黒子のバスケ 銀色の疾風   作:星月

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第九十九話 剝がれた仮面

 加賀と北条。二人の新入部員の紹介も終わると、藤代は今日の日程についてさらに話を続けていく。

 

「それでは今日は新体制初日という事で軽めのメニューで終わろうと思います。各自自主練を行いたい場合は鍵を開けておきますが、あまり無理はしないように。中澤さん、頼みますよ。そして——白瀧さん」

「はい」

 

 最後に藤代が中澤へ練習メニューを託し、次いで白瀧の名を呼ぶ。

 

「全体の連絡事項はこれで終了です。あなたは病院に向かってください」

「わかりました」

「こちらの方は気にしなくて大丈夫です。今はゆっくり休んでいてください。皆あなたの復帰を待っていますよ」

「……はい」

 

 早く治し戦力として復帰してほしい。藤代の願いが籠った呼びかけだった。チームにとっても、彼自身にとってもこれがベストな選択と考えている。

 白瀧も監督の願いを理解し、その信頼に応えるべく自分のなすべき事をなそうと決意して体育館を後にした。

 

「ん?」

 

 そして体育館から下駄箱へと向かう途中で彼は目にする。

 

「————」

「————」

「————」

 

 東雲や山本、佐々木に松平。引退した三年生たちが涙を流し、両手で顔を覆っている姿を。

 声は聞こえなかった。だが彼らが悔しさや悲しさを感じている事は間違いない。

 

「ッ……!」

(止まるな! 俺には、何かをできる資格なんてない!)

 

 しかし、そんな彼らにかける言葉を白瀧はもっていなかった。

 先輩たちの姿を脳裏に焼き付けて一歩でも早く前に進もうと足を動かす。

 もう二度と立ち止まる事は許されない。彼の心中に暗い色の炎が滾り始めていた。

 

 

————

 

 

 白瀧が病院に向かい治療に臨む中、大仁多の選手達は軽いメニューをこなした後自主練習に励んでいた。

 

「よしっ」

 

 黙々とスリーポイントラインの外から打ち込みを行っていたのは加賀だった。

 時に外れる事はあるものの高確率でリングに触れることなくシュートを決めていく。

 

「……どうやら衰えてはいないようだ」

「あんなに強い人がいただなんて聞いてないっすよ」

「去年のIH県予選ではスコアラーとして活躍していたんだ。俺が勇作のマークに当たっていたのもあるが、中に外にと大暴れしていたよ」

「スコアラーですか。うーむ。嬉しい悩みですね」

 

 小林が感慨深げに彼のシュートの動作を観察する。

 一方で横に立っている神崎は複雑な表情だ。何せ加賀が入るポジションはおそらくはSGかSF。自分が競争相手となる可能性が高いのだから。加えて練習での基本的な見る限り、加賀は攻守に秀でた選手であるという事を明確に理解できる実力を誇っていた。

 

(スリーだけなら確率も距離も負けるつもりはねえ。ただ平面勝負となるとかなり厳しいな。この人は何というか、うまい)

 

 神崎が得意とする外角のシュートならば分はある。全国でも通用したのだ。実績も自信もある。ただ違う分野に関しては難しいと自己分析をしていた。他に例える言葉が見つからず、神崎は加賀の強さを『うまい』と簡潔に評した。

 

(速さに関してはおそらく山本さんと互角、あるいは山本さんの方が上。でもこの人はかわすのがうまいんだ。相手のタイミングを計る。要のチェンジオブペースに似ている。加えて高さとパワーもそれなりにある)

「……どうなるかな」

 

 柔のバスケ、とでも言うべきか。鋭さの中に相手をいなすうまさをもつ、一対一で相手にしたくないと思える強さだった。以前一度だけ目にした正邦の春日に似ている。

 果たして自分はポジションを確保できるだろうかと、神崎は複雑な笑みを浮かべて打ち込みへ戻っていく。

 

「そういえば監督。白瀧の話なんですけど、治療って何をするんですか?」

「あ、それは俺も気になりました」

 

 一方、本田は白瀧の状態が気になり監督に問いかけた。西村も追従し話に混ざる。

 保存療法ならば安静にしていればそう頻繁に病院へ通う必要もなくなるはず。それなのに病院に毎日通い続けて何をするつもりなのだろうか。

 

「白瀧さんは全治一か月の怪我と診断されました。しかし少しでも早く治したいというのは私も白瀧さんも同意見でした。その為、先も言ったように二週間病院に通う事で、その期間で怪我を治す処置です」

「えっ。じゃああいつは二週間で復帰するんですか?」

「処置ってまさか手術じゃないですよね? 一体何を?」

「なに、簡単な事です」

 

 半分の期間で復帰するすべがあるのだと藤代が語る。一体どんな治療法なのだと二人が追及する。すると藤代は軽い口調でその疑問を解決した。

 

「酸素を吸わせて電流を浴びせます」

『治療じゃないんですか!?』

 

 まるで治療ではない事を白瀧にさせるような物言いに、二人はそろって声を荒げた。

 

「……つまり酸素カプセルと低周波療法の併用ですか?」

「その通りです」

「へ?」

「酸素カプセルはわかりますけど低周波療法?」

 

 すると話を聞いていたのだろう、橙乃が藤代の後を継いで補足する。

 

「要は微弱な電流を体に流し、電気刺激によって筋肉をマッサージする治療です。酸素カプセルと共に自然回復を促進させる治療ですよ。この治療を一週間続け怪我の回復を待つ。さらに一週間この治療を続けながらリハビリを行う事で復帰を目指します」

「つまりあいつ自身の回復力を高めて期間を短くすると?」

「そんな簡単な話なんですか?」

「実例が何件もあるものですよ。例えば足の靭帯を損傷した選手がこの治療により、一週間後の試合に出場したという前例も」

「靭帯損傷したのに!?」

「科学の力ってすげー!」

 

 人間が持つ治癒力を高めて治すという治療。特に高校生のような若い選手ならば元々回復も早いこともあってより効果を発揮するだろう。

 実際の治療で効果を発揮しているという話を聞くと西村も本田も驚きを隠せない。

 それならば白瀧も本当に早期復活が可能かもしれないと希望が湧いてきた。

 

(そうだ。彼は早めに復帰させる必要がある)

 

 これは監督としてではなく指導者として必要な方針だった。決して戦力を確かなものとしたいからではない。

 

『俺は、戦力としてでしかチームの役には立てない』

『お願いです。俺は選手です。コートに戻してください。仲間の元に』

『戦わなければ誰も救えないし何もできない』

 

 戦うことが救いであると語る少年を、コートの外でじっと見ていさせてはならないと考えたのだ。

 

『白瀧さん。あなたには病院に通い早期復活を目指してもらいます』

『わかりました。俺にとってそちらの方が都合が良いと思います』

『皆、あなたを戦力として必要としているのです。だから、早く皆の下に戻ってきてください』

『ッ!……はいっ!』

 

 だからこそ藤代はあえて白瀧を一時的に部から遠ざけたのだ。戦えない期間を少しでも減らし、そしてかつてのように仲間の姿をただ見ていさせる時間を作らないように。

 すべては彼の心の負担を少しでも減らし、彼の苦痛となる過去の出来事を思い出させない事を目的としたものだった。これで藤代はひとまずは大丈夫であろうと判断した。時期を見計らって様子見をし、そして彼が何か没頭できるものを提供すればよいだろうと。 

 

 

————

 

 

「監督ですか? ええ、順調に回復しています。——わかっています。大丈夫ですよ!」

 

 ——大丈夫。

 

「もちろんですよ、先生。こう言っては何ですけど、俺は怪我にも慣れているんです。問題ありません」

 

 ——問題ない。

 

「西村か。最近そっちはどうだ? ——そっか。俺か? ああ、すっかり痛みもなくなったよ。わかってるよ。心配なんていらないって」

 

 ——心配なんていらない。

 

 誰に対しても笑顔で、明るい口調で返す。指示にはしっかり従い、仲間への気遣いも忘れない。

 そうでなければならない。もう無駄な時間なんて存在しない。

 いつも通りに過ごせばいいのだ。いつものようにエースとしての役割を今でも果たせばいい。そうする事は得意だったから。それを日常でも行うだけの簡単な事のはずだ。

 

 新体制に移行してから一週間が経過した。

 白瀧の治療経過は良好であり、足の痛みや腫れは収まり、治療を継続しながらであるがリハビリも始まった。

 おそらくあと一週間程で練習にも参加できるだろう。希望通りの経過をたどっている。

 しかし、白瀧の気分はすぐれなかった。

 

「ふうっ、ふっ!」

 

 学生寮の自室。重さ10kgのダンベルを其々両手に持ち、ゆっくりと上下に何度も行き来させる。

 以前は少し厳しいと思えていたこの重さも最近には慣れてきた。

 ダンベルだけではない。懸垂やチューブトレーニングなど上半身を鍛える様々な運動を最近は取り入れて実践している。

 

(力が、欲しい。もっと力が!)

 

 額を流れる汗など気にも留めず、黙々と腕を振り続ける。

 この一週間、白瀧はただ治療に励んでいるだけではなかった。

 むしろその逆だ。チームメイトと離れている間、彼は今までは積極的に行っていなかった上体のトレーニングを通常の二倍、時には三倍の密度で行い、一日の休憩をはさむというローテーションを組んでいた。

 すなわち超回復。筋力トレーニングで傷ついた筋肉を休ませることで、これまで以上の筋力を手にするというトレーニング法を取り入れていた。しかも今回は治療により自然回復力が高まっている。より効率的にトレーニングを続けることが出来た。

 足は負傷している為に運動は出来ていないが上半身は違う。今できる最善の研鑽を積もうと一心不乱になっている。

 

(キセキの世代を倒すための力が必要だ。力がいる。もう無力だなんて言わせてなるものか! 今度こそ勝利を!)

 

 ただしそれは白瀧の力を高めると同時に、彼から余裕を奪っていった。

 常に一人で行う練習。仲間と会う機会もないゆえに彼の心情に気づく者もいない。

 IHの敗戦で彼は自分の非力さを改めて思い知らされた。それを改善しようとする方針は間違っていない。白瀧の精神的な負担を考慮しなければ。

 

(もう二度と、あんな思いだけは!)

 

 勝てず、救えず。されど勝利の渇望は、救済の願望は強まるばかりだ。

 トレーニングの効率性を考えるならば学校でチームメイトと共にやった方が良いかもしれない。監督から練習には参加しないで問題ないと言われているが、自主練習で上半身だけ鍛えるというのならば否定されることもないだろう。

 ただ白瀧自身がそれを拒んでいた。今誰かと一緒にいては弱い自分を見せてしまう気がしたのだ。

 そう、過去の緑間との一件のように。陽泉との敗戦直後に、仲間にそんな姿を晒したくはなかった。

 だからリハビリが終わるまでに弱さを捨て、一人で強さを磨かなければならないと考えた。

 三年生の姿を見た事で余計に彼の責任感は強くなっていた。もう失わない。残ったものを何としても守り抜く。だから力を求めるのだと。

 

「ハァッ。……ふっ。少し、外の空気を吸ってくるか」

 

 メニューに一区切りがつくと両手のダンベルを床に下ろす。

 首に巻いたタオルで汗を拭いて、小休憩を入れようと白瀧は部屋の外へと向かった。

 

「あっ。ちょうどよかった」

 

 部屋を開けると同時に、見慣れた橙色の髪の女の子が視界に入る。すると白瀧はすぐさま扉を閉ざしてこめかみを抑えた。

 

「……疲れているのかな俺?」

 

 何故かこの場にはいない、いてはならない橙乃の姿が見えた気がする。声まで聞こえてきた。

 ここは男子寮だ。女子生徒は入る事は出来ないはず。つまり今見えたのは幻覚か。うん、そうに違いない。しばらく仲間と会っていない事の弊害だろう。

 まったく自分の寂しがりやな性格も困ったものだ。今度違う診療科にも通った方がいいのかなと現実逃避して、もう一度扉を開ける。

 

「どうしたの? すぐに戻っていったけど」

 

 やはり先ほどと同じく橙乃の姿がそこにはあった。

 

(フロー強制解放!)

 

 これはあってはならないことだ。そして同時に出会ってはならない邂逅だと心の警告が脳をよぎった。きっとこのままでは自分がひどい目に会うと。

 白瀧は瞬時に没頭状態に入ると、上昇した反射速度をもって扉を引き寄せる。

 しかし扉が閉まる前に橙乃の足が扉の進路方向上に伸びた事で、彼は制止を余儀なくされる。

 馬鹿な。大仁多のマネージャーの反射神経は紫原にも匹敵すると言うのか。

 

「どうして閉めるの?」

「……どうしてここにいるの?」

「藤代監督に用事を頼まれたから」

「ここ男子寮なんだけど」

「マネージャーで、選手のケアに来たって言ったら通してくれたよ。藤代監督からも口添えがあったみたいだし」

 

 女子に甘すぎではないだろうか。もしもこれが男女逆だったら下手すれば通報沙汰だろう。あるいはこれが全国出場する部への信頼なのだろうか。

 色々納得しかねる説明だったが、白瀧はそれ以上深く考えようとはしなかった。

 

「えっと。用事なら場所を変えよう。ここだと都合が悪いだろう」

「部屋の中でいいよ。まだ足も本調子ではないならあまり歩かない方が良いし、それに気になる事もあるから」

「いや、ほら。今部屋の中片付いてないんだよ」

「私は気にしない」

「俺が気にする!」

 

 何とか違う場所で話そうと説得を試みるも、橙乃は頑なに頷こうとしなかった。

 ここは男子寮。何か問題が起きれば間違いなく自分に非があるとみなされる。だから場所を変えたいというのが白瀧の本音だ。なぜか橙乃とは不利な場所で話すと後々面倒な展開になるような気がしたのだ。主に兄の事で。

 

「……あまり時間もない。そこまで反論するようなら実力行使するけど」

「え? 何、実力行使って。まさか監督権限とか言うつもりじゃ」

「ここで悲鳴を上げる」

「またその脅しか!」

 

 権力どころか、社会的な制裁が白瀧の背後に迫る。

 

「……いやちょっと待て。橙乃、残念ながらもうその脅しは通用しない」

「どうして?」

 

 ただしこれが二回目という事もあってか、白瀧はこれを冷静に対処した。

 首をかしげる橙乃。きっとこの一言で屈すると思ったのだろう。だが俺はそう簡単に脅迫なんかに屈したりはしないと口角を上げる。

 

「普段からの周囲の信頼度だ。自分で言うのもなんだが、俺は学校・寮・部活とどれも模範的な行動をしているし、違反も何もない模範生だ。だから何かあろうとも周りの人間はきっと俺を信じて——」

「つい先日も同じ女の子を泣かせてたかー。これは説得力あがるだろうなー」

「たった一度の過ちが俺の全てを台無しに!?」

「普段は模範的な生徒が裏では健気でか弱いマネージャーをねー。世間はどっちを信じるんだろうねー」

「おのれー! 過去の己ー!」

 

 マネージャーには勝てなかったよ。

 か弱いとは一体何だったのか。橙乃の暗い笑みから発せられた言葉で、白瀧の自信と実績が呆気なく崩れ去った。

 

「大丈夫。何もしなければ、私も変な真似はしないから。だから、ね。」

 

 『だから裏切らないでね』と台詞の裏に隠れた橙乃の意図は、しっかりと相手に伝わる。

 

「うん。手早く、どうぞ」

 

 さすがにごゆっくりどうぞとは言えず、しぶしぶと彼女の提案を受け入れる白瀧であった。

 彼に促されるまま部屋の中に入る橙乃。突然の来訪という事でそのまま放置されていた筋力トレーニングの器材が真っ先に目に映った。

 部屋の様子を一通り見まわすと、橙乃は視線を白瀧に戻す。汗をかき、室内で休んでいたとは考えられない呼吸の乱れを観察できた。

 彼の様子を見ただけで白瀧がこの一週間どのような時間を過ごしていたか、容易に想像できた。同時にそうせざるを得ない心境を敏感に感じ取り、橙乃は目を細めた。

 

「……やっぱり」

「何が?」

「いや、やっぱり片付いてないなって」

「だから言ったじゃん!」

 

 橙乃の茶化す言葉に必死に反論する白瀧。とりあえず器材を簡単に片付けると、橙乃を椅子に座らせて自分はベッドに腰掛ける。

 

「それで、監督に用事を頼まれたというのは?」

 

 手短に済ませようと、率直に本題に入る。すると橙乃は背負ってきたバッグから透明なファイルを取り出して話始めた。

 

「一つは、白瀧君の状態を確認する事。治療の経過が順調なのかの確認してほしいって」

「それなら問題ない。当初の予定通りリハビリも始まったから大丈夫だと伝えてくれ」

「そう。二つ目は、足の処置。まだ痛みが残るようなら私にサポートしてほしいとのことだったけど」

「そっちも大丈夫だ。すっかり痛みもなくなってるし、動ける状態になっている。ありがとう」

 

 二つとも足に関連する事で、おそらくは二つ目が橙乃を指名した理由だったのだろう。テーピングなどの処置に一番慣れているのは彼女だ。

 だが今は支えが必要な状態ではない。だから問題はないと彼女の提案を断った。

 

「じゃあ三つ目。これからの日程の資料。そしてこっちは自作のものだけど」

「手帳?」

 

 橙乃から白瀧に二枚のプリントと一冊の手帳が手渡される。

 プリントは日程や連絡事項が記載されたもの。一方、手帳には手書きで手や指の動きの絵、そしてそれに呼応する文字の羅列が記されていた。

 彼女の言う通り、手帳の方は自作のものなのだろう。

 

「ほら。誠凛戦で手振りでサインを伝えようとしたことがあったでしょ? あの時は咄嗟の事で手間取ったから、前もって準備しておけば伝わるかなって」

「なるほど。確かに今の俺は空いている時間もあるし丁度いいか」

 

 思い返すのはIH二回戦、誠凛との試合だ。タイムアウトも伝令もなしに指示を伝えようとした一件。たしかにあれが今後も有効に使えるならば試合で有利に立てるかもしれない。そして試合に出る回数が多く、現在は時間に余裕もある自分が適任であった。

 

「了解。それじゃあこれからこの手帳のハンドサインについて少しずつ覚えていけばいいんだな」

「これからというか今からね」

「……ん? 今から?」

「うん。今から」

 

 ではこれから少しずつ覚えていこう。そう楽観視する白瀧に橙乃は厳しい指摘を贈る。

 

「善は急げって言うし。藤代監督からの伝言もあったから早めにやっておいた方がいいでしょ?」

「待って。伝言って何?」

「『暗記が出来ないほど疲れているようならば、疲れが取れるように間違った回数だけ手料理をふるまってあげてください』って」

「連続殺人事件!?」

 

 前言撤回。ひょっとしたらこちらの要件が橙乃を派遣した理由なのかもしれない。

 

「七割以上正解すれば問題ないって言ってたけど」

「満点取ります!」

 

 そう言うと、白瀧は突如手帳を鬼のような形相で凝視し始めた。

 「別にそこまで必死にならなくても」と橙乃が口添えするが、白瀧にとっては必死にならなければ駄目らしい。いつの間にかまた没頭状態に入り、内容を頭に叩き込んでいた。

 そしてこの約10分後。本当に確認テストは行われた。出された問題は合計で二十問。これを白瀧は何とか全問正解し、最悪の展開は免れたのだった。

 

「今日は大丈夫みたい。それじゃあ毎日続けていくね」

「……一日くらい開けないか?」

「毎日の積み重ねが大事なの」

「うん。そうだね」

 

 どうやら橙乃には超回復理論は通じないらしい。

 正論だけに反論が見つからず、白瀧は素直にうなずくのだった。

 

「じゃあとりあえず、今日の所はこれで要件は終わりかな? なら送っていくよ」

「……最後にもう一つだけ」

「ん? 何? まだ何かある?」

 

 仕事が終わりならばこれでお開きとしよう。問題が起こるリスクは避けなければ。白瀧はそう考えたのだが、橙乃はまだ要件が済んでいなかった。

 

「動かないでね」

「は、はい」

 

 真剣かつ静かな口調でそう言われ、白瀧は姿勢を正す。

 すると橙乃は「よし」と小さくつぶやいて白瀧が腰掛けるベッドの傍らに場所を移した。

 「一体何を」と白瀧が疑問を呈する前に、彼の側頭部が横に引っ張られる。

 理解が出来なかったために抵抗は間に合わず、体は力に従って真横に倒れて、柔らかい何かに頭が乗せられた。

 

(……は?)

 

 未だに自分がどういう体制になっているか理解できない。真上には橙乃の顔が90度回転して見える。この光景が、自分が膝枕をされているのだと彼に答えを示した。

 

「おい、橙乃。何をやっているんだ? だからここで変な真似はマズイと……」

「——お疲れ様」

 

 抵抗を示す白瀧に、橙乃は短くそう伝えた。

 

「……は?」

「頑張ったから疲れたでしょ。——お疲れ様」

 

 もう一度同じ言葉が紡がれる。

 今度こそ本当に白瀧は理解できなかった。

 慈愛の感情が自分に向けられる意味がわからない。

 だって自分は疲れてなどいない。何も頑張っていない。何も果たせていない。なのに疲れるはずがないだろう。そんな甘い考えが自分に許されるはずがない。

 

「何、言ってんだよ」

 

 頬が勝手にひくつく。白瀧は必死に感情を抑え込んだ。無理やり笑みを作って、橙乃の気遣いを否定しようと試みた。

 

「俺は今休部中なんだよ。ただ治療を受けて休んでいるだけ。それなのに」

「嘘」

「嘘なんかじゃないって。本当に」

「あなたが誰かを気遣って虚勢を張るときは、顔は笑っても目が笑わない」

「……は、ぁっ?」

 

 全てを見透かされた気がした。

 この指摘さえそんなことないと否定すればいいはずなのに。心の中にたまった激情が噴出しそうになって、抑え込む事で精一杯になってしまう。

 

「何度でも言うよ。私は見てるって。あなたの頑張りも、気遣う姿も、疲れた心も」

「……どこを見てるんだよ。そんなの、違う。そんなの、嘘だ」

「それが本当に解らないなら、あなたは今自分の状態が見えていない。それくらい疲れてる」

 

 頭をゆっくりとなでられた。

 白瀧は橙乃の手をはねのけようと、それは違うと否定しようとした。

 ただ、行動に移そうとすると手は途中で止まり、言葉は思うように喉を通過しない。

 今まで耐えてきた感情をだましきれない。強くならなければならない。強くあろう。自分に言い聞かせてきたものが揺らいでしまう。

 やめてほしい。何かに没頭する事でようやく耐えてきた。それを今さら指摘するなんて。

 

「……辛かったね」

 

 最後、この一言が白瀧の内にある堤防を決壊させるトドメとなった。抑え込んでいた感情が湧き出した。

 

「……ッ!」

 

 ずっと強さを求められてきた。指導者にも、仲間にも。「頑張ってくれと」、「助けてほしい」と。そんな彼らの言葉で何とか自分をだまし続け、まだ戦い続けようと思っていた。

 なのに、こんな甘えを許す言葉をかけられて、今まで作っていた強い自分が呆気なく崩れ去る。エースの仮面にの下に隠した本当の感情がさらけ出されてしまう。

 

「俺は、やれるだけの事をやった。ずっと、頑張ってきた。他に上手いやり方だってあるはずだって、わかってたはずなのに。俺にはそれしか、なくて。そうしなきゃ、駄目で。でも届かなくて。辛かったよ。辛いと思うくらい、やってきたんだよ!」

「うん。知ってる」

「休めるなら休みたい。でも、そんなことしてる時間なんてない。もう失いたくない。もう裏切りたくない。だから失敗しないように、そんな自分を見られないように、必死にやってた」

「うん。わかってる」

「それが余計に辛かった。何かに没頭しなければ、すぐにおかしくなりそうな……そんな自分の弱さが!」

 

 何を言っている。なぜ今まで必死に隠し通してきた感情を暴露している。

 やめろ。止まれ。

 情けないにもほどがある。女の子の膝の上で涙を流し、声を掠らせ、弱い心の声を打ち明けるなど。

 聞いている橙乃とてただ相槌を打つだけ。本当に理解しているかどうかはわからない。実際はただ話に合わせて頷いているだけで、真意を読み取れていないかもしれない。

 それなのに彼女の反応に白瀧は安心感を覚えていた。

 もう何もわからなかった。ただ、どうしてか幾分か心が洗い流されたような、救われたような気がした。

 これ程人目をはばからず泣いたのはこれが初めてだった。

 

 

————

 

「同級生の女の子に膝を借りて、その上で頭を撫でられながら泣き出す。……ハァッ。ダメだ、カッコ悪い。情けねぇ。恥ずかしくて死にたくなる」

 

 白瀧は決まりが悪そうに小さな声で呟いた。

 学校の体育館、両腕で筋トレを続けながら何度もため息をこぼし、顔全体を赤く染めて。

 

「なんで俺は抵抗できなかったんだ。泣くだけならまだしも、思いっきり泣き叫んで慰められた。……だめだ、もう。これ以上ない程駄目なところ見られた」

 

 一昨日の感覚は今でも覚えている。橙乃の膝の感触も、なでられた頭の心地よさも。

 そう、白瀧が橙乃に諭された二日後、白瀧は通院を追えると学校を訪れていた。

 一度藤代に声をかけて許可を得ると、他の筋トレのメンバーと共に汗を流している。昨日、壊れた筋線維が回復するのを待ちながら、白瀧は決意したのだ。まだ復活出来ない間も、仲間達と時間を共にしようと。

 当初藤代は彼を見学もさせずに休養にあてようと考えていた。それがかつての彼の負担を引き起こすと考えたからだ。しかし今となっては白瀧に不安の色はなく、筋トレも密度は変わらないとはいえ、チームメイトと共に汗を流すことで気が楽になっているようだった。

 そうするようにした理由は決して誰かに誘われたわけではない。橙乃が提案をしたわけでもない。

 ただ、どうしてか白瀧がもう仲間と一緒にいても大丈夫だと考えたのだ。たとえ弱さを見られる事になっても、大丈夫と。自分の素顔を誰かに曝け出した事で踏ん切りがついたのかもしれない。

 ——もっとも気恥ずかしさの為に、橙乃と面と向かって話す事は難しくなってしまったが。

 

「別にいいじゃない。休めたでしょ? 格好良い所だけ見せようなんて、白瀧君には無理だろうし」

「そんな事ないだろう。俺今まで橙乃の前で駄目な姿とかさらした時があったか?」

「なりふり構わず土下座した事とか?」

「……あれはカウントしては駄目なものだと思います!」

 

 下手な強がりを口にすれば一掃されてしまう。白瀧が汗を流す姿を見ている橙乃には厳しくも親し気な、不思議な雰囲気があった。おかげで白瀧は深く考え込む事も出来なくなり、結果として負担が減っている。

 

「一つも二つもそんなに大差はないから良いの。本当に男の子って変なところで意地を張るんだから」

「いやいや、意地の問題じゃない。これは色々と深い、そう。プライドの問題であってね?」

「似たようなものでしょ? ……いいの。相手に本音を打ち明けてもらう事で満足する事だってあるんだから。私がそうして欲しかった事だし、そうしてあげたかった事なんだから」

 

 片側の目をつぶって、笑みを浮かべる橙乃。

 心底楽しそうな表情を見せる彼女に、白瀧は「あぁ、勝てそうにないな」と早々に白旗を上げるのだった。

 

「そういえば、マネージャーの仕事は大丈夫なの? 普段より早めに上がったように感じるけど?」

 

 勝ち目がないと悟った白瀧は話題を変えつつ気になった事を橙乃に問う。

 練習が終わった後でも片付けを始めとしたマネージャーの仕事は残っている。普段なら今はその仕事をしているはずなのだが、自分の補助をする彼女を少し心配に思ったのだ。

 

「それなら問題ないよ。北条先輩のおかげで仕事も減ったから」

「そっか。まだあまり慣れていないかとも思ったけど、結構早かったな」

「……あの人は天才だよ。仕事を一度説明しただけで全部覚えてた」

「あ、やっぱり?」

「聞いた話だとテストも満点ばかり取って『つまらない』って言ってるとか」

「……さすがにそれは嘘だよね?」

 

 黙り込む橙乃。おそらくは本当なのだろう。

 初めて会った時に天才だとは感じていたが、まさか本当だったとは。予想をはるかに超える才能を発揮する先輩の噂に、白瀧も言葉を失った。

 

「マジか。そういえば、その北条さんは? 仕事終わって加賀先輩の方に行っているのか?」

「うん。打ち込みやってるって言ってた」

「ああやっぱり。加賀先輩スリーもうまいからな。その手伝いなら喜ぶだろう」

 

 北条が加賀の打ち込みの手伝いをする姿を思い浮かべ、白瀧は柔らかい笑みを浮かべる。

 二人が付き合っているという話は入部の時に聞いていた。

 なるほど。意中の女性に手伝ってもらうとなれば、練習の効率も上がるだろう。うらやましいなと、競争相手の姿を思い浮かべて。

 

「ううん。北条先輩自身も一緒に打ち込みやるって言ってた」

「……ハッ?」

 

 直後、橙乃の補足に再び驚かされることとなった。

 

「えっ、どういうこと? パスを出したりボールを取ったりとか、サポートじゃなくて?」

「うん。どれだけシュートが入るかの競争をするんだって」

「まあ、それはそれでやる気出るんだろうけど」

「しかもすごく上手だった」

「むしろあの人がバスケ部入るべきだったんじゃないのか?」

「一度バスケ部に入ったけど、『どうして皆出来ないんだろ?』って言ってやめたって」

「……もう、何も言えねえ」

 

 そういえば白瀧と本田が初めて加賀と会った時も、彼はストリートのコートで誰かを待っていると言っていた。まさか、あれは北条を待っていたのではないか。二人でバスケをするつもりだったのではないだろうか。

 新たなマネージャーの計り知れない才能に、白瀧はかつての大敵(黄瀬)の姿を思い出し、現実逃避を始めるのだった。

 

 

————

 

 こうして白瀧がチームの輪に戻るようになってさらに時は流れた。

 新体制に移行してから二週間。リハビリを終えた白瀧がついに完全復活を果たす。

 全体練習に参加した初日から、目を見張る程の活躍を見せた。

 

「よっしナイッシュ!」

「もう一本!」 

 

 怪我明けとは思えない動きのキレを見せる白瀧。それどころか以前よりも力強ささえも感じられるプレイを連発する。彼の動きを見たチームメイトは皆安堵の息を漏らした。 

 

「絶好調だな要」

「問題はなさそうだね。僕も安心したよ」

「ああ。心配かけたな。もう万全だ」

 

 白瀧が屈託ない笑みを浮かべて、神崎と光月がかわした拳を重ねる。

 3年生の引退から日も経って、皆も環境の変化に慣れてきた。その頃にエースの帰還となって士気は高まることとなる。 

 

「やっぱお前がいると引き締まるよ。二軍から人が入って、ずいぶん環境も変わった感じだったからな」

「そっか。新たに一軍の面子が決まって二週間。まだ完全にはなじまないか」

「あまり接点のなかった人もいたからね。IH終わったばかりで少し気が抜ける場面もあった気がするよ」

「大きい大会だったからな。まだレギュラー争いも激しくなってないし仕方がないか」

「うん。……ただ、レギュラーに関してはそうかもしれないけど」

「どうした? 何かあったか?」

 

 すると、何かに気づいて光月が言葉を濁す。神崎に先を促されて、「ちょっとしたことだけど」と付け足して話を続けた。

 

「要が復帰したわけだけど、これで一軍って二十一人だよね? 誰か代わりに二軍に行くってことなのかな?」

「確かに。練習始まる前は何も言われなかったが、何かありそうだ」 

 

 光月が疑問に感じていたのは一軍の編成についてだった。

 常ならば一軍に入れるのは二十人。今日は白瀧が復帰して一軍に加わった以外の変更がないので二十一人が練習に参加している。

 このままの人数で続けるのか。あるいは規則通りやはり誰かが枠から外れるのか。これは白瀧も考えていなかったので想像がつかなかった。

 

「んー。わからないし考えても仕方なくね? それに俺達元々一軍にいたメンバーは大丈夫だよ。新しく加入した選手達にだってそう簡単に負けはしねえ。だろ?」

「単純だが、その通りだ」

「……うん。もちろん」 

 

 そんな悩みは神崎が蹴散らした。皆の実力ならば問題はない。

 きっとこれからまた、今までのように皆でバスケができると二人も追従する。

 そう、誰もが思っていた。

 

「俺も頑張るさ。加賀さんとの競争は厳しいだろうけど、お前達レギュラー確定組みに繋がるぜ」

「僕はまだそう思ってないけど」

「自信持てって。……そういえば、お前自分の事はやっぱりり僕って呼ぶんだな」

「えっ?」

「紫原と戦っていた時は俺って言ってたぜ。てっきり意識が変わったのかと思った」

「……そう?」

「たしかにそうだった」

「そっか。全然意識してなかったな」

 

 ふと神崎は光月の口調が気になり、小さなことだが聞いてみる。彼の言う通り、光月は陽泉戦では強い口調で敵と対峙していた。

 あるいは性格が変わったのかとも思われたがどうやら今までの彼と相違ないようで、本人も自覚はなかった。

 

「ま、どうでもいいんじゃないか。あの時は敵と戦ってる時だったわけだし、普段はそんな緊張感を持つ必要ない。気に掛けることじゃないよ」

「……うん」

「そっか。まあそうだな」

 

 だが意識する必要はないと白瀧が諭す。小さな心配りだが、いつも通りあればいいと仲間を諭す様相は、彼が苦悩から解放されているという事の証明だろう。

 

「自信を持った方が良いっていうのは俺も同感だけどな。言葉にしたって、その人の強気とか関係とかが反映される時もある。……呼び方は特に、な」

 

 そう言って、白瀧はある事を思い返して小さく笑みをこぼす。

 

「どうしたよ? 急に笑って?」

「いや、少し違うけど呼び方でふと思い出したことがあってさ」

「呼び方?」

「お前達も覚えてないか? 以前、山本先輩に聞かれたこと」

「……ああ、そんな事あったな」

「あったね。確かに、呼び方は関係性とかも表しているか」

 

 説明されて二人も納得して、懐かしい記憶に微笑んだ。

 思えばあれも確かに人と人の呼び方に関する話題だったか。

 三人の仲について自覚し、そして残る同級生二人——西村と本田との関係性について触れられた記憶がよみがえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――黒子のバスケ NG集――

 

「……どうしよう。寝ちゃった」

 

 白瀧が泣きつかれて眠ってしまった場合。近づく門限。近づく社会的危機。


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