中二階からカクカクと、階段を踏み外さずに下りきり、高木はエントランスを今一度振り返る。
まるで異世界に迷い込んだようなさっきまでの空間。でも出版界の真ん中に鎮座する超学館の日常である事には間違いないのだ。
(俺たちが遊栄社に持ち込みに行ってまだ十年と少し……)
あの日だって感情のジェットコースターで、帰る時はヘトヘトだった。でも希望に満ちた疲れだった。
(俺ら、本当に、場所と時代に恵まれたのかもしれないな)
さ、帰ろう。
息を吐いて踵を返し、勢いよく出した一歩をフロアマットに引っ掛けた。
「ぐああ!」
思いきりすっ転んで一回転する高木。
何で今ここでなんだよ、勘弁してくれ、カッコ悪りぃ。
ケースの蓋が開いて原稿が散らばる。まずい!
「まあ、大変」
うつ伏せた視線の外でまろやかな声が響き、屈んで原稿を拾ってくれる誰かの影が床に映った。
「貴方、大丈夫? 動ける?」
「だ、大丈夫です」
高木は慌てて起き上がり、自らも原稿を拾った。あちこち痛いけれど、早くここを立ち去りたい。
「あ、ありがとうございます」
「貴方がお描きになったの? この男の子とてもチャーミング、素敵だわ」
拾った原稿を眺めながら渡してくれるのは、歳の頃は天宮山羊子と多分同じくらいの、上品なスーツ姿の女性(と言っても高木は年配女性の十や二十の違いが分からない)。
何となく既視感がある? 華奢な天宮先生とは対局の、どっしりと存在感のある人だが、醸し出す雰囲気が似ている気がする。
「一応枚数を確認した方が良いわ。大切な物でしょう?」
そう言って立ち去る女性に、高木は胸一杯でもう一度お礼を言って頭を下げた。ここへ来てやっとまともな人間の言葉を聞けた気がする。
――しかし
「無い、二枚足りない!」
確かめようと座った玄関脇のベンチで
「見開きの一番大事な所が!」
高木は青くなる。
朝、確認した時はあった。いつ目を離した? 転んでぶちまけた時? いや……
高木は受け付けに走り、さっき立ち会った二人の名を告げた。
「原稿が足りないんです。そちらのどこかに紛れ込んでいないか問い合わせて下さい!」
はあ……という感じの受け付け嬢はのろのろと内線を取る。
確かにボツ原稿だけれど一度は遊栄社に提出した物だ。こっちに残して行くのはまずい。第一、真城が一所懸命描いた物じゃないか。
「あの、先ほど、お帰りになった時の段取りに問題があったのでは。確認せずに帰られた秋山様に非があると、当社の二名は申しております」
そ、そりゃ、失礼な態度で帰ったけれど……
「部署はどちら?」
高木の後ろから声がして、先程の女性が受け付けカウンターに手を置いた。
***
「大丈夫だから待っていなさい」
との言葉を残してどっしり女性が去った後、半信半疑で待っていたら、さっきのWeb部の鳴尾が本当に原稿を持って来た。しかも封筒に入れている。
「コピー機に挟まったまま……でした」
「無許可でコピーを取ったんですか」
「アングルが良かったから、うちの作家に参考にさせようと……奴は許可を取ったと言っていたのに……ゴニョゴニョ」
「廃棄しておいて下さいね」
「なあ、『烏丸 生黄泉(からすま きよみ)』と知り合いなら、最初に言っといてくれよ」
「何で言わなきゃならないんです」
高木は今度こそ踵を返してスタスタとその場を去った。
背中に冷や汗が流れている。
――烏丸 生黄泉(からすまきよみ)っ・・!?
既視感があると思ったら朝のニュース番組とかでたまに見る文化人枠のコメンテーターじゃねえか。本業は文筆家だろうが、これだけ皆がヘコヘコするって事は、相当の稼ぎ頭で『発言力のある権力者』なんだ。
(お、俺、失礼を言わなかっただろうな?)
鳴尾じゃないけどこっちだってビビるわ。
でも結局は、自分の浅はかで原稿を失い、権力に助けて貰わねば取り戻せなかった。
悔しい。情けない。穴を掘って飛び込みたい。
(早く帰って風呂入って寝よう)
くたくただ。
しかし、くたくたの高木を、この日の運命はまだ休ませてはくれなかった。
***
やっとこの建物を出られると、喜び勇んで自動ドアの前に立った高木に、思わぬ人物が鉢合わせをした。
「い、岩瀬?」
「高木君……」
弱っている時に会いたくない人物ナンバーワンがクリーンヒットしてそこに居る。
岩瀬愛子。中学時代の同級生で学校一の才媛。当時から何でか高木を敵のようにライバル視している。
今は秋名愛子(あきなあいこ)というペンネームの、ジャックの漫画原作家。本当は純文学界からの方が引く手の多い彼女だが、こちらに留まって高木を踏みしだくチャンスを虎視眈々と狙っている(らしい)。
「き、奇遇だな」
「貴方、何でこんな所にいるのよ」
「お前こそ」
「私は……あっ」
前方に目当ての人物を認めて、秋名は手を上げた。
「烏丸先生!」
高木は驚愕の目で振り返る。
本日三度目の邂逅となるどっしり女性が、にこやかに手を振っている。
「お久し振り、愛子ちゃん!」
高木の顎が外れた。
秋名は烏丸から何か受け取る約束をしていたようで、早々に用事を済ませて別れた。
高木はまた烏丸に声を掛けられた為、先に帰る事も叶わず、成り行きで今、秋名と肩を並べて駅への道を歩いている。
「お勧めの健康食品会社の新作を分けて頂いたの」
嬉しそうに携える紙袋のロゴを見て、高木は顔をしかめた。カヤが最近凝っている、味が無かったりとんでもなく苦かったりする奴だ。
「あらそうよ。このメーカーのお茶なんかを大袋で入手して、カヤさんと蒼樹さんとシェアしているの」
「マジかよ、ゴーヤ茶だけは勘弁してくれ」
「何言ってんの、良い奥さまじゃないの。漫画家なんか不健康の極みなんだから、若い内からきちんと内臓を労ってあげなくちゃ。カヤさん、貴方の為に一所懸命勉強しているのよ。感謝するべきだわ」
一言えば百返って来る。
正論なんだがそんなに上からビシビシ言われると、高木だって言い返したくなる。
「最近、漫画家を六十年やってピンシャンしている爺さんを目撃したぜ」
「人は人、自分は自分よ。まったく所帯を持ってもいつまでも子供ね、海水飲んで干からびちゃえばいいんだわ」
「な、何でそうなるっ!」
「あぁら、ごめんなさい。でもこれ、水里サロン推奨の老舗の健康食品会社なのよ。信用ある所だから安心して」
「ミズサトサロン? 何か余計に怪しいぞ。カヤを妙な所へ引っ張り込まないでくれ」
「その何でも頭から馬鹿にする癖は改めた方がいいわ」
秋名は急に真顔になって、裏路地に高木を引っ張り込んだ。そこで壁に追い詰めて朗々と話し始める。
「水里サロンは女性の物書きだけで結成された、知る人ぞ知る上流サロンよ。心配しなくても実績あるプロ作家でないと参加出来ないわ。私ですらまだ二回ほど招待して頂いた事があるだけよ」
「意識高い女性の集まりぃ? どうせ重い鍋とか化粧品とかプレゼンしてんだろ」
「ホント浅はかよね、貴方って」
秋名は息を吐いて首を振った。
「いい? 説明してあげるからきちんと聞きなさい。
独りで創作し続けなきゃならない作家は孤独になってしまうでしょ、女性作家なんて特に。
大昔、もっと封建的な時代に数人の女性作家が、このままではいけないと、自分たちの為に開いた勉強会が水里サロンの始まりよ。
その道の専門家を招いて、出版業界の仕組みや節税対策、著作者の権利、契約書の穴、詐欺の手口、セクハラへの効果的な対処法、そういった知識を身に付けさせてくれるの。半世紀も昔からね」
「…………」
「ま、貴方は興味無いわよね。けど良く知りもしない者に限って他所で面白おかしく吹聴するでしょ。そういうのが大嫌いだからキチンと説明してあげましたっ。理解出来た?」
「……あのさ、」
「何よ」
「そのサロンって文章書きだけ? 漫画家もいる?」
「いらっしゃるわよ。そもそも超学館の作家さんたちが興した会だから、半分くらいは超学館の少女漫画家よ」
「!!」