夜の帳が落ちた平安京は日中の雅な様相は影を潜め、陰惨とした闇が広がっている。
平安京は日ノ本随一の都である。それ故に多くの者が行き交い生活を営んでいる。
人が多い都には、それだけ人間の憎悪も渦巻いている。
少し目を離せば湧いて出てくる呪霊に対応するために、検非違使と陰陽寮は交代で街の見守りを行っていた。検非違使の中にも呪力を持った者はいるがその数は少ない。
陰陽寮にお鉢が回ってくることは、自明であった。
真ん中で分けただけの前髪は眼にかからない程度に整えられ、女性のように後ろ髪は元結で一本に纏められている。
彼が歩く度に馬の尻尾のように髪が揺れた。
早離は大きな欠伸を零すと、草履で土を擦る様に歩を進める。
呪力で強化された視界は、月明かりだけが照らす夜の都をくっきりと捉えている。
むしろ民衆の往来がない分、夜の方が周囲を見渡せるまであった。
暫く
彼がよくよく目を凝らせば、影は8尺ほどの呪霊である事が分かった。
人型の呪霊は首がなく、鎖骨あたりから盛り上がる様に頭部が形成されている。
頭部に鼻は無く、一つしかない大きな目と斜めにねじ曲がった口だけが頭部についていた。
彼は呪力で低級の呪霊だと判断した。基本的に巡回で見られる呪霊は低級だけだ。
都にいる呪霊は恐れが溜まり成長してしまう前に、都を警備する呪術師に祓われる。
彼は腰に差した刀に手をかけた。抜き身の刀身に月明かりが反射する。
刀を下に向けたまま、構えもせずに呪霊に迫った。
呪霊の眼前まで近づいた彼は、しかし無防備にもただ立ち尽くしている。
呪霊が両断された。
瞬間、これまで幾度となく味わってきた不快感が彼にまとわりつき、
彼の術式は『
彼は滅した生命、或いは呪霊の呪力を自らの糧にする。
簡単に言えば、倒せば倒すほど強くなる術式だ。
彼はこの術式によって、齢13にして呪力量だけで言えば有数の存在になっていた。
あくまで呪力量が多いだけで、有り余る呪力を使いこなせてはいないわけだが。
呪霊が彼を認識できなかったのは結界術だ。
国内随一の結界術の使い手、天元の薫陶を受ける彼は簡単な結界術が使える。
先ほども認識をずらす結界を使用して、呪霊に近づいた。
眼前まで迫ってから祓除したのは、彼の驕り。
現代風に言えば舐めプだ。
彼は力を見せびらかすほど傲慢ではないが、驕りを捨てるほど勤勉ではない。
相も変わらず巡回を続ける彼であったが、とある屋敷の前を通る際に上手く説明が出来ない違和感を感じた。
周囲を見渡すがそれらしい異常はない。しかし何処か違和感があった。
呪力を目に集中させる。
呪霊や術式による幻術は、膨大な呪力の前には効果をなさない。
普通であれば過剰とも取れる呪力を視覚に集中させた結果、彼は一つの差異に気が付いた。
彼の正面にある屋敷、その周囲に薄く透明な結界が張られていた。
一般的な呪術師でなければ、まず気が付かないほどの巧妙な結界。
それほどの結界がなぜ屋敷に、そこまで考え彼は立ち止まった。
見回りの仕事にしている以上、有力な家の屋敷の場所は頭に入っている。
そして
彼としては出来れば見なかったことにしたい。
関わりたくない。
こんな仕事辞めて布団でグッスリ寝たい。
沸々と湧き出る愚痴を漏らすことなく、暫し思案した彼は、塀に手をつきその場で飛躍し中を盗み見た。
大きな屋敷であれば夜中であれど、門呼びと呼ばれる門番がいる。
なので門を叩くか、声を出して呼べば恐らく連絡が取れるだろう。
しかし秘匿されるべき密会などであった場合、非常に面倒くさい。
下手をすれば彼自身も罰せられるか、最悪三条河原で晒し首される可能性もあった。
だからコッソリ覗き、問題が無ければ見なかったことにする。
実に少年らしい短慮な行動だった。
音も無く跳躍した彼の頭部が塀を超えた。
膨大な呪力で結界の迷彩効果を無効化した彼の視界には、屋敷の中を逃げ惑う者達と、彼らを斬殺する黒い影が見えた。
藤原道長は自身の浅はかさを呪った。
屋敷には常駐で呪術師が守衛についている。
その術師は細切れになって屋敷の床を汚していた。
決して実力が劣る者を選んだわけじゃない。
だが死んだ。突如現れた刺客には何一つ通用しなかった。
藤原家にはお抱えの呪術師が多い。
藤原北家直属部隊『
道長には油断があった。平安京には藤原直属の呪術師に加えて、陰陽寮や御三家と最近は呼ばれ始めた有力な呪術師の家がある。
藤原に恩が売れると思えば、彼らはすぐに駆け付けるだろう。そう思っていた。
現実は違った。その体貌を影で隠した術師に守衛は皆殺しにされ、絶体絶命だと言うのに誰も助けに来ない。あの高潔を体現したと評される天元ですらもだ。
死が明確な形を成して、己に近づいてきている。
気が付けば道長は涙を流していた。
恐怖のあまり失禁してしまった道長に、凶刃が降りかかる_______寸前で塞がれた。
早離であった。
外側から結界を破壊した早離は、矢のように速度で間に割って入り凶刃を受け止めた。
鍔迫り合いになる。
膨大な呪力によって、その幼い体つきからは想像も出来ない程の膂力を秘めた彼であったが、一撃を受け止めるだけで精一杯だ。
剣の重みが増し、彼の剣がジリジリと交代する。
どれだけ彼が力を込めても、刀は微動だにしない。
単純の腕力だけなら早離は勝っていたが、刀の角度や足腰の使い方といった技量の高さが彼を抑え込んだ。
「…ならば!」
彼が手首を曲げ軌道を反らす…が、それを見越していたのか襲撃者は早離を蹴り飛ばした。
威力は低い…しかし早離と藤原道長との間に距離が出来た。
「しまったッ…!」
彼が距離を詰めようとするが、もう遅い。彼が追い付くより刀が振り下ろされる方が速いだろう。
間に合わないと判断した彼は、崩れた態勢のまま襲撃者に向かい刀を振った。
刀は虚空を空振るが、見えないナニカが襲撃者へと向かう。
「…!」
彼の攻撃に気が付いた黒い影は、その場で半歩後退して避ける。
『術式反転
術式反転、それは反転術式で生み出した生のエネルギーを、自身の術式に流し込む事で本来の術式とは反対の作用が出る事である。
彼は呪力を奪うという性質が反転した、呪力を与えるという性質の解釈を拡張させ、飛ぶ斬撃を放つことが出来た。
副作用として飛ばした斬撃分の呪力は、使い切りであり回復しない。
その隙に、彼は黒い影を纏った襲撃との距離を詰める。
技量で負けているのなら、小手先でどうにも出来ない程の力をぶつければいい。
地面を強く踏みしめる。握りしめた柄が両手に食い込んだ。
渾身の力を込めた一撃が襲撃者に襲い掛かる。
周囲に砂埃が舞い、二人の姿が消えた。
その様子を覚えながら見ていた道長は、砂塵の中より一体の黒い影が飛び立つのを目にした。そうして霧が晴れる。
そこに残っていたのは1人だけ。
早離だ。片腕を無くした早離が地面に倒れている。切断面を手で押さえ、苦痛の表情を浮かべている。
それと同時に幾人かの来訪者が、道長の近くに降り立った。
御三家と呼ばれる家の者であった。
御三家の呪術者は、我先にと道長を介抱して周囲の警護を固める。
こうして藤原邸襲撃事件は幕を閉じた。
陰陽寮の一室には、3人の呪術師が寄り合っている。
「それで襲撃者は黒い影に包まれていたと…恐らく認識を阻害する結界術だろうね。早離の目でも見抜けないのならば、相当だ」
天元の言葉に、付け足すように早離が答えた。
「結界もです。最初の屋敷を囲っていた結界は、おそらく音や内部での呪力感知を防ぐ役割があった筈です。外部から中が丸見えで、外からの刺激で簡単に壊せたのも恐らくそういう縛りで効果を上げたのかと」
平安京には日ノ本の中でも最上位の呪術師が集まっている。
その中であれほどの惨劇を起こそうと思えば、すぐさま天元や御三家の呪術師に露見するだろう。
彼らに探知されないほどの秘匿性の高い結界を作るためには、可視化された外部からの攻撃に脆い結界でないといけなかったのだろう。
二人の会話を聞いていた羂索が、口を開く。
「しかし、縛りを科したとはいえ…天元様が感知できない結界を作れる呪術師がそう何人も居るとは思いませんね。それに早離でも歯が立たなかった相手も気になる。結界の術者と黒い影とで、最低でも二人以上は関わっているとは思うが」
考えを纏めようとしている羂索の肩を、彼が叩く。
「おい、人が負けたみたいに言うな。アイツが逃げたんだから私の勝ちだ」
見るからに不機嫌な顔つきの彼は、明らかに無理のある反論を繰り広げる。
「それは違うよ。奴が逃げたのは結界が壊れ、騒動に気が付いた加茂や禪院が駆け付けたからで」
「その結界を壊したのは私だ。それに奴らの狙いは恐らく藤原道長の暗殺。ならその暗殺を阻止した時点で私の勝ちだ。私は負けていない。私は断じて負けてない」
「…あー、そうだね。キミは負けてない。確かにそうだ」
「ふんッ!」
大人の対応をする羂索と、鼻息荒く駄々をこねて負けを認めない早離。
その様子だけを見れば、二人は年相応の若者のようであった。
脱線した話を戻すように、天元はわざとらしく咳をする。
二人の視線が天元に集まった。
「それでだ、藤原氏を襲撃した者を絞るとして…どうして藤原道長殿を暗殺しようとしたと思う、早離?」
「え?…それは、その、藤原家が政治を中心にいるから…ではないでしょうか?」
「じゃあなぜ道長殿なのだろう。間違ってもいいんだ早離。これは答えを求めている訳じゃない」
天元は優しく口調で、まるで呪術の講義のような話口で彼に問うた。
彼は口ごもった。まだ13歳の彼でさえも、都に流れる藤原家の悪い噂をタコが出来るほど聞いてきている。しかし、自分たちは陰陽寮。現代風に言うと官僚で、藤原家は政治家だ。
容易く彼らの悪口を言うわけにはいかない。
「ここの会話はここだけのものだ。なにせ私の結界が張ってある。誰にもバレないし、誰にもバラさない」
天元は言うまでもなく、隣に立つ羂索も彼は信頼を置いていた。
だからこそ、彼はようやく口を開いた。
「…いなくなった方が世の為だからですか?」
「もっと言い方なかった?」
「いや、実際そう!…でしょう」
羂索のヤジに彼が焦ったように反発した。
「確かにそう思う人がいるのは確かだ。藤原家は敵が多いからね。無辜の民を救おうとして立ち上がった呪術師と言う可能性は大いにある」
天元は手を前に差し出し、二本指を立てる。
「それではもう一方、道長殿が亡くなって得をするのは誰だ?」
「……政敵ですか?藤原家と争っている他家の」
彼女は満足そうな笑みを浮かべた。
「及第点だ。特に菅原なんて道真殿が左遷されて以降、影響力が弱まり続けているからね。親の仇のように憎んでいるだろう」
天元の瞳が羂索に向いた。
「満点にするにはなんだと思う、羂索」
「…身内でしょうね。特に甥である
「そうだ。つまりは内にも外にも敵を抱えている。だから絞るとはいっても…絞れないが正解だな」
早離が驚いた顔を浮かべや。眼を大きく開き、口を小さく開けている。
「…絞ろうとした意味ありますか?」
「意味はあるよ。皆を犯人だと思えって事。これからの早離にとって、これは非常に重要だよ」
非情に重要?頭に疑問符を浮かべた早離が、理由を問いただす前に、天元が口を開く。
「時に早離。斬られた腕は問題ないかい?」
「え、あ、はい。反転術式ですぐ治しました。この通り問題ないです」
彼は襲撃者に切断された右腕をクルクルと回す。
「そうか、なら良かったが…早離。いくら治るとはいえ…無茶な戦い方はしないでくれ。肉を切らせて骨を断つと言うが、そこまでして君が戦う必要はないんだから」
「…必要とかそれ以前に、生半可な戦い方をしていては…勝てるものも勝てないと思うのですが?」
天元の心配をよそに、何一つ理解出来ていない彼はキョトンとした顔を見せる。
恐れを知らない眼だった。
少しでも目を離せば消えてしまう様な、そういった儚さと危険性が折り重なった眼。
親心を全く理解出来ていない早離と、伝え方に苦慮している天元。
二人の様子を傍から眺める羂索は、心ここにあらずと言った退屈そうな顔をしている。
さっさと話しを進めたい羂索は助け舟を出す。
「早離。天元様が言いたいことはつまり…体が出来ていないのに反転術式を使うなって事だよ。早離の年齢で反転術式が使える者なんて、滅多にいないからね。前例が無い分、もしかすると成長が止まると言った副作用が発生する可能性がある。だから大人になるまであまり使うなって事だよ」
羂索が天元に目で合図を送る。
察した天元も話を合わせて彼を説得する。
因みに、成長途中の者が反転術式で副作用が発生するか…という実験はとっくの昔に羂索が試している。結果は問題なし。もし羂索が実験済みでなければ、早離を適当な口車に乗せて反転術式を過剰に使わせるだろう。
羂索の嘘を完全に信用した彼は、『二度と反転術式使わないようにしよう』と心に決めるが、数日後にはその決意を忘れて、いつものように使っていた。
早離が屋敷を歩けば、そこらから耳語(ひそひそ話)が聞こえる。
彼はそれが身分の違いからくる侮蔑だと思いこんでおり、その顔つきは何時もより強張った。
勿論そう言った手合いの話もあるが、多くは違っていた。
呪術師という手前。夜間に活動する事が多いせいか、その肌は透き通るほど白い。
睫毛が長く切れ長の瞳は剃刀のように鋭く冷たい印象を与えるが、むしろ彼が持つ魅了を大きく引き立てていた。
冷たい瞳、薄い唇、細く艶やかなで癖のない黒髪、その中性的な容姿が相まって、神秘性と冷厳さを兼ね備えた美少年。早離はそういう評価を受けていた。
さもすれば、彼はいい意味でも悪い意味でも目立つ。
屋敷の炊事を行う女中ならばともかく、普段はその姿をお隠しになられる身分の高い女性達すらも、彼を一目見ようと様々な手段を用いた。
更に平安の世は男色に寛容である。
時の権力者が同性の愛人に送った手紙までも未来に残っている。
未だ穢れを知らなそうな少年なんて生唾ゴクリ物だ。
俺が穢れを教えてやるんだ、私が穢しちゃおっかなぁ、自分見抜きいっすか。
様々な意見飛び交う屋敷はまるで伏魔殿。ショタコンの宝石箱やで。
そんな思惑を知るわけない彼は、今日も優性思想バリバリの貴族に殺意を燃やしている。
「早離殿でおじゃるか!!!」
耳につんざくような大きな声が屋敷に響いた。
思わず体を震わせた早離は、声の向きに首を振った。
廊下の奥から、彼に向かって走ってくる藍色の塊。
よく見ればそれが着物…
見た事がある顔だった。昨夜見た顔だった。なるべく関わりたくない顔だった。
優しい顔立ちをしていた。整っているが、何処かあどけなさを捨てきれていないように見える。
藍色の強装束を着ており、黒い烏帽子を被った大柄な30代程の男が、早離を抱きかかえるようにぶつかった。
最初は呪力で防御した彼であったが、目下の人物がケガをする可能性を考慮してやめる。
それゆえに…成人男性の体当たりをもろに食らった彼は、眼を回し悄然としている。
「早離殿~!!!会いたかったでおじゃるよ~!!!今日も陰陽寮にいると聞きつけ、足早にかけて参ったのじゃぁ~!!」
そう言って男は、自らの頬を早離に摺り寄せた。硬い髭が擦れて痛い。
「は、離していただいても?御用が有りましたら立って話を聞きますので」
「確かにそうでおじゃるな。さぁ、共に立とうぞ」
先ほどまでの駄々が嘘のように男が立ちあがると、未だ倒れたままの早離に手を差し出した。
彼がどうするべきか迷う、行動できずにいると男は「気にするな、手を取りなさい」と言った。先ほどとは違う低い声だった
手を握る。思ったより大きく、ごつごつとしていて、そして驚くほどほどに冷たい。
「一体どうしたのですか…藤原殿」
早離の前に立った藤原道長は、ニカっと笑う。
「お礼を言いに来たのじゃ。早離殿が居なかったら今の麻呂は居ない!断言しても良い。ならば藤原の男として、直接お礼を申し上げねば名が廃るでおじゃる。早離殿、この度はかたじけない!」
道長はそう言ってお辞儀をする。突然の出来事に呆然としていた早離は、正気を取り戻し道長に弁解した。
「ふ、藤原殿!!藤原殿のような高貴なお方が私なんぞに頭を下げないで下さい。お願い申し上げます」
「藤原殿なんて堅苦しい。道長とお呼び下され!だが、身分が違えば早離殿に迷惑が掛かるか!」
まるで初めからこの流れが分かっていたかのように、道長は流暢に語る。
言葉の抑揚が歪で、急に畏まったり、反転して天真爛漫な言葉使いに変わる。
彼は道長の独特な勢いに混乱している。
「麻呂が早離殿の元に馳せ参じた理由は一つ!早離殿…どうか麻呂の抱えに」
「恐れながら、叶わぬ事をお許しくださりませ」
早離の雰囲気が急変した。
先ほどまでの狼狽した童から一転、歴戦の呪術師の顔に変わる。
膝をつき、両手を合わせ、頭を下げる。
頭を下げる彼は、彼を見下ろす道真の顔が見えなかった。
グダグダと文句を言いながらも、早離には陰陽寮に所属し続ける理由があり、それが矜持でもある。
これまでも彼の元に勧誘の誘いは来ていたが、全て断りを入れている。
中には禪院家に婿養子に、と言った話もあったほどだ。
それでも断る理由を彼は語ろうとはしない。
でも羂索はすぐに察している。くそほど分かりやすいから。
長い沈黙があった。
道長の返事を待った彼の額から、大粒の汗が流れた。
「顔を上げなさい」
穏やかで柔らかい口調だった。
彼が恐る恐る顔を上げる。
「急な申し出で申し訳なかった!麻呂が不作法であった。どうか許してくださらぬか?」
「いえ、私にこそ非礼はあれど、藤原殿に無作法など」
「道長で良い。そう畏まらんでもよいでおじゃる。早離殿は命の恩人。恩人を困らせたい者などこの世におらん。」
道長が自らの手で、彼の袴に付いた埃を手ではらった。
「ふじ…道長殿のお召し物が汚れてしまいます!」
「気にするな!早離殿は麻呂の為に腕を犠牲にしたのじゃ。これくらいなんともないわ」
未だ困惑している彼の両肩に、道長の両手が乗った。
「これも何かの縁でおじゃろう。何か困りごとがあれば麻呂に伝え申し上げろ。融通致す」
「そ、そんな…!私こそ、道長殿に困りごとあればすぐに馳せ参じ」
「あい分かった!そこまで申すのであれば、早離殿の手を借りよう!今後ともよろしく頼むぞ。それでは失礼!!」
「え」
彼が反応を見せるより前に、道長はその場から駆け出しいなくなった。
しかも彼の方向を向き、後ろ歩きのまま、ぶつかることなく角を曲がっていった。
嵐が過ぎ去ったような気分だった。
彼はその場で立ち竦む。悪い夢だったんじゃないかとすら思えた。
「早離に忠告をしなくて良かったのかい?」
結界が張られ、盗み聞きの恐れがなくなった部屋の中で羂索が問うた。
早離には見せない、冷淡な面持ちの二人がそこに居た。
「あの手の輩は下手な入れ知恵をするより、自然体の方が安全だよ。操りやすいと思ってくれれば御の字だ」
「怖いね、存在を知られるだけで危険だなんて。呪霊よりよっぽど厄介だ」
「私もそう思うよ」
天元は伸びた前髪をくしゃくしゃに乱すと、大きなため息を吐いた。
「それより…体の方は持つのかい?」
「大丈夫じゃないから困っているんだ」
「…そう。難儀だね。不死ってやつも」
天元は己の体に迫る期限を知っている。
策はある。それが外法と呼ばれるものであることも。
無辜の民を虐げてしまう事も。全て理解している。
「それでも…より多くの人が救われるならば…私は」
足りないのは覚悟だけだ。