亨子が姿を隠しても都は何も変わらない毎日を巡らせている。
三条河原には桃色の髪をした見知らぬ女性の首が立てかけられ、早離や羂索達に疑いの目が向く事も無い。
何一つ変わらない日々。
空は青く、夜は暗く、怨嗟がこの国に渦巻いている。
ただ一つ変わったのは彼のあり様。
早離は笑わなくなった。
感情を露わにせず、軽口を口に出すこともなく、ただ淡々と呪霊を祓い呪詛師を葬る。
彼をよく知る者は烏鷺亨子の死と変容を関連付けた。
二人が共に祓除を行っていた事は特に秘匿されていたわけじゃない。
友人、或いは男女の仲だった者の死去。
多くの者は彼の変化をそう解釈した。
同じような日々は淡々と巡り続けている。
早離はあれから亨子には一度も会っていない。
右大臣に任官された藤原道長は、遂に藤原北家の頂点に上り詰めた。
藤原の権力を完全に掌握した道長は更なる家の躍進を画策する。
それは両面宿儺の祓除であった。
両面宿儺とはこの平安の世で最強と謳われる呪術師であり、呪いの王とも呼ばれるほどにその悪名が国中に広まっていた。
性格は残虐。災いが如く降りかかる悪鬼羅刹。
道長は藤原が誇る二代巨頭、『日月星進隊』と『五虚将』を送り込むが惨敗。
あっけなく両面宿儺に殲滅されてしまう。
失敗に頭を悩ませた帝は一計を講じる事にした。
此度の討伐を藤原の独断専行とし、都に敵対の意志は無いと両面宿儺にへりくだったのだ。
実際には帝の意向を加味して上で藤原が動いたのに関わらず。
これを好機と見たのは、藤原によって煮え湯を飲まされていた者共であった。
当主を左遷させられ勢いを失った菅原家余党(傍流である五条家も含む)
禪院や五条といった新進気鋭の両家に追い抜かされ、権威を失いつつある呪術の名門、安部家。
この両家が手を組み両面宿儺の討伐に名乗り出たのである。
この流れに乗る様に陰陽寮が属する中務省から正式な通達が送られる。
『陰陽頭である天元は数名を従えて討伐部隊に御共せよ』
人員を渋っている理由は祓除に失敗した場合を備えてだ。
天元の独断専行であると。そう偽る為の備え。
天元はこれを了承し、幾人かの術師を連れ征伐部隊と合流する。
その部隊は『
「こ、此度は招集に答えてくださり、有難く存じます。お、お二人と共に、戦の場に立てること、実に心強く、思いまする」
安部家の屋敷に集まった『涅漆鎮撫隊』は、それぞれが家の者ごとに集結し、幾つかの島が形成されている。
同じように屋敷に集まった五条家の当主である
「そこまで丁重に対応しなくていいよ。私たちは同じ主命を受けた同士なのだから」
天元がそう答え、畏まる五条是綱を制した。
その後ろには早離を含む陰陽寮の面々が続いている。
「そ、早離殿も、ひさ、久しぶりだね。ま、前より随分と…大人になって」
是綱がぎこちない笑顔を早離に向けると、彼は無表情のまま是綱を見つめ「…久しゅうございます」と最低限の会話だけを済ませ、拒絶するようにその場から去る。
陰陽寮の者とつるむ事もなく、1人で屋敷の端に行くと塀を背に座り込んだ。
そのまま頭を下げ目を閉じる。
誰が見ても分かりやすい拒絶の態度である。
五条是綱が困ったように天元に目をやるが、天元は首を振ると他の者を率いて屋敷に入り、用意された広間で腰を落ち着かせた。
今回このように安部家に『涅漆鎮撫隊』が集まったのは顔合わせと作戦共有の為である。
部隊の舵取りは安部家が担いそれに他の勢力が乗った形になっている。
暫くすると屋敷のあちこちで騒がしい声が響く。
どうやら定刻に達したようだ。
屋敷の者に促されるまま、全ての者が大広間に集められる。
その中央には一人の男が立っていた。
30代ほどに見える男は体つきが細く、神経質そうな顔をしていた。
隈が濃く、細い黒目は爬虫類を連想させた。
頬はこけ、死人のように肌が白い。見るからに不健康そうな男。
しかし、何より異質なのはその羽と冠。
五体は人間のソレと変わらないならが、背中からは鷺のような白い羽が、頭部の少し上を金装の冠のような輪が浮遊している。
人間よりも呪霊に近い相貌に対して、意外にも他家の術師たちは動揺を見せなかった。
それもそのはず、この男は安部家随一の精鋭。
その容姿も相まって多くの者がその存在を認知していた。
「私の事は多くの者が知っているだろうが、念のために自己紹介をさせてもらおう」
低いながらも良く通り、聞き取りやすい声が広間を反響する。
「名は捨てた…が、一部の者は異国の教えに伝わる存在に倣って私を天使と呼んでいる。皆も好きに呼んでくれて構わない。今回の宿儺討伐の作戦を立案させてもらった」
男が合図をすれば、安部家の下人は大きな屏風を持ってきた。
そこには幾つかの絵と文が書かれ、それが天使の指す作戦を表している事が一目で分かった。
「さて、先んずは我々の討伐対象…両面宿儺について認識を共有しておこう」
天使がある絵を指した。
それは墨で描かれていた。
四本腕に口が二つ、目が四つあり顔の右側が変形した異形が描かれている。
「これが両面宿儺だ。多腕多口の怪物。皆も一度は聞いたこともあるだろう。正真正銘の怪物だ」
呪術に通じる者であれば、多腕多口がどれだけ呪術に置いて優位性を保てるか瞬時に理解で出来る。
他腕があれば肉弾戦を行いながら掌印を結べる。
多口であれば息継ぎを行わず呪詞を詠唱し続けられる。
目の多さも厄介だ。それだけで死角が極端に減る。
「宿儺の術式は斬撃。通常の斬撃である
天使の手が別の屏風に向けられる。
そこにはある図が描かれている。
「私の術式は対象術式の消滅。…とはいってもそこまで便利な物ではない」
天使はそう言って下人から渡された筆を手に取り、屏風に色を付ける。
宿儺の周囲は色を塗られ、円柱のような模様が付け足された。
「私の術式は指向性の光だと思ってくれればいい。この光の内の中では全ての術式が無効化される。つまり私が術式を放ち、この光の中に宿儺を囲えば奴は術式が使用できなくなる」
天使の話を聞く観衆からは「おぉ!」と歓声が漏れる。だが一部の者は違う。両面宿儺相手に楽観的に物事を語るなど言語道断だと分かっている者達だ。
「しかし、私の術式には弱点がある。それは領域、或いは結界までは消滅させることが出来ない事だ。光に包まれた宿儺は十中八九、領域を展開するだろう。領域によって私の術式が遮られるからな。そうすれば、領域内に存在する者は皆殺しにされる」
宿儺の領域展開その話がされた瞬間、多くの者の目が衆人に紛れて話を聞く天元に向けられた。
ここに居る者は全員理解している。
今この場にいる…いや、日本中の呪術師の中で最も結界術に秀でる存在について。
「皆も察した通り…それが天元様に助力を申し出た理由だ。天元様の領域で両面宿儺の領域を打ち破って頂きたい」
天使の目が天元に向くが、彼女は瞳を閉じて沈黙している。
皆が口を閉じ、天元の次の言葉を待っていた。
観衆からは少し距離を置き、ひとり隅に立ち話を聞いていた早離はその様を眺めながら誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
「「無理だ」」
天元の返答と早離の声が重なる。
「正直に言おう。私が宿儺の領域に勝てるとは思えない。少しの間時間を稼ぐ事は可能だろうが…出来て中和までだろうね」
「それだけ出来れば十分だろう」
さも、その返答を想定していたかのように男が説明を続ける。
「中和された領域内で私が再度術式を放つ。私の術式は燃費が悪いので一発目ほど広範囲には打てず、連発も出来ない。だが当たっている最中は術式の使用が出来ないだろう。領域は中和され、術式を使用できない両面宿儺。それを相手にするのは我ら安部と菅原五条の精鋭集団。陰陽寮もついている。どうだろう、そう考えれば祓除出来ると思えてこないかね?」
1人の術師が「応!」と答えると別の術師が呼応するように鬨を上げる。
それは連鎖するように広まり、いつしか多くの術師が叫び歓声を上げている。
熱狂が広間を包む中で、彼は冷静に分析していた。
こんなに簡単な方法であの両面宿儺を祓除出来るようには思えなかった。
観衆の間を縫うように進み彼が前に出る。
早離と天使の視線が重なった。不満気な顔をする早離に天使は何処か嬉しそうに見えた。
「最初の攻撃をどうやって当てるのでしょうか。並大抵の隠密では宿儺に見つかります。それに初撃が上手くいき領域が中和されてとして、そう易々と貴殿の術式が命中するとは思えない。術式の無効化を理解すれば相手も警戒するでしょう」
「その通り。確かにそう簡単にいくものではない。特に初撃に関しては…皆で気を引いてもらう必要があると考えている。…つまりは、囮をしてもらいたい。勿論そこで死人も出るだろう…その事については…本当に申し訳なく思っている」
目を伏せ、天使は頭を下げる。
天使の謝罪に先ほどの熱狂が嘘のように静まり返るが、それは波の満ち引きの様なものであった。死を覚悟していない者は初めからこの場所に立っていない。
『涅漆鎮撫隊』は決死隊である。
天使を見つめる術師たちの瞳が、その決意を表していた。
「皆の覚悟…決して無駄にはしない。話を続けよう。私はこの見た目通り…飛ぶことが出来る。雲の上にまでな。上空に姿を隠し、皆につられている宿儺に攻撃を当てる。これが初撃に関する答えだ…そして」
天使は自身が着ている袴に手を入れて、ある物を取り出した。
これには彼や周囲の衆人だけでなく天元すらも驚きを隠せず目を大きく開かせた。
「全てが失敗した場合は…
天使の説明が終わり、広間では宴が開かれた。
まるで五穀の幸が一堂に集ったかのような豪勢な料理の山に多くの酒が用意され、美しい女が舞い踊り、雅楽の音が鳴り響く。
術師達は最後の宴を楽しむが如く、我を忘れ熱に興じている。
そういった気分になれない彼は、音も無く広間を抜けて夜風に浸っていた。
これから決死の遠征が行われるというのに、思い起こすのは亨子の事ばかりだった。
あれから合流した羂索が言うには、彼女に問題はないとの事だった。
今も遠方の隠れ家に籠り身を隠している。追手の心配もないそうだ。
亨子の無事の知らせを聞けば、少しだけ心が軽くなる。
だがそんな自分を否定する自分も存在する。
色々あったけど彼女が無事だから万事解決…なんてことにならない。なるわけがない。なっていいわけがない。
早離の胸中は後悔と自嘲が支配し他の感情に付け入る隙はない。
彼は隙あれば自己否定を繰り返し、頭の中で作り上げた彼女に許しを乞うている。
彼女の口から許しの言葉が出ることはない。そうあれと彼が望んでいるからだ。
「こ、こんなところに居たんだ…と、隣失礼するね」
五条是綱はそう言うと、彼の隣に腰を掛ける。
彼は返事を返すことなく淀んだ瞳で是綱を一瞥するとすぐに視線を逸らした。
拒絶する意志は見せるものの彼はそれを口にすることは無い。
自分にはそんな権利すらないと思っているからだ。
「な、なんか、久しぶりだよね。御全試合以来かな…この齢になると時間の流れが速くなっていうか…い、いや早離殿の噂は度々耳にしていたけど…なんて言うか、ずいぶん大人になったんだねぇ…」
是綱は頭の後ろに手を置いて、ぎこちなく笑った。
彼は返事を返すことは無い。しかしそんな早離の態度を気に留めていないのか、是綱は一方的な会話を続ける。
「まさか僕と早離殿で宿儺の討伐に向かうなんてあの頃の僕らからしたら夢にも思わないよね。それに安部家と僕ら…菅原が組むなんてことも当時からしたら考えられなかったし…時の流れってすごいよね」
頬を掻きながら話しかける是綱に対して、彼は反応を見せる事は無い。
だがごくまれに警戒するような彼の視線が是綱に向けられる。
是綱はどうしたものかと頭を悩ませた。
「……そのね、これは年寄りの苦労話みたいなものだから、その、聞き過ごしてもらっても、構わないんだけど。…僕はね、本当は五条家の当主になんてなりたく無かったんだ」
無視を決め込んでいた彼が分かりやすく反応を示した。眼が瞠り、偶に視線を移すだけだった彼の眼が完全に是綱に向いた。
早離はようやく目の前に立つ男の顔をちゃんと見た。
昔見た時より皺が増えて、目が垂れてきて、ただでさえ薄かった幸が更に薄い様に思えた。
「たまたま無下限術式なんてものを相伝してしまったから…それだけの理由で当主に担ぎ出されたんだ。人の上に立つべき素養を持った人は他に沢山いたんだけど…『六眼』と『無下限』五条家相伝の術式を継承できたのは僕だけだった。『六眼』は無理だったけどね」
是綱は自身の黒色の瞳を指で合わせ、目の下を指でトントンと叩く。
粉雪のような綺麗な白髪の隙間からくすんだ灰色の白髪が飛び出ている。
「荒事が昔から苦手でね。それに人前で話すのも。なのにいきなり当主にさせられたんだ。最初は本当にしんどかった…本当に。い、いや、今もしんどいけどね。その頃はね…強制的に当主にさせられた事への憤りもあったけど…一番辛かったのは自身の能力不足をまざまざと見せつけられることだったよ」
「こ、言葉に詰まるたびに後悔する。もっと幼いころから人に話しかければ今ちゃんと話せてたんじゃないかとか。決断を間違えて全てが無駄になった事がある。もっと昔から熟慮する癖をつけておけば良かったんじゃないかとか。何か間違いを犯すたびに過去を否定して、己の不出来に情けなくなる」
「でもね、それでも良い事はあったんだ。僕を嫌っていると思っていた人が、僕の失敗を擁護し家中を駆けずり回って皆に僕の支持を訴えてくれた。失敗を恐れながらも苦心して立案した施策が上手くいった時は家の者全員で喜びを分かち合った。今でも当主を誰に変わって貰いたいって気持ちはやっぱり何処かに抱えてるけど、それでも全てが無駄だったとは思えない」
「だから、つまり、そ、その、僕が言いたいのは…自分を卑下し続けるのはしんどいよ。自分だけじゃなくて君を思ってくれている人達もそう、きっと気持ちは繋がっていて、だからこそ繋がりが深い人にそれだけ伝播していくと思う」
「こんな自分なんかって思う機会が生きていたらこれから何度も訪れる事になる。もしかしたら明日明後日…今回の遠征でそう思う事が僕にもあるかもしれない。でも、その、なんだろう。ごめん、上手く言えないけど…君の周りにいる人は君の幸せを願っているよ。その、僕だってそうだ。関係が深いとか深くないとかそう言う話ではないし、何を言ってるんだお前って思われるとだろうけど…そうなんだ」
是綱は夢中に話しているせいで、途中から彼をちゃんと見れていない事に気が付いた。
顔を少し紅潮させた是綱が彼に見やると、その二つの双眸はしっかりと是綱を捉えている。
相変わらず目の色は濁りくすんでいる。だが、彼の意識はしっかりと是綱を捉えて向き合っているように思えた。
「子供が生まれたんだ。この齢で…最初の子になるから少し恥ずかしんだけど。ずっと種が無いとされてきてたんだけど…そんなことなかったみたい。その子がね…まだ公表してないから秘密にしてほしいんだけど…その、『両方』の術式を相伝して生まれたみたいなんだ。…うん、驚くよね。僕はその数十倍は驚いたよ。小さくて、白くて、柔らかくて、なんか自分の子供って思うと不思議でね…この子の為なら何でも出来る気がするんだ」
「きっと次の当主はあの子になるだろう。それに、多分、僕なんかより過酷な運命を辿ると思うんだ。『両方』を相伝するなんて五条の歴史を持っても前例が無いからね。…だからこそ、一つでも息子に降りかかる受難は僕の代で減らしてあげたい。あ、いや、勿論術式を継承していなくても同じことを思うよ。絶対にそう。親心ってやつがこんな形をしていると思わなかったけど、きっと同じことをする」
是綱が早離に手を差し出した。皺がよった発色の悪い手のひら。
「だから、今度の遠征は一緒に頑張ろう。絶対に…絶対に両面宿儺を、祓除しよう」
早離の視線が差し出された手と是綱の顔を行き来する。
六眼を持たないはずの是綱の瞳が月光のような煌めきを放っているように見えた。
彼の袴の内に隠している手がひとりでに震える。
側頭に痛みが走り動悸が激しくなる。
体の表面には悪寒が走っているのに、臓腑の奥が熱を放っている。
「……失礼します」
彼は差し出された腕から逃げるようにその場を立ち去った。
その顔は苦痛に歪み、成長したはずの顔つきは幼少の頃に戻った様な錯覚を覚える。
その場から去っていく早離の背中を見つめる是綱は、その様子を以外にも和やかな表情を浮かべて見送った。
原作にて、天使が宿儺を宿儺と言う名称で認識していなかったのは、呪物になった際に記憶の引継ぎが上手くいかなかったor羂索がわざと記憶を封印したという妄想設定を入れています。