地元である会津の田舎で生まれた
会津中から無理やり徴収した美男を1つの建物に住まわせ、自身の給仕をさせた。
好き勝手遊び、飽きたらその死体を工芸品に仕立て上げ自身の住まいに飾り付ける。
まさに我が世の天下。会津は彼女の都だった。
だがそんな彼女の世界はある日ひっくり返る。
余りの蛮行に業を煮やした会津の為政者が中央に救援を求めた。
刺客として放たれたのは藤氏直属征伐部隊『五虚将』
藤原北家が持つ最強の部隊の一角。
遂に終わりが来たかと思えた悪夢はしかし終わることがなかった。
万は五虚将を返り討ちにしたのだ。
これには会津の者だけではなく、中央も恐れおののいた。
いくら都には藤原家お抱えの呪術師に加えて、御三家を筆頭とした呪術の名門、高徳と名高い天元率いる陰陽寮もあるとはいえ、常に十分な人員が都に留まっているかと言われるとそうではない。
五虚将に勝る存在の恨みを買ってしまい、都を攻められでもしたら甚大な被害が発生する。
中央が対策を講じて、何一つ行動に移せないうちに一人の男が会津に向かった。
ニヤニヤと張り付いた笑みを浮かべた男は、護衛もつけずたった一人で万の前に立った。
男は言う。
我が方に下ってくれないか、と。
男が提示した条件も万にとって悪くないものだった。
男の配下が全国から探し出した美男の献上。
海の向こうから取り寄せる物珍しい品々。
一番彼女の目を引いたのは、昆虫だった。
万は昆虫の生態を自身の術式に応用していた。
しかし会津という田舎では、集められる標本の数も限られている。
その点、男の元に付けば日ノ本に限らず世界各地の昆虫の標本を集められる。
男の交渉にまんまと乗せられた万は、男と間に縛りを設けて軍門に下った。
こうして男は…
万は都での日々に飽き飽きとしていた。
与えられた男どもは、会津で囲っていた者どもと比べ物に無いほど美しく整っている。
だが慣れとは恐ろしい。3日も経てば飽きてしまいあっさり殺してしまった。
海の向こうからくる品々は確かに興味がそそられた。
だが輸送船はそう何度も来れるものではない。頻度には大きな開きがあった。
だがらこそ、その暇を自身の術式に注ぎ込んだ。
幾万もの昆虫を研究し、術式に落とし込んだ。
時間を注げば注ぐほど術式の完成度は高まってくるが、彼女はそれだけに熱中できるほど求道的な性格をしていない。
藤原道長との間で結んだ縛りのせいで、万は好き勝手に暴れる事が出来なくなっている。
乾いた心は刺激を求め疾走する。勿論縛りに触れてしまわない範囲ではあるが。
万はある噂を耳にする。
どうやら都の術師でかなりの美男がいるとのことだ。
まだ幼さを失いきれていない若い男。それに呪術師としての実力も折り紙付き。
万が放っておくわけがなかった。
当時でいう肌着である小袖も着用せず、全裸の上に薄い袴だけを羽織った万は宮中を徘徊する。
余りに開放的過ぎた服装に周囲からの視線は集まっては、霧散していく。
それが万だと気付くからだ。好きで腫物に触る者など居ない。
そんな周囲の態度を気にすることなく、万は我が道を進む。
それは偶然だった。
曲がり角を減速せず曲がった万は早離とぶつかった。
本来ならこの程度で態勢を崩す彼女ではなかったが、相手は化物染みた呪力を持つ脳筋。
床に転がった彼女が悪名高き悪女だと気が付いていない早離は、倒れた万に手を差し出した。
「申し訳ない。考え事をしていまして…お怪我はないでしょうか」
優しい声色だった。
切れ長の瞳が彼女を捉える。
屈んだことにより1本に括られた長髪が馬の尻尾のように揺れた。
御前試合から数年が経過し、中性的だった彼の容姿はやや男性的に傾いてきたものの、その美しさは損なわれていない。
万は差し出された手を取ると、そのまま自らの方向に強く引っ張った。
呪力を限りなく抑えている彼は、そのまま態勢を崩し万と共に倒れてしまう。
抱き合うように重なった二人の顔が限りなく近づいた。
万の生暖かい吐息がくすぐるように顔をなぞる。
あと少しで重なってしまうほど近づいた万の唇が開かれる。
「あなた…愛を知っている筈なのに…拒絶しているのね。かわいそう」
「はぁ?」彼が疑問符を口にすると万は勢いよく立ち上がり、彼の腕を引っ張り駆け出していく。
「ついてきて、愛の受け取り方を私が教えてあげる」
突如現れた露出の多い変な女に強く出れないまま、呆気に取られている早離は彼女の自室まで連れ込まれていった。
反論する暇もなく勢いのままに彼女の部屋まで引きずりこまれた早離は、万に言われるがまま床に座していた。
「誰だお前は」
彼がそう問うが、万は気にしていないのか顎下に指を当てどう説明してあげるべきかで頭がいっぱいになり答えようとしなかった。
彼女のわがままな振る舞いは、彼の口調を荒くさせているが、早離自身はその事に気が付いていない。
「まずは…そうね。貴方はどうして愛を受け入れようとしないのか、そこから考えていく必要があるわ」
「人の話を聞いているのか」
「強者故の孤独。でも貴方の側には多くの人がいるわ。一目見ただけで分かる。貴方は1人で生きていない。でも…目線が違うのかしら。貴方の目は何処にも向いていない。どうして?」
「…何なんだいったい」
会話と呼べるかも怪しい一方的なコミュニケーションだ。
早離はとんでもない女に捕まったと思い、物憂げにこめかみを掻いた。
「私は手入らず(童貞)だ。愛を知らなくても不思議ではない」
万の指が早離の顔の前に向けられる。爪が伸びた細長い指。
彼の黒目が中央に寄った。
「いいえ。貴方は既に愛を知っている。これは間違いないわ。私には分かるの。絶対の自信がある。それに性交の有無で愛を語るのはとっても世俗的。そんなものは本当の愛なんかじゃないわ」
彼が万の部屋から出て言ったりしないのは、万から敵意を感じないからだ。
無礼な態度に対してはあまりいい気分にはならないが、万からは何処か献心すら感じられた。彼女はこの問答が自分の為になると本気で思っているように見えた。
だから会話を続けた。
また無自覚的にではあるが、彼は年上の女性には従ってしまう習性がある。
「では愛とはなんだ。愛の定義を決めなくては話にならない」
「何でも定義づけしようとするのは呪術師の悪い癖。やれ結界の循環定義やら、領域の体外条件、体内条件…すぐに万物を定めようとする。大切なのは物事を大きく捉える事。愛はもっと自由でいい。だって愛なんだもの」
「自分で言っていて、無茶苦茶だと思わないのか」
「思わないわよ。私は私の愛を信じているんだもん」
「はぁ…」
彼女の語る愛を彼は何一つとして理解出来ていない。
でもこうやって自信満々に自身の愛を語れる万の姿は、少しだけ眩しかった。
「強ければ強いほど、同じ領域に立てる人は少なくなっていく。高みに居る人はね、少しずつ見えなくなっちゃうの。どれだけ目を凝らしても、段々と輪郭がぼやけていって、それで最後には皆が上を向かなくなる。首が疲れちゃうしね。でも、私は決して諦めない。私なら絶対に一人にしてあげない。それが私の愛」
「…お前の愛について聞いていないが」
「私の愛を決めるのは私だけ。誰かにとやかく言われて変化が生じるなんて愛じゃない。それに貴方は愛を知らないと言っていたじゃない。だから私の愛を教えてあげたの。少しでも想像しやすいようにね」
万の話を聞いて、彼が自身の愛についてピンとくることはない。
しかし、彼の頭の中に一つのイメージが浮かんでしまう。
同じ領域に立つものが居ない、高みに至った者。
彼は真っ先に連想したのは呪術の師であり、育ての親でもある天元だった。
「…私はお前の語る愛が分からない。私が既に愛を知っているというのも理解しがたい。だが…その共にいるというのは…共にいれば、愛になるのか?」
「それを決めるのは貴方。貴方の愛は私じゃ決められない。だって貴方は既に愛を知っているのだから。でも、今分かったわ。貴方が愛を拒絶している理由」
万の両手は彼の両頬に添えられる。
傷一つない綺麗な手だった。
「自分が信じられないのね…愛に怯えている。いや、愛を許容する自分を恐れている。根底にあるのはきっと劣等。でもどうして?貴方の何がそうさせているの」
彼の両目は大きく張った。万の瞳に自身の姿が写っている。
合わせ鏡のようだった。幼い自分がそこに居る気がした。
万の両手が振り払われた。両手を跳ねのけ、万を突き飛ばす。
彼は立ち上がり、息を荒くしたまま、獣のような目つきで万を睨みつけた。
瞬間的に沸騰した感情は、外気に晒され急速に冷やされていく。
直ぐに正気を取り戻した彼はすぐさま謝罪の言葉を吐いた。
「構わないわ。私は貴方の奥底に手をかけたんだもん。むしろ怒りを露わにする方が健全…あら、ご飯が出来たみたい。お詫びよ、せめて食べていきなさい」
気が付けば部屋の隅に、まだ幼い女中が座っている。
首を垂れて震えていた。無理もないだろう。見知らぬ男が怒っている様は誰だって恐ろしい。
陳列された膳には野菜や米、動物の肉などが彩りよく添えられていた。
豪勢な食事だ。未だ名前すら知らぬ女は相当な身分の者だと伺い知れた。
「これは…なんの肉だ」
「…猿の肉よ。美味しいの。是非食べてみて」
これが猿の肉を摘まみ、口に運んだ。
触感は堅い。だが噛めば噛むほど染み込んだ肉汁が溢れ出た。
見知った味だった。どこかで食らった味わいだった。
遠い昔に食べた肉の味だった。そう、遠い遠いずっと昔に彼が食らった肉の味。
シン・陰流 『朧月』
宮中での帯刀は基本的に禁じられている。
早離は『朧月』により生成された刀を振り抜き…万の首に当たる直前で何とか踏みとどまった。
勢いのままに押し倒した万の上に、早離は馬乗りになる。
右手は刀を力いっぱいに握りしめ、左手は万の顔面を強く掴んでいる。
「私に何を食べさせたぁ!!!」
彼が怒りのままに吠える。飛び散った唾液が万の顔にかかったが、彼女は薄ら笑いを浮かべている。
「そうなのね!だから貴方は劣等を感じていたんだわ!
邪悪な笑みだった。先ほど前での愛を語っていた彼女とは程遠い、悪辣な顔。
「なに笑ってんだ…なに笑ってんだよ、あ゛ぁ゛!?」
「だから愛が怖いんだ!食人を犯した罪に貴方はずっと囚われている。でも安心していい。貴方の罪は貴方以外からすでに許されているの!」
「口を開くなよ淫売。二度と喋れねぇようにしてやろうか」
刀は万の首に少しずつ沈んでいき赤い血が滲みでてくる。
それでも万は笑っていた。謎が解けて彼女は大変満足している。
「どうせ殺すなら素手でやりなさい。その方がより近く感じるから」
「もう黙れ」
彼は万の喉に刀を突き立てた。切っ先が声帯を切り裂き、喉に穴が開いた。
声を出せなくなった万はそれでも笑みを浮かべたまま、彼の頬を支えるように両手で包む。
ヒューヒューっと空気を割く様な高音だけが響いた。
それでも彼は怒りが収まらない。
万の瞳が目についた。大きな目玉が自分を見て笑っているような気がした。
彼は両手の親指を万の目の前に置いた。
喉から漏れる声の高さが変わった。きっと何か言いたい事でもあるのだろう。
「…私を見るな」
万の目玉を潰そうとした彼を、白く輝く紐のような結界が巻き付いた。
両腕が胴体にくっつき高速される。態勢を崩した彼が床に倒れる。
しかし彼は止まらない。拘束されながらも、床を這うように跳んだ彼は万の腕に噛みついた。肉を噛みちぎり、口内が万の血で真っ赤に染まる。
怒りによって爆発的に膨張した彼の呪力を察知して、一番に現場に駆けつけ捕縛の結界を放った天元が止めに入るが、彼は噛みついてまま決して離れない。
いつの間にか反転術式を行った万はまだ完治しきれていないのか掠れた声を出す。
「あら!そこまでして私が食べたいの?そんなに人の肉が好みなのね」
「お前も口を閉じていろ!早離、落ち着きなさい!正気に戻れ!」
最後まで離さなかった早離は万の肉を噛みちぎり、痰のように吐き出した。
それでも加害を辞めようとしない早離は、天元によって強制的に意識を失わされ、こうして事件の幕は閉じた。
宮中で呪術を使い加害しようとした罪は、天元からの口添えと、万の蛮行もあり、不問とされた。
そして裁定として両者の接近が禁止される事になる。
宮中で殺害未遂を犯した者の裁定としては甘いのではないか、と言う意見も上がったが、藤原道長からの働き掛けもありこの程度で済んだという噂もある。
今回祓った呪霊は寄神であった。海の彼方から流れついた漂着物を神として崇める信仰に由来するもので、漂着神とも呼ばれている。
おそらく大陸からの漂着物に呪いを纏った神具でも混ざっていたのだろう。
亀の体に蛇が巻き付いたような形相をした呪霊は、既に彼によって元の形状が分からない程に切り刻まれている。
数年が経っているというのに少しも劣化しない、むしろ増長している藤原道長の好意により、彼の任務に何度も同行させられている亨子は、例に漏れず今回も彼の隣にいた。
「いつもいつも馬鹿馬鹿しい。どうにかしてコイツらから信仰を取り除く手段はないのかしら」
亨子は呪霊の餌食となった村民のものと思われるしゃれこうべを蹴っ飛ばした。
吹っ飛んだ頭蓋は林の奥に消えて見えなくなる。
「信仰は寄る辺なき者の最後のよすがですよ」
「そんな事分かってんだよ。そのせいで
「じゃあ、どうするんですか。
「…アンタっていつから過激派になったんだっけ」
「冗談です」
「笑えねぇーんだよ!」
亨子の腕が早離の首元に回され、ヘッドロックのような姿勢で締められる。
呪霊の祓除を終えたばかりの亨子は、自身の術式を最大限に引き出すために脱衣しており、彼に抱き着いている今もとうぜん裸であった。
術式の影響で隠すべきところは白いモヤで隠されているが、触感は隠せきれていない。
「や、やめてくださいよ!離れてください!」
顔を真っ赤にして振りほどく早離を、亨子は怪訝な顔で見つめる。
こういったからかいは、これまでの任務でも何度も行われてきた。
早離の反応も一向に慣れが見えず、毎度新鮮は恥じらいを見せている。
だからこそ、亨子は疑問に思う。
「アンタって男色じゃないわよね」
「そう見えますか」
「見えなかったら聞かないでしょ」
「断固として否定します」
「そうよねぇ…」
二人が任務を行う時、必ずと言っていいほど宿泊が伴った。
もちろん部屋も同室だ。
大人になった彼は子供の作り方だってもちろん知っている。
なので同衾が何を意味するかも勿論理解している。
だが、彼女は未だに手を付けられていない。
性の対象から外れている…と言うわけではないだろう。
先ほどの彼の様子もそうだ。彼女の魅力が足りていないわけじゃない。
更に言えば、この状況は亨子にとっても決して悪いものでもなかった。
彼は口裏を合わせているので、上司である道長は二人の仲はそれなりに良好だと思っている。
別に嘘ではない。幾度も任務を重ね、互いに素を見せられる程度には信頼関係を築けていた。
もし孕んでしまえば、その子供は早離を引き入れる駆け引きの道具にされてしまうだろう。
だからこそ、何もないこの状況こそが最善と言ってしまっても過言じゃない。
それに亨子だって誰彼構わずまぐわって何も感じないような女でもない。
ただやはり亨子の頭には疑問が残る。
一体コイツは何がしたいのだろう。
まさか天元の道徳溢れる指導はこうも禁欲的な生き物に育むのかと、そう思った。
「…あ」
閃いた亨子は声を上げ、言葉を続ける。
「信仰を無くすんじゃなくて、対象を狭めればいいのよ。それこそ呪術師を信奉するとか」
「……呪術師は人なのでいつか鍍金が剥がれますよ。姿形が見えないからこそ、そこに神秘性が生まれるのであって」
「でも天元を祀ってる集団いたでしょ。あの、なんか、変なの」
「盤星教ですか…。あれは尊敬からくる集団ですよ。神様と言うより師として見ているんじゃないでしょうか。それに盤星教の多くは呪術師で徒人はごくわずかです」
「アンタも似たようなもんじゃないの」
「私は彼らとは違います」
早離は盤星教の面々があまり好きではない。それは特に危害が加えられたわけではない。
むしろ同じ師に学ぶ同胞のような扱いで、何かと気を使ってもらっているが、それでも早離は彼らが好ましくは思えなかった。
「でも不死の術式を持ってもうずっと長い間生きているんでしょ。とっくに人間なんてやめてるんじゃない」
「人…ですよ。あの人は。天元様は何百年生きていようが人の範疇を出ていません。それに天元様自身も神様のような扱いを受けるのは好いていません」
早離が盤星教と気が合わないのはこれに尽きる。
早離から見て、盤星教の者は天元を持ち上げすぎているように見えた。
天元は何処まで行っても一人の人間でしかない。
そう亨子に気づかされた彼は、特に今より若い頃、天元に反発するために目を皿にして彼女の欠点を探した。
今考えても本当に幼く愚鈍な意味のない行い。
だがそういった行為の積み重ねは、彼女の神秘性を彼の中で少しづつ削いでいった。
「この話は前もしましたよ。それに天元様がただの人間だと言ったのは亨子さんだったじゃないですか」
「え、覚えてない。いつ?」
「…最初にあった時です」
「…ふ~ん」
亨子の口角が上がった。彼は自身の失言を自覚する。
「………すごく覚えてんじゃん。私との会話」
「…違います」
「いや、覚えてるから違わないでしょ」
「違います!」
「…あー、うん。そう。違うね。違うって事にしておいてあげるから」
「……!」
顔を赤く染め黙り込んだ彼の顔を、邪悪な笑みを浮かべた亨子の指が突く。
少し齢を重ねたぐらいで彼の扱いは変わらない。
亨子にとって早離はいつまでも年下のガキであった。
燈台の火が消えた寝室は、格子の隙間から漏れる月明かりだけが弱弱しく照らしている。
何時ものように同じ部屋で寝ている早離と亨子は、互いに背を向けるように横になっていた。
あまり寝つきが良くない早離は眠るのに時間が掛かる。
例に漏れず今夜も目が冴えていた。
「亨子さん」
態勢を変えることなく、顔は亨子とは逆方向の壁を向いたまま声を掛ける。
「…なに」
亨子のぼんやりとした声が聞こえる。
眠れない彼がこうやって話しかけてくることはこれまでも何度かあった。
どれだけくだけた仲になろうとも、亨子の本来の目的は彼と親密で居続ける事。
だから彼女はいつも少しだけ話に付き合ってくれる。
「なんで呪術師になったんですか」
「…………アンタと同じ」
「意外と食いしん坊ですね」
「…どんな理由で呪術師やってんのよアンタは」
誤魔化すように彼が笑った。
そこで会話は終わり、二人の口が閉じる。
早離は未だ亨子との距離を決めかねている。
彼女を性愛的に思ってはいない。多分そう思う。
でも一緒に居て苦痛だとは思わない。ならば友愛的な親しみを感じているのか。
そもそも普段の自分はそんな事すら考えずに人と接している自覚があった。
あの人は友達であの人は知り合いでなんて線引きは好きじゃない。
無理して自身の感情を定義づけするほど賢くなく、几帳面でもない。だから今こうして、意味のない考え事をしているのは多分眠れなくて暇を持て余しているからだろうと、勝手に結論を出してみる。
「私は腹いっぱいご飯が食べたいので呪術師になりました。その気持ちは今も変わっていないと思います」
この気持ちはきっと正しい。都の外にいる者どもは須らく死人のような姿をしていた。
体はやせ細り、衣服は汚れ、呪霊の脅威に震えることしか出来ない哀れな存在。
天元は彼らを憐憫に思うのではなく対等に見ろと説いた。
だが私はどうだ。…きっと違う。
「でも…いつからでしょうか。外の人々を見ていると、どうしても思ってしまいます。あぁ、私は彼らのようにならなくて良かったと。私に呪力の才能があって良かったと。昔はきっとそんなこと思ってなかったのに」
それは独白だった。
陰陽寮は天元の哲学で満たされている。
呪術師に道徳を説いた稀代の君子。その思想に浸された…出来た人が多い。
だからこんな事は言えない。言えるわけがない。
コミュニティから外れた、部外者である彼女にだからこそ打ち明けられる恥部。
「私は…呪霊に怯えただ死を待つ人生なんて嫌です。私の生き方は私が選びたい。その為に術師をなりました。その為に術師を続けています」
本当にそうか?違うだろ。
脚色して着飾っている言葉だ。
色を付け、箔をつけ、見てくれを整えた卑しい性根だ。
「…いや、少し違いました。私は……私は、無様に生きたくない。惨めになりたくない。誰からも阻害されずに生を全うしたい。そう思って呪術師を続けて…縋っています」
彼の声が尻すぼみに小さくなる。言葉にして、口に出して、その後に無性に恥ずかしくなった。
自問自答する。なぜあんなことを言った。なぜ彼女に話した。
波のように強くなる羞恥に考えが纏まらない。時間が戻るなら今すぐに巻き戻すだろう。
倒錯する思考でてんやわんやになった彼を置いて、亨子が口を開く。
「それって…
彼が振り向き亨子に向いた。早離の目には布団に隠れた彼女の背中だけが写っている。
「別に私だってそう思うし…誰だってそうでしょ。アンタの言う非術師だって好きで惨めに生きている人なんて居ないわけだし」
「や、いや、そうではなくて」
「何も違わないでしょ。私だって非術師見て馬鹿みたいだなって思うわよ。呪力も制御できないせいで呪霊を生み出すわ、勝手に祈って呪霊を強化して殺されるなんてとんだ笑い話でしょ」
「それは…亨子さんだから」
「なわけあるかぁ!」
それまで横になっていた亨子が態勢を起こしたこちらに振りむくと、枕を彼にぶん投げる。
彼の顔に直撃した枕が音を立てて床に落ちた。
「別に私じゃなくたってみんなそう!アンタのお仲間の陰陽寮だってそう!多分天元とかもそう!皆アンタと同じこと思ってるの!」
「天元様は違います!」
「違わないわけないでしょ!さっきだってアンタが天元は人間っつったんだろうが!ならそういう事を考えないわけがないでしょ!なに特別視してんの?」
彼の目が空洞のように色を失い大きく見開いた。
目から鱗であった。
早離は亨子に指摘され、ようやく自身の抱えている矛盾に気が付いたのだ。
口では盤星教の面々を卑下しつつも、自身も彼らと同じ思想を抱えている。
その事実が少しずつ彼の中に浸透して、羞恥と自己嫌悪が同時に襲い掛かる。
「だって…え、あ、私が…は、そう見えているの、でしょう、か?」
「いや、知らないけど。私はアンタじゃないし」
思った以上に動揺している早離の姿を見て、亨子は少し引いた。
彼女からすれば普通の事を普通だと指摘しただけだ。
誰だって汚い部分を持って生きている。
人は醜く浅ましい生き物である。
そういった負の部分を幼いころから受容してきた彼女と、一定の清廉さを求められ反発しながらも要求に答えてきた彼との価値観の違いが大きく現れた出来事であった。
「と、とにかく。アンタの言ってる事は普通で、決してアンタが卑しいとか穢れているとかそういう結論には至らないから。それを言ったら、同じこと考えてる私まで駄目みたいになる。アンタは私の事をそう思ってるの?良い待遇の為に呪術に縋るしかない醜い人間って見える?」
「お、思って、ないです」
「吃らず言えよ」
「思っていません!」
「ならこれで解決。しょうもない事で悩んでないでさっさと寝ろ!呪術師の殆どは良い飯食っていい女抱く為に呪術師やってんだから」
「…それでは女性の方は?」
「いちいち揚げ足を取るなガキのくせに」
亨子は偏った見解で押し切ると、布団を被り再度背中を見せた。
肩が軽くなった様な気がした。
これまで抱えていた重りが外れたような、そんな気分だった。
たかが言葉なのに。ちょっと彼女と会話しただけなのに。
それまで探し求めてきた正解を投げつけれたような夜だった。
暫く茫然としていた早離は、暫くして同じように布団にもぐった。
今度は違う。彼は亨子と向き合うように横になり、その背中を見つめていた。
「……私が呪術師やってんのは、他に選択肢が無かったから。それだけ」
唐突に彼女がそう教えてくれた。
「これで終わり。私は寝る」
そう続けて、その晩はそれ以上亨子の口が開かれる事は無かった。
早離も瞳を閉じて力を抜く。
不思議とその日はよく眠れた。