──────ぴちょん。
「んがっ」
頭に水滴が落ちる衝撃で目が覚めた。
視界も意識もボンヤリさせながら、ハルトは「なんだ?」と。いまいち自分の置かれた状況が分からず、咄嗟に周囲を見渡そうとして……痛みが走ったのは一瞬。
「つ……。……あれ?」
身をよじろうとして、なぜか体が全く動かない事に気付いた。
ほんの少しだけドキッとしたが、しかし何の事はない。単に
なーんだ、これのせいか。よかったよかった。
ハルトはホッと一安心。再び目を閉じ、体から力を抜き、心地良い微睡みの中に身を投げ───
「は?」
眠気が一瞬で消し飛んだ。
……鉄の枷? なんだそれ?
急に現実に引き戻され、目を見開いたハルトは慌てて辺りを見渡した。
そこは、薄暗くて、狭苦しい、空気が淀んだ場所だった。
広さはおよそ六メートル四方。藁小屋暮らしの農民からすれば十分なスペースだが、とてもじゃないがここに住もうとは思えない。
土が丸出しの壁。水が滴り落ちる脆そうな天井。部屋の片隅には便所と思しき謎の穴が一つと、もう片隅には、おそらく寝床のつもりであろう薄いボロ布が一枚。
そして何より、黒く錆び付いた鉄格子。
太陽の光は差し込まない。完全に外からは断絶されている。この空間を照らす唯一の光源は、鉄格子の向こう、細い廊下にぶら下げられた簡素なランプのみ。
まさに『人を閉じ込める』ためだけの場所。
それを明瞭に分からせる独特の雰囲気。
「……嘘だろ……」
嘘なわけがなかった。
否定しようが、信じなかろうが、現実は現実。
自分はどうやら、現在進行形で。
薄暗い『牢屋』に、手足を拘束されて閉じ込められているらしかった。
「……いや、意味が……分からないんだけど……」
分からなかったところで、やはり現実は現実なのだ。
しかし、それにしたってだ。牢屋? 拘束? つまり罪人扱い? なぜ? どうして? 一体何がどうなって? 善良な一般市民(自称)は混乱の極みであった。
まずもって、自分が『こう』なった経緯が微塵も思い出せない。
森の中で魔獣に追われていた事は覚えている。
そして今でも脳裏を過るのは、見上げるようなあの『巨体』。
振り上げられる脚。振り下ろされる脚。爆音。衝撃波。回る視界。自分は呆気なく宙に舞い上げられ、そして───
「……なん……だっけ……」
そこから先の記憶が、すっぽり綺麗に抜け落ちていた。
多分その先に『こう』なった原因があるのだが、どれだけ頭を捻っても思い出せる気がしない。意味不明な現状が、理解不能なまま継続する。
「……うん! でも生きてるなら大丈夫! 死んでないだけマシだマシ!」
誰かに言っているわけではない。しいて言うなら自分自身に言い聞かせている。
大丈夫! 大丈夫! だいじょーぶ! ───虚しい独り言。空元気。でもこうでもしないと本格的に心が壊れる。
……元から、不運や不幸に愛されている自覚はあった。
ある時なんかは、ただ道を歩いていただけで『竜車』に轢き潰され。
またある時なんかは、畑を耕していただけで野鳥の群れに襲われて農作物を全部持っていかれ。
またまたある時なんかは、欠片も身に覚えのない冤罪をかけられ、衛兵に三日三晩尋問され続け。そして結局、衛兵側の勘違いで。
そういう理不尽極まりない困難が、日常的に襲ってくる人生だった。
だからこそ、厄介事を回避する能力だけは必死に磨いてきた。
ハルトはずっと一人だった。家族もいなければ友もいない。だから一人で生きられる力を、必死こいて身に付けてきたのだ。
手探りで農業を始め、試行錯誤の末にようやく畑仕事も板につき、商売もそこそこ上手くやり、なんとか自分なりの生き方を見つけられたと思ったのに。
「気付きゃあ牢屋にぶち込まれてましたってか! 上等じゃねえかこの野郎! 次はなんだ!? 槍の雨でも降って来るか!? 僕目掛けて隕石でも落ちて来るか!? 何でもいいぜ! どんと来ーい! あははははー! ははは……は……」
アホか。
こういう事になるのが嫌だから今まで頑張ってきたのに、結局こうなるのか。
自覚はしていた不運と不幸。まさか、これほどとは。
「はああああああああああああああああああああああぁぁぁ……」
吐いた溜息は、牢屋の床に鉛の如く重く落ちる。
お先真っ暗どころか、すでに闇のど真ん中。薄暗い牢屋の中、両手両足を壁に繋ぎ留められ、ハルトの心はもはや下に下に落ちていくばかりで、
「……これからどうなんのかな、僕」
「何を悩んでいるですか?」
「ほわああああああああああああああああああああああああああああ!?」
独り言に、あるはずのない返事が返ってきた。
びっくりし過ぎたハルトの悲鳴に、返事の主も「ひゃーお!?」と驚愕の声。
ぴょーん! と猫みたいに飛び上がり、ハルトがいる牢屋の向かい側の牢屋の鉄格子に怯えたみたいにしがみ付いて、
「あ、あ、ああわわわわわわわわ!? なんて凄まじい気迫なのですか!? さ、さすがは上空から『姫様』の裸を覗こうとした変態さんなのです! 高度です! 性の欲求が実に高度なのです! これが噂に聞く変質者! と、とてつもない神秘を感じるのですよ! ……じゅるりっ」
「おっ、おおうごめん、ちょっと驚き過ぎた。……神秘?」
高鳴る心臓を抑えつつ、ハルトは声の主をようやく真面に認識する。
鉄格子の向こうから、コチラの方をジロジロ、ジヌロジヌロ……まるで檻に入れられた珍獣でも見るかの如く眺めてくるのは、なんと白衣姿の少女だった。
身長はそこそこ高く、顔つきも成熟に近い。見た目は一八かそこらだが、全体的に柔らかそうな雰囲気が、彼女の印象を実際よりも幼く感じさせる。
ふんわりとした栗色の髪と、同じ色の瞳。
ふっくらした顔の輪郭に、たぷんたぷんっと豊満な胸囲。そして艶めく生足。
何よりも特筆すべきは、白衣の隙間から覗く、
うんうん。これはなんとも目の保養……。
「え?」
───生足? 地肌? ……どうしてそんなものが見える?
暗闇に目が慣れ過ぎて、闇を見通すどころか衣服の奥すら見通してしまう超視力が身についたのか? なんというご都合主義! ……というわけではもちろんなく。
「へ、変態さんが、パーシェの体を舐め回すように見ているのです! なんていやらしい目つき! はっ! ま、まままままさか変態さん、パーシェの体に欲情しているのですか!? そんな……『姫様』の裸体に飽き足らず、パーシェの肉体にも変態的欲求を満たそうと!? そ、底知れぬ性欲なのです! これが男! 人間のオス! か、解剖してみたい……実験してみたいのですう!」
一人で勝手に盛り上がり、一人で勝手に興奮し。
しまいには、ハルトを解剖する算段まで立て始めた彼女は、何を隠そう……。
というか、何も隠されるものがないくらい。
あろう事か、全裸白衣であった。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
まさに全裸に白衣を着たままの姿で、少女は鉄格子の向こう側に立っていたのだ。
見間違いかと思ったが、違う。本当に全裸白衣だ。白衣の下には肌しかない。
胸部なんかはさらに恐ろしい。
大きな双丘の形に白衣が内側から膨れ上がり、しまいには……なんというか……白衣の表面に、謎の『突起』が左右に一つずつ浮かんでしまっている。
かろうじて股の部分は申し訳程度の下着で覆い隠していたが、それだってもう、あって無いようなものだった。
なんなら見える。
布の凹凸で全部見える。本来隠されるべきあちらこちらが。
ナイスバディーな女性の体が、ハルトの網膜に飛び込んで来る!
「な……っ!?」
性欲モリモリの人間のオス、名称:ハルトは言葉を失うしかなかった。
そして女性の裸に対する耐性も無かった。
(な、なななななななななんだこのエロい女の子は!? 何かの罠か!? そうやって僕に変質者の烙印を押し付けて冤罪ふっかけようって魂胆か!? そうはいくか……くそっ、なんだ!? 視線が吸い寄せられてしまう!)
変な冤罪の餌食にはされまいと、ハルトは必死に全裸白衣から目を逸らそうとするが……悲しいかな、オスとしての本能が勝手に視線を少女へ向かわせる。
何より凄まじいのは、彼女の煽情的な身体つきだ。
柔らかそうな肉質。女性特有の脂肪の蓄え方。外から見える肉付きだけでもこうも艶めかしいというのに、『完璧な裸体ではない』という部分も最高にいやらしい。ある程度の布を身に付けているせいで、無駄に豊満な男の想像力をこれでもかと刺激する。
あの布の向こうはどうなっているのだろう。どんな形をしているのだろう。どんな世界が広がっているのだろう。そういう想像力こそが人類の人類たる所以だ。我々が他の生物と一線を画す部分とは、すなわちこの想像力だと言っても過言ではない。
やっぱり人間の想像力って偉大だなあ。
うんうん。
「はっ! 何を冷静に分析してるんだ僕は!」
少女のエロさを丁寧に描写している場合ではなかった。
このままでは、あまりのエロさの己の『檻』が解き放たれ、下腹部の方から熱い何かが飛び出してしまうかもしれなかった。
……何かがナニとは言わないが。
「お嬢さん!? 何がナニやら分からないがとにかく服を───」
「ふぉぉおおおおおおおお!? しゃべった! 変態さんがしゃべったのです!」
ガシャアン!! とすごい音を立てて、全裸白衣の少女はハルトのいる牢屋に鉄格子に思い切り飛びついた。
そりゃ人間だから喋るだろ……。そうツッコみたくなる衝動をぐっと抑えて、
「頼む! 君がどこの誰かも分からないし! 僕も自分の状況がいまいちよく分かってないけれど! まずはもっと文明的な服を着てくれ! じゃないと僕、もうなんか色々と我慢ができなくなりそうなんだ!」
「はっ! これはまさか、パーシェと意思の疎通を図ろうと!? なるほどです! これほど高次元の変態に成り果てたオスでも一定の理性は保っているのですね! メモメモ……ああメモするものがない! パーシェ、一生の不覚!」
「あんたが一番意思の疎通を図れてないよ!」
気付けば普通にツッコんでいた。
「なんでもいいから服を着てくれ! 僕のアレが弾ける前に!」
「むっ、こうなったら仕方がないのです! 何が何でも
「だから話を聞───じっけん?」
少女の中でハルトがどういう扱いなのかは知らないが、どうやら少年の言葉など、彼女の鼓膜には全く届いていないようだった。
というか……え、なに、どういう事?
じっけん?
実験!?
「なになになに!? 実験!? 僕これから何をされるの!?」
「ふふふ、そう怖がらなくても大丈夫なのですよ、はい。ぜーんぶパーシェにお任せくださいなのです、はい」
「全部お任せしたら実験されんだろうが! ……だから何なの実験て!」
「ご安心を! 痛いのは最初だけなのです!」
「痛くなる感じのやつなの!?」
逆に痛くならない感じの実験なんてあるのかどうかは知らないが、とにかく痛いのは嫌だった。
「や、やめろ! 思い直してくれ! ついでに己の格好も見つめ直してくれ!」
「見ているです、よぉぉぉぉぉぉく見ているですよぉ。ああなんて神秘的……! 産まれてこの方お父様の老いぼれた肉体しか目にしてきませんでしたが、今! ようやく! 若いオスが目の前に! しかも噂に伝え聞く変態さんの肉体なのですう!」
全裸白衣は元気だった。
「なんて魅力的な筋肉! 太く角ばった骨格! 地を這うような声の低さ! 女性とはまるで違うのです! ああ見たいっ! 中身まで全部調べて舐め回したいのですう! 瞳の味はどうなのですか!? 男も妊娠するのですか!? 脳の構造はどうなっているのですか!? 穴はどこに何個ずつあるのですか!? むっふううううううううう!! こ、コーフンしてきたのですうううううううううううううう!!」
「だ、ダメだこいつ……!!」
大きな栗色の瞳をギラギラに輝かせ、荒い息に鼻を膨らませ、ヨダレを垂らして鉄格子の間に顔をねじ込み始めた少女はもう止まらない。今にも鉄格子を突き破り、内側に入って来そうな勢いだった。
が、しかしだ。
「興奮しまくってるとこ悪いが残念だったな! 君は僕には手を出せない!」
体を狙われたハルトは、それでも強気に啖呵を切る。
「見ろ! その頑丈な鉄格子を! 君が一体全体僕に何しようとしてんのか分からんけど、それがある限りコチラには入ってこれまい! つまり! 君は僕に恥ずかしい全裸白衣姿を見られ続けるしかないのさ! 僕に手を出したくばその鉄格子を超えてみる事だね! あはははははー!!」
「こんな事もあろうかと、パーシェ、牢屋の鍵をお預かりしているのです」
「終わりだあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「はいガチャンと」
まるで自宅に入る気軽さ。全裸白衣の少女は当たり前のように牢屋の鍵を開けて中まで踏み入ってくる。
「ふひっ、ふひひひひひひひひひっ……! 観念するのですよ変態さん、すでにパーシェの射程圏内なのです……!」
「まっ、待ってくれ! 落ち着いてくれ! 今ならまだやり直せる!」
「心配ご無用です! やり直す気も起きないほど、この一回で味わい尽くしてやるのです!」
「安心できるか! せ、せめて五回戦ぐらいの分割払いで───」
「そんなの我慢できないのです! 男の体、いざ! 貪り尽くしてやるのです!」
「うわああああああああああああああああああああああ!! 助けてー! 誰でもいいから助けてくれえええええええええええええ!!」
「それじゃあ感謝を込めて……いっっっただきますなのですぅぅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!」
「いぃぃ──────やぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
絶叫は、どこまでも大きく響き渡った。
あらゆる感情が入り混じった地獄の音響は、壁を越え、大地を越え、実はハルトが閉じ込められていたのは
そして、つんざくような絶叫が、次第に快感の喘ぎ声に変わったあたりで、ハルトの声はプッツリ途切れた。
そこで何が行われていたのかは、推して知るべしである。