「おはよ、せんせ」
「……さりなちゃん?」
耳元に聞こえた声に反応して、アクアはそっと目を開ける。
寝起きなのもあってか、アクアの呼び名も自然と同時に引っ張られたものとなっていた。
そんなアクアを見てにこりと笑顔を浮かべる姿は何処か普段より幼く、見ていると無性に寂しさと懐かしさを感じさせた。
「今日はなんの日か知ってる?」
ルビーの問い掛けを聞いて、アクアは寝起きの頭で日付を確認する。
本日は2月14日。
「……バレンタインデーか」
「そう!恋人になって初めてのバレンタイン!だからせんせには特別に午前中は『さりな』として!午後からは『ルビー』としてチョコ渡したいな〜って!……ダメ?」
世界が輝いて見えるような今も昔も変わらないアクアの心に残る笑み。
それを惜しげもなく晒すルビーに、アクアは微笑みながら答える。
「そうか。じゃあ……僕も朝は吾郎として過ごそうか」
そういってアクアは、身体を起こしてから、ベッドの近くに置いている普段は使わない伊達メガネの小道具を手に取って掛ける。
更に意識して気配を前世のものに近付けたアクアの姿に、ルビーは当時を思い出して赤面した。
存在しないさりなと吾郎の愛の記憶がルビーの脳裏に映し出される。
「あっせんせかっこよ……しゅき、結婚して!」
「……ちょっと複雑だな、これ」
ルビーの対応がいつもより甘く感じられ、アクアは少し冷静になって演技をせずに呟く。
かなり特殊なプレイのように見えるそれは、アクアだけどアクアじゃない相手に接されているようで違和感が凄かった。
「せんせに嫉妬しちゃったの!?んふふ〜可愛いねぇおにいちゃん」
「うっせ……午前中はさりなと吾郎……なんだろ?しっかりしないとダメじゃないかさりなちゃん」
「はぅ……うん、せんせの頼みなら仕方がないなぁ」
そんなアクアを見て、可愛らしい声を濁らせるような何処か挑発的な声を出してルビーに戻ってしまった彼女。
にまにまと楽しそうに笑うルビーへアクアは反撃するように吾郎として振る舞い直して対処する。
二人とも一瞬演技がはげたものの、すぐにスイッチを切り替え直して本当に午前中はこれで行こうと決めたのだった。
「おはよーアイちゃん!」
「お、おはよ……アレ?ねぇアクア、ルビーどうしたの?アクアもなんかメガネ掛けてるし」
それから二人は着替えなどを済ませてリビングへ。
朝食の用意をしていたアイは、娘からいつもと違う挨拶が来て、珍しく素で困惑の表情を浮かべる。
更にアクアも普段より柔らかい表情をしており、気配から異なる上に眼鏡までかけている。
普通の演技であれば気付けるアイであっても、本人がしている前世の演技なんていう脱法技を見抜くのはそれなりに難度が高いらしい。
疑問符を頭に浮かべたまま固まるアイに、アクアはこっそり小声で事情を説明することにした。
「……今日って恋人になって初のバレンタインデーだろ?それでルビーが前世と今世どっちの分もチョコを渡したいらしくてな」
「あーっ!確かに前回は14日過ぎてたもんね。センセに渡したいから『さりなちゃん』になってるんだ!」
アイはアクアの言葉を聞いて、どうしてルビーの様子が違うのかを理解して納得した。
あくまでルビーがさりなとして振る舞っているだけと分かれば、自ずと混乱は解ける。
二人ともあくまで地続きなだけあって、根の部分は変わっておらず理由さえわかれば可愛いなぁという感情だけが残る。
「そういうことだ。僕もその提案に乗って吾郎として行動する事にしたから、朝はこの調子で行かせてもらうよ」
説明が終わればアクアから吾郎に切り替える。
そのロスがない変更を見て、アイはアクアの俳優としての成長を感じていた。
「え!アクアもセンセやるの!?」
「なんでアイも目を輝かせているんだ?」
眼鏡などや雰囲気で感じてはいたが、アクアの口から言われた雨宮吾郎を演じるという言葉にアイはニコニコと反応する。
ルビーとはまた違う目の輝かせ方をするアイを見て、アクアは困惑した表情を浮かべるが、その理由について彼女は口にする。
「ほら、私けっこーセンセにお世話になったでしょ?いつか恩返ししたいと思ってたんだ〜」
「十分今世で返してもらったと思うけど」
「こうしてるとホントにセンセって感じだね!」
メガネを掛けて、普段より少し戯けている様子を見せているアクアは、アイも知る雨宮吾郎その人で、改めて自分の子供が転生者なんだなという実感を感じる。
生まれてきてくれてありがとうと何度目かのお礼を頭に浮かべていたアイはふと閃いた。
「それならいい機会だし、私もさりなちゃんとしてのルビーと交流してこよっかな。確か私のファンだったんだよね?」
以前宮崎の旅行で直接的ではないが、ルビー本人が彼女の前世について話していた事がある。
それだけでなく、断片的な話はアクアからも聞かされており、アイ自身が天童寺さりなという人物に興味があった。
「ああ、僕のドルオタ師匠のような人だからな。……本当に死ぬ直前もアイの事が大好きなファンだったんだ」
「そういえば宮崎ライブ行けなかったみたいな事温泉で言ってたね〜。そこまで思ってもらえるなんてアイドル冥利に尽きるなぁ」
「ライブ……やる価値はあるか?」
アイのそんな言葉にアクアは一つのサプライズを思い付く。
ルビーはアクア達ほど切り替えが上手いわけではない。
本気で演技を通り越して『さりな』となっているならと、一つアイにして欲しいことがあった。
「アイ、すまないが一つ頼みがある」
アイに吾郎としてとあるお願いをする。
彼女もあくまでアクアではなく吾郎からお願いをされた事をイメージして、そしてその上で了承した。
そのお願いを叶えるため、まずはルビーの意識をよりさりなに寄せるため、普段とは違う同い年の女性に接するように声を掛ける。
意識して昔のアイに彼女自身も近付ける。
「やほーさりなちゃん」
「アイちゃんに会えた……私もう死んでもいいかも」
「縁起でもないこと言うなよ」
本当に初対面のように接するルビー。
おそらくアクアとの会話を経て、相当深くさりなとしての自意識に切り替えているのだろう。
自然と会話がファン目線のみになっており、アクアはそれを察しつつも当時を思えば縁起でもない事を言うルビーにツッコミを入れる。
そんなアクアの言葉をスルーしてアイは言葉を続けた。
「私もセンセにはお世話になってて……実は私もセンセの婚約者に会ってみたかったんだよね〜」
「婚約者じゃねぇよ」
「えぇ!?結婚してやるって言ってくれたのに」
「考えてやるしか言ってねぇ」
「うわぁセンセ悪い人だ〜」
親子関係を無視していてもきっとこの二人は相性がいい。
もしあの時奇跡が起きて、さりなの病状が回復するような事があれば、二人がB小町で一緒にアイドルをやる世界線もあったのかもしれないなとアクアは思う。
流石に長時間話すと時系列で互いにボロが出てしまうだろうが、アクア達は"あり得たかもしれないもしも"をイメージして朝から楽しい会話を繰り広げた。
平和な推しとファンの交流、時折担当医弄りを添えてがしばらく続いたアイとルビー。
すっかりルビーの意識はさりなにどっぷり浸かり込んでいる。
そろそろ頃合いという事で、締めにアイはアクアから依頼されていたサプライズを披露することにした。
余計な準備物など必要ないアイさえいれば可能な、今の本気でさりなになりきっているルビーに見せたいと思った二人からのプレゼント。
「今日はね、センセからお願いされて、さりなちゃんに特別なプレゼントがあるんだ〜」
「え?なになに!!も〜せんせ私の事好き過ぎ!!結婚して!!」
「社会的に死んじゃうから勘弁して」
アイからのプレゼントという言葉に、テンションが爆上がりのルビーはぺたりとアクアに張り付く。
そんな彼女に衝撃が叩き込まれることとなる。
「二人の時間がないから一曲だけ!一日限定復活ライブ!『サインはB!』」
アイは手元のスマホで『サインはB!』のカラオケ音源を流しながら狭い空間でできるようアレンジしたパフォーマンスでダンスを始める。
現役を退いて長いが、役者として体力作りや体幹トレーニングは欠かしていない。
アクアに付き合ってやっているぴえヨンブートダンスの効果がしっかりと生きていた。
「あっ……」
アイの全盛期さながらな即席ライブの歌が始まった瞬間、小さな声と共にルビーの目から涙が零れ落ちる。
さりなが結局一度も見る事ができなかった生ライブ。
ルビーとしては何度も見てきた母のライブ。
ただ、心もさりなになりきっている彼女には、思い残していた代物でもあった。
アクアもそんなルビーの頭をゆっくりとあやすように撫でる。きっと吾郎が彼女にそうしたように。
一曲だけの短いライブと言ってもいいのかわからない代物。
それでもルビーの心には確かに大切な何かを埋めるようにはまり込んだ。
短いライブはあっという間に終わりを迎える。
ルビーはアイにその感想を口にした。
「……ありがとアイちゃん。『私』さ、せんせと一緒に宮崎のライブ行きたかったの。……場所は宮崎じゃないけど、夢叶っちゃった」
「あー楽しかった!私もあの頃に戻った気分でいたけど、さりなちゃんの応援、ホント嬉しかったよ」
アイが歌う最中、途中から元気を取り戻したルビーは、手元にないサイリウムの代わりに手だけでもとブンブン振り回してヲタ芸をしながら応援していた。
隣でアクアも同じ動きをしており、我が子として、そして特別なファンとしてアイの心を揺さぶる。
アイ自身も当時のアイを再演していただけあって、何処か当時の愛を知らなかったアイが報われたようなそんな気がした。
改めて自分を生きる支えにしていた病弱な少女の存在を自分の中に刻み込む。
「流石に二人はそろそろ学校だね。ちょっと待ってよ〜……あった!センセはいどうぞ」
「チョコか?どうしてわざわざ」
少し台所まで引っ込んだアイが持ってきた四角い箱に入ったチョコを受け取りながら、アクアは首を傾げる。
そんなアクアに対して軽い調子でアイは答えた。
「ほら、推しからプレゼントなんて最高!なんじゃないかな〜って」
「……違いないな、ありがとうアイ」
アイの言葉に、アクアも笑みを浮かべながら、よくこんな突発的なことのために用意できたなと思う。
ちらりと台所の隅に『アクアへ!』とラベルのついた箱が見えるため、あくまで吾郎に対してのチョコということらしい。
普通に考えれば数が足りなくなるはずなので、もしかしたら誰かのチョコを生贄に渡しているのかもしれない。
「あっ!せんせアイちゃんのチョコ貰って嬉しそう!?許嫁がいるのに」
「誰が許嫁だ誰が。それに推しからのバレンタインチョコなんて嬉しいに決まってるだろ」
「ふふっよかった〜センセ、後でゆっくり食べてね」
アイがチョコを渡すのは完全に予定外だったのか、あわあわと慌てる姿を見せるルビー。
出遅れたと言いたげにバタバタしながら、ルビーも台所へ向かい、冷蔵庫から大きなハート型のチョコを取り出してアクアの方へとやってくる。
「はい、せんせ!私からの愛の結晶だから残さず食べてね!」
「こっちこそ。ありがとう、さりなちゃん」
手作りだろうそれを見て、アクアは吾郎らしい穏やかな笑みを浮かべる。
大切なものに向ける視線は非常に優しく、ルビーは顔を真っ赤にする。
「えへへ、これもさ夢だったんだ。当時はこんなこと絶対できなかったから……。はわっ……せ、せんせ?」
はにかむルビーの表情はとても魅力的でアクアは思わず彼女を抱きしめる。そんな二人をアイも幸せそうに見つめた。
それから本格的に時間がギリギリになってアイが慌てて忠告するまで、二人は抱きしめ合うのだった。
土曜ということで授業日程の調節を行うメンバーだけが集まった教室は、いつもより閑散とした気配を感じさせている。
そんな中、アクアとルビーを見た生徒たちはすぐに違和感に気が付いた。
いつもより何処か幼さを感じさせる雰囲気のルビーと、普段より少しお茶らけているような気配を感じさせるアクア。
更にアクアの場合は眼鏡もかけているため、普段とはかなり印象が違うと注目を集める。
「せんせと同じ学校に通えるなんて……最高かも!どうどう?制服似合う?」
「ああ、勿論。よく似合っているよさりなちゃん」
当初アクアは家以外でこの仕草をやるつもりではなかったのだが、どうしてもというルビーに根負けしてホームルーム開始まではと吾郎の演技を続けていた。
相変わらずルビーに甘い男である。
くるりとアイドル業で鍛え上げられた体幹による完璧なターンを決めるルビーに、アクアはいつもよりずっと柔らかい笑みを浮かべる。
何かに乗っ取られたとしか考えれないような現象に、流石に直接聞く勇気がない他の生徒は、早くフリルかみなみが来て話を聞いてくれないかと思っていた。
彼女達が来るかは確定こそしていなかったが、普段の忙しさがクラスメイトの中でも群を抜いているため、恐らく埋め合わせのために来るだろうというのが大方の予想である。
「おはよー」
「おはよう」
「あっ!みなみちゃんもフリルちゃんも来た!助けてぇ」
「え?え?どうしたん急に」
「私の中のコメディセンサーが反応している。話は聞かせてもらうわ」
そんな教室に予想通り現れた二人に事情を説明するクラスメイト達。
事情を聞いた彼女達は改めてアクアとルビーの様子を確認すれば、確かに妙だなとすぐに分かる。
その原因を探るため、二人がしている会話の内容を聞いて状況を探ることにした。
「さりなちゃん、テンションが高いのは分かるけど流石に教室だ。少し落ち着いた方がいい」
「せんせ、いつもなら膝の上くらい気にしないじゃん!」
「今の僕は分別ある大人だからね。兄妹ならともかく普通に別人として考えるなら、コンプライアンスを守ろうと考えているだけだよ」
「え〜せんせのモラリスト〜」
アクアとルビーのやり取り、それを聞けば彼らの秘密に詳しい二人はえ!?と驚いた表情を浮かべる。
そしてフリルとみなみは自分なりの結論を頭で思い浮かべた。
(あわわ、こんな堂々と前世の真似を?いやもしかしたら前世の記憶しかないみたいな状態になったんじゃ……ウチは一体どうしたら。まずはあかねさんに相談やろか。でも仕事中やろし……緊急事態やから仕方がないよね?)
みなみは前世なのには気が付いたが、明後日の方向に二人の様子を解釈する。前世なんていう非常識があり得るのだからそんな事もあるかと考えており、まずはあかねに相談しなければと早とちりをしていた。
アイすら騙すほどに自然な役作りのため、混乱するのも無理のない事だろう。
そして理解が追い付かない現象でも、あかねならばなんとかしてくれるだろうという考えがこの判断に至っている。
(これ、二人とも前世の役でやってるね。理由は……なんだろ?バレンタインだからルビーがおねだりしたってところかな?正直前世のマリンには興味があるからもう少し様子を見たいかな)
対してフリルが正確に見抜いているのは、ルビーの性格上と前世の話を聞いていた事からの推察だった。
フリルは、B小町Rの中でもあかねに次いで役の作り込みが上手い。
そのため、こういった分析をあかねから時間がある時に学んでおり、その成果が活かされた形となっていた。
フリルはあかねに心の中で感謝を述べつつ、怪しい挙動を見せるみなみへと声を掛ける。
「みなみ?その電話は何をしようとしてるの?」
「アクアさんとルビーちゃんが前世返りしてもうたってあかねさんに相談しようかなって思うてるんよね」
「落ち着いて。アレは多分演技。確かに演技には見えないけど、マリン達なら可能だと思う」
何とか助っ人の召喚を止めたフリルは、みなみが落ち着く事が出来るように自分の推理を口にする。
淡々としたフリルの予想を聞いて、みなみはようやく落ち着いたのかぐるぐると目を回しそうな状態から復帰してほっと息を吐いた。
「よかったぁ、ウチはてっきり前世の記憶に全部塗りつぶされてウチらの思い出なくなってもうたんかなって怖くなってたんよ」
「……怖い話するね。もしそうだったら私泣くよ?」
他の人に聞こえないように前世というワードについての話をする二人。
ただアクア達はなんとなく状態を察したようで、アイコンタクトでフリルの選択が正解だから問題はないと伝えていく。
二人ともしっかりそのサインを受け取ったのかホッと一息を吐いた。
「ほならとりあえずウチが皆に演技の練習を二人がしとるって形で事情説明しとくわ」
「ありがとう、私はその間に視力を高めとく」
「丸投げなん!?……そ、それなら動画撮っててくれへん?」
フリルとみなみはそれぞれ行動を開始する。
これにより誰からも邪魔が入らなくなったアクアとルビーは、教師が姿を見せるまで吾郎とさりなとして過ごすことになり、クラスメイト達はいつもと雰囲気の違う甘々とした空気を味わい続けることとなったのだった。