栃木県予選決勝戦の翌日。
激しい戦いによる疲労と行事の日程を考慮して、藤代は二日間にわたる休養日を設けた。月曜日は夕方にミーティングと大会の片付けを行い、火曜日は完全なオフとなる。
月曜日は学校の創立記念日でもあるため授業も休み。日常茶飯事である朝練もこの日ばかりはなく、選手達はいつもよりも長めの睡眠時間を確保することができる。
午前中をゆっくり過ごし、昼食も済ませてそれぞれの休みを満喫しているであろう午後一時。
大仁多のジャージを纏って大きな公園のランニングコースを駆け抜ける姿が二つあった。
「フッ、フッ、フッ」
一人はリズムを乱す事無く、一定のスピードで走っている。
そして彼の数メートル後方でもう一人が息も絶え絶えになりながら走っている。
「ハァッ、ハァッ……! し、白瀧……ちょっと、タイム……!」
膝に手をつきながら本田は前を走るチームメイト、白瀧に声をかけた。
呼び声に反応して白瀧は振り返り様子を見る。その場で膝上げ運動を続けながら彼に声を返した。
「なんだ。まだコースは残っているぞ本田」
「『まだ』じゃねえよ、この体力馬鹿。ちょっと、休憩……」
「……ったく仕方ないな。少し休憩としよう」
声の調子から彼の余裕のなさを感じ取り、二人は設置されているベンチへと移動する。
本田はすぐさま腰かけ水分を口に流し込む。白瀧も軽く体を伸ばして疲れをほぐした。
同じ距離を、コースを走っているはずなのに。ましてや相手は昨日の試合で自分よりも疲れているはずなのに。
それでもこれほど差が出るものなのかと、感心を通りすぎてもはやため息しかでてこない。
「ああ、駄目だ。まさかここまでとはな」
「何を言っている。元々はお前が誘ってきたんだろ。トレーニング一緒にしようって」
「普段からこんなに走る込むなんて思うわけないだろ。マジで化け物かよお前……」
冗談の意味も込めて本田が呟いた。
息も今だ整わず決して悪意を持っていたわけではない。
だがその言葉に対して白瀧は暗い笑みを浮かべて答えた。
「ああ。化け物だよ、俺は」
「あ?」
「ずっと敵や世間からはそう呼ばれ続けたから」
「ッ……!」
あれだけ乱れていたはずの呼吸が止まった。本田の表情が硬直し、心臓の鼓動だけが耳に届く。
――化け物。力のありすぎる相手を、人は脅威と認識してそう呼ぶ。自分とは違うのだと一線を引くということと同義である。
「わ」
「なーんてな」
「ワリィ。……って、あれ?」
気分を害してしまうような事を口にしたことを謝罪する本田。だが彼が言い切る前に白瀧は元の笑みを取り戻した。
「冗談だよ冗談。そんなの気にしないって。お前がちょっと疲れていると思ったから気分を変えようとしただけだよ」
的外れだと言わんばかりに口角が上がる。先ほどの表情が嘘のようだ。
まさか本当に演技であったというのか。本田の中で怒りに似た感情が燃え上がった。
「相変わらずだなお前は……! ああ、ありがとよ。おかげで疲れなんて吹っ飛んだよ」
「お、やる気でたか? じゃあもう少し休んだらコースに戻るか」
白瀧の提案を受けて、「当たり前だ」と本田は士気を取り戻す。
だが本田は気づいていない。冗談というのは白瀧が周囲の声を気にしていないということであり、彼が『化け物』と呼ばれていることは否定していないということに。
「それにしても今日は一体どうしたんだ? お前の方から誘ってくるとは思ってもいなかったぞ」
話題を変えようと思ったのか、思い出したように白瀧が本田に問いかけた。
トレーニングの誘い。普段二人は一緒に自主練をすることは少なく、本田が白瀧に対抗心を抱いている一面もあったため、この誘いは意外なものであった。
当然の疑問を尋ねられた本田は視線を逸らし、ゆっくりと話し始める。
「……決勝戦、出場して思い知ったんだよ。俺はまだまだ未熟だ。PFというポジションである以上、技術は当然だけどそれ以上に身体能力がもっと必要だって」
「勇作さんとの戦いか」
「ああ。あの人はシュート力もそうだけどかなり鍛えているんだってわかった。
だから負けられないって思った。ただそれだけだ」
激戦で得た経験は負けず嫌いの男の心を存分に刺激したようだ。
競り合いが多いポジションであるからこそ、もっと鍛えなければならない。
部活が休みであろうとも相手が誰であろうとも関係ない。とにかく体を動かしたかった。
今まで以上の向上心が感じ取れ、白瀧はチームメイトの背中を嬉しそうに眺めた。
「そう思えたなら何よりだ。これで落ち込むようだったらどうしようかと思ったよ」
「当たり前だろ! ここからIHが始まるんだ。落ち込んでなんていられるか!」
「……そうだな。悩んでいる暇なんてなかった」
「また出場する機会はあるかもしれない。だから……」
「だからその時までにもっと強くなりたい」。それは偽りのない本田の本音だろう。
見据えている先は猛者の祭典、IH。レギュラーでない選手の出番は限られている。それでも出場できないと決まっているわけではない。
ならばその時後悔しないように本田は強くなろうと決心していた。
「頼もしい限りだ。それなら有言実行としてもらうぞ。明に松平さんと、PFはライバルがいて大変だろうがな」
「……まあ、ボチボチ」
「弱気になるな」
レギュラーに選ばれた光月。経験豊富な松平。内のライバルとの争いも厳しい。だが乗り越えて欲しい。大きな期待を彼に寄せ、白瀧は笑い声を立てた。
「――ら! 一人――えよ!」
「うん?」
息も整い始め、もう一度走り出そうかと思った時。怒鳴り声のような響きが耳に伝わってきた。
「なんだ? ……バスケットゴールの方か?」
「みたいだな。ってか、なんか一人、絡まれてね?」
声はバスケットゴールより聞こえてきた。白瀧も幾度か利用したことのある施設だった。
そこではおそらくゴールを利用していたのであろう、私服の一人の男が六人の集団に言い寄られている。
「利用時間は守る。だから今はハーフコートで我慢してくれ」
「はあ? だから、俺達はスリーオンスリーをやるって言ってんの。ハーフコートじゃ狭いんだっての」
「一人でゴールを一個占領してんなよ」
「なんなら俺達の方に混ぜてやってもいいんだぜ?」
「……断る」
複数の男達を相手に、一歩も譲る姿勢を見せない。
180センチ以上の背丈を持つであろう長身痩躯の男だった。髪は短く整えられ、端正な顔立ちをしている。
腋に彼が使用していたバスケットボースを挟み持ち、相対する集団を鋭い眼光で睨み付ける。
すると痺れを切らしたのか、集団から二人の男が跳び出し、彼からボールを奪い取った。
「なっ!?」
「はい、ボールゲット!」
「返せ!」
「おおっと! ホイ、パス!」
「ナイス!」
突然の奇襲に怒りを覚え、奪った相手に詰め寄る。しかしその前にボールを回されてしまい、奪い返すには至らない。
「せっかくコートにいてボールがあるんだから、バスケで決めようじゃねえか!
……まーでも、6対1じゃあちょっと厳しいかな?」
「お前ら!」
「ホイよ!」
「オーライ! いよいしょ!」
多勢に無勢。ボールを取り替えそうと伸ばした腕の先をボールが通過。
ゴールから離れてしまい、ゴール下に陣取る相手にボールが渡った。パスをもらった男はゴールにギリギリまで近づき、シュートモーションに入る。
「ほら、止められるもんなら止めてみろ!」
「――ああそうか。じゃあ遠慮なく!」
「あ?」
無理だろうとわかっていながら、嘲笑うように挑発した。
一人で立ち向かっている男はそれを眺めるしかない。
そして手からボールがリリースされたその瞬間、本田が全力で叩き落とした。
「なっ!?」
「……んだと!?」
ボールを取られた男を含め、全員が突然の出来事に目を見開く。
その間に彼らの横を抜き差って白瀧がボールを確保した。
「たった一人を相手に集団で、か。……とてもではないが見て見ぬフリはできませんね」
「ああ!? なんだテメエら! コイツの仲間か!?」
「いいや。ただの通りすがりだ」
「だけどこの場では、不利な方につかせてもらいます」
二人は並び立ち、相手を牽制する。面識はないものの、助太刀に来てくれたことを理解したのか、長身の男がこちらに歩み寄ってきた。
「お前達は、わざわざ助けに来てくれたのか? ……ありがたい。他人の俺の為に」
「別に。ただ見てられなかっただけなんで、気にされても困るだけっす」
「同意です。……さて、お望みどおりバスケで決めようじゃないですか。本来ならありえないが三対六でいいですよ」
頭を下げる相手に、二人は気にしないようにと取り繕った。
そして六人の男達に向き直る。とても少数とは思えないような自信を身にまとって。
「たった二人増えただけで、この六人を相手にするってか!?」
「……良い度胸だ。すぐにぶっ潰す!」
気に食わない態度を目にして男達の闘志が煮えたぎった。
もしも彼らが敵のことを少しでも知っていたならば、結果は変わっていたかもしれない。彼らは知らなすぎた。
彼らの勢いは1分と持たずに消えうせてしまうというのに。
――――
「なっ!?」
「嘘、どこに――!?」
マークについている、いやついていた二人の驚愕の声を背に、敵陣を切り裂く。
三対六と数という絶対的優位を活かし、相手は俺達全員にダブルチームというある意味当然と呼べる策を打ってきた。
本田にボール運びは無理であるし、もう一人の男性も実力がわからない為、俺がPGを務めている。
PGでダブルチームというのはさすがに抵抗がある。……だが遅い。勇作さん達との戦いの後ではもはや次元が違いすぎる。
何もフェイクをいれずともドリブルスピードだけで翻弄できた。
しかも他のメンバーもどうするべきか迷っているのかヘルプが遅い。
敵が足を踏み出した時にはすでに俺がミドルシュートを放っており、ボールがリングを射抜いていた。
これで二本目。優位であるはずなのに劣勢であることに焦りを抱いたのか、相手が先ほど抱いていた余裕は消えていた。
「ぐっ! なんなんだよコイツら! 強すぎる!」
そして冷静さを失った時ほど相手の手を読みやすいことはない。
「もらった!」
「……うおっ!?」
パスコースを先読みし、スティールを敢行する。
相手が多い以上密集地にボールを集められると困難。だからこそその前に奪い取る。
「速い! 嘘だろ!」
「ちっ。こうなったらあいつに三人つけ! 止めろ!」
攻守が入れ替わり、相手が方針を変更して俺にトリプルチームを仕掛けた。
たしかにこれなら幾分か突破するのは困難だが。
逆に突破されれば余計に失点しやすくなるということを意味している。
パスフェイクでマークを引っ掛け、その隙にクロスオーバーで振り切る。
焦って出てきた横にボールを通して本田へ。本田もターンアラウンドシュートでマークをかわし、得点する。
「よっし!」
「オッケー、調子いいじゃん」
「お前ほどじゃねえよ」
「これなら大丈夫そうだな。……あの人も」
動きにも洗練さが見られ、気持ちが吹っ切れたように感じる。
数で負けていようともこれなら負けはしないだろう。
……俺達だけじゃない。視線をもう一人の仲間へと向ける。
本田よりも背丈がある彼の動きはとても素人とは思えない。いやむしろ、かなり鍛えこんでいるということが窺えた。
「さすがに助けられっぱなしってわけにはいかないな!」
「ぐっ……!?」
目の前で彼のブロックが炸裂した。
スクリーンを受けて反応が遅れたはずなのに、高さが出ているブロック。
さらに宙に浮かんだボールを自ら確保し、相手の攻撃の芽を摘み取った。
「やりますね。バスケ歴長いんですか?」
「お前達ほどではないよ」
「そうは見えませんけどね」
謙遜する相手からボールを受け取り、ボールを運ぶ。
線は細いものの服を捲くった間から見える筋肉は相当なもの。おそらく着痩せするタイプだろう。
少なくともポジションはセンターではない。フォワード、あるいはシューティングガードだろう。あるいはその両方か。
……まあある程度スタイルがわかったならばそれでいい。
三人をドリブルでひきつけつつ、真横にチェストパス。45度の彼の元へ。
するとゆったりとドリブルをつき――何事もなかったかのようにドリブル突破。
「え……?」
「しまった!」
気づいたときにはもう手遅れ。ミドルシュートが決まり、得点。
俺や小林さんのようなドリブルではない。相手のタイミングを計り、虚をつくようなドリブル。
しかも動きが滑らかでタイミングを取ることができない。……何者だ?
「よっし、このまま行こうか! 頼むぞ二人とも」
「ええ、勿論です」
いや考えるのは後だ。ディフェンスに戻り相手の出方を窺う。
多人数の優位を活かしたパス回しによりサイドから突破されてしまうも、本田のブロックが決まり、再びボールはこちらへ。
今度は俺から仕掛けて行った。三人のマークをドリブル突破。一気に中央へ侵入。そしてすぐにパスアウト。
「おおっ!? 凄いなお前!」
男性はプレイを讃えつつ、素早くシュートモーションに。
スリーポイントラインの外からのシュートが綺麗にリングを射抜いた。
(ノータッチでスリーを決めておいて何を)
「ご謙遜を。そちらほどではありませんよ。ナイッシュ」
「いや本音だよ。……ありがとな」
裏表のない笑みを浮かべて男性は言った。
――――
結果は言うまでもなく俺達の圧勝だった。
だが男性も今の試合で満足したのかコートを譲るとの事で、俺達はコートを後にした。
「今日は本当に助かった。礼を言う」
「いや、俺達も良い準備運動になったんで」
「ええ。それに掴めたものもありました」
「そうか? そう言ってもらえるとこちらも助かる」
嘘ではない。少なくとも俺にとってはPGのポジションで試合をできたというのが大きい。
(やはり実戦では考えることが多い。
視野の広さ、ボールのキープ。練習だけでは把握しきれないものがあった。となると場数を踏むことか)
ある程度の技術はあるとは思っている。となると足りないのは司令塔としての経験。
……それがわかれば練習することも自ずと決まってくる。
やはりやってみないとわからない。一対複数も経験できたし、俺にとって今日の試合は本当に有意義なものだった。
「それじゃあ俺達はそろそろ行くか」
「ああ。……あなたはどうするんですか?」
「俺は待ち合わせがいる。だからもう少し時間を潰すとするさ」
「そうですか。ではこれで……」
「ああ、待ってくれ。せめて名前を聞かせてくれないか?」
夕方のミーティングもあるし、早めに戻っておいた方がよいだろう。
そう判断し足を翻そうとすると呼び止められた。たしかに助けてもらったのだから名前くらい知りたいのは当然だろう。
「あなたほどの実力者が今日のプレイを見てわからなかったならば。
名乗る程の者ではありません。また会えたならば、その時に」
しかし俺達は彼の問いに答える事無く、その場を後にした。
――――
時間が経過し、バスケットボール部員は体育館に集合していた。
部員が揃った頃を見計らい、監督室から藤代監督が姿を現した。
普段から笑みを浮かべている監督だが、いつもよりも笑みが深く見えるのは気のせいではないだろう。
「皆さん、疲れもある中でよく集まってくれました。
事前に伝えたとおり今日明日の練習はお休みとします。今日は大会で使用した器具の片付けが終わったら、部活動は解散とします。
今後の日程は明後日プリントで配布します。
それでは改めて本当にお疲れ様でした! よくやってくれました。このまま戦い抜きましょう!」
『はい!』
引き締まった声の中、歓喜が十二分にこもっていた。
やはり皆全国を決めたことで喜びの比重が大きくなっている。
……ようやく舞台に上がることができた。後はここからだ。
「さて、それではさっそく行動を開始してください、と言いたいのですが。
その前に……皆さん、わかっていますよね?」
「は? 監督は何のことを言っているんだ?」
「ひょっとしてこれのことですかね?」
監督の言葉の意図をつかめない勇が首をかしげている。
すると思い至った西村が手元に掴んでいるプリントへと視線を落とした。
それは前期学力テストの結果。……おそらく間違いないだろうな。
確認しようと視線を今一度藤代監督に向けると、やはり監督はニコニコと笑みを絶やさずに部員達を見つめている。『わかっていますよね』と表情でも語っていた。
「お前達、大丈夫だろうな?」
「大丈夫って何がですか?」
「まさか知らないとは言わないよな……」
まだ大仁多に慣れていない一年生集団を不安に思った中澤さんが声をかけてくる。
要領を得ない質問に明が問い返すと、佐々木さんが呆れたように答えを示した。
「大仁多はとにかく試験の結果を重視している。
いくら授業態度がよくても試験の結果が悪いと……」
「え、どうなるんですか?」
想像しがたいことを思い、言葉を濁す。
西村がその先を促すとその先を続けたのは黒木さんだった。
「……夏休み、補習授業だ」
「え!?」
「……あちゃー」
「夏休みに!?」
「あれ? 俺は大丈夫か?」
淡々と残酷な事実だけを口にした。
危機感を覚えたのか西村、勇、明、本田の4人が冷や汗を浮かべ動揺し始めた。
……おい、ベンチ入りしている一年生五人もいるといのに、俺以外全員か。
「ちなみに試験結果が悪いって、どれくらいなんですか?」
「各科目40点以下だ。だから40点でも駄目だ」
「あっ」
「あっ」
「あっ」
「……よかった」
明が恐る恐る基準を問いかけ、そして明を含めた三人が固まった。
嫌な予感がするのは俺だけだろうか?
――――
ベンチ入りメンバー以外は殆ど大丈夫だということがわかり、先に片付けを始めている。
橙乃や東雲さんも先に仕事を始めており、残ったのはベンチ入りしているメンバーだけとなった。
「さて、皆さんなら当然大丈夫ですよね?」
「……」
「まさか『補習のせいでIHに出場できません』なんて馬鹿みたいに馬鹿な発言をするような馬鹿は、ここにはいませんよね?」
「……」
怒っている。満面の笑みで怒っていらっしゃる。
そう感じたは俺だけではないだろう。横では西村たちが冷や汗を浮かべたままだ。
……どうして嫌な予感というものは的中してしまうのだろうか。
「まあさすがに他の方もいる中で結果を知られるのは嫌でしょう。
皆さん、目を瞑ってください。……まずは一年生からです。一つでも40点以下の科目がある方は手を上げてください」
「……ッ」
「……わかりました。手を下げてください」
見えないためはっきりとはわからないが、横で誰かが手を上げたように感じる。
藤代監督も気落ちしているようだしやはり何人か駄目だったのだろう。
「では光月さん、神崎さん、西村さんの三人は後で残ってください。では続いて二年生です」
『目を瞑った意味はあるんですか!?』
悪魔だ。悪魔がいる。
三人の怒りは当然のものでもあり、自業自得でもあった。
――――
全員の結果を知ると、藤代監督は呆れを隠す事無く選手達に向けた。
「ひとまず、駄目だった方は明後日の追試までに何とかするように!
合宿棟の使用許可をもらったので、前日泊まって教えてもらいたいという方がいれば言ってください」
「はい!」
「是非ともお願いします!」
「むしろないと死にます!」
「はい、わかりました。とりあえず大丈夫だった人は皆さんと合流してください」
救いの手を差し伸べると、我先にと駆け込む部員達。
コートではあれだけ強さを発揮しているというのに、これだけ見ると凄い残念な高校生に見える。
残ったメンバーを複雑な表情で眺めながら俺達はその場を後にした。
「……まさかここまでとはな」
小林さんがため息をついて元凶を見つめた。
まあ仕方がないことだろう。主将として責任も大きいだろうし。
俺とてここが体育館でなければ怒りを撒き散らしていたかもしれない。
「テスト結果がここまで響くとは……!」
一年、神崎:英語、社会、理科。計3科目。
「面目ないです。また教えてもらわないと」
一年、西村:国語、英語、数学。計3科目。
「一人じゃ辛いもんね。でも追試があって助かったよ」
一年、光月:数学、理科。計2科目
「仕方がない。こうなったら徹夜でもなんでもやってやらあ!」
二年、三浦:数学Ⅱ・B、物理。計2科目
「いやー、サボってたツケが来ちまったか。これ追試も駄目だったら洒落になんねーな」
三年、山本:数学Ⅲ、生物。計2科目
「一科目ならなんとでもなる。補習で夏が終了なんて受け入れられるか!」
三年、松平:日本史。計1科目。
計六人の登録メンバーが追試決定とは。頭が痛い。
もし全員落ちようものなら大きな戦力ダウンだ。SGに至っては誰も残らないのだから。
「まったく情けないやつらだな。一年に関しては五人もいて大丈夫だったの俺と白瀧だけじゃねえか」
「そう言ってお前もギリギリだったんだろ。部分点をもらって41点とか42点とかあったって知ってるぞ」
「うるせえ! 受かればいいんだよ、受かれば!」
まあ本田の言うとおり結果を残せば良い話ではある。
しかしこのままでは今後も同じ問題が繰り返されそうな気がして怖い。何にせよまずは目の前の試練を乗り越えてもらわなければな。
「白瀧、いざという時は俺達も助けるが、お前もしっかりサポートしてやれ」
「はい。西村には以前も勉強教えたこともありましたし、何とかしてみせますよ」
頼むぞ、と佐々木さんは一声かけて倉庫へ向かった。
部活は休みなのだし、今日明日はチームメイトのサポートに徹するとしよう。
責任重大だがあいつらにやってもらわないと俺も困るからな。
「ああ、そうだ白瀧。悪いが橙乃の元に行ってくれないか?」
「別にいいですけど、何かありましたか?」
「近々IHに向けての合宿がある。それについて藤代監督がマネージャーに話しておくことがあると言ってな。
多分給湯室で洗い物をしているはずだ。ちょっと呼んで来てくれ」
「わかりました」
主将の依頼となれば従うまで。
俺は体育館を後にして給油室へ向かった。
――――
「橙乃、いるか?」
給湯室の扉を空けて相手の名前を呼ぶ。すると呼び声に反応して橙乃は洗い物の水を止めて振り返り、柔らかい笑みを浮かべた。
「お疲れ様。わざわざここまで来てどうしたの?」
「俺は用事を頼まれただけ。藤代監督が合宿について話すことがあるんだって。今大丈夫かな?」
「監督が? そう、わかった。すぐに行くね」
手にしたボトルの水分をふき取り、箱にしまう。
彼女もマネージャーの仕事は板についたのか慣れた手つきだった。
一通りの片づけを済ませると額の汗を拭ってこちらへ歩いてくる。
「あ、れ……?」
「なっ、橙乃!?」
だが突如目眩でもしたのだろうか。
足がもつれ、バランスを失った体は地面に吸い込まれていく。
倒れる寸前のところで彼女を抱き寄せるも、橙乃は力が抜けてしまっていて、支えなければすぐにまた倒れてしまいそうだった。
「おい、どうした!?」
「あ、ごめん。ちょっと、ふらついちゃって……」
「……へ? 橙乃? ちょっ、ええ!?」
橙乃はそう呟くとそのまま気を失ってしまった。
いや、この状況で倒れられては俺の頭が働いてくれないのだが。
――――
意識がまだ覚醒せずぼんやりとする中、薄っすらと目を開く。
「んっ……」
橙乃が目にした先には白い天井が広がっていた。先ほどまでいたはずの給湯室とは別の場所。そう認識すると何故自分がここにいるのか。記憶を辿るものの中々思い出すことが出来ない。
「なんでだっけ?」
「目が覚めたか?」
「え?」
考えにふけていると真横より声がかかった。
振り返ると白瀧が椅子に腰掛けていた。橙乃の目覚めを確認すると立ち上がりベッドに近づいていく。
「白瀧君。ここは……?」
「保健室だ。橙乃を呼びに行ったらいきなり倒れこんだから俺が運んだんだ」
「……そっか」
思い出した。そうだ、監督が用事があると言われ、向かおうとしたところ意識が反転してしまい、そのまま倒れこんでしまった。
「ありがとう」
「気にするな。先生は睡眠不足と言っていたよ。最近寝ていないのか?」
礼を言うと、白瀧は心配そうに顔を覗きこむ。
――睡眠不足。たしかに思い当たることがないわけではなかった。
「うん。昨日は……ちょっと体が火照っちゃって全然眠れなかった」
「あー、優勝して嬉しかったということね。頼むから紛らわしい表現はやめてくれ」
頬を紅潮させて細々と紡がれた声。白瀧は心の動揺を隠しつつ冷静にツッコミを入れて制した。
「今は東雲さんがマネージャーの仕事をしているから、少し休むといい。
本当は同じ女性の東雲さんがここにいた方がいいんだろうけどな。さすがにマネージャーの仕事を俺が代わるよりも、東雲さんの方がわかっているから、そうして欲しいといわれたんだ」
「そうだったんだ。悪いことしちゃったな」
結果的に頼りになる先輩に仕事を押し付けてしまうこととなり、橙乃は複雑そうな表情を浮かべる。
自分を責めているのかもしれない。白瀧にはそう見え彼女を気遣うように話を続けた。
「あんまり無茶するなよ? 昨日のこともあるだろうけど疲労がたまっていたってことは、普段詰め込みすぎってことだ」
「うん。わかってる。……でもそれを白瀧君に言われたくはないよ」
「何でだよ?」
「だって白瀧君だって試合中に無茶をしているじゃない。後のことは考えずに、プレーして。それこそ聖クスノキ戦のときとか」
思い出されるのは準決勝のこと。
白瀧が楠との戦いで無理をし、その結果体に大きな負担がかかってしまったということだ。
さすがにこれを完全に否定することはできず、白瀧は「ああ、あれか」と話しずらそうに頬をかいている。
「俺は別に無茶しているとは思っていないんだけどな。なんというか……試合中は集中して自分の体が限界だと感じないというか」
「……ああ、鈍感ってこと? 自覚してたんだ」
「違う! 何故納得する!?」
心外だと白瀧が必死に否定する。
「納得するということは、普段俺のことを鈍感だと思っていたということか?」と白瀧は当然の考えに思い至った。
その反応を見て橙乃はため息を吐き適当にあしらった。
「とにかく目が覚めたのなら何よりだ。監督にも知らせてくるよ。ちょっと待っててくれ」
元々の用事を逃げ道にして白瀧が立ち上がった。
だが出口に向かおうと歩き出そうとすると、後ろから手をつかまれ行動に移すことができなかった。
「ん? どうした?」
「女の子を一人っきりにするのはよくないと思うよ」
「いや、むしろ男女二人っきりという状況の方がよくないと思う」
「なんで?」
「……変な気が起きたりしたら困るだろ」
「大丈夫、信じてるから」
一刻も早くこの状況から解放されたい。そう願う白瀧は適当に理由を繕う。
しかし視線を逸らす白瀧とは対照的に、橙乃は真っ直ぐ見つめて断言した。
その姿勢に白瀧の考えも揺れ動き、
「橙乃、お前……」
「白瀧君はどうせそんなことをする勇気の欠片も持っていないって信じてるから」
「信じてるって言えば何を言っても許されると思うなよ?」
思いとどまろうとした考えが木端微塵に砕け散った。薄い笑みを浮かべ、こめかみをひくつかせる。
余談だが、後にこの話を聞いた東雲は『コートにおいては『帝光の原点』とまで称され恐れられている白瀧君も、女性の前ではただの男』と評した。
「……仕方ない」
一度は踏みとどまったものの、また去ろうとする白瀧を見て橙乃がある行動に出る。
着ているブラウスのボタンへと手を伸ばしそしてその一つをゆっくりと外していった。
「ちょっ、なぜ無言でブラウスのボタンを空けていく!?」
思いがけない行動が繰り広げられ、咄嗟に両手で目を覆い誘惑をふり払おうと努力する。
「見ないぞ俺は! そんな誘惑に屈するような意志が弱い男じゃないぞ!」
なお、うっすらと目を開けてしまう程度の意志の強さのようである。
「ねえ、白瀧君」
そして白瀧をさらに追い詰めるように橙乃が誘惑する言葉を、
「今ここで私が悲鳴を上げたらどうなると思う?」
「誘惑じゃなくて脅迫だった!?」
――訂正。ただ追い詰めるだけの言葉を口にした。
まったく予想できなかった橙乃の思惑に、白瀧は唖然とする。
だが橙乃は白瀧に冷静さを取り戻す余裕さえ与えないように大きく息を吸い、言葉に変えて吐き出した。
「キャ」
「うわああ! 止めろおおおお!」
このままでは社会的に死んでしまう。そう判断し、白瀧は反射的に瞬発力を発揮する。
わずか一歩で詰め寄ると橙乃の叫び声が響かないように口を押さえ、そして勢いあまってベッドに押し倒してしまった。
「茜ちゃん、何か悲鳴みたいなの聞こえたけどちゃんと大人しく休んでた? 栄養補給ができるもの、持ってきた……よ?」
そして最悪のタイミングで東雲が保健室の扉を開けてしまった。
「あ」
部屋全体の空気が凍り付く。
ベッドには体調を崩し、横になっていた橙乃。彼女の服のボタンがなぜかいくつか外れている。
そしてその彼女の口を押さえ込み、上に覆いかぶさるように白瀧がいた。
橙乃の口角がわずかに上がったように見えたのはきっと気のせいだろう。そうに違いない。
――黒子のバスケ NG集――
「橙乃、いるか?」
給湯室の扉を空けて相手の名前を呼ぶ。すると呼び声に反応して橙乃は洗い物の水を止めて振り返り、柔らかい笑みを浮かべた。
「お疲れ様。わざわざここまで来てどうしたの?」
「俺は用事を頼まれただけ。藤代監督が合宿について話すことがあるんだって。今大丈夫かな?」
「監督が? そう、わかった。すぐに行くね」
手にしたボトルの水分をふき取り、箱にしまう。
彼女もマネージャーの仕事は板についたのか慣れた手つきだった。
一通りの片づけを済ませると額の汗を拭ってこちらへ歩いてくる。
「あ、れ……?」
「なっ、橙乃!?」
だが突如目眩でもしたのだろうか。
足がもつれ、バランスを失った体は地面に吸い込まれていく。
倒れる寸前のところで彼女を抱き寄せるも――
「んんっ!?」
「――――!!??」
伸ばした手が橙乃の胸に収まってしまった。
白瀧、ラッキースケベ発動。しかもこの後、体調が悪いために息が荒くなった橙乃を見て、白瀧はそのまま30分間身動きができなくなってしまった。