結局カヤが茶を出して、中井はやっと落ち着いた。
真城は机で単行本作業に戻り、高木が聞き役を引き受ける。カヤが好奇心満々という様子で、高木の横にポスンと腰かけた。
「天宮山羊子(あまみや やぎこ)先生…… 初めて、人として尊敬出来る先生に出会えたんだ」
(ええっ!?)
(今まで色んな漫画家の所を回って、誰一人リスペクトしていなかったの!?)
という言葉を二人は呑み込んで、「どんな先生なの?」と相づちを打った。
「何かこう、話し方がゆったり穏やかで、笑うと仏像の菩薩みたいで。同じ空間にいると安らぐんだ。仕事に行くのにあんなにウキウキしたのは初めてだった」
「ほ……ほぉ」
高木は奥の机の真城と顔を見合わせる。天宮先生の年齢は知らないが、昭和から第一線で活躍している漫画家な筈。中井さんの守備範疇って?
「あっ、今、色恋をからめて考えただろ。違うからな! 人として尊敬しているんだからな!」
「は、はあ」
「俺は色んな先生の所を渡り歩いて、作品では綺麗事を謳っていても実際はアシに人とも思えない扱いをしている現場なんか、ザラだった。
でもあの先生は違う。スタッフにも誰にも全然偉ぶらなくて、本人が作品の中の聖女その物で」
この人がこんなに他人を誉めるなんて……
原稿に向かっている真城も、描きながら口を半開きにしている。
「その先生がさ、俺とチーフアシが言い争ってる向こうで、泣くんだよ。急に無言で下向いてホロホロと」
「ええっ!?」
「アシは『先生!』ってそっちに駆け寄るし、他のアシも動揺するし。マネージャーの人が奥から出て来て、今日の所はお帰り下さいって」
「…………」
いつもなら行き辛くなってあっさり退職する中井だが、今回は自分でも驚く程に後悔に襲われている。
元々週末のみの契約で、次の出勤予定日が迫っているのだが、辞める連絡も行く連絡も出来ず、かと言って会わせる顔もなく、悶々とのたうち回っているという。
「それでせめて先生の作品ぐらいは読んでみようと思い立ったんだ。したら最初の方のが全然どこにも無くて」
いや尊敬しているんならすぐ読めよ、と、心の中で突っ込みながら、高木真城は溜め息を吐いた。変なプライドがいつも邪魔して、チグハグなんだよなあ、この人。
カヤが伺うようにそっと口を開く。
「読んでみたら全然違うって分かったじゃない。それ言って素直に謝れば?」
「うう……謝るかあ……でもなあ……」
「頑張って謝りましょうよ」
「いや、今更……」
駄目か、これは・・
カヤも黙って、お通夜みたいになってしまった。
もう帰ってくれないかなあ、なんて思っている所に、中井のスマホがデンデンと鳴る。
「メールだ……天宮先生から……」
***
『情けない所を見せてしまってごめんなさい』
メールの書き出しは謝りの言葉。
『気に病まれているのではと心配しています。貴方は貴方。我がスタジオに必要な方なので、明日からも是非ともいらして下さい。皆で待っています』
添付画像がある。開くと、スタッフ一同笑顔の集合写真。
真ん中に座る小柄な老齢女性が天宮山羊子だろうか。確かに日出処(ひいずるところ)の天子の如く、吸い込まれるようなアルカイックスマイル。バリキャリウーマンでも才女でもない、どちらかというとお地蔵さん。
後ろに四、五人のスタッフであろう若い女性たち。大きなシフォンケーキの乗った皿を持ち、『狐さんが焼いたよ。中井さんの分↓ 来てくれないと食べちゃうぞ』と書かれた紙を添えている。
「美味しそう! 私が行こうかな!」
覗き込んだカヤが叫んだ。
「馬鹿野郎、俺のだ! 俺の……うおううう……」
スマホを抱え込んだ中井がボロボロと泣き始めた。
やや女子ノリに感じたが、感動したのか、感動したんだろうな、この人こんなの人生に無かったんだろうな。
「よ、良かったですね、中井さん」
「お、俺、明日謝る! 一生この先生に着いて行く! ぅうお~~おろろんおろろん」
「はいはい、分かりましたから、ソファに鼻水付けないで下さい」
宥めながら高木と真城も、そこそこ驚いていた。
聞きしに勝る聖人だな。
こんな作家……いや人間が存在したのか……
十五冊を読み終えて、中井は礼を言って帰って行った。
室内の三人はしばし茫然としている。
それほど中井の変化は衝撃的だった。
彼は本当にどうしようもない人間だったのだ。自分勝手で他を省みず、反省しても同じことを繰り返す。かろうじて外の社会と繋がれているのは、ただただ画力が優れているから、だけ。
そんな中井が自分の非を認めて誰かを尊敬する日が来るなんて。
何にしても悪い事ではない。これを機に真人間の道に入り、あわよくば良い縁の一つでも掴んで欲しい。
三人はそんな心持ちで、それぞれの仕事に戻った。