月姫R ノエル先生ルート分岐妄想   作:激辛党

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9……実験室にて

 異物感、吐き気、めまい、耳鳴り、痙攣、麻痺、寒気、倦怠感、脱力感……そして疼痛、鈍痛、苦痛。

 

 ごちゃまぜ、一緒くた、混沌、るつぼの中。投げ込まれ、煮詰まって、なお出来上がらない。ずうっとそのまま。

終わらない。始まらない。

朦朧を彷徨う。茫漠を見ている。だが何にも為らない。

ただただ痛い。苦しい。きっとこれが……死の一歩手前。

 

 『ソレ』を意識した途端、攪拌された自意識が一点に収束した。

逆説的な生存証明。死にかけているなら、死んでいない。俺はまだ生きている。

 

 生きているなら、まだなんとかなる。とっても難しそうだけれど、まだ大丈夫。あの有名な哲学者も言っていたじゃないか。思っているなら、そこには我が有るのだ。

 

 まずは一番簡単そうで、一番重要な……目を開けるところからスタートしよう。

 

 視覚は俺にとって、すなわち世界だった。事故を契機に、その重要性はいや増した。

死を見る魔眼は、天よりのギフトとは到底言えない代物だったが、しかし今の俺を為す一部であることに違いはない。

 

 だから、とりあえず視野だ。見えてくれなければ、話が進まない。

ゆえに、まぶたを開く――ただそれだけに、全身全霊を注ぐ。

 

 木工ボンドどころか、アーク溶接でもされたのかいうくらい、まぶたは堅かった。それでも、めげずくじけず、省みることなく、ひたすら『目を開け』ようと邁進すること、いかほどか。

 唐突に、その時は訪れた。

世界が、俺へと戻ってきた。

 

 真っ先に飛び込んできたのは、鈍色をした天井だった。四方の壁も同色で、とにかく仄暗い印象の部屋だ。

 秘密の地下室……なんてイメージが、とっさに頭に浮かぶ。照明となるものが、天井からぶら下がる黄色電球一個だけであるのも、その連想に一役買っていた。

 他には恐ろしい事に、窓の一つも備わっていない。少なくとも、一般的な家屋の一室ということは無さそうだ。

 

 その室内で、俺はベッドに寝かされていた。真白いシーツに、掛布団。物々しい内装とは異なり、ベッド自体はごくありきたりな物である。ただし、病院で良く使われるような、という補足をせねばならないが。

 

 周囲の環境を視認できたことから、多少の余裕が生まれた俺は、身体を動かそうと試みる。

……が、ものの数秒で断念した。

 

 ダメだ。腕も足も、微動だにしない。それどころか、動かそうとすればするほど、違和感が募っていく。

 

 例えるなら――うっかり自分の腕を枕にして寝たりすると、血流が滞って、その部位の感触が全くなくなることがある。粘土細工でも代わりにくっ付けられたのか、と錯覚するアレだ。

 

 今回の場合、それが全身で発生している。起き上がるだなんて、とんでもない。下手すればベッドから転がり落ちて、ついでに永遠の眠りへも落ちてしまいそうだ。

 

 これは――ヤバい。もしかして俺は、一生このままなのか?

 遠野志貴史上、最大級とも言えるかもしれない試練の訪れに震撼していたところ、とある大発見があった。コロンブス並の凄いヤツだ。

 

 首なら動かせそうだ! ……たぶん二十度くらい。

 

 思い立ったが吉日、ぐぐぐ……と瓦を一気に十枚ぶち破る勢いで、首に力を込めていく。それに伴って、しぜんと視界もロールした。

さっきまでの味気ない静止画が、いきなりジオラマである。まさしく、気分は新大陸へ突入だ。

 

 きたる未知の世界に心躍らせながら、左方向への回頭を敢行する。その先に待ち受けていたのは――。

 

「あ」

 

 修道服姿の、ノエル先生だった。色濃い隈で縁取られた彼女の双眸と、タイミングばっちりに視線が合う。

 彼女はベッドの傍に置いてある椅子に座って、俺を(おそらく)ずっと看病していたらしい。

 

「あ……えと。……おはようございます?」

 

 条件反射的に、挨拶が出た。

そして普通に喋れたことに、少し遅れて自分で驚いた。

良かった。最低限の人間性は残っていたらしい。

 

 だが肝心の彼女からの反応が無い。ただ俺の顔をじいっと見つめるばかり。まるでマネキンか何かのように、固まっている。

 

「こんばんは?」

 

 もしかすると、『あれ』から一晩明けていないのかもしれないと思い、時候を変えてみる。それでもまだ彼女は何も言わないので、俺は総当たりに出ることにした。

かなり低い可能性だが、一日中眠っていたのかもしれないし。

 

「こんにちは……とかです? や、まさか明けまして……ですか?」

 

 しん、と静まり返る部屋。俺の声だけが空しく響き、先生はやはり、何のリアクションも示さない。

 

「……すみません、ふざけてる場合じゃなかったですよね。心配かけました」

 

 もし、先生が看病してくれていたなら、気苦労もひとしおだったはずだ。ようやくその事に考えが及んだ。素直に謝罪を口にする。

 

「それで、ここはいったい? 見たところ、どこかの医療施設みたいですけど……代行者御用達の、隠れ家的な病院ですか?」

 

 そのついでとばかりに、そろそろ現状の説明をしてもらおうとするも――。がたん、と背を蹴られた椅子が派手な音を立てる。

先生が立ち上がる方が早かった。

 しかもそのまま、くるりと背を向けて、部屋の奥に見える扉へと歩いていくではないか。

 

「ちょ、ちょっと――」

 慌てて追いすがろうとする俺だったが、遠のく背中に腕を伸ばすことさえ叶わぬ身では、無理な相談だった。

 

 勢いよく押し開かれた扉が、すぐさま無慈悲にも閉まる。まるで幻か何かだったかのように、ノエル先生の姿はあっさり消えた。

 

「えぇ……」

 

 さすがにため息が出た。こんな俺でも、今回ばかりは身体を張って頑張ったのだ。せめてねぎらいの言葉一つはくれても良いのではないか? 

 

「まぁ別に? 本気で期待してたわけじゃないけどさ……」

 

 『ありがとう』の一言くらい……。いや、もうちょっと欲張って『頑張ったね』と、肩に抱き着かれるくらいは……とまで考えたところで、自分の妄想の勝手さに、ほとほと呆れた。

 

 結局、全部、俺が勝手にやったことだ。先生は俺に『助けて』なんて一度も言わなかった。

 迷惑がりこそすれ、お礼なんて口にするはずがない。

 

 その事実に気づいた途端、死の淵を揺蕩っていた時よりもずうっと――数十倍は重たい無気力感が襲ってきた。

 もういっそ、全てを投げ出してあの茫洋とした空白に意識を投げ出そうか――なんて諦めかけたその時。

 

 ばたん! と、またしても扉が凄まじい勢いで開かれる音が。

「先生、戻ってきてくれたんですね!」 思わず、左右にしか傾かないはずの首で、無謀にも上を向いてしまう。生じた関節の軋む不快感は、しかしより激しい違和感で打ち消された。

 

「やだもう、志貴チャンったらぁ~! センセイ、じゃなくって博士でしょお? まぁ? たまには先生ごっこもいいかもしれないけど~。

ぶっちゃけアタシだってぇ、放課後の夕日に包まれた教室で教え子との禁断プレイとかしてみたかったぁん。きぃー、嫉妬で狂いそう!」

 

 無駄に胸元の開いた白衣と、そこから覗く毒々しい色合いのインナー。妙に丈の短いスカートに、かりにも医療に携わる者としては、あるまじき踵の高過ぎるハイヒール。

 

むやみやたらに男子の目を惹きつける恰好をした彼女は、遠野家に居候する謎めいた謎の女博士、阿良句寧子に他ならなかった。

 

 

 

―――――――――――――

 

 

 

「え!? 秋葉が?」

 

 自分でも素っ頓狂と分かる裏声が飛び出た。まさか、この局面であの妹の名前を聞く羽目になるとは、夢にも思わなかったためである。

 そんな俺に、阿良句博士はなぜか同情の顔を向けてくる。

 

「そうなの、当主チャンったらほんと、過保護というか抜け目ないというか、病ん病ん(やんやん)気味というか……。

 ちょおっと志貴チャンが、不良っ気だして、堂々の朝帰り宣言かましただけで、屋敷の全員緊急強制集合のうえ、絶対捕縛宣言発令よ~? 

 一番に捕まえた者には遠野グループの株を半分くれてやる! 今夜からあなたが副社長です! ――とまでは言わなかったけれど。むしろ捕まえられなかった奴が今夜の晩ご飯のおかず! みたいな勢いだったわ? 

 あー今思い返すだに、おっそろしい。もう寿命が十年は伸びたわよ、あの泣き――失礼、真っ赤な顔見てたら」

 

「えっと……最後の方、早口過ぎてよく聞き取れませんでしたけど……。

俺を捕まえてこいと、秋葉がみんなに指示を出した……という理解で正しいですか?」

 

「ええ。そゆこと。じゃなかったら、いくらアタシがとっても優しい笑顔の素敵なお姉さんだからって、深夜割増も出ないのに、こんなヘンピなとこまで探しに来るわけないジャン。

 って、いやーんウソよ? 今の無し。愛しのオモシロ志貴チャンのためならいつでもどこでも二十四時間サービス残業ウェルカムだからね? もちもち」

 

「はぁ……」

 

 いつにも増して、言葉選びのセンスが壊滅的だ。これも深夜テンションの一種なのだろうか。

部屋に備え付けられていた時計は、午前四時半ごろを指している。もう明け方といった方が良いくらいの時間帯だ。

 

博士はともかく、こんな時間まで翡翠や琥珀さんを始めとした、屋敷のみんなに苦労をかけていると思うと、さすがにいたたまれない。何とかして、弁明も含めての一報を入れたいところだ。

 

「博士、その……屋敷へ、電話を繋げてもらっていいですか? とにかく、みんなに無事を知らせないと」

 

「え。志貴チャン、それマジで言ってる?」

 

 ごく当たり前のことを申し出たはずなのに、博士は実にわざとらしく目を丸くした。

 

「大マジですよ。これ以上、秋葉を怒らせたら、明日の俺の命が無くなる。そりゃあ、できれば自分で掛けたいですけど、なんでか指の一本も動かせない有様で――」

 

「まぁ動かせないでしょうね。アタシが筋弛緩剤しこたまぶち込んだから。向こう数時間はまともに身動き取れないわよ」

 

「え……?」

 

 今度は俺が、漫画みたく、あんぐりと口を開ける羽目になった。

 待て待て、今この人、大胆にも犯行を自供しなかったか?

 

「なぁに、その顔。まさかまさか志貴チャンってアタシのこと心から信じてたクチ? やだー! うれしー! 顔火照っちゃう炎吹き出しちゃう~。ダメよ、美少年がみだりに色気を醸したりしたら。それともこれが流行りの誘い受けってやつ? やぁん処女奪われちゃった」

 

「待ってください、あなたは秋葉の指示に従って、俺を探しに来たんじゃないんですか? なんでそんな真似する必要が」

 

 どうにも動かしづらい舌を、それでも必死に回す。けらけら笑ってばかりいた博士は、出し抜けに真顔になった。

 

「あら、いつそんな事を言ったかしら。むしろさっき言わなかった? 当主チャンのことは確かに大好きだけれど、深夜手当も出ないのにブラックな指示まで従う義務は無いジャン。

 だーかーらー、志貴チャンをここへ連れてきたのは完全にアタシの趣味。

 そもそもおかしいと思わなかった? 本当に当主チャンの命令に従ってるなら、ここじゃなくてお屋敷へ真っ先に運んでるわよ」

 

 ぞくり、と本当に今更になっておぞけが走った。口調は冗談めかしたままだったが、博士の目は全く笑っていない。

 この人……まさか本当に、私利私欲のみを考えて動いていたのか。

 

「こ……ここって? そもそもの話、ここってどこなんですか」

 

 だが、今の俺にできることと言えば、口を動かして喋ることくらいだ。起き上がれないのでは、ナイフも握れないし、走って逃げる事さえ不可能である。

 せめて少しでも時間を稼げば、筋弛緩剤とやらの効能も薄れるかもしれない。一縷の望みをかけて、俺は質問を続けた。

 

「あれ、まだ言ってなかったかしら。はあ~うっかりうっかり! ごめんね、アタシ舞い上がっちゃって。志貴チャンの身体を好き放題弄れるってなったら、誰だってテンションぶちあがりマックスなるのも無理ないわよ。研究職およびマニア志す者なら、垂涎の一品だしね!

 冗談はさておき、ここはねぇ。アタシの秘密の実験室的なアーレ。当主チャンに隠れて、色々開発を進めるには、どうしてもこういう施設が十や二十は必要でねぇ。せっかく魔改造重ねてたお屋敷の部屋からは追い出されちゃうし。

費用は散々嵩んだけど、自由のためなら致し方なし、悔いなし」

 

 態度は相変わらずふざけているが、発言内容を信じるのなら、ここは博士の個人所有の施設のようだ。……いよいよまずい。逃げ場が無い。

 全身を襲う悪寒から逃れたくて、俺は彼女の名前を口にした。

 

「ノエル先生には……なんて? 俺が目的なら、ここまで連れて来なくて良かったんじゃ?」

 

「あのお嬢ちゃんのこと? それなら簡単。

瀕死の志貴チャンを背負って、深夜の街を徘徊してたから、付き添いとして連れてきてあげたの。他人の手柄だけ没収して、あとは放置ってのも、なんていうの? 人情にもとるってヤツだし。

 なんで二人一緒だったのかーとか、なんで二人ともボロボロなのかーとか。深いトコの事情まではお姉さん、良く分からないけど……まぁ感謝はしておいた方がいいと思うわよ?

 あと一分でもアタシの手に掛かるのが遅かったら、志貴チャンお陀仏だったから」

 

「そんなに……危なかったんですか」

 

 自覚はもちろんあったが、あらためて他人から指摘されると実感が湧く。

 ノエル先輩に受けた――黒鍵二本と、手甲を填めた掌底による一撃。あれらを全て正面から受けておきながら、こうして息があるのは、まさしく奇跡の賜物なのだろう。

 

「奇跡なんてもんじゃないわよう。もう悪運ってか、呪いってレベルじゃない? 人が一生に味わえる痛みと苦しみの、きっと何倍もの刺激をごく短時間のうちに味わいきったんだから。

 アタシ、志貴チャンを発見した時、感激のあまり涙しちゃったくらいだもの。南極に置き去りにされたワンチャンたちに再会できた並みの衝撃だったわね。

それともぉ……数か月後、なんとそこには元気に走り回るジョン君の姿がぁ系?

 左腕切断、右腕損傷、全身骨折、失血死寸前、主要臓器全損壊の極致から、よくもまぁ立派に喋るようになったものだわ……よよよ」

 

 二の句が継げない。……我がことながら、本当に良く生還できたものだ。

 首を頑張って傾けて、自分の身体を見てみて、さらに驚かされた。――切り落とされたはずの左腕が、あるではないか。

 俺の視線の動きから察したようで、阿良句博士は底抜けに明るいだけの笑みを浮かべた。

 

「ねー、ガワは少なくともばっちりでしょ? 人肉縫合で磨きに磨いた匠の技術がキンキラリンに輝いてるでしょ? お嬢ちゃんが大事そうに抱えてたもんだから、捨てるのもったいないの精神で、おまけでくっ付けといてあげたの。

 けど残念ながら、中身の神経の方はやっぱり無理だったわね。もう二度と動かないから、そこは覚悟しといて。……あ、でも近未来、生体工学が発展したらワンチャン電気信号の応用で何とかなるかもね」

 

「いえ……見てくれだけでも、有難いです」

 

 これ以上ないくらい怪しい言動の博士だが、治療に関しては全力を尽くしてくれと認めねばなるまい。

「どうお礼を言ったらいいか。俺にできる事なら、なんでも――」なんて、好感度を稼ぐ意図もありつつ、なけなしの誠実さを見せようとした、ところ。

 

「マジ!? もしかしたらなんて期待してたけど、言質取れちゃったわウレピー! 聞いてしまったが吉日、今日は大安、術後の肥立ちがいいねと君が言ったから八月三日は注射記念日。

 ブスっといっちゃう!? いっちゃっていいよね!? 前は素っ気なく痛くなくて効き目のあるヤツ選ばれちゃったけど、今度こそぶっといのを志貴チャンの中にたくさんぶちこんじゃう!」

 

 居合のような早業で、博士は一本の注射器を白衣のポケットから抜刀した。

 とにかく大きくて、太い。……かつて見たこともない奇抜な形状のソレを、さっそく俺の右腕に当てがおうとしてくるではないか。

 

「い、いや待ってくださいよ。今のなんでもするってのは言葉の綾で……。主に金銭的な見返りの提案をですね」

 

「やだぁもう! 志貴チャンったら冗談ポイよ? 今回の治療費、日本円で請求なんてしようもんなら、逆に君の人生余裕で買えちゃう金額になっちゃう。ほらアタシ、今はモグリだから保険適用外だしぃ。どこぞの某有名白黒闇医者もびっくりの要求しちゃっていいの?

 そんな非人道的なお願いより、一発打って楽になった方がお互い時間と労力の節約になるジャン」

 

 口で捲し立てながら、じりじりと注射針の先端を近づけてくる。針の太さが小指ほどもあるのだが……何用の何の注射なんだほんとに。

 

抵抗しようにも、身体はいまだ硬直したままで、ベッドの上を転がって逃れる事すらできやしない。

芋虫以下の俺の無力さを、博士はとびきりの笑顔で嗤った。

 

「うわぁ、何その目、完全に誘ってるわよね。いけないわねぇ、志貴チャン。純粋無垢なお姉さんをからかった罪はマリアナ海溝より深く、チョモランマよりも高くつくわ? まんじりともせず受け入れなさい。

 ダイジョーブ、必ず死ぬってわけじゃないから」

 

「絶対に大丈夫じゃない時の説明ですよね、それ! だいたい何が目的なんですか!? 死にかけてた俺を治したのは、あなたじゃないですか。これ以上、どうしようってんです」

 

 この呼びかけはそれなりの効果があったようで、注射器は皮膚を貫く寸前で、ぴたりと止まった。

 

「効能が聞きたいの? いいわよ。自分の身に何が起きるか、理解してた方がきっと面白いものね。

 志貴チャンにこれから打つのは……なんて言えばいいかな? 覚醒――あ、これじゃヤバイ薬みたいだから、励起薬とでもしましょうか」

 

 博士の口調が少しだけ真面目なトーンになる。

彼女は瞳をすうっと狭め、もう一方の手で注射器のシリンダーを撫ぜた。中に仕込まれている赤黒い液体を、誇示するかのように。

 

「志貴チャンがどれくらい、自分の身に起きている異変についての知識を得ているか、そこまではアタシ知らないし、わざわざ詮索するつもりもないけれど。

 本来の自分とは全く別のナニカが、混ざりつつあることくらいは、もう理解してるわよね?」

 

 全く予想外の方向に話が転んだ。

 まさか、阿良句博士はロアのことを言っているのか? 

 だが、いかにエキセントリックな人物とはいえ、彼女はあくまで一般人。吸血鬼なんて物騒な存在とは、全く関わり合いの無い人であるはずだ。

 

 遠野家とは前当主よりの付き合いで、現当主である秋葉とも懇意にしている、屋敷お付きの多才な科学者。

 俺の知り得る範囲の、彼女の背景事情はそういったものだ。

 

 しかし、今の発言はまるで――。

 

「そんなに驚くことじゃないでしょう? 大人の女には色々と秘密があるものなの。君も年上狙いなら覚えておきなさい。

 ま、アタシのことはこの際どうでもいいの。大事なのは、君の身体が今、とおっても珍しくて不思議な状態になってるってこと。もう、八百年に一度の奇跡なのよ? 巡り合わせたアタシは超ラッキー。これも一つの運命ね。

 んで、このお薬はぁ……志貴チャンと合わさりつつある存在を、まさしく励起するものなの。

 イレギュラーがだいぶ重なったせいか、転生シークエンスが破綻しかけている。その障害をさっぱり解決して、志貴チャンをきちんと――吸血鬼化できるお薬ってなわけ」

 

 じわり、と額が汗ばむのが分かった。

 

 本気だ。

 

 散々ふざけ半分の話を聞かされてきたと思ったが、この人は最初から最後までずっと真剣だった。

 真面目に、一心に、その目的を果たすべく――俺をここへと拉致してきて、監禁。筋弛緩剤を打ち込み逃げられないようにした。

 

 怪我の治療を行ったのは、それが手順として必要だったからだろう。俺がシエル先輩に喰らったのは、黒鍵に代表される対吸血鬼用の、延命阻止武装だ。

 首尾よくロアを再転生させられても、身体が再生不能の瀕死状態では意味が無い。

 

 ――全て理にかなっている。筋が通っている。

この人はつまり、俺を己の利益のための道具にしようとしているんだ。

 

「さ、志貴チャンも分かってくれたところで、いよいよフィナーレと行きましょうか。もし、分からなかったとしたらごめんね? 今のが最大限、嚙み砕いた解説なの。アタシ、大学時代から人に教えるのって苦手でさ。モルモット、もとい生徒たちにはすこぶる受けが悪かったものだわ。

 だってぇ、どうせ今から人間じゃなくなっちゃう人に、懇切丁寧に事情と経緯を言って聞かせるのって、すっごく空しくない? アタシ、こういう無駄って死ぬほど嫌いなのよね~! 不老だろうが不死だろうが、時間はやっぱり平等なんだし」

 

 いったん止まっていた針が、今度こそ俺の皮膚へと貫入してくる。覚悟していた痛みはない。きっと、もう一生分の痛覚を使い果たしたせいだ。

強いて言うなら、異物感が酷い。それに加えて、妙な感慨。

 

 死の予感は何の偶然か、この一週間で何度も経験してきたけれど。

自分が全く別の存在に成り代わるという恐怖まで、味わされるとは思いもよらなかった。

 

 不意に、深い共感の念が湧いた。――そうか、ノエル先生も、こんな。

 

「あら?」

 

 シリンダーが押し込まれる、前に。博士が何かに気づいて、扉の方を振り返った。

 俺には聞こえなかったが、開く音がしたようだった。

 

「まだお嬢ちゃんの番じゃ――」

 

 次の瞬間、阿良句博士の顔の真ん中から刃が生えた。

 

 意味不明だが、他に表現のしようがない。ちょうど目と目の間、眉間の部分から、すらりとした一本の白刃が、唐突に生えてきた。

 

「え……」

 

 奇しくも、俺と博士の驚きの声が重なった。顔面から刃を生やしたまま、彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。それこそジョークの一種としか思えないような、そんな光景が眼前で展開される。

 

「ありゃま。ちょっといが――」 博士が喋れたのはそこまでだった。

 彼女は正面から崩れ落ちるようにして、俺の横たわるベッドに突っ伏した。

その拍子に、刺さったままの刃が上下して、大量の血が流出する。

あっという間に、真っ白だったシーツは赤一色に塗り替わった。

 

 からん、と乾いた音を立てて、博士の握っていた注射器が床に転がった。

扉の向こうにいた人物は、部屋へと入ってくると、それを無造作に拾い上げた。

 

「これで五本目……」

 

 そのまま、自分の着ている修道服の懐へと収める。全く迷いの無い、流れるような自然な動作だった。

 

「ノエル先生!?」

 

 阿良句博士を後頭部から突き刺したのは、黒鍵だった。ノエル先生がその投擲者であることは、この場においてわざわざ指摘するまでも無かったし――。

 

「たった一発で死んでくれるなんて、こっち的にも意外。ほんと、ヒヤヒヤだったもの」

 

 当人も隠し立てするつもりは無いようだった。

 

 何と言ったらよいか分からず俺が沈黙していると、ノエル先生は「えい」と気合を入れて、黒鍵を引き抜いた。

 当然、噴水のように内容物があふれ出る。飛び散った返り血が、彼女の白い頬に水玉模様を作った。

 

「ちっ」

 盛大に舌打ちしながらも、作業は続行される。

黒鍵を上段に構えると、彼女はそれを勢いよく振り下ろした。ベッドへ、うつ伏せに倒れている、阿良句博士の首元へ、一直線に。

 

 バスケットボールが跳ねるような音が鳴った。支えを失ったソレが、部屋の床へと叩きつけられる。だが、動きまではスポーツ用品を真似てくれない。

わずか数センチも弾むことなく、重たい頭部はごろごろと床を転がった。

 

 運良く――あるいは運悪く、切断された阿良句博士の首は、ちょうど上を向いて止まった。

 真ん丸に見開かれたままの目が、天井の電球を見つめている。

 

 なんだか、それが気に食わなかったようで、ノエル先生は蹴った。鈍い放物線を描いて、ついさっきまで俺と会話をしていた女の頭部が、壁に強かに打ちつけられる。

 べちゃり、といわく言い難い反響がして、血しぶきが一面に散った。後はもう、当たり前だけど動かない。

 

「ふう」

 

 一仕事終えた、とでも言いたげにノエル先生が吐息をする。右手に額の汗を拭うと、次いで、俺へと視線を向けた。

 

「さて、行こっか」

 

 いやです、とは言えない空気だった。

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