アクア、ルビー、ミヤコの3人が家へ残されていたある日のこと。
いつものように兄にベッタリと張り付きながらアイのことを語っていたルビーが突然挙動不審になる。
怪訝そうな表情を浮かべるアクアからゆっくり離れて顔を赤くしながら呟いた。
「……ちょっとお兄ちゃんあっち行ってて」
「はいはい」
「おぎゃあおぎゃあ」
生理現象なのでしょうがないのだが、アクア=吾郎の方程式が成立する前から恥ずかしがっていた部分であり、前世思春期の女の子には耐え難い。
すっかりこの生活に慣れたアクアもルビーの気持ちはよくわかる。
成人男性の記憶があるのに下の世話をされるというのは一部の特殊な人以外羞恥が勝るだろう。
近くにいるのはかわいそうだとしっかり理解できていた。
ミヤコが以前よりも泣き声への反応が早くなってきたあたりこの生活へ適応してきたのだろう。
「はーなんで私がこんな仕事……。私って一応社長夫人なはずなのに!与えられた仕事は16歳アイドルの子供の世話って。それで父親不明の片親とか闇すぎるだろ!」
ミヤコは文句を言いながらもまだ少し不慣れな様子でルビーのオムツを取り替えた後、オムツをゴミ箱へ向かって投げ捨てた。
それを見てアクアたちは少し不穏な空気を感じる。
普段のミヤコであればぶつくさ言いながらもゴミ箱へ運んでから捨てているからだ。
なんだかんだこれまで突然赤子の世話を押し付けられた割に色々調べたりして対応していたのだが、溜まったストレスも限界に近いようだ。
それに対してルビーは不満らしい。近くに戻ってきたアクアへ不満を漏らす。
「はあ?ママに尽くせるのは幸福以外の何物でもないでしょ」
「いや、どちらかといえば向こうに正当性が見受けられるぞ」
「え?どうして?」
アクアは今回冷静だった。不思議そうにするルビーに対して自分の考えを話していく。
「自分の子供でも世話しているだけでノイローゼになる親がいるんだぞ?それにミヤコさんは専門の資格もない子育て未経験の新婚女性だ。他人の子供で昼間は全部丸投げ、サポートも秘密を守るために無いアイドルの隠し子なんてことになればストレスは尋常じゃないだろ」
「……確かに!?しかも社長ってミヤコさんに押し付けるだけ押し付けて自分は子育て関連何にもしないもんね。おにいちゃんは将来社長みたいに奥さんに任せっきりはよくないからね?」
「まだ乳児だぞ。結婚の話なんて今から気にするもんじゃない」
前世ですら結婚していないしと心の中でアクアは思う。
アクア達は前世の記憶があるだけあって基本的に普通の子供よりは手間がかからないが、それでも負担がゼロではない。
そのあたり産婦人科医として理解があったため、アクアは不満を口にする事自体は全く責める気にもならなかった。
ルビーの言う通り悪いとしたら考えなしにミヤコに全てを押し付けた壱護だろう。
ひっそりミヤコの肩を持つそんな二人のことなど気にも留めず、ミヤコの思考は不味い方へと進み始める。
「このネタ文春とかに売ったらいいお金になるかしら」
「やば、どうする殺す?」
「いや、無理だ。体格差があり過ぎる」
「いや冗談だからねせんせ!?」
ネタにならないことを言い始めたミヤコを見て空気を和ませようと冗談に冗談で返したつもりのアクアだったが、そう捉えてはもらえなかったらしい。
驚いて前世の呼び方に戻るルビーを見てよくないネタだったなと反省する。彼女の前では優しいせんせでいたいのだ。
「冗談だよ冗談」
「もう、今はそんな場合じゃないでしょ!ほんとどうする?」
自分から冗談を言ってきたのにと少ししょんぼりするアクア。
ただ本当にどうやって止めたものかと思案する。このまま放っておけば推しの最大の地雷が暴かれてしまうことになる。
「よし、ルビー。俺に作戦がある」
「え?なになに?」
期待を込めて憧れの人を見るルビーに対してアクアは作戦を説明した。
「俺たちは赤子ながら喋ることができる。これを使って神様の演技でもすれば納得してくれるんじゃないか?」
憧れの目から呆れたものを見る視線へと話が進むごとに変わっていく。
「お兄ちゃんは演技の経験ある?私は分かってると思うけどないよ」
幼い頃から病気で苦しんだ前世を持つルビーは当然ない。
つまりアクアにかかっているわけだが。
「学校くらいだな、それも小学生くらいが最後だから約20年前」
しれっと言うアクアに対してルビーは当然驚きを以て返した。
「よくそんな作戦提案できたね!?相変わらずちょっと適当なんだから!」
「いや、喋る赤ん坊ってだけで意識をかなり持っていかれる程異常だぞ。十分な効果が期待できる。少なくとも前世の俺が見たら腰抜かしてるぞ」
「ほんとかなぁ……」
疑心暗鬼なルビー。それまでの人生経験からアクア=せんせは結構適当なことを言うことが分かっているからこその反応。
だが、このままでは時間がないと思ったアクアは……ゴリ押しすることを決めた。
「僕を信じてくれさりなちゃん」
ルビーの両肩に手を置いて真剣な眼差しを向ける。あえて一人称も前世へと戻し、彼女のことも前世の名前で呼びかける。
緊急時だから仕方がないと免罪符を貼り付けた。
その効果はすぐに現れ、ルビーは顔を赤くしながら頷いた。
女を落とす天性の瞳なんて人が見たら思ったかもしれない。これを計算でやっている男などろくなものではないだろう。
「も、もちろん信じてる!せんせのためならなんだってする!お兄ちゃんとの未来のためだもん。頑張ろうねアクア」
アクアの呼び方がぐちゃぐちゃになっていたのは思考がそれだけ溶かされていたからだろうか。
アクアの勢いある説得とハニートラップにより流されたルビーと二人でミヤコの背後にある机の上へと登る。
彼女は今母子手帳を撮影するのに夢中でそれに気づいていない。
前世があるとはいえ身体能力は赤子のそれ。少し慎重になりながらどうにか怪我なく体勢を整える。
「コレを売ったお金でホスクラでMOETを」
「哀れな娘よ、貴様の心の渇きはシャンパンでは癒えぬ」
ホストクラブに貢ごうとするミヤコの言葉に被せてアクアが演技を始めた。台本の擦り合わせなどはざっくりとしかしていない。
先程二人で話をしていた通りさりなもだが、吾郎もろくな演技経験などない。
だが社会人は皆、自分の何かしらを偽って生きている。
そして医者はその中で自然な嘘が多い。いや、嘘というよりは真実と思い込ませるのが上手いというべきか。
本当に大事なことは正直に話すが、嘘ではないが必要ではないことも必要だと信じ込ませていく。
吾郎本人はその気質からそういった事をしていたわけではないが、そういった腹黒い部分を身近に体感した経験は演技力としてしっかりと反映されている。
更に自分を信じて慕ってくれている元患者であり、本人に伝えてはいないものの最推しが近くで見ているのだ。
恥ずかしい真似はできないという決意がアクアの才能を僅かに目覚めさせていた。
「誰!?」
「我は神の使い。神子に憑依し、貴様に話しかけている。これ以上貴様の狼藉を見過ごすことはできぬ」
ただ淡々と、感情を出さず事実を告げるというのは医者にとって得意な表現だ。
どれだけ絶望的であっても冷静に相手に真実を告げないといけない時がある。
さりなが生きていた頃はできなかった。そこからの人生経験によりできるようになっていた。嫌な進化だよと心の中で自嘲しながらも態度は崩さない。
そんな言葉に押されてミヤコは目を大きく見開いてアクアを見つめる。何か信じられないものを見てしまったかのような反応だった。
「……え?赤ちゃんが喋った。そんなこと……嘘だぁ」
「貴様の常識では赤子は喋るのか?信じよ」
あくまで上位存在を意識しているからこそ尊大な言葉遣いを崩さない。
自分の常識外のことが起きており、嘘だと言いつつもミヤコもその迫力を押されていた。
「あっこれドッキリでしょ!どこかにカメラがあって」
「我らを信じぬか?我は天照の化身。人の子が言う神なるぞ」
アクアだけでは押し切れるか怪しい状態と判断したのか、ルビーが会話へ入ってくる。そこで自然に行われたルビーの流暢な演技にアクアも内心驚く。
それは過去に彼女の半生を色々と聞かされていたからこそ出たものだった。
(さりなちゃんには色々話は聞いていた。どう考えても演技などしたことがない)
更に先ほど自分で言っていたのだからそこは本当だろう。
だが、冷静に考えれば彼女の境遇だからこその演技だと理解できる。
さりなは両親にどんなに辛くても弱音を吐かなかった。
彼女という存在が両親から見捨てられても。ほとんど見舞いにすら来なかったとしても。
そんなことが病気で余命幾許もない12歳の子供にとって平気だったわけがない。下手な社会人より演技が上手いのも当然だった。
アクア自身も最後のその時、彼女が容態を悪化させているなんて気が付かせてもらえなかったのを思い出す。
負けていられないなとアクアは思う。憧れの大人でいたいという気持ちがそう思わせた。
「貴様は目先の金に踊らされ天命を投げ出すのか?」
「……天命?」
「星野アイは芸能の神に選ばれた娘。そして我らが宿る双子もまた大いなる宿命を持っておる。禁を犯せば天罰が落ちるぞ」
「て、天罰?た、例えば」
そんなアクアの思考をよそにルビーが話を進めていたが、ルビーがやばい天罰って何にしようって顔をしてフリーズした。
慌てて助けを求めるように目だけこちらを向いたのがわかる。そこから小さく頷き言葉を引き継いだ。
「貴様の場合、ホストに金を毟られた後、そのストレスで浴びるように酒を飲み、前後不覚なところを車に撥ねられ死ぬことになっておる」
「嫌ぁ!超具体的!?踏んだり蹴ったりじゃない!」
赤子では到底出てこないが、現実的に起きそうな重い天罰。それを真顔で伝える赤子に不気味だと思いつつもミヤコは信じる他なかった。
アクアはそこで一つ微笑みを浮かべ、ミヤコをこれ以上追い詰めず落ち着かせるように心がける。
「安心せよ。母とこの子達の秘密をしっかりと守れば、貴様の心に宿る真の願いが叶えられるだろう」
「真の……願い?イケメンと再婚とかですか」
なんの話だろう。ミヤコの頭には疑問符が浮かんだ。
ただ淡々とアクアは言葉を続ける。
「それは貴様が一番よく知っておるのではないか?よく思い出してみると良い。貴様は何故ここにおる、何故壱護と結婚した」
「どうして……」
アクアは先ほどルビーにしたのも同じように真剣にミヤコの目を見つめる。
アクアも確信があったわけじゃない。ただストレスで暴走はしていても彼女は現在壱護と結婚している。
アクアは前世医者であり、それなりに女遊びもしていた。
だからこそ金に魅せられた女というのはある程度わかる。だがミヤコからはそれ特有のものを全くとは言わないが、ほとんど感じなかった。
というよりそもそも壱護には別に金がないので金蔓にはならない。
更にイケメンと知り合えると口では言っていたものの事務所の社長と結婚までしてしまえば繋がりを持つのは難しい。
元々何か別のものに魅せられ、結婚を選んだはずだとアクアは考えていた。
産婦人科医として前世は妊娠や子育てで不安定になった女性の話し相手になることがよくあった。
その言葉にミヤコは一度自分のことを冷静に振り返る。
ストレスでの苛立ちを抜きにどうして今ここにいるのかを。
(……そうだった。どうして忘れてたんだろ)
気が付いた時には頰に涙が伝っていた。
自分がどうして今社長夫人なんて拘束も大きいあまり旨味のない仕事についているかを思い出せたのだ。
ミヤコは東京に来てから自分磨きをし、結局芸能の世界では鳴かず飛ばずだった。
若いうちは、大学にいる間はちょっとした仕事を受けられてキラキラした世界にいられた。
だがその時代は長く続かず、大学を卒業して愛人の誘いが増えた頃、壱護に言われたのだ。
『なぁ、ウチで働くか?』
最初は時間潰しのつもりで話を受けた。
はじめは人が自分の叶えられなかった夢を叶えるところなんて見て楽しいわけがないと思っていた。
だけど、想像していたよりも裏方から見る光は悪くなくて。
『お前が支えてくれるっていうならこの世界で一番煌めく景色をみせてやる』
『いつかこのドームをサイリウムで染め上げる。皆の夢だ』
思い出せてしまえばなんて事はない。
あの日、壱護が見せてくれた夢の輝きが、あの真剣な眼差しと熱い表情が自分を絆させたのだ。
決してタイプとはいえない男だったはずなのに愛人ではなく正式に結婚をして支えようと決めたのはそんな単純な……ただ一人の男に惚れた女が居ただけの話。
涙を拭い、開けたミヤコの瞳には先ほどまでの黒い澱みはなく、眩い輝きを放っている。
「ふう……。ありがとうございました。神様ってお医者さんみたいですね」
「……アマテラスとは違い、我は医薬の知識があるのでな。そういうのは得意だ」
笑顔を向けたミヤコに少し照れ臭く思いつつもそれっぽい設定でアクアは返すのだった。
「もうこれもいらないわね。あータイプだったんだけどしょうがないわ。本当アイツに一度分からせてやるためには時間が必要だもの」
ミヤコが決意を口にしながら嬉しそうに名刺をゴミ箱に捨てているのを見たところでアクアは机から降りて楽にする。
「ルビー降りないのか?って顔赤いぞ大丈夫か」
「あっううん。なんでもない今降りるね」
(私のおにいちゃんがカッコ良すぎる!)
ルビーの内心などこんなものだが、そんな事を察せるアクアではない。ルビーもその演技センスを存分に使って自身の興奮を押し隠した。
「ルビー迫真の演技だったな。おかげで助かった」
「ううん、お兄ちゃんのおかげだよ。私じゃきっと脅しとかご褒美で釣ることしかできなかった。でもそんなの無くても今のミヤコさん……凄く、凄く嬉しそう」
アクアの言葉がしっかりとミヤコの心を動かした。それはルビーにも分かった。
彼女はミヤコのことをイケメン好きの何故か社長と結婚している人としか認識できていなかった。
だがどうやら社長と結婚するのに本当は戦略的な理由なんてなかったらしい。
どうしてアクアがミヤコの思う事を理解できたのか、それはきっと前世が関係しているのだろうとも思っている。
(前世のせんせは女遊びが酷かったらしいし女心なんて他愛もないんだろうなぁ。もう!女たらし!すけこまし!)
まさかこんな酷い誤解をされているとはアクアは夢にも思わないだろう。
「ルビーの演技がうまかったからミヤコさんを冷静にさせられた。俺だけじゃ無理だったと思う。……将来は女優もいけるんじゃないか?」
側から見ればただのシスコンムーブ、親バカならぬ妹バカな発言をするアクア。本人は至って真剣だ。
推しは人を盲目にするというが、これもその類かもしれない。
「うーんアイドルがメインで行きたいからなぁ。おにいちゃんは私がアイドルと女優両方やっても推してくれる?」
少し不安そうに瞳を揺らすルビーを見て笑みを浮かべながらアクアは即答する。
その答えは前世から決まっていたのだから。
「勿論だ」