「兎さん、皆行っちゃったわよ。貴女は本当によかったの?」
先生は机に向かったままいつもの感じで優しく話し掛けて来る。
「私は、合コンなんてとてもとても」
兎は机に向かい、いつもと変わらない仕上げ作業をしている。
「人見知りだものねえ、兎さん。一人だと寂しがる癖に」
「先生といられればいいです」
連載は終わったのに、先生は変わらず続きを描き続けている。
だから兎も何も聞かずにひたすら手伝い続ける。
「皆さん良い行き先が見つかるといいわね」
「大丈夫ですよ、みんな私と違って明るくて社交的だし」
「貴女だって、兎さん。こんな所で埋まっていないで、新天地で幾らでも花開く才能があるのよ」
「ダメですよ、私なんか」
「またそんな」
「先生をないがしろにした世界になんて出て行きたくありません」
「頑固ねえ、兎さん」
引き戸が開いて兎より四つ五つ年上の、外出支度の女性が入って来た。キリリとひっつめた髪にメタリックの赤縁眼鏡。
「二人の世界に浸るのも大概にしていて下さい。入って来にくくなるじゃありませんか」
「ごめんごめん、狐さん。お出掛け?」
「打ち合わせです、七峰氏から連絡があって」
「あらあらそうだったわ。こちらから連絡をする約束だったのに」
「そういうのはマネージャーの私に話しておいて下さい。きちんとスケジュールを組みますのに」
「だってねえ、狐さん、もうスタジオ解散しちゃうし」
「解散したってマネージャーは必要でしょうが、貴女には特に。私が居なかったらどうするつもりなんです」
「ごめんねえ、狐さん。でも貴女も資格を沢山持って優秀なんだから、どこへでも好きな所へ行っていいのよ」
「本気で言っているんですか。私が居ないとシャンプーの移し替えも出来ない癖に」
「えへぇ」
「先生のようなフワフワした人を放っておけますか。そんなだから舐められて、無断でアニメ企画なんか進められちゃうんですよ」
「うふふ、あれはビックリしたわねぇ」
「うふふじゃないですよ。担当編集が交代して挨拶にも来ないと思っていたら、あの宇宙人社員、何をやらかしているんだか」
「ふふふ」
「サプライズしようと思った、って、馬鹿でしょ」
「あははは」
「そもそも、先生の名前すら、何度訂正しても『テングウザン ヨウコ』って呼ぶんですよ。何度、訂正、し て もっっ」
「あは、ふふふ、誰よ、それ」
「そんなだから舐めても大丈夫だと思われるんですよ。実態は舐めてもただ鉄の味しかしない、断じて許諾の判を付かない鋼の牙城のくせに」
「ふふ、まあもう縁の貯蓄も底をついたし、丁度契約も切れる時だったからキリが良かったわ」
「専属契約更新されないなんて、向こうは毛の先ほども考えていなかったみたいですけれどね」
「だってぇ、もういいじゃない、アチラの事なんかどうでも」
狐は、ごくたまにこの女性が分からなくなる。何十年も添った雑誌とこうもあっさり別れられる物なのか。いやかなり杜撰(ずさん)な扱いを受けていた事は確かだが。
(この人の心の底の深い深い根は、まだ自分には見えていないのかもしれない……)
一昨年逝った自分の母なら分かっていたかもしれない。
生涯を天宮山羊子のマネージャー業に捧げた母に、先生は可能な限りの医療を援助してくれた。
元々、年端も行かぬ自分を抱えて夜中の橋に佇んでいた所を、こんな感じで話し掛けて来て連れ帰ってくれたらしい。だから親子二代掛けて尽くす。
「これからだって生半(なまなか)じゃないですからね。まだまだお供させて貰いますよ」
「頑固ねえ、狐さんも」
兎は、先生と狐の会話を聞き流しながら綿毛みたいな城を描く。
二人が喋っている言葉の意味は分かるが内容は咀嚼しない。
自分には知らなくてもいい事だから。
七峰と狐さんは、わりと話が合いそうな気がする