亜城木夢叶の二人、高木も真城も、中井の変化を特に口外しなかった。
話題にするほどでもないし、尊敬する先生のもと平穏に仕事を続けている彼を、変に煽らずそっとして置きたかった。
良い人間関係に恵まれれば性格も落ち着いて、その内ひょんと意外な報せの一つも耳に出来るかもしれない、そんな風に思ってあえて触れずにいた。
何だかんだ言って二人とも、彼を憎めず気に掛けているのだ。
だから、メディアミックスの仕事で出向いた遊栄社のロビーで、たまたま行き合った同業の福田真太(ふくだしんた)から『その事件』を聞かされた時は、雷を落とされたような衝撃を受けた。
「中井さんさぁ、超学館で暴力沙汰を起こして大変だったらしいぞ」
「ええっ!?」
「まさか!」
「今度こそグループ会社全部から締め出されちまうんじゃないか? 遊栄社なら庇ってくれる人もいるだろうが、超学館じゃあなぁ」
福田は鼻苦い顔で紙コップのコーヒーをすする。今でこそ人気連載作家の彼だが、下積み時代は中井と苦楽を共にした仲だ。
「超学館の建物内で? ま、まさかアシスタント先の作家先生んちじゃないでしょうね。暴力沙汰って……誰かを怪我させたりしたんですか?」
「俺も詳しくは…… あ、お――い、小杉さん」
丁度顔見知りの、少年ジャックの編集部員 小杉が通りかかったので、福田は手を上げて呼んだ。
「し、知りませんよ、系列会社と言ってもあちら(超学館)とはほとんど交流がありませんから」
若手と言えど、守秘義務はきっちり守る小杉。
「通達ぐらい来ているだろ。仮にも一時期ジャックで連載を持った作家だし」
「本当に知らないんですってば。そもそも超学館とうち(遊栄社)、仲が悪いですからね……
ゴニョゴニョ」
福田達は顔を見合わせた。
確かに、総合文芸を謳う超学館から色々あって分離独立したのが漫画を柱とする遊栄社。表向きは同グループの系列会社だが、中身はまったく違う。
超学館にも漫画部門はあるが、あちらでは漫画……特に少女漫画なんかは下に見られていて、配属されたら飛ばされた扱い。
遊栄社と超学館の空気が別物なのは、漫画家たちも常々肌で感じている。小杉さんの立場を考えるとあまり突っ込むのも気の毒だ。
「あの、じゃあ小杉さんは、中井さんどうなると思います? あの人漫画しか描けないのに、もうそっちの仕事が出来なくなるんでしょうか。俺ら心配で」
「ああ―― どうでしょね。中井先生、うち(少年ジャック編集部)じゃ評判悪くて、皆関わらないようにしていたし……」
「冷てぇな――」
福田が斜に構えた。
「仮にも一度は連載を持たせた作家じゃねぇか。俺も連載を干されたら、そんな風に言われるのかな、ああ世知辛い世知辛い」
「そんな事ないですよっ。ふ、福田先生は、他の先生に失礼な事を言ったり 無断でバックレたり アシスタントの女の子にセクハラして現場を空中分解させたりしないでしょっ」
「お、おお……」
そんな事までやらかしてたのか中井さん、そりゃ嫌われるわ。
「まあ、事を起こした現場は超学館の会議室で、あちらは何があっても内輪のなぁなぁで済ませたい体質だから、大事には至らないんじゃないでしょか。
中井さんなら古参のアナログ作家さん達に重宝がられているから、いきなり干されるような事は無いと思いますよ。今入っている先生の所もクビにはならないみたいだし。
出版社も作家が個人的に誰を雇うかまでは口出し出来ませんからね。っていうか、そもそもあちらの編集は漫画家と極め細かい付き合いなんかしませんから。
だから古い作家さんほど、編集者を殴ったぐらいで切ったりしなんじゃないかな。恐怖漫画で超大御所の魅衣羅(みいら)先生なんか、事件を聞いて高笑いしていたって言うし」
(……殴ったのかよ……)
話を濁すつもりで色んな情報をポロポロ溢して行ってくれた小杉を見送って、三人は再び顔を見合わせ溜め息を吐いた。
やがてそれぞれの担当に呼ばれて、その件についてはもう口にせず別れた。
***
次に中井らしき噂を聞いたのは真城だけで、それは意外な口からだった。
亜城木夢叶の作画担当 真城の妻は声優で、漫画家と生息域が重なっているようでかなり違う。
その妻の美保が、仕事から帰った自宅で、珍しく愚痴をこぼした。
「内定していた仕事がひとつ、ダメになってしまったの」
「ダメになったって?」
「企画その物が立ち消えになったの。プロモーションビデオにも声を当てて、あとは正式発表を待つばかりになっていたのに」
「それは残念だったね」
一旦持ち上がったアニメの企画がポシャるのはたまにある。予算的な物だったりスポンサーの都合だったり、原作サイドからの何らかだったり色々だが、発表もされていない企画の裏話にはあまり突っ込まないのがエチケットだ。
しかし美保には吐き出したい気持ちがあったようで。
「そう、そうなのよ! 小さい時から大好きだった漫画! 話が来た時思わず飛び上がっちゃった。本当に本当に楽しみだったのよ。
PVもイメージぴったりに作ってあって素敵で。ああ最高君に見せてあげたかった、リリーシャの城が光の中からフワッと現れて」
「リリーシャの城……『遥かなる薔薇のレジェロ』?」
「あっ、知ってるんだ……おっといけない」
ここで美保は自分の立場を思い出す。
「つい溢しちゃうほど悔しかったんだね。俺も好きな作品だよ。あの綺麗な世界で美保ちゃんの声が流れるのを聞きたかかったな」
「うん、もぉ、正式発表になれば最高君と一緒に盛り上がれたのに」
「はは、ご飯にしようか」
不規則な仕事の二人だが、なるべく食事は共にするようにしている。
忙しい筈の妻なのに、いつも何かしら夫の身体を気遣った物を食卓に並べてくれ、真城はそれを優先に口に入れる。
「しかし、天宮 山羊子先生って、あまりメディアメックスはしない人だったよね。企画した人、頑張ったんだろうな」
「そうなの。大昔に実写映画はあったけれどアニメは初めて。私、企画を聞いたら話が来なくても、きっと自分からオーディションを受けに行ったわ」
熱く語る美保。本当に悔しかったんだな。
そんなにファンなら中井さんに頼んでサイン色紙でも貰ってあげようか、なんて思っている所に
「だから、打ち合わせの席でゴタゴタを起こした人、許せない!」
「え」
「先生の所の男性スタッフが出版社の人と争って、そのせいで先生が悲しんで企画が流れる所まで行っちゃったって、本当に許せない……あ、」
真城が硬直しているのを見て、美保はすぐに口をつぐんだ。
「ご、ごめんなさい。おうちでするような話題じゃなかったね」
「ああ、うん、平気平気」
真城も平然を装って箸を持ち直した。
「ただの噂だろ? そういうのって得てして一方的な目でしか語られないからさ、用心用心。作家が悲しんで企画が流れただなんて不自然じゃん。きっと小さい不備が積み重なっていたんだと思うよ」
「そ、そうよね」
「少女漫画家は繊細でデリケートなんて思われがちだから、そんな噂が成立しちゃうのかな。実際は長らく作家をやっている人なんて、男女問わず責任感があってしっかりした人ばかりだよ」
「そうよね、天宮先生の作品からも芯の強さが伝わって来るもの。うん、このお話はもうおしまいね」
「さ、食べよ」
話を切ったが、真城の内心はザワ付いていた。
確かに漫画家なんて過酷な仕事、精神が強くなきゃやって行けない。
そんな噂は信用するに値しない。
だが中井に聞いた天宮山羊子の聖女のような人柄が、小さな棘のように引っ掛かる。