月姫R ノエル先生ルート分岐妄想   作:激辛党

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10……彼女の部屋にて

 実験室に至る地下道の出入り口は、なんてことのないマンホールだった。それも閑静な住宅街の中の、少し脇へそれただけの裏路地にあった。

 

「よっこらせっ……と!」

 

 下から強引に押し開けたマンホールの蓋を、ノエル先生が片手で元通りに戻す。確か、こういうのには専用の器具が必要だったと記憶しているのだが……。

 世の中、大抵のことは腕力さえあれば解決するということか。

 

 そんな感慨深さに囚われていると、ノエル先生からずり落ちそうになった。寸前で、彼女がマンホールのために外していた腕の支えを戻し、俺の身体を抱き留めてくれる。

 

「ダメじゃない、ちゃんとじっとしてないと。生まれたてのカンガルーみたいに、ね」

 

「なんですか、その例え……。

だいいち、なんで背負う方じゃないんですか? そっちの方が、先生だって両手を自由に使えて良いでしょう?」

 

「なに、今更そんなこと? おんぶって、おぶさる側も結構な腕力がいるんだから。今の君には絶対無理よ」

 

 それを指摘されては、反論の余地が無くなる。事実、俺の腕は両方ともに再起不能の状態だ。シエル先輩に切断された左腕は言うに及ばずとして、黒鍵が貫徹した右腕も重傷である。

 これでは箸さえまともに持てるか怪しい。……そして今、気が付いたが、しばらくは食事すら一人では取れないかもしれない。

 

「はあ……何でこんなことに」

 

 思わず愚痴をこぼすと、すぐに先生が「決まってるじゃない」と突っ込みを入れてきた。

 

「他でもない志貴クン自身のせいよ。これに懲りたら、来世ではもっときちんと考えて行動すべきね」

 

「そりゃあ、反省は現在進行形で重々してますよ。でも、先生がそれを言うのはちょっと――」

 

「ちょっと? なに?」

 

 俺と会話を交わしながらも、先生は歩みを再開する。

阿良句博士の地下施設へと繋がっていたマンホールから離れ、路地を抜ける。大通りへと出ても、彼女の脚先は緩まず、迷わない。

 ある一方向へと向かって、力強く進んでいく。

 

 早朝、五時。空はようやく薄明を迎えた頃合いで、辺りはまだうす暗い。道行く先の家々に明かりはついておらず、通りがかる人の影も幸いにして無かった。

もう少しでも、地下から脱出する時間が遅かったなら、通勤通学と被って、それは面倒なことになっただろう。

 

「ちょっと……ズルくないですか?」

 

「それはどうかしら。良く思い返して欲しいんだけど、君の怪我って大半、アイツがやったものじゃない? で、アイツの動機もやっぱり、おおむね君が原因でしょう?

 つまり自業自得って寸法」

 

「えぇ……」

 

 完全に開き直っている。これで俺より、八年は歳が上だというのだから信じがたい。

どうしてくれたものか思案していると、出し抜けに「ウソだって」と先生は笑った。

 

「ごめんごめん、君があんまりショゲてるもんだから、ついからかっちゃった。

 もちろん、分かってるわよ。……良いか、悪いか、どっちにしたって君は全力だった。それは認めなくちゃね」

 

「……すみません、どういう意味ですか?」

 

「さぁ? 自分で考えて」

 

 元から、会話を弾ませる気は無かったらしい。ノエル先生はそれきり、一切喋らなくなった。

 黙々と、彼女だけが知る目的地へと向かって歩き続ける。

 

 俺はあえて行く先を追求しなかった。訊いたところで、ノエル先生が俺の要求を受け入れてくれるとは到底、思えなかったからだ。

それに俺自身、行きたい場所――というか、行く当てがあるわけでもない。

 

 遠野の屋敷にはもう戻れない。

 シエル先輩、そして阿良句博士、両名の言葉を信じるならば、俺はロアという吸血鬼の再転生先に選ばれている。

 よって、遠からず遠野志貴はその肉体と魂、どちらの面からも名実ともに吸血鬼となり果てるだろう、と。

 

 それを迎えた時、いったい自分がどんな存在となるかは皆目見当もつかないが、人間にとっての害悪であることは疑いようがない。

 秋葉、それに翡翠に琥珀……大切な人達を傷つける危険性がある以上、屋敷に戻る選択は論外だ。

 

 しかして屋敷が不可なら、有間の家も学校も、思いつく限り全てダメだ。そもそもの話として、人間社会に吸血鬼の居場所などあるはずが無い。

唯一、彼らに可能性があるとすれば、それは代行者により滅されて、灰になった時だけだ。

 

 したがって、俺はこのようにノエル先生の腕に抱かれ、彼女の気の赴くままに運ばれるより他に無いのであった。

 まぁ……どこに行くにしろ、あの地下実験場だかなんだかで、阿良句博士の玩具にされるよりは百倍マシだろう。その点では、先生に深く感謝している。

 

「ありがとう、ございます」

 

 その気持ちを言葉にするのを忘れていたことにふと思い至ったので、お礼を述べた。

 

「どうしたの、急に」

 

 案の定、良く呑み込めていないらしい先生に、重ねて頭を下げる。それこそお姫様か何かのように抱っこされている体勢だから、非常に難しかったけれど。

 

「あの時、先生が阿良句博士を殺し――止めてくれなかったら、俺はもう二度とこうしていられなかったと思います。だから、ありがとうございます」

 

「……うん、どういたしまして。素直なのはいいことね。私も頑張った甲斐があったわ。あの蜘蛛女に、私なんかの黒鍵が効くなんて正直思ってなかったし、もう破れかぶれの大博打だったんだから。

 なんなら、もっと褒めてくれてもいいのよ?」

 

「蜘蛛女って……。阿良句博士のこと、何か知っていたんですか?」

 

 すると、また一転してノエル先生は黙りこくった。とことこ……と早歩きの足音だけが、しばらく続いた。

 やっぱりいいです――と質問をひるがえそうとしたあたりで、やっとポツリと反応があった。

 

「知ってたわけじゃない。……誘われた。悪質な勧誘を受けた……だけ。

 けど断ったわ! 有り得ないもの。ほんっとに、有り得ない提案だった。だからもう終わった事。

だいたい、あの女は死んだのよ? 今になって気にかける必要なんてない、そうでしょ?」

 

あからさま過ぎるくらいに、歯切れの悪い物言いだった。むしろ疑ってくれと言っているに等しい。

だから思わず、さらに訊いてしまった。

 

「先生、あの時に注射器を拾ってましたよね。五本目、とも言ってました。

 あれ、どうするつもりなんですか?」

 

「もちろん、処理するためよ」

 

 先生は即答した。

 

「あんな危ない代物、持ち主が死んだとはいえ、街中に放置できるわけないじゃない。代行者であるこの私が、責任をもって処分しておきます。

 まぁ、もしかしたら五本より多かったかもしれないけど、あの時は探してる余裕なんて無かったし、そこはご愛敬ってことで」

 

「そう、ですか」

 

 どうにも言い訳がましい響きだったが、俺は追及を止めにした。

 現状、俺は自力では歩く事さえままならないような重体だ。

もしも先生との関係を損なわれれば、そのままゴミのように道端に捨てられる悲惨な結果が待っているかもしれない。

 

 俺は今度こそ口をつぐみ、万が一にも腕から転がり落ちないように、必死に身を縮こまらせた。

 それくらいしか、芋虫以下の俺にはできることがなかった、とも言える。

 

 

 住宅街を歩き続ける事、三十分ほどだろうか。そろそろ周囲の目も増えてくるかという頃合いで、先生はあるマンションに入った。

 

 三階立てで、そこまで大きくない規模のもの。詳しい定義は知らないが、アパートと呼んだ方が近いかもしれない。

 

 そのマンションあらため、アパートの二階部分まで上がり、203のプレートが付いた部屋の扉の前に立った。いそいそと、片手で鍵を探すような仕草を始める。

 

「まさかここ、先生の部屋ですか?」

 

「他に何があるっていうの。まさか、シエルの方に行きたかったってんじゃないでしょうね」

 

「そんなわけ。今度こそ生きて帰れませんよ」

 

「分かっているのならよろしい。……あーもう、君が邪魔で取り出せない。いったん下ろしていい?」

 

「あぁ、はい」

 

 俺の身体が前面部を占めているせいで、鍵を入れているポケットにうまく手が入らないらしい。

 ノエル先生は腰をそっと屈めて、廊下に俺を横たえようとしたが、その前に断りを入れて、俺は両脚で立とうとした。

腕と比べれば、脚はまだ具合も悪くないはずだ。なによりいい加減、先生に運ばれるだけの身分は卒業したかった。俺にも男としてのプライドがある。

 が、しかし。

 

「いっっづ!?」

 

 右脚の靴の先端がコンクリートの床に触れた途端、数時間ぶりとなる激痛を味わう羽目になった。右脚の肉のうちに、直接手を突っ込まれてかき混ぜられるような、強烈な感覚。

 そのまま顔面から倒れそうになるところで、間一髪ノエル先生が間に合った。

 

 彼女の腕を支えにしつつ、左脚に重心を預け、なんとかバランスを保つ。

遅まきながら、思い出した。シエル先輩と遣り合った時、右脚を粉々に砕かれたのだった。――砕かれたというより、ほとんど自滅みたいなものだったが。

 

「もう、危なっかしいんだから」

 

「すみません……。まだちょっと、自力じゃ立てそうにないです」

 

「見りゃ分かるわよ。ほら、開けたから重傷人はとっととベッドで休む」

 

 今のほんのわずかな間に、ノエル先生は首尾よく鍵を取り出し、玄関を既に開けていた。彼女の腕に引きずられるようにして、中へと入る。

 

 にしても、シエル先輩もそうだったが、一見繋ぎ目すら無い修道服の、どこに鍵やら黒鍵の柄やらを入れる収納があるのだろう? あるいはよほど巧妙に、例えばスカート部分に隠してあったりするのか?

 

「なに、やらしー目してるのよ。ほらこっち」

 

「いや俺はあくまで学術的な疑問をですね」

 

 短い玄関廊下を突っ切って、リビングへと連れ込まれる。家具や内装を見分する暇も与えられず、俺は窓側に設置してあったベッドへと乱暴に叩きこまれた。

 

 ばふっ、クッションの良く利いた布団が出迎えてくれる。さすがに、あの地下実験場のアレとは心地よさが段違いだ。

 

 それと同時に――否応なしに覚える、彼女の匂い。この部屋に至るまで、ずっと抱きかかえられていたからこそ識別できる、微かに甘酸っぱい香りが、俺の鼻腔を抜ける。

 

「私、先に着替えてくるから。しばらくじっとしてて」

 

 当の本人の方はというと、あっさり吐き捨てて、おそらく洗面台のある方へと向かって行った。

 薄っすらそんな予想はしていたが、やはり年頃の女性特有の恥じらいだとか、そういうのとはあまり縁の無い性格らしい。あるいは男を部屋に招き、ベッドに寝かせること自体、そう珍しい行為ではないのかも。

 

「一応、言っとくけど」

 

 ――なんて、彼女の布団に包まれる中、俺が思いを巡らせていると、ひょっこりと廊下側から顔だけを覗かせて、一言。

 

「妙なことしないでね。これでも君を信用してるんだから」

 

 微妙に赤くなっているようにも見えるその表情を見て、なぜだか確信が生まれた。もろもろ含めて、初めてなんだと。

 

 

―――――――――――

 

 

 着替えてくるとは言ったものの、たいがいの場合、女性のそれは多分に時間を要するものだ。

 ノエル先生も例には漏れなかったようで、待てど暮らせど、彼女は部屋へ戻ってこなかった。

水音が滴る音も聞こえてきたから、そのついでにシャワーでも浴びているのかもしれない。

 

 思えば、ノエル先生とは工場跡からほとんど行動を共にしている。――カラオケ、洞穴、そして博士の地下実験場。一夜を超えて、今はもう朝の六時前。汗を流したくなるのも十二分に頷けた。

 

 できることなら、俺もご相伴に預かりたいところだが、この傷ではそれも不可能だ。立つことすらできない人間では、それこそ一風呂浴びるのにも介助が必須となってしまう。

 

 そう考えると、少しだけ――自から天秤にかけて、結果として失ったものに、後悔が生まれた。一生このまま、とまではいかないにせよ、向こう数カ月は確実に一人では何もできない身だ。

 さすがに堪えるものがある。

 

「――なんて。バカだな、俺」

 

 向こう数カ月? 笑ってしまう。俺はもう明日とも知れない身だ。いつロアとなり果ててもおかしくない。自分で気づいていないだけで、それは一分後か、一時間後かもしれない。

 

 だが、どう長く見積もっても、一カ月は保ってくれないだろう。でなければ、シエル先輩にしてもノエル先生にせよ、こうも精力的には動くまい。

 

「お待たせ。……あれ、寝ちゃった?」

 

 耳元で、彼女の声がした。

 気づかぬうちに俺はうつ伏せで、それも枕に顔を突っ込んでいた。それをあちらは寝入ったと勘違いしているようだ。

 

「す、すみません。少し気が抜けちゃって――って」

 

 首を動かし、視界を部屋へと戻すと、そこにはある種異常極まりない光景が待ち受けていた。

 ベッドの傍に立っていたのはノエル先生――なのは当然として、なぜか彼女はシャツ一枚しか着ていない。それもシャワー上がりの湯気のせいなのか、若干内側の透けたものを、だ。全くごく当たり前の結果として、薄青色のあれやこれやの形状がばっちり確認できてしまう。

 

 顔を起こそうとした俺は、その数倍の速さで元の体勢へと戻ることを余儀なくされた。

 

「ふふっ……。すっごい期待通りの反応。カメラにでも撮っておきたいくらいに」

 

「なっ何してるんですか先生。服くらいまともに着てくださいよ。ていうか、俺をからかうためだけに?」

 

「それ以外何があるのよ。……あ、でも汚しちゃわないように、ってのもあるかな?」

 

「それはまたどういう――」

 

 言い切る前に、さらに輪をかけて意味不明な事態が発生した。いきなりノエル先生が、寝ている俺の上着に手を掛けてくるではないか。

 

「まっ……え? まさか今からですか!?」

 

 あまりの事の連続に、思わずこっちもかなりアレな反応をしてしまう。だが、残念ながら返ってきたのはさも愉快げな大笑いだった。

 

「ふっ、あははは! なに、今からって。いつまで経っても君とするわけないでしょ。そういう目的の関係じゃないって、君から先に言ったんじゃない。

 そうじゃなくって、服くらい君も着替えなさいってこと。ほんとは、そのままベッドに寝かせるのだって嫌だったのよ?」

 

「え、ああ……そういう」

 

 意気消沈する俺から、有無を言わせずノエル先生は衣服をはぎ取っていく。

さすがに下着一枚にされそうになっては、男として抵抗を試みたのだが、そもそもの腕力の差に怪我も手伝って、勝負にさえならなかった。

 

「濡れタオルあるけど、自分で拭ける? あの蜘蛛女が止血と縫合は済ませたって言ってたから、特に触っちゃいけない部位とかは無いと思う」

 

「それくらいは自分でやりますよ。右腕はまだなんとか動きますから」

 

「本当に? きつかったら遠慮せず言ってくれていいから。

さっきのはあくまで冗談で、別に君に触るのは全然嫌じゃないし。……むしろ、君が触ることを許してくれるのかの方が、私的には問題なんだけどね」

 

 一瞬、どういう意図の発言か読めなかったが、彼女の表情を目の当たりにして、やっと察した。

 洞穴で、シエル先輩から逃がれるため、隠し通路に身を隠した時のことを言いたいらしい。

 あの時、彼女は俺を治療するためと言って伸ばしたその手で、拷問を始めようとした。

 

「別に、根に持ってなんてないですよ。あれくらい……とはちょっと言いづらいですけど、結果、先生のおかげで今こうしていられるわけですし」

 

 精一杯のフォローを試みる。しかし、彼女は俺の言葉がなぜか受け入れがたいようだった。伏し目がちになると、弱々しい声で呟いた。

 

「やっぱり君、おかしい。すごく変。今まで会ってきた、どの人よりも」

 

 褒めているのやら、貶しているやら良く分からない。まぁたぶん良い意味だろうということにして、俺は彼女の手から濡れタオルを受け取った。

 

 思った通り、右腕は最低限の動作くらいならこなせるまで回復していた。とりあえず、物を持ったり握ったりには支障はない。

 ナイフで線を切る――は当分、お預けだろうけれど、希望の光が見えたことは確かだった。

 

「お腹、空いたでしょう? なにか見繕ってくるね」

 

 また殊勝なことを口にして、ノエル先生は台所へと立った。なんだか、部屋に入ってからの彼女は妙に甲斐甲斐しい。

 普段はもっとこう、周囲の方を自分のペースに合わせるようなタイプだったはずだが。

 

 奪い取られた、俺の上着やズボンやらが洗濯機でごんごんと回される音が響いている。

 ベッドのすぐ傍にある窓から、差した朝日が俺の身体を横切った。とても眩しくて、目を開けていられない。

 

「牛乳は……あちゃ、もう無かったか。卵……はセーフと。レタスはまだいけそう。

デザートはぁ……げ。志貴クーン、君ってプリンはダメだったわよね」

 

「誰から聞いた情報ですか、それ。勝手に俺の好き嫌いを創作しないでください。

 まぁ、あんまり食欲無いんで、食べたいならどうぞ」

 

「えへへ」

 

 不思議と、舌を出したその表情は、ありありと想像できた。

 

 しばらくすると、コンロに火が灯る音が聞こえた。かちゃかちゃと食器類が擦れあう。包丁とまな板とが、一定のリズムを刻んだ。

 

 玄関からベッドまで、一直線に運ばれただけ。俺はまだこの部屋がどういった様子なのかなんて、ろくに見てすらいないはずなのに。

 台所で調理器具を手に、きびきび働く彼女の姿がよく見える。物音を聞いているだけで、どんな手順で、どんな顔で、朝食を作ろうとしているのかが、全く何の根拠も無いにも関わらず、俺には良く分かった。

 

「先生」

 

 少しだけ無理をして声を張ると、「なに? 今忙しいんだけど」と、若干ぶっきらぼうな反応がある。

 それもなんだか、実にらしくって、微笑ましくなった。

 

「俺、先生のこと好きですよ」

 

 がちゃん! と、皿か何かしらが割れる音が、これ以上無いほどの答えをくれた。

 意味ある人間の言葉が届くのは、それからたっぷり十秒以上経ってからだった。

 

「いきなり止めてよ。……けっこう使い込んでるカップだったのに」

 

「それはすみません。でも、言うなら早くしとかないとなって」

 

「……そう」

 

 それ以上、やり取りは続かなかった。俺もこれ以上邪魔をしたら悪いと思い、じっと目をつむって待った。

 窓の向こうからは、通学に向かう少年少女たちの騒がしい声がしていた。

 

――――――――――――

 

 

 バターを塗ったトースト、千切ったレタス、スクランブルエッグ、それと茹でたソーセージ。これ以上無いほど普通の朝食が、お皿に載った。もちろん宣言通り、プリンは先生の方でのみ揺れている。

 

 食欲は皆無……を通り越し、食事を想像するだけで胃がひっくり返りそうなほどだったが、いざ用意された皿を前にすると、生理的な忌避感はあっさり消し飛んだ。

 

「美味しいです。先生、フツーに料理上手じゃないですか」

 

「当たり前でしょ? だてに十何年も自炊してないっつの。

……おだててもプリンはあげないからね」

 

「取りませんよ、どんだけ好きなんですか」

 

 部屋の中央に置かれたちゃぶ台を二人で囲む。先生はベッドで寝たままで良いと言ったが、どうしてもそれは嫌だったので、気合を振り絞って床に座った。

 やはりご飯というものは、互いに顔を合わせて食べるべきだろう。それに、残り少ない機会をふいにしたくなかった。

 

 ノエル先生はいつの間に、長袖のブラウスと丈の長いパンツと、普段着に着替えていた。どちらも落ち着いた色合いで、もとから化粧気の無い彼女には良く似合っている。

 

 そう言えば教室で出会った頃から、不思議に思っていた。いかにも人目を気にしそうなタイプなのに、どうしてノエル先生はいつもすっぴんなのだろう。

 

「うわ、最っ低。君、女子に平気でそういうこと言えるの一種の才能だと思う。あ、これ褒めてないわよ」

 

「だから俺は単純に気になっただけで……」

 

「どれだけ気になっても世間一般では言わないの。ったく……。ってか、すっぴんじゃないからね? ナチュラルメイクだから。そこ重要だから絶対に勘違いしないで」

 

「あ、はい」

 

「ほんっと……。君、見た目十割で中身がてんで伴ってない系の美少年よねぇ。

部屋で一緒に朝食を取るなんて、関係性ランクでいったら最高レベルよ? もうちょっとこう、気の利いたセリフないの?」

 

「無茶言わないでくださいよ。ここへ至る流れというか、過程をもう少し考慮に入れてください。先生、ついさっきヒトを一人刺し殺してきたばっかりなんですよ?」

 

「だからそういうとこ! なんでNGワードだけ的確に踏み抜いてくるのよ。はあ、年下の恋人とのハラハラドキドキなんて、やっぱり漫画やアニメだけの話なのね」

 

 とか何とか言いつつ、カップのコーヒーをすする。その姿は、仕事の毎日に疲れ果てたOLそのものだ。

さしずめ代行者なんてのは名ばかりで、実態はどちらもそう違わないのかもしれない。

 

 しょうもない雑談を交わしながら、一つまた一つと、皿の上の料理たちを平らげていく。時間にして、十五分にも満たない、ひと時の日常。

ありふれた、何の変哲も無い――本当に幸せな朝食だった。

 

「ね。今日はこれからどうする?」

 

 聞く側も、何なら発言している当人すらも、思い切り勘違いしているような、質問が来た。

 ともすれば、今日という一日をいかに遊んで過ごすか相談する、初々しい恋人同士のような――そんな聞き方だった。

 

「どうしましょうか……ねぇ」

 

 終わりは避けられないと互いに知っていても、どうしてもまだ続けたくって、この空気を壊したくなくて、俺は返答をあえて先延ばしにする。

 先生もそれには同意見らしく、「なによ、もう」とこれ見よがしに可愛らしく唇を尖らせた。

 

「予定くらい、ちゃんと立てておきなさいよ。下調べは基本でしょ? エスコートするのは男子側ってのは、どこの世界でも共通なんだから」

 

「でも、先生は先生じゃないですか。俺はあくまで教え子なわけですし。女の子とろくに付き合ったこともないウブな俺を導くのは、それこそ教師の役目だと思うんですけど」

 

「呆れた、それ自分で言っちゃうんだ。というかマジ? その歳で、女子と一度も付き合ったことないわけ?」

 

「別にいいじゃないですか。巡り合わせが無かったんですよ。

小中高と、持病の貧血のせいでろくに友達も作れませんでしたし。今じゃ、おっかない妹に睨まれて門限まで守らされる始末ですよ? 夜遊びに繰り出す余裕すら無いんです」

 

「道理で、昨日のカラオケで一曲も歌えないわけね。私てっきり、むらむらして歌うどころじゃないのかしら、と思ってた」

 

「なにすっごい失礼なこと考えてくれてるんですか。それは先生の方でしょう」

 

「違うわよ、失敬な。そりゃ最終的に手を出しそうになったのは事実だけど」

 

「ほら当たってる!」

 

「うるさい、だって仕方ないじゃない。私だって、あんな風に正面きって告白されるの初めてだったし、ぶっちゃけ嬉しかったし、もしかしたらこのままゴールインしてとんとん拍子に幸せな未来、なんて頭に過ぎっちゃったりしたんだから。

 それも私のあんなとこ見て――。引いたりせずに、普通に怒って。あんなこと言われたら、勘違いするじゃない! まだ戻れるのかも、なんて考えちゃうじゃない!

 全部、君が悪いのよ。ぜんぶぜんぶぜんぶ! 私はもうダメ、もう取り返せない、もう終わりなんだって覚悟してたのに! 諦める算段が付いてたのに! 君が中途半端に引き戻したせいで、すっごくツラい、痛くて苦しい。胸が今すぐ張り裂けて、心臓が飛び出そうなほど気持ちが悪いの。

 だから壊したくって。君も、私も、みんなみんな壊そうとしたのに! なんでまだ生きてるのよ、あなたは。とっとと死んでくれればお互い楽になれたのに。今からでも遅くないから死んでよ。ねぇ――」

 

 生乾きの髪を振り乱しながら、先生は呪詛のように「死んで」と繰り返した。

 

「死んで、お願いだから死んでよ……。あのまま逝って、目覚めないでいてくれたら話は早かったのに」

 

「いいえ、俺は死にません」

 

「吸血鬼だから?」

 

 がらんどうになった彼女の目に、しっかり視線を合わせて、答える。

 

「責任を取りたいから。

 先生の言う通りです。

 俺があの時――ヴローヴをさっさと片づけていれば、先生はそんな風にはならなかった。

 全部、俺が悪いんです。先生は俺のせいにしていいんです。

 先生は悪くありません」

 

「……なにそれ」

 

 頭を掻きむしっていた両腕が、だらりと力なく垂れ下がる。

 放心しきった表情で、短く呟いた。

 

「ずる過ぎ」

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