英と生前の重源にとって、「鹿屋競馬場の二の舞にはさせない」という強い思い故に、前述の発言はあれども投資を惜しまなかった*14

 

 さて、肝心の中津競馬場はその後、確かに存続して現在では佐賀・荒尾と並び、九州地方競馬組合を形成する一角として君臨しているのだが、2000年に入った頃の中津競馬場の老朽化問題については義三も、父の玄英も、叔父の重源ですら視察した際に無視できない問題であることを認識した。

 加えて、中津競馬場は最寄駅にJR九州の中津・東中津の両駅が存在して交通の弁も悪くは無いことは認識したものの、当時の状態では観客を呼び込むのには厳しい環境であることを認めざるを得なかった。

 厄介なことは折角、中津競馬場を存続させる足掛かりを作ったというのに、打開策を中々思いつかなかった点だった。

 だが、ある日、重源の長男である義澄(1963年生まれ・義隆の兄)は、JR九州の路線図と九州の地図を見ていて思いついたことを義三と玄英に提案した。

 それは中津の立地と鉄道網を、宮崎にあるJRAの育成牧場から小倉競馬場までの中間地点、並びに荒尾や佐賀とも円滑に競走馬の輸送及び宿泊地として活用する案であり、中津競馬場のコースを活用して「中津トレーニングセンター」を作ることであった(なお、新たに内回りコースと新しい外回りコースが設けられ、内回りと旧外回りコースは芝コースに改修、新外回りコースがダートコースになっている)。

 

 その案を早速実行に移した義三と中津市は、2001年3月末から2003年初旬までの間、中津競馬場を閉場とした。

 この間、中津競馬組合は所属馬たちの移転先もじっくりと煮詰める時間を得て、一部は黒松牧場が買い取る形で命を繋いだ競走馬たちもいた(ヤマノシルエットなど)。

 また、中津競馬場のトレセン化改修にJRAとNARの全面的な了承を得たことも、その後の速やかな中津トレセンの建設に寄与した。

 さらに、土地買収についても、黒松三畳の家系である浜畑一家が経営する不動産会社が動いたことで、迅速かつ穏便に、中津トレセン周りの整備が進んで行った。

 そして、2003年4月。中津競馬場改め中津トレーニングセンターが開業した。

 大分県、及び中津市からの投資が全体の6割を占め、残りはNARとJRAが共同出資し、運営資金自体は黒松グループが出していた。

 早速、この中津トレセンは夏場の小倉開催において、宮崎や小倉に収容しきれない競走馬たちの宿泊地として機能することになり、2003年の小倉記念は17頭立て、北九州記念は16頭立てという片や雨での大混戦、片やG2かと思わせる錚々たる面々が揃い、2003年の小倉記念はネオユニヴァースゼンノロブロイとイーストウインドの三頭が出揃っての叩き合いの末、ゼンノロブロイが勝利を飾ることになった。

 しかも、この三頭は小倉開催時に中津トレセンの厩舎で寝泊まりしていたのである。

 

 それから4年後の2007年度(平成19年度)より、中津競馬場での競走が復活した。

 同年のJBC三競走(スプリント・クラシック・ステイヤーズ)*15では、それまでの中津では考えられないほどに観客が訪れ、改修時に新たに創設した収容人数15000人のスタンドが見事に埋まっていた。

 また、改修前はフルゲートで10頭立てだったところを改修により16頭立てでのレースも可能となり、ダートG1級の交流重賞の開催も可能となった。

 なお、中津競馬再開の折に行なわれたセレモニーでは、前市長であった黒松玄英の名で、競走馬ゴーアレディと、彼女に寄り添う老厩務員(重源がモデル)の銅像が寄贈され、正門奥の広場に飾られている。

 

 この中津競馬場の存在と、九州地方競馬組合の存続は、その後の日本の競馬史により大きな影響を与えることになる。

 

 2011年、東日本大震災により、福島競馬場や盛岡競馬場などが被災した。

 中山競馬場、及び船橋競馬場など多数の競馬場で競走が実施できない状況下で、代行開催の地に小倉競馬場の他、中津競馬場も選ばれ、小倉で捌ききれない競走を芝・ダートコースを備えている中津開催で代行することになった他、中央のダート競走の一部がこの年限りであるが荒尾と佐賀で代行開催されることになり、九州地方競馬組合の最高売り上げ記録を更新した。

 

 また、2015年より小倉競馬場の大改修工事が実施され、15年と16年は小倉大賞典、小倉記念、及び北九州記念などの小倉の重賞レースを中津競馬場で開催した。

 この小倉競馬場の大改修の結果、2017年より小倉記念はG2、2018年よりG1への昇格に成功している。

 

五代目当主・義隆

 さて、2001年の時点では、九州の黒松牧場を義安が引き継いで彼が四代目代表になっていたが、では義隆はどこにいたのかというと、彼は東京に上京し、兄の義澄(よしずみ)(1963〜)と共に税理士・会計事務所を運営していた。

 そして、彼ら兄弟が運営する会計事務所の顧客の一つが、宮崎雄馬が2001年まで社長を勤めていた宮崎商事であった。

 彼らの出会いは実に偶然であり、とある居酒屋に飲みに行った両者が相席することになった際、競走馬の話題が出たこと、雄馬が早川牧場の買収を考えていることなどが親交を深めるきっかけになった。

 それがやがて、早川牧場の経営再建、及び運営という大仕事を共にこなすことになることを両者は直感したという。

 2001年9月11日に雄馬がユナイテッド93便に乗り合わせてハイジャック犯に殺害された(なお、同便はその雄馬の行動に奮起した乗客らによってハイジャック犯たちが撃退され、乗客の操縦によって無事ワシントンに着陸し、ハイジャック犯1名と同機のパイロット2人、及び、雄馬以外に犠牲者が出ずに済んだ)ため、一時は早川牧場の売却も検討されたものの、宮崎商事の社長の地位を継承した揚羽 梓やその娘の美鶴、及び、秘書の大川明美らの尽力と懇願もあって、2003年には牧場の経営再建が完了。

 また、同年に義隆が梓にプロポーズしたことで、2004年より開設した牧場の名前が、揚羽の「羽」と黒松の「黒」を互いに取って、「ハグロ牧場」に改名された。

 以後、義隆がこのハグロ牧場の代表兼牧場長になり、馬主業も始めることになる。

 

 2007年、義隆が黒松家の五代目当主となる。

 

 2011年、北海道のメジロ牧場が破産した際には、そのスタッフらの他、メジロ牧場の四代目代表らを黒松牧場とハグロ牧場が招き入れて、四代目代表が九州の黒松牧場に拠点を移すことを決めたため、ここで「第二次メジロ牧場」として再スタートを切った。

 

 それ以来、ハグロとメジロの競走馬たちは中央でも地方でも活躍し、中には世界でG1を獲る馬たちも現れ、その栄華は現在でも続いている。

 

*1
読みは「うまよし」か「まよし」かはハッキリしていない

*2
この時期の正確な月日は本人たちも覚えていないが、1975年より前の話であることは確実であり、当時はまだ三遊亭圓生と五代目・三遊亭圓楽らが落語協会からの離脱・分裂、及び五代目円楽一門会が結成される前だった

*3
厳密には、笑点は一度に二回分を収録しているので二週分

*4
1960年代当時の地方競馬場は特に大阪から先の西日本はアラブ馬による競走がほとんどを占めていた。それを知らなかった黒松兄弟は、当初、ナコウトアリソンを中津競馬場でデビューさせようとした、という逸話が残っている。

*5
『走れ!ウマ娘』の原曲である『走れ!コウタロー』の題材になったとされる馬

*6
なお、コウタローの父はイギリスから輸入され日本で種牡馬として成功したとされるヒンドスタンである。

*7
ナコウトケストレルやマルゼンスキーが3歳馬(現表記では2歳馬に当たる)だった頃の1976年当時はまだ格付けがOPだった。G3に格付けされるのは1981年から。

*8
今でいう「東京スポーツ杯2歳ステークス」の前身

*9
今でいう「阪神ジュベナイルフィリーズ」の前身。1990年までは3歳(現2歳)の牡牝混合戦だったが、1991年より牝馬限定戦に条件が変更されて現在に至る。

*10
現在の「日経賞(G2)」の前身。現在は3月後半の開催だが、当時は6月末から7月の初旬に行なわれていた。

*11
ただし、この前年にはミヤジマレンゴが中二週で北九州記念と小倉記念に出走して両方とも勝利している例もある。

*12
本人は勝利馬がシヤドウだったことを覚えているので、1979年4月10日開催の第25回桜花賞と推測される。

*13
尤も、「これではポケットではなくテントを買うに等しい」と玄英か重源も発言している額であった。

*14
ちなみに、これが後年の国会においては「中津騒動」と呼ばれ、(2008年の「ハグロフォルゴーレの10億円事件」も絡んで)義三が糾弾されそうになる出来事だったが、義三自身はこの中津騒動の自身の行ないを(金銭面で無理した以外は)悔いたことはなく、むしろ「良い仕事をした」とまで語っている。さらに、糾弾されても2週間足らずで、この中津騒動に関連する領収書などを挟んだ古びたノートを義三自身が国会に提出したことから比較的早く騒動が鎮火した。

*15
当時はまだレディスクラシックが無かった




 まさか、グラスワンダーが亡くなるなんて、しかも、アスクビクターモアの命日に……。

 しかし、残念ながらグラスワンダー主役の良い話が特に思いつかなかったので、今回これを投下することにしました。

 また今回の話を進める上でpixivにてmiz様よりアドバイスをいただきまして、この場でお礼をさせていただきます。

おまけ
 ◎ナコウトアリソン(ウマ娘)

【挿絵表示】

 ◎ナコウトケストレル(ウマ娘)

【挿絵表示】

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