終わりと始まりのプロローグ
――『キセキの世代』。
今となっては神格化されているその名は、中学バスケットボール界で最強と謳われた帝光中学校の中でも頂点に立ち、『十年に一人の天才』と呼ばれた天才プレイヤー達のことを指し示している。
選ばれたのは五人の天才プレイヤー達。
誰もが他者を寄せ付けない圧倒的な実力を持っており、才能を誇っていた。そして彼らはその力を大いに発揮し、全国中学校体育大会において三連覇という歴史に残る偉業をなしとげた。
……だが、そんな彼らの活躍中に影となってチームを支えてきた選手の存在はそれほど知られていない。
一人は運動神経に恵まれないものの、主将である赤司にその能力を見出され、『幻の
そしてもう一人。キセキの世代に認められたもう一人の選手がいた。……いや、もっと正確に言えば、かつては彼らと共に『キセキの世代』と呼ばれていた、かつての栄光を失ったプレイヤー。
天才のために頂点の座を奪われながらも、それでも挫折することなくバスケの道を貫いた男。
選手交代時には真っ先にその名を呼ばれ、時にはキセキの世代よりも長くコートに立ち続けた不屈の闘将……。
その男を、
「――――ふうっ」
太陽はすでに地平線のかなたに沈み、街灯による人工の光だけが周囲をほんのりと明るく照らしている。昼間の人気もなくなり周囲は静寂を保っている中、一人の学生がとある川の土手で横になっていた。
何か思いにふけっていたのだろうか、銀髪の少年は一つため息を漏らすと綺麗に輝いている夜の空を静かに見つめる。星を見つめるその姿は少しばかり寂しげでどこか脆さが感じられた。しかしそれを本人が気づくことはないだろう。
「……やはり、ここにいたのか」
「……なんだ、赤司か。やっぱりお前には何でもお見通しってわけか」
少年の頭のほうから声がかかる。
振り返らなくてもその声の主が誰なのかは理解できた。常に部活で聞いているのだから聞き間違えるわけがない。彼のチームメイトでもあり
どんなことでも知っているような男に少年はどこか諦めたような口調で話している。
「当たり前だろう。これくらいのことはすぐにわかるさ。僕と君が一体何年の付き合いだと思っているんだ?」
「たった三年だけだろうに……」
「それでも、他人を熟知するには十分な時間だよ」
それに答える赤司の答えは落ち着いていた。
たった三年。共に戦ったのはそれだけの時間だ。長いと言えば長いし、短いと言えば短い。人によって感じ方は様々であろう。
しかし赤司という男にとっては目の前の男について知るには長すぎる時間だった。その余った時間で彼について余計な思考をしてしまうほどに。
「そのようなことはいい。それよりも決まったのか、お前が進む高校は?」
「そうなんだよな~。……それが悩みどころなんだよな~……」
はぁ、と少年は再び盛大にため息を吐いた。一体今の間にどれだけ幸せが逃げたことだろうか。
彼も赤司も今や中学三年生。懐かしい輝きもすでに昔の思い出となっている。彼らが所属しているバスケ部も中学校生活最後の大会が終わり、あとは進学先となる高校を決めることが学生である彼らの最大の目標である。
すでに目の前にいる赤司をはじめとして、帝光中学校バスケ部のレギュラー達はスポーツ推薦による高校進学が決まっている。目の前の少年も今までの活躍からして推薦を受けることはそう難しいことではない。
しかし……
「なにせ
「……あそこか。大輝の進学先に決まったから仕方がないといえば仕方がない話ではあるが。……向こうの監督もなかなかどうして贅沢だな。チーム方針のために、お前ほどの人材を
「俺もまさか落とされるとは思っていなかったからねぇ。まあ桐皇もバスケの成績自体はまだたいしたことないし」
答える声はどうも頼りなく、明るさは感じられない。
今回彼が第一に進学先と考えていた高校、
桐皇学園は東京都にある中堅校なのだが、最近スカウトに力を入れている高校であり、近々頭角を現すであろうと予測されている。現に今年は帝光中学から最強選手と言われている青峰が進学が決まっている。
少年もその高校への進学を希望したのだが……如何せんそのチーム方針と彼の性格・プレイスタイルが合わないだろうということ、そして桐皇学園がまだバスケ部の成績が芳しくないということでバスケの推薦枠が青峰で手一杯となってしまったのだ。ここでこの少年まで取ってしまえば校内だけでなく他校からの批判も多くなるだろう。
「ではどうするんだ? それでもお前は、桃井と同じ高校に行きたいんだろう?」
「……そうなんだよ! そうなんだけど……でもっ」
「でも?」
「たしかに学力でも問題はないだろうけど、一度落とされたところにもう一度入るってのも気乗りしないっていうか。……それに、こんなことになって桃井さんにも顔を会わせづらい」
「なるほどな。たしかに一理ある。お前のような男ならばなおさら、な」
彼は決して頭は悪くない。むしろ帝光の中では上位に食い込むほうだ。バスケ部の中でも赤司・緑間・桃井と言った成績上位者達に肩を並べるほど学力でも力を発揮している。
それゆえに一般試験を受けても無事に入学できるくらいの成績は残すだろう。桃井が彼女の幼馴染である青峰と同じ高校に通うと聞いたため、桃井と同じ学校にいたい彼は何としても桐皇学園へ進学したい。……だがしかし、一度チーム方針の面から除外された部活にもう一度入るというのも気が引けるし、桐皇学園側とて対応に困ることだろう。入れたところでまともに試合に出れるかわからないという危険性もある。そして何よりも彼の想い人に何と伝えればいいのかわからないというのが心境だった。
桃井という女性の名前を出しただけでここまで取り乱している同僚の姿を見て、どこか面白く感じたのか赤司はうっすらと笑みを浮かべた。
「ならば一体どうするつもりだ? 我ら帝光が誇る『神速』はどこに向かって吹いて行く?」
「その呼び方はやめてくれよ、こんな時くらいはさ。……
「大仁多高校か。たしか今年の
「ああ、そこであっているよ。……ってか、さすが赤司だな。情報網が広いことで」
少年を二つ名で呼ぶ赤司。少し照れるように答えた少年の言葉は苦悩の色で満ちていた。
赤司の情報量に素直に感心するものの、赤司は「それほど大したことでもない」と言う。しかし普段の生活から考えてそれほどではないはずがないということは誰しもが知っていることだ。当然それを知っている少年はどこか諦めたような口調で返した。
――『
栃木県にあるバスケの強豪校である。赤司の言うとおり、今年の
「ならば迷うことはないだろう。お前が本当にバスケをしたいのならば、お前をより必要としている高校に行けばいい」
「……それは俺だって十分わかっている。だけど、」
「これでもお前の気持ちは理解しているつもりだ。それでもそれがベストな判断だ。桃井への恩義と好意に応えたいだろうが、それはこれから先いくらでも機会はあるだろう。桃井とも別に会えなくなるわけではない。だが、今のこの決断は今しか出来ないことだ。
……それに、バスケを続けるならば今の大輝にはお前は近づかないほうがいいだろう。彼と考えが似通う高校にもな」
「……」
赤司の正論に言葉が詰まる。青峰の今の姿、そして過去の記憶を思いだして少年は歯を食いしばった。
バスケがしたい。それは偽りのない本音だ。だがしかし、桃井と一緒の高校にいたいという気持ちもまた本当だ。だからこそこうして迷っている。どちらか一つしか選べない、そしてどちらがより自分に向いているのか。……それもすでに分かっている。それでも、どうしても迷ってしまうのだ。
「――要。お前はもう一度僕達と同じ場所に立つと言っただろう? その約束はまだ果たされていない。ならば、お前が選ぶ道はただ一つなんじゃないか?」
「……わかったよ、キャプテン」
要と呼ばれた少年はゆっくりとその場から立ち上がる。
突如強烈な夜風が吹き、彼の銀髪がゆれる。
風が吹き止んだころ、閉ざされていた彼の瞳が開き……彼の瞳からは迷いが消えた。
……二年だ。二年間彼は栄光を失っても腐る事無くここまでバスケを続けてきた。だからこそ、今からは天へ上るときだ。群雄割拠ならば丁度いい。それでこそ自分の力で這い上がったと言える。
「帝光中学バスケ部、
高らかに誓いの言葉を告げたのは『神速』と謳われた少年、
かつて仲間と共にはるか高みに立ちながら、現れた天才のためにその座を失った選手。
今一度栄光をつかむために。――白瀧はただ一人、新たな道を突き進む。かつて共に戦ったチームメイト達と、そして彼の想い人とはまた違った道を。……たとえその道が修羅の道だとしても。たとえその先に待っているのが明るい未来ではなかったとしても。
「……ならば次に会うときは、敵同士だな。悪いがそのときはたとえお前であろうとも倒させてもらうぞ」
「それはこちらの台詞だよ赤司。そのときこそ俺は、お前達『キセキの世代』に勝つ!」
お互いの気持ちはもう伝えあった。これ以上語る事はない。その必要はない。それはコートで語ることになるのだから。戦うことでしかわかりあえないことだから。
ゴツン、とお互いの拳をぶつけて二人の影は交錯する。きっとこれが仲間として拳を合わせる最後の機会なのだろうと、白瀧は考えた。
最後に赤司に向かって一礼すると、白瀧は身を翻し全速力でその場から走り去る。まるで試合の時のようなあの速さには誰も追いつけないだろう。それは赤司も例外ではない。その白瀧の背中を見て、赤司は安堵した。
これが、このときこそが『キセキの世代』と呼ばれた男達が、真にそれぞれの道を歩み始めた瞬間だった。
「赤司……」
「見ていたのか、真太郎」
白瀧と別れた赤司は帰り際、背丈の高い眼鏡をかけた緑色の髪の男子生徒――緑間真太郎と出会った。自分と肩を並べることができる数少ない人間の一人だ。
どうやら白瀧との会話は全て見られていたらしい。緑間は赤司に連れ添う形になりながら彼に尋ねた。
「白瀧に大仁多高校に進学するように薦めたのだな?」
「ああ。要のことを考えればそれがベストだと考えたからな。
それに、僕達『キセキの世代』は全員が同じ立場からはじめたほうがよいだろう」
「お前は青峰と白瀧が並び立つことを警戒したのか?」
『キセキの世代』。たとえ一人でも加入したならばどれだけ弱小校でも一気にトップクラスの実力になる。最強といわれる青峰と白瀧が組んだのならば、それは最大の脅威になるに違いない。
赤司はそれを警戒して白瀧に大仁多に行くよう薦めたのだと緑間は考えた。
「警戒? 僕がか? まさか。そんなわけがないだろう。理由は先ほども言ったとおりだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……そう、か」
しかしその考えは違うと緑間はすぐに理解することになった。
一瞬放たれた凄まじき威圧感に緑間は押されて緑間はそれ以上は何も言わなかった。
間違いない。赤司は青峰と白瀧が自分の脅威になるなど考えていない。最初から自分の勝利を確実なものだとそう確信しているのだから。
「だが……」
「む?」
そこで赤司は一度言葉を区切る。
不審に思った緑間が赤司の表情を覗き込む。そして彼が見たのは、冷たく何の温情もない、冷徹な仮面であった。
「もしもこれで這い上がれなかったというのならば、所詮はその程度の器だったということだ。僕があの男について語ることはもはや二度となくなるだろうな」
「ッ……!」
きっと赤司は何の価値もないものだと、一蹴するのだろう。
どこにでもいる平凡な人間と同様に。今まで共に戦ってきた、チームを支えてきたはずの白瀧でさえも。
「道は示された。後は要がこちらまで歩んでこれるか。それとも阻まれるか。全ては彼しだいだ」
もう己が白瀧にとやかくいうことはないのだと、赤司は自ら彼に手出しすることをやめた。
「……やつは必ず来るのだよ」
もう話す事はないという態度の赤司だが、そんな彼に緑間は言う。
彼は信じている。白瀧の力を。彼が必ずもう一度這い上がってくるということを。
「ほう。真太郎、お前には確信があるのか? それとも『キセキの世代』の中ではお前が最も要と親しかったからこその、同情か?」
「同情などではない。そして確信もあるわけではない。ただあいつが俺に誓ったからだ」
――きっといつか必ず追いついてみせる。必ずもう一度コートに帰る。
――きっと、すぐに追いつくから……! もう一度、お前達と、共に……必ず!!
緑間の脳内にある記憶が蘇る。白瀧が失意の中で誓った、力強い言葉を。
「……そうかい」
赤司も重大であるということを察したのか、それ以上は問わず岐路に着いた。
「ならば僕も見届けさせてもらうとしよう。
白瀧要。はたして彼が僕達の場所まで元まで戻ってこられるのか、その行く末を」
赤司本人も気付いていなかったが、その時赤司は笑みを浮かべていた。不敵ともとれるそれは、王者の余裕。
白瀧が目指す場所は、打倒する相手は遥か高みに存在しているのだと、そう示しているようだった。
――――
足が軽い。調子が絶好調の時のように。……いや違う。今までよりも、ずっと。まるで自分の身体ではないような感覚さえ覚える。
迷いがなくなったからなのか、やるべきことが明白になったからなのか。……とにかく、今が清々しくさえも感じる。今まで悩んでいたことが馬鹿らしくさえ思える。
誰もいない夜道を一人疾走する。明かりも少ないし、何も知らないものが見れば、人が通り過ぎたということにさえ気づかないかもしれない。それだけ俺も全速力で走っていた。
とにかく急がなければならない。何せ時間が時間だ。たしかこの時間くらいまでは彼女はいつも友達と図書館で受験勉強をしているはずだが、もうすぐ彼女も家に帰ってしまうかもしれない。できればその前に、今日のうちに話しておきたい。誰よりも真っ先に、彼女にこのことは伝えておきたかった。
スピードを落として曲がり角を曲がり、人がいないことを確認するとさらにスピードを上げる。……上げようとして、その先にお目当ての女性がいることを確認して俺は彼女の名前を呼んだ。
「――桃井、さん!」
「え? ……白ちゃん? どうしたの、そんなに走ったりして……」
「急にすみません。ちょっと、今日中に伝えたいことが、あって……」
彼女――
俺もすぐ目の前まで歩いて向かい合った。
『白ちゃん』という彼女独特の愛称も今となっては呼ばれることは恥ずかしくない。それどころか心地よくすら感じた。俺は乱れた息を整えながら、彼女に対して口を開いた。
「桃井さん、俺は今日決めました。俺は、桐皇学園には、行かない。行けない。……ッ。大仁多高校に、進学する!」
彼女の目の前だとどうしても決心が揺らぐ。……だが、ここで選択を間違えてはいけない。
俺はたしかに、彼女に向かって敵対宣言をした。あなたと同じ道を歩くことはできないと。
別に桃井さんのことを嫌いになったわけではない。彼女への恩を忘れたわけではない。それでも、俺はこの道を選ぶしかない。
「大仁多高校。……たしか、栃木県の強豪校だね」
「はい」
「……それじゃあ試合で会う時は、今度は違うベンチだね」
「……はい」
赤司の時とほとんど同じ会話であるはずなのに、それなのに先ほどのように胸が高まるのではなく、逆に胸が締め付けられる。桃井さんの寂しげな表情を見るのが苦しい。
桃井さんと青峰、二人と同じ高校に通いたかった、彼女にもそう伝えてあった。……だからだろう、桃井さんはまた一人仲間が減ってしまったと感じたのだろう。彼女に余計な喪失感を覚えさせることになってしまった。その事実が、俺の胸を鋭くえぐる。
「桃井さんは桐皇学園への進学に決めたんですよね?」
「うん。他にも行きたい高校とかはあるけど。……今の青峰君を、一人にするわけにはいかないからさ……」
「……そうだな、その通りだ」
彼女の表情があの男の名前が出た途端に曇った。それだけあいつの存在は桃井さんの中ではかなりの大きさとなっているのだろう。
――青峰大輝、桃井さんの幼馴染。俺が共に戦ったチームメイトの一人。キセキの世代の中で最も変わってしまった、孤高の天才プレイヤー。帝光が誇る最強の選手。
たしかに今の青峰を一人にすることは危険だ。何をしでかすかわからない危険性がある。
桃井さんも青峰のことは何とも思っていないと昔言っていたが、やはり幼馴染として感じることがあるのだろう。そんなあいつが羨ましい。桃井さんの中で『特別』な存在でいられるあいつが、羨ましい。
「俺は、スタメンから外されてしまったようなやつだ。そんな俺が言うのもなんだけど……」
「うん? 何?」
「必ずまた、俺も昔のように、皆と同じようにコートに立てるようにする。そして……青峰と黒子と皆と、また一緒に笑ってバスケができるようにしてみせる」
「……ッ」
桃井さんの表情から寂しさが消え、驚愕の色へと変わる。
俺だって自分がどれだけでかいことを言っているのかは理解している。……それでも、もう俺は決めたんだ。二年前のあの時に、彼女の言葉に救われた時から、もう一度皆と共に戦うと。もう諦めることはしないと。
「だから、待っていてください」
「うん。……また皆一緒に、バスケしようね!」
「……はい!」
最後にはお互い笑顔で別れた。さすがに対戦する時はこういうことは無理だろうけれど、それでもいつか皆で集まって昔のように笑えればいい、そう俺は思った。
こういうときに何か告白の一つでもすれば良かったのかもしれない。……でも、先ほどの桃井さんの寂しげな表情を見て、その気は完全に失せた。バスケのことしか出てこないのは俺がそういう男だからなのか、それともそれでしか彼女とは向かい合えないからなのだろうか。今の俺にはわからない。
何はともあれ……俺と桃井さんは、ここで進む道が重なることはなかった。一つの些細な約束をして、俺達は正反対の方向へと歩いて行った。きっと次に会うのはしばらく先のことなんだろうと、俺は感じた。
――――
この時白瀧が感じたように、この先白瀧と桃井が会う事はなかった。
その後、白瀧はスカウトを受けて推薦で大仁多高校への進学を。それからしばらくして桃井は一般受験で桐皇学園への進学を確定した。幼馴染、青峰の姿を追うように。無事に彼女が合格したことを知った白瀧は嬉しそうに、だがどこか寂しそうに笑っていたという。彼も『ひょっとしたら』というあるはずのない淡い可能性を信じていたのかもしれない。
他の『キセキの世代』もそれぞれ別の強豪校へと進むことが決定し……舞台は中学から高校へと移って行く。
かつては共に戦った者達が敵となり、頂点を目指してぶつかりあう。最強の名を懸けて。
果たして彼らは、今度はどのような