「ただいま帰りました。めぇ先生は?」
「同窓会」
「そう。 狐ちゃん、紙運ぶの手伝って」
「はいはい」
「今日、亜城木夢叶の高木さんに会ったよ。画材屋で」
「ふうん、まあ兎ちゃんなら余計な事は喋らないだろから安心だけれど」
「余計も何も、私、先生を困らせるような事は、何ひとつ知らないもの」
狐と呼ばれた赤縁眼鏡の女性は、振り向いてうろんな目で背後の女性を見やる。
兎はいつもの様子でのんびりと、席に座って十何年も変わらない仕上げ作業を始めている。
彼女は漫画どころか何の娯楽も喜びも無い世界で育ったらしい。
狐が高校生の頃、ある日突然先生が、今でいうトー横みたいな場所から、オタマジャクシを掬い上げるように拾って来た。
それからのべつ、生まれて初めて出会った天宮山羊子というファンタジーに、オタマジャクシのまま浸り続けている。
多分これからもずっと。
***
亜城木企画のマンション。
高木が、今日会った兎というチーフアシの女性から聞いて来た話をする。
中井は、天宮山羊子のスタジオで割と受け入れられていた。最初しゃべりがウザがられたが、次第に大人しく仕事にだけ没頭するようになって行ったという。
「あの中井さんが? 何で?」
「『皆で一丸となって先生を守ろう』って隠しスローガンを教えられてからだって。仲間入りさせて貰えた気分になれたんじゃない? まあ、尊敬する先生を中心に若い女の子たちと一体感を持てて、あの人にとってこの上ない職場だったんじゃないかな」
「はあ……中井さん、そういうんで良かったんだ。今までの周囲の気苦労は何だったんだよ」
「あの人、頼られるのは好きだもんなあ」
「暴力事件の事は聞けた?」
「うん、彼女が知っている範囲でね」
丁度マネージャーが公的用事で外出していた日の事。
超学館の権利関係の部署から直電が入り、『今度のアニメ化の許諾の件で』と言う。
先生は「は?」と口を半開きなまま硬直。誰も知らない、寝耳に水。電話はすぐに来社して判子を付けと居丈高。
マネージャーに連絡しても彼女も初耳、しかも手が離せない。
「わ、私がお供します」
兎が立ち上がるが、臆病な彼女はもうその時点で足が震えてしまっている。
「俺が同行しましょうか?」
恰幅ある男性の中井が進み出るのは自然な流れだった。
その後超学館で起こった詳しい事を、彼女は知らない。
出先から直接そちらへ出向いたマネージャーが蒼白な先生を抱えるようにタクシーで帰宅し、中井の姿は無かった。
そして彼女はそれ以来、中井の姿を見ていないと言う。
「先生に聞かないの?」
という高木の問いに、
「先生が話さない事は聞かない」
と彼女は答えた。
「あれ? でも小杉さんが、中井さんは不問になったって……」
「うん。翌日マネージャーがスタッフたちの前で、『中井さんは事情があって今は来られないけれど、けしてクビにはしない』と宣言したって。それと同じ内容を、出版社の方でも言い渡して来たんじゃないかな」
***
喫茶店で話したチーフアシの兎は「知らない」「分からない」の連発だったが、隠している風ではなく、高木に対して終始真摯な態度だった。
水里サロンを途中で帰ったのは、中井の知り合いだと分かって『石を投げたら知り合いに当たる状況』が急に怖くなったらしい。「気に病ませていてごめんなさい」と逆に謝られてしまった。
しかし話してくれた事を繋ぎ合わせると、大体色々、察しが付いて来る。
そこに高木が経験したラリアット編集者の宇宙人具合を掛け合わせると、どこかの時点で中井がブチ切れるのは容易に想像出来た。
先生は、中井が暴力を振るった事も含めて、その日に相当なショックを受けたんだ。どの程度ショックだったかって、引退を言い出す程のショック。
中井は中井で殴った事実は戻せないし、先生は引退を宣言してしまうしで、何とか状況を変えられないかと、知己のある七峰に依頼に行った……
「・・って所か?」
高木が自分の考察と共に話を終えた。
「俺たちの所へ来なかったのは、巻き込みたくなかったのと……やっぱり、頼りにならなかったからだと思うぞ」
真城は反論しないで口端を結んだ。
確かに自分たちは少年漫画のように、「しっかり」「元気出せ」「頑張れ」しか言えない。都合のいいヒーローは出て来ない。
カヤが茶(苦くないの)を入れて来て、三人でソファに沈み込む。
「アニメ化の話って本当にあったんだな……」
「ごめん、俺、知ってた、美保に聞いて。発表前の物だし迂闊に話せなくて」
「そうか。それはいいよ、その通りだし。でも美保ちゃん経由って事はキャストまで決まっていたのか」
「レジェロの娘役だったって」
「うわぁ、見たかったなあ」
「私も見たかった!」と言うカヤは心底残念そう。
「プロモーションビデオにも声を当てて、後は公式発表って段階だったらしい」
「・・え、ちょっと待って? それって本当にギリギリじゃん? まさかその時点で初めて漫画家側に寝耳に水な直電が入った訳?」
話を聞いて来た筈の高木が逆に聞き返す。
「今の話から想像すると、そうじゃないか?」
「うへ」
亜城木夢叶もメディアミックスの経験はある。ドラマCDとテレビアニメが二本。
アニメ化は、出版社内の権利部と編集部で企画したり、外部の製作会社からの打診だったり様々だが、漫画家が出発点という事は無い。
だからと言って、漫画家に知らせもしないで作り始めてしまえる物なのか?
「あり得るのか? そんな事?」
高木の言葉に真城も疑問の顔を見合わせた。普通漫画家ってどの時点で初耳する物なんだ?
自分たちは比較的早い段階で知らされた方だと思う。打ち合わせに列席させて貰え、何だったらキャストにまで口出しさせて貰えた。
ジャック仲間も同じような感じで、報せが遅いという不満の声は聞いた事がない。
でも編集部、出版社が違ったら? 常識も違って来るのだろうか……
「あのさ」
カヤがそろっと切り出した。
「この辺りでもういいんじゃない? これで満足しておこうよ」
「んん?」
「ほら、一番最初の目的は、中井さんが心配だったのと、七峰透と同じだけの情報を知りたい、って事だったでしょ。だいたい達成出来たじゃない」
「うん……そうなのかな」
高木は真城を見た。
中井とはまだ連絡も取れないが、居場所が分かって無事でいて、目的も察せられる。事態を良い方へ転がそうと努力している所だろう。
七峰だって、先輩作家に相談したりちゃんと動いているみたいだし。まあ、高木としてはもう真城に彼の名を聞かせたくなかった。
真城は少し時間を置いて「そうだな」と頷いた。
「良かったあ!」
カヤは一人元気に背筋を伸ばす。
「もお! 秋人さんはボロボロになるし、真城はピリピリするし、聞いちゃいけない事が多くて、こっちは大変だったんだからあ!」
「そんなに心配させた? ごめん」
「岩瀬さんの同伴者として出掛けたり、天宮先生のアシの女の人に会う為にすっごい労力使ったり、この寛大なカヤ様じゃなかったら余裕で家庭争議モノよ」
「う、うん、スミマセンでした……」
「罰として、次の休みは私の為に使って!」
「う……ハイ、分かりました」
そんな二人を横目に、真城は目を閉じた。
さっきカヤの言った二つの理由、実はもしかしたら、七峰の方はもうどうでもよくなっていたのかもしれない。
――いや逆だ。
(だからまだ、こんなにザワザワ ザワザワ するんだ)
目を開けると、すぐ前に高木の顔があった。
「全然満足の顔をしていないぞ」
「そんな事ないよ」
「長年そばにいる相棒の目を見くびるんじゃねぇよ。こちとらこんなに苦労したんだ。そっちだって本音を白状する位の労力を使え」
「何だよ、その理屈」
カヤの方を見ると、肩をすくめて苦笑いしている。ごめん……
「分かった、言う。うまく説明出来ないけれど……
ずっと、天宮山羊子が気になっているんだ。どれほどの目に遭って作家を引退する気持ちになったんだとか、栓なく考えてはクヨクヨしてしまう。会った事もないのに」
「それで……もしかして、七峰だけに任せているのが悔しいとか、そういうの?」
「よく分からない。最初はそうだったかもしれないけれど」
「そんなの、ファンだったら当たり前じゃない」
カヤのキョンとした言葉に二人は振り向いた。
「真城、天宮山羊子のめっちゃファンじゃん。あの後15巻以降も入手して並べて、暇があったら読んでるし」
「え、それは、作画や構成に学べる所があるからで……」
「会った事もない好きな作家が辛い思いをしているかもしれないと思うと自分も辛くなって夜も眠れないくらいゾワゾワしちゃって、自分の嫌いな奴が直接役に立ってるのが悔しいとか、厄介ファン以外の何なん?」
「…………」
「作家のくせにそんなのも分かんなかったの?」
「…………」
「ああ――、じゃそういう事として」
高木が間に入る。
「俺は厄介ファンと違う!」
「うん、じゃ普通のファンって事で。サイコー、そんで、どうしたい?」
「どうも……何も出来ないだろ。遊栄社の事しか知らない井の中の蛙だし、だから中井さんにも頼りにして貰えなかったんだし」
高木が名刺入れから、別枠にしまっていた白い名刺を取り出した。
「ワイルドカード使っちゃおう」