【完結】平安だよ!全員集合   作:鯨油

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5話

飢えていると、空腹が痛みに変わることを知った。

 

骨と皮だけになった自分の腕を見ると安心。

死人の腕だ。もうすぐ終わる。もう少しできっと死ぬ。

 

梅雨の時期だった。天井から漏れた雨水に舌が伸びた。

飲まない様にしたけど、勝手に体が動いてしまった。

 

外にはアイツが居る。

 

恐ろしくて堪らなかった。

畑の作物を分け合った隣人が、一緒に野山を駆けた友達が、見知った叫びが聞こえる度に耳を塞いで目を瞑った。

 

耐え難い空腹がずっと纏わりついて、腹の奥が針で刺されるように痛い。

口の中はすぐ乾いて、雨水を飲み込むのにも苦労した。

 

立ち上がる気力が無くて、這いずるように移動する。

黒ずんでしまった母と父の間に入った。

ハエが顔に当たり蛆が腕から這い上がってきていたが、何の情緒も沸いてこない。

すっかり慣れてしまった死臭は、もしかすれば自分から匂っていたのかもしれない。

 

どうせ死ぬなら家族と死にたい。ただそう思った。

 

本当か?本当にそれだけか?

私はあの時、何を考えていた?

あのまま死ねば良かったんだよ愚か者。下劣。業魔。人でなし。

 

本当に辛かったんだ。

辛かったんだよ。

耐えられなかった。

無理だったんだよ全部。

 

でもその日はよく眠れたんだ。

 

 

 

 

 

早離が呪術師になった理由はただ一つ、一日三食上手い飯が食える。

 

一日二食ですら満足に食べられない村での生活からすれば、多少命の危機があるとはいえ腹いっぱい飯が食える生活は天国であった。

 

平安の世では命が軽い。

呪術師でなくとも簡単に人が死ぬ。ならば飯が食える呪術師に付いた方がマシである。

 

食意地の張った早離は、その小さな頬を目一杯に膨らませて、米と魚の切り身をかきこんだ。

もちゃもちゃと咀嚼して、喉の奥に入りかけたお米を口の中に戻して、薄くなった味をもう一度楽しむ。

完全に味がなくなった頃に飲み込み、またお椀を持ち上げ口にかきこむ。

 

育ちの悪さが前面に出た食事風景だった。

 

彼の視線が、羂索のお膳に向いた。

丁寧に食事を進める羂索は、彼に比べ食事に時間が掛かる。

あくまで彼に比べて、であるが。

 

凝視する視線に気が付いた羂索は眼を細めた。

 

「いや、あげないよ?」

 

「まだ何も言っていない。私が食意地張っているみたいに言うな」

 

「……」

 

まじかよコイツ。そう言いたげな怪訝な視線を、彼は我関せずと無視した。

 

「もう少し綺麗に食べなよ」

 

「はひかひほのほおりは」

 

「それと、食べきってから喋るほうが良いよ」

 

早離の口が素早く動き咀嚼を早める。

 

そうやって急いで食べようとするのも行儀として良くないのだが。羂索はそう思った。

 

「そういえば_______もうすぐ()()()()()()()だね」

 

思い出したかのように羂索が言う。

“御前試合”彼には初めての響きである。

 

「御前試合…とは、なんだ」

 

「知らないのかい?…そうか、最近は行われていなかったから見た事ないのか」

 

箸を置いた羂索は、彼に御前試合の説明を始めた。

 

ここで言う御前試合とは、数年に一度、帝の前で行われる呪術師同士の試合を意味する。

各地の名家が一堂に会し、家の威信をかけて戦い合う。

それ以外にも他家との親善や技術向上も図って行われる、神聖な行事であった。

 

御前試合は最近では御三家とも呼ばれている加茂、五条、禪院といった名門以外にも、陰陽寮や各地の名家や力自慢達が集まる武術大会という側面があり、以前の試合は天元が出場し見事優勝を果たしている。

 

「ならば、今回も天元様が」

 

「どうだろう。以前は余りにも一方的に終わったと聞くしね。本来、御前試合は上の方々が楽しむために在るんだ。もしかすると…」

 

羂索の話に飽きた彼は、話半分に聞き流す。

帝が観戦をするという事は、試合を見れる者はごく少数に限られるという事だ。

 

そんな数少ない観客の枠に自分が選ばれない事を知っている彼からしたら、御前試合など対岸の火事よりどうでもいい。

 

結果だけを後日天元様に聞けばいいと、彼は高を括っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「早離、御前試合に出てもらう」

 

「……え」

 

彼を呼び出した天元は、開口一番にそう言った。

理解が追い付いていない彼は、目を丸くさせ口を半開きに開けている。

 

和机の肘を乗せ、胡坐をかいた天元が話を続ける。

 

「陰陽寮からも一人出さなくては行けなくてね…今回は早離で行こうと思う」

 

「いえ、あ、え?…天元様ではなくて、ですか?」

 

「私は殿堂に入れられたようだ。断られたよ」

 

御前試合は家同士の争いの場である。

特に御三家なんて呼ばれる彼らにとってみれば、御前試合は他の家を下し、呪術界の先頭に立ついい機会であった。

 

そんな試合を、神話に片足突っ込んでいる化物に邪魔されては、文句の一つも言いたくなるだろう。むしろこれまでよく我慢した方だった。

 

「それに勝者が決まっている試合は帝が楽しめないそうだ。確かに私が同じ立場だったら二度と出さないよ」

 

「だからと言って、何故わたしなのでしょうか?陰陽寮には私よりも手練れがおりますが」

 

形だけの謙遜であった。天元を除き、陰陽寮で自分が一番強いと彼は思っている。

 

「かの御仁が早離を強く推してね。もしかすれば“尽くす”男なのかもしれないね」

 

彼の頭の中に、目を輝かせて自分に抱き着く藤原道長の顔が浮かび、眉を顰めた。

 

()()からの好意でなければ嬉しいのですが」

 

「私もそう思うよ。でも困った事に力を持っている。かどが立つ対応は出来ないさ。それにだ、御前試合に出るのは上に認められた有数の者達だ。そんな彼らと組みあえるのはいい経験になる。御前だからね、殺し合いになることもないだろう」

 

同じ呪術師だからといって家が違う者らが手合わせをする事はまずない。

 

理由としては、1つ目に術式の開示による強化がある。

術式の開示はその術式の秘匿性が高ければ高いほどより効果が上昇する。

相伝の術式はその性質上多少は知れ渡っているが、そういった術式でなければ術式を隠すのが一般的であった。

 

2つ目として、互いの家にそこまでの余裕がない事だ。

平安の世は魔境である。人の命は軽く、目を離せば呪霊が沸く。

呪術師に暇はない。特に実力の高い術師は、それこそ藤原ですら遠方に出立させている。

わざわざ呪詛師でもない同業者と戦うなんて呪力の無駄使いで。

 

「それと…この勝負には陰陽寮の矜持が掛かっている。それこそ簡単に負けようともなら、うるさい先輩方も出てくるだろうね。精進するように」

 

狐のように細まった目が、伸びた白髪の隙間から見えた。

眼は笑っているのに仄暗い輝きを帯びている。

 

枯れ木みたいだ。早離はそう思った。

 

「私より弱い者にうるさく言われようが気になりません」

 

嫌っている筈の貴族と似たような尊大な態度を取る彼に、天元はため息をつく。

 

普段の彼をよく知っている天元にとっては、それが嘯きであり本心ではない事を知っている。

しかし口にした思いは言霊となる。

言霊が心に影響して、何時しか本当になってしまう例を天元は見てきている。

 

説教の気配を察知した彼がさっさとこの場から逃げ出そうとするが、その前に天元の腕が伸びた。

 

「時に早離。藤原邸襲撃の時の事を覚えているかい?」

 

彼の顔が分かりやすく歪む。

口では敗北を認めないものの、彼にとってアレは敗北だ。

 

膨大な呪力によって底上げされた基礎能力で力押し。

これが彼の基本戦術。

単純な戦法は、それ故に強い。

これまで多数の戦果を挙げてきた彼は、技術を軽視する傾向にあった。

 

だからこそ、藤原邸での敗北が響く。

 

技量で完全に抑え込まれた。

増援が来ていなければそのまま殺されていたかもしれない。

更に高みを目指すには、避けては通れない道なのだと自覚していた。

 

「次は負けません」

 

「そうだな。ならば何をする?」

 

「…呪霊を祓います」

 

早離は眼を背けて言った。その場しのぎの甘えた戯言だ。

 

「違うだろう。キミはもう分かっている筈だ」

 

天元はいつもより強い口調でそう言った。

賢い子だ。だからこそ…それだけで伝わると信じていた。

 

「ついてきなさい、今の君に最も適切な人物が京に来ている」

 

天元が手を離し、背を向けて歩き出す。

敢えてゆっくりと。彼が納得する時間を与えるように。

 

一拍置いて背後から足音が付いてくる。

彼女の顔が少し明るくなった。

 

 

 

 

 

都の中心から少し西に外れた所に、道場があった。

そこでは、シン・陰流が学ばれている。

 

シン・陰流とは蘆屋貞綱を創始者とする呪術流派である。

術式に頼らず、それでいて万人に習得しやすい汎用性が高い技を多く扱っているシン・陰流は多くの呪術師の間で親しまれている。

 

開祖が住まう播磨を本家とするシン・陰流は各地に弟子たちが散らばり、この京の都においても道場が開かれていた。

 

まるで保護者に連れられ、習い事教室に通わされている子供のようにいじけている早離は天元に連れられその道場を訪れていた。

 

道場の中には多くの門下生がおり、各々素振りや組手を行っている。

師範と思わしき男が、中央で人に囲まれていた。

 

三白眼が特徴的な男がそこに居た。

 

「やぁ、()()。元気だったかい?」

 

男に向かい天元が声を掛ける。

自身を囲む門下生たちを流水のように詰まることなく避け、抜け出した男が同じく声を上げ、何やら話し込んだ。

 

そんな様を眺めていた早離は、先ほど天元が発した“貞綱”という名前が引っかかっていた。

 

いや、まさかな。彼の思考を否定するように、天元が声を上げる。

 

「紹介しよう、彼は芦屋貞綱(あしやさだつな)。彼に早離を鍛えて貰おうと思っている」

 

そう紹介されたシン・陰流の開祖である芦屋貞綱は、彼に向かって手を振った。

彼は今すぐ家に帰りたくなった。

 

 

 

数多の斬撃が同時に襲い掛かる。

実際にはそれぞれの斬撃にはズレがあり、僅かに先行する攻撃から彼が捌いていく。

頭で考えていては追いつけない。反射で対応していると言っても過言ではない。

 

それでも捌ききれていない斬撃は、彼の体積を少しずつ削り道場の床を血で染めていく。

 

瞬きの間に出来た傷が、瞬きの間で癒えていく。彼の反転術式だ。

 

彼は防御に徹し、首や頭部など致命傷になる部分を重点的に守っていた。

1秒が無限に細分され、肉体が初めて知る速度に合わせて研ぎ澄まされていく。

最初は眼で追えなかった斬撃に焦点が合わさり、輪郭を捉え始めていた。

 

筋力と反射だけでは限界がある。

無数の斬撃には追いつけない。ならばどうすればいい。

 

早離は目の前の化物を見た。

芦屋貞綱は術式を使っていない。それでいて神速の斬撃を可能にしている。

彼はそのからくりを本能的に理解する。

 

答えは体と呪力の使い方にあった。

 

構えて、足を踏み出し、刀を振るう。

最小限の動作で繰り出される剣筋は岩のように重い。

動きの中で次の工程の初期動作を伴わせ、全身の力を一寸の欠落がなく力点に作用させているからだ。

 

もし剣術の動作に正解があるのであれば、きっとこれなのだと彼は確信する。

 

呪力の使い方も無駄がない。

芦屋貞綱の体に流れる呪力は、凪のように一定でブレがない。

だから呪力の流れで次の行動を予測させず、それでいて呪力の変換効率が1に限りなく近い。

 

変換効率の悪さを量で誤魔化している彼とは真逆の所業だった。

 

無意識の内に、彼は目の前の男の動作を真似ていた。

彼は眼が良い。普通の者が水筒程度だとすれば、湖のような呪力を持つ彼はその殆どを視界に回し細部を観察する。

筋肉の伸縮、呪力の伝達、それはまるでスローモーションカメラでアスリートの動きを解析しているかのようであった。

 

普通の門下生であれば一年間見て習いようやく得る学びを、彼は僅か数秒の間にモノにしていく。

 

肉を切り裂く音は、いつの間にか金属音に変わっていった。

彼は芦屋貞綱の剣戟に適応している。

 

「なるほど、目が良いな」

 

芦屋貞綱が小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで瓶の水を移し替えるように早離は芦屋貞綱の技術を吸収していった。

早離の意地はもはや神域に達している技を前では形骸と化している。

 

何せ正解がそこにあるのだ。

真似て、工夫して、一歩ずつ高みに目指していく工程を全て吹っ飛ばしている。

 

天元の前だとか、自身の矜持とか、そんな矮小な事は眼にも留めなかった。

 

芦屋貞綱の動きが止まり、居合の体勢で構えた。

同時に芦屋貞綱の周囲を囲うように領域が展開された。

 

簡易領域である。

彼が依然見て真似た呪詛師と同じ技の筈だった。

 

だが領域の精密さは、極限まで研ぎ澄まされた居合はとても同じ技とは思えない。

それほど、芦屋貞綱の簡易領域は熟達していた。

 

「ちょっと痛いかもしれないが…まぁ耐えてくれ」

 

芦屋貞綱の呪力出力が膨張していく。

 

シン・陰流 「居合 夕月」 

 

循環する呪力が刀身を覆い、鞘の中で加速させる。

神速、それ以外に形容する言葉が早離には見つからなかった。

世界を切断するような一撃であった。

 

彼の眼でも認識しきれない速度で振りぬかれた刃が彼の胴体を切断する___________間際に軌道が逸れた。

 

逸れた剣筋が彼の顔を掠め虚空に消える。

 

極限の集中化にあった彼は滝のような汗を流し、肩で震わせ荒い呼吸を繰り返す。

上手くいくかは賭けであったが、彼はその博打に打ち勝った。

 

彼が行ったのは模倣。

依然見た呪詛師が独自に設定していた『領域内に侵入したものを意識とは関係なく全自動で迎撃する』という機能を付与した簡易領域の展開。

それにより胴体を狙う斬撃は、彼の意識から独立して作動したシステムによって迎撃された。

 

頬の肉が捲れるように削ぎ落ちた。

軌道が逸れた剣戟によって出来た傷である。

その頬肉が地面に落ちると同時に、彼は意識を失った。

 

呪力は血に変換できる。

しかし度重なる反転術式により呪力切れを起こした彼は、貧血でぶっ倒れた。

 

 

 

 

 

 

「____やはり________私は関与し______すればいい」

 

聞きなれた声だった。闇を開く声。

あの時、家の扉を開けてくれた声。

誤謬に浸かる自分を掬い出した声。

 

彼の眼が開いた。

横になっている上半身だけ態勢を起こすと、近くで何やら話し込んでいた天元と芦屋貞綱の視線が彼に映る。

 

「おはよう早離。気分はどうだい?」

 

「おはようございます天元様。まだ少し頭痛がしますが動けます、もう一本やりますか?」

 

「いや、今日はもうやめておこう。寝て呪力が多少回復したとはいえ、このまま再戦すればまたすぐに枯渇するだろう」

 

「そうですか」

 

早離の体が芦屋貞綱に向いた。

そして正座を組むと、首を下げた。

 

「芦屋貞綱殿、この度のご指導誠にありがたく存じまする」

 

早離が礼を言うと、芦屋貞綱は落ち着いた笑みを浮かべる。

 

「いや、拙僧も学びになった。それと頭は簡単に下げるものではない。男なら尚更だ」

 

芦屋貞綱が促すと、早離が顔を上げる。

 

改めて彼が芦屋貞綱の顔を見た。

 

40代程の男性で恵まれた体格を持った山賊のような男だった。

三白眼の目が特徴的で、髪は短く切り揃われているが、不精髭が伸びていて何処かアンバランスだ。笑うと口が大きく開くのも印象的だった。

 

「して、芦屋貞綱殿は如何ほどの理由で稽古をつけていただけたのでしょうか。私はシン・陰流の門下でもないのに」

 

「あぁ、天元様がな。せっかく京に来たのだからウチの若いのを見てくれないかって言うもんで…断る理由もない」

 

「それだけですか?」

 

「…他に必要か?それに力のある呪術師が増えれば、それだけ多くの人が救われる。それだけで十分な理由になるだろう」

 

他意のない純粋な返答で、早離は目の前に立つ御仁の人の良さを察した。

横目に天元を見やれば、何故か彼女が自慢気な顔を浮かべる。

 

「生真面目なんだよ、彼は」

 

「真面目で何が悪い。それを卑下する風潮の方が問題ある」

 

「は、はぁ」

 

早離は芦屋貞綱とは初対面であったが、彼が何を成した者であるかは存じていた。

 

シン・陰流。もはや主流と呼んでも差し支えない程広まった流派だ。

猫も杓子もシン・陰流と言ったように、その辺の三流呪術師や御三家と呼ばれる名門にすらその技術が伝わっているとの噂だ。

 

技の継承に一子相伝の縛りがあるものの、見て盗めることから非常に多くの者に嗜まれていた。

その分呪詛師にすら伝わっているという功罪もあるが、それを差し引きしても呪術界を大きく向上させて存在だろう。

 

「して、早離殿。単刀直入だが…早離殿は()()()()()()()()()と思わなかったのか?」

 

「…ど、どういう意味でしょうか?」

 

予想だにしていなかった角度からの質問に彼は素っ頓狂な声で答えた。

 

「言い方を変えよう。痛みが怖いと思ったことはないか?」

 

「痛いのは嫌ですけど」

 

「怖くないか、と聞いているんだ」

 

怖いか怖くないか。

彼がその問だけに答えるとしたら、否である。

過度な痛みに対しての忌避感はあるものの、怖くはない。

 

「怖くは…無いですね」

 

言葉に出してようやく疑問が沸いた。

痛みが怖くない?私はそう思っていたのか…まさか。

 

記憶を振り返っても、確かにそうだ。

直近では亨子と共に払った呪霊、1対1ならば祓除出来ていたのか怪しい格上の呪霊であったが…呪霊との戦闘でも恐怖を感じてはいなかった。

 

「今だってお前は体を真っ二つに切断されそうになってんだぞ。無論、反転術式で治せるからやったんだがな…加害者である拙僧が言う事ではないのかもしれないが、お前から恐怖と呼べる感情を感じなかった」

 

「……それって悪い事なんですか?」

 

「いや、呪術師として生きるならこの上なく向いている。恐怖が由来する感情の高ぶりで呪力が強化されることはあるが…私的な見解だが、無い方が有利に働く場合が多い。感情の高ぶりになら怒りで十分事足りる」

 

だが、と付け加え芦屋貞綱は話を続ける。

 

「人として生きるのなら別だ。恐怖は執着を生む。誰だって死にたくはないだろうからな。拙僧だってそうだ。呪霊と相対する時は今でも恐怖を覚える瞬間がある。しかし恐怖は人を鈍らせるが…それは人間が生きていく上で重要な感情だ。恐れ知らずは何人も見てきたが、皆須らく早世した。怖がらせたいわけじゃないし、説教をしたいわけじゃない。ただ若いのに死んだりしたらもったいないだろう」

 

黙って聞いていた話を聞く彼には、終始困惑が渦巻いている。

ちらりと隣に座る天元の顔を見るが、その顔は真剣そのもの。恐らく同じ考えなのだろう。

 

だが、いきなりそう言われても彼はどうしようもない。

怖くないのだ。怖くないのに怖がれと言われても困る。無理だ。

 

芦屋貞綱は彼の困惑を感じ取り、アプローチを変えた。

 

「最後に恐怖を感じたのはいつだ?覚えている限りで思い出せ。無いならなくて構わない。急いでいる訳じゃない。ゆっくりで良い」

 

彼は素直に言われた通りの事をする。最後に恐怖を感じた記憶。

それはきっと古い記憶だ。

 

体の平衡の感覚が薄れて不安が喉の奥をもたげるように騒ぎ出す。つま先から寒くなって思考はあっちこっちに飛散して自分の心が体より近い距離にあるような感覚。

 

最後に感じたのはきっと…そう、そうだ。あの時だ。

まだ幼く呪術師でもなかった、両親がまだ私の側に…。

 

そこで彼の思考は急停止した。

伸びきったゴム紐が限界を迎え収縮するように、彼の理性は心から記憶から距離を取る。

 

感情を奥底に仕舞い、封をして、泥濘に隠した。いつが忘却するその時まで。

 

「別に…恐怖がどうだの関係ありません。私は呪術師です。徒人として生きるつもりはさらさらありません。私は呪術師として生きて、呪術師として死にます。若くして落命したとしても、それがきっと私の運命だったと納得します。納得して見せましょう…もういいでしょうか」

 

それは分かりやすい拒絶だった。

門戸を閉じて、己が内だけを世界と定義する行い。

 

「そうか。ならば拙僧はお前の選択を肯定しよう」

 

だが何人もの門下生を導いてきた芦屋貞綱は、そんな事で機嫌を損ねたりしない。

引いてみて初めて開く扉があるように、人の心がそう簡単に変容するとは芦屋貞綱は思っていない。

楔は打った。それがいつか巨岩を砕く日が来ることを待つだけだ。

 

怒られると思っていた彼が予期せぬ反応に驚愕している横で、芦屋貞綱は話を続ける。

 

「あ、それと。拙僧も御前試合に呼ばれてな…もし当たる時があればよろしく頼む。その時は全力で行かせてもらおうか」

 




将軍の前で行わるのが御前試合。天皇の前で行われるのが天覧試合なので本来なら天覧試合と呼ぶのが正しいのですが、何となく原作に合わせたいので御全試合と呼んでいます。
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