チャペルの鐘が鳴った。――やめて。
わたしは外に設置されたテーブルを拭いた。顔を上げたら、いつもより賑わっている街。――いけない。
広場では人形師と手品師による――ダメだったら! 街中の子供たちがたくさん集まってる。 やめて、やめろ。早く終われ! みんな消えろ。
2001年、12月24日、午後三時、晴れ。
クリスマスが/地獄が始まるまで、もう少し。
わたしはいつものように、両親の営むカフェのお手伝いをやっている。
街で一番大きな教会の前という好立地に加え、なにより今日はクリスマスイブ。お客さんの列は途切れず、後から後から引っ切り無しにやってくる。――バカみたい。
「やぁ。今日も盛況だね」
この街に来て半年になる、東洋人の留学生。いつものように、メインストリートを臨むテーブルに腰を落ち着けた彼は、にこりと人好きのする笑みを浮かべ、わたしに軽く手を振った。
――気色悪い。お前のツラなんて、こっちは二度と見たくないのに。とっとと死んでよ。
でもわたしはそんなこと露も考えず、無邪気に彼に話しかける。
「今日もカフェオレですか……?」
「ん、ああいいよ。注文しようと思ってきたわけじゃないから。それより、これ」
彼がわたしに差し出す、綺麗に個包装されたプレゼント。とっても嬉しくって、はにかみながらもそれを大事に受け取った。
――今すぐそいつを地面に叩きつけて、足で踏みにじれ!
「少し早いけどね。君とオヤジさんには、いつも世話になってるから」
彼は流暢なフランス語で言ってくれる。出身は日本という遠く離れたアジアの国らしいけれど、彼の発音は丁寧で、とても聞き取りやすく、わたしは大好きだった。何なら、方言交じりで変に詰まった地元の人の話し方より、ずっと。
――耳障り、聞きたくない。話しかけたくも無いのに。どうしていつもこうなの? どうしていつも、毎回変わらず、そうするの?
彼は言葉通りに、カフェオレの一杯も飲まずに去ってしまう。わたしにプレゼントを渡すためだけに、このテラスへ足を運んだというのは本当だったらしい。
そのことが、わたしには何だかとても誇らしく感じられ、胸がいっぱいになってしまう。ああ、人を好きになるのってこんな気持ちなんだなって――。物語を何度読んだって分からなかった気持ちが、確かに胸の内にできあがる瞬間を経験する。
――紛い物。そんなのも、あるはずなかったのに。どうして信じたの? 無駄よ、無意味。五、六年もすればすぐに理解する。愛? 恋? 吐き気を催すほど嘘っぽい。どうして世の中の大半の人が、そんなもの平気で口にできるのか、心の底から理解不能だ。
「……うれしい」
大勢の客たちに囲まれて、わいわいがやがやの喧騒に包まれて、それでもわたしの独り言は世界中に響き渡る。
だってそうよ。わたし、きっと今、世界で一番幸せだもの。
――うっさい、そんなわけないだろ。もっと常識で考えなさい。誰が、お前みたいなちんちくりんに本気になると思ってるんだ。身の程を弁えろ。
あの東洋人の彼は、まさに口頭で言った通り、店主であるお前の親への、義理でプレゼントを渡しただけだった。それ以下でこそあれ、以上だなんて望むべくも無い。
「うれしい」 ――だから、そんなに喜ぶな。そんなに、嬉しい気持ちで舞い上がったら。
落ちる時が、いっそう辛くなる。地面に叩きつけられて、粉々になってしまう。
わたしが――幼いわたしが構築しかけた人を信じる気持ちだとか恋愛に対する純粋な感情だとかが、根こそぎ全部、泥まみれの台無しになる。
信じるから、裏切られる。好きになったから、嫌いになる。
持っていたから、奪われる。有は無へ、幸せは不幸せに。あらゆるを支配する根本原理。
十三年前のクリスマスは着々と進む。あらかじめ規定されたタイムテーブルに沿って、シーンは次々と切り替わる。
ベッドに潜り込み、毛布をすっぽり被るわたし。親へのちょっとした反骨心。ちっとも育ってくれない自分の身体に対する不満。――ああ、そこだけは心配しなくても良かったわね。二十歳超える頃には、人並み程度にはなれたから。
物音が全くしないことに違和感を覚え、家族の待つはずの一階へ降りる。
血、臓物、暴力の痕跡。紅に染まる視界。遠くで、近くで繰り広げられる阿鼻叫喚が聞こえてくる。
かたかた震えて、それでもどこかへ逃げねばならないと、歩き出す。
――ほらね、言った通りになった。惨めったらしくすすり泣いて、無様にもほどがある。言った通りにすればよかったのに。初めから全部知っている、私の言う通りに。
そこから映像はさらに早送りになる。もうほとんどコマ送り。途切れ途切れに、赤と黒と黄色の三色だけの静止画が、現れては消えていく。
具体的に何がどうなって、どうされているかは、事細かに描写したくもない。どうせ振り返っているだけの記憶なのに、そこまで具体化なんてする必要無い。
抽象化の檻に閉じ込めれば、そこには等しい結果が並ぶだけ。家族がみんな死んで、街の人もたくさん死んで、死体で形成される森の中をわたしはひたすら歩いていく。
やがて教会に辿り着く。ここなら大丈夫だ、と誰かが言った。その希望によりすがって、わたしを含む生き残りたちは大きな大きな門の内へと入っていく。
そこにアイツが待っている。大口を開けて、嗤っている。生あるものを嘲る悪魔が、邪気に満ちた目で、見つめてくる。
落ちる。とっくに地獄の底の底に辿り着いたと思っていたのに、それはまだほんの序の口で、嘘みたいにぽっかり空いた大穴から、もっと下へ下へと放り込まれる。
「血だ。血と恐怖をもっと、ここへ」
酸鼻を極める教会の中。昨日まで普通に暮らしていた住人たちが、あらゆる苦悶を歌いながら床に蠢き、這いつくばる。でも、死なない死ねない。そう簡単には、解放されない。
――いや、いやいや……いやなのに。いつになったら、止めてくれるの? もうずっと、長い間ずうっと苦しんでいるのに、まだ私は/わたしはここに閉じ込められている。
代行者になって、吸血鬼を殺す側に回った。黒鍵を投げれば下級のカスくらいは即殺できるし、斧槍を使えば一度に大勢だって鏖殺できる。
そうだ、私は強くなった。私は復讐を果たしたんだ。十三年前のわたしとは違う。背も伸びたし胸も大きくなったし、ムカつくあいつを妬む必要なんてもう完全に無くなった。なら、どうして?
東洋人の彼が言う。
「ここから逃げ出すんだ。死体を積み上げて、足場にしよう」
――そうだね、そうすればきっとうまく逃げ出せる。私は結果を知ってるよ。
幼いわたしが彼と協力し、頑張って手と足と腹でできた山を上り詰める。時々、油で滑って転がり落ちそうになるけれど、大丈夫。優しい彼が、掴んでくれる。
二人はなんとか地獄の底にまで戻る。ここも真っ赤な沼だけれども、あの大穴よりは多少救いがある。どこかへと繋がる、門はあるから。
「さぁ、急いで。教会の門を通って、外へ出るんだ。そうすれば、この地獄から逃げ出せる」
彼が促す。わたしは頷く。早いとこ、こんなところは脱出しよう。その先に、きっとお父さんもお母さんも待ってる。お家で見たあれはたぶん嘘。きっと二人とも、どこかへ隠れていて、無事なんだから。
――その手を、離せ。今すぐその男を、這い上がってきたばかりの大穴に突き落とせ。まだ間に合う。今なら、まだ。
致命的なその瞬間が訪れる前に、私/わたし自身の手で、この未来に蔓延る病巣を切除して。
でも、結局わたしにはできない。幼い彼女はまだ知るはずも無い。信じ切っている。この地獄の中にあって、自分を救い出してくれた初恋の彼を、救世主か何かのように、崇めている。
無理も無い。両親はとうに死に、友達もいない。妬みこそすれ、それなりに仲良くやっていたパン屋の娘は、狂気を歌う悪鬼と化した。
こんな状況で、命がけで自分を助けてくれた人を、どうやって疑えと言うんだろう?
門を抜けて、広場へと出る。待っていましたとばかりに押し寄せる、死徒の群れ。
わたしは呆然と立ち尽くす。
――また、おんなじ展開。夢だから、しょうがない。何回繰り返したって、同じこと。
次のシーンで彼は言う。これも決まった書き割り。
『おい見ろよ、ここにうまそうな女がいるぜ!』
幼いわたしの積み重ねてきた全てをぶち壊し、私にしてくれた/しやがった、余計な一言。
東洋人の彼が大きく息を吸い込む。ほら、もうそろそろ言うわ? もう二、三秒後かしら。
夢はとっても意地悪で、このシーンだけ毎回必ずミュートの操作を突破してくる。どんなに仕事で疲れていたって、ここだけは絶対に簡略化されない。鮮明に、決して私/わたしが思い違いなどしないように、一言一句はっきりと再生する。
そうら来るわよ。一、二の、三!
「Nous serons ensemble quand nous mourrons」
え?
いま、なんて?
古いビデオテープのように、夢の映像にノイズが走った。死徒の群れも、死体の山も、赤い沼地もみんな一斉に白黒の砂嵐に覆われる。
でも、隣に立っている彼だけが消えない。
彼はもう一度、全く同じセリフを言い放つ。
「Nous serons ensemble quand nous mourrons」
私/わたしの地方の方言の全く混じらない、ラジオから流れてくるような、お手本通りのフランス語。文法だって変にかしこまっていて、まるで翻訳サイトを通したみたい。
けれど、そうね。東洋人の彼の出身地になぞらえて、あえて日本語訳するなら――その意味は。
「
私/わたしはぎこちない動きで、隣の彼を仰ぎ見る。
とっても不思議、ここは夢の世界のはずなのに――いいえ、夢の世界だからこそ? 彼の姿は、いつの間に全く別の人物に置き換わっている。
やぼったい眼鏡が特徴的な、やせぎすの少年。あまり整えていない黒髪の下に、いつものさも人畜無害そうな、弱々しい笑み。そのくせ、レンズの向こう側の眼は――心臓をわしづかみにされるような、鋭すぎる光に満ちている。
聞き違いではないと、懇切丁寧に証明するように、彼は何度でも同じ言葉を繰り返す。「死ぬときは一緒」だと。
私/わたしも彼も、立ったまま。逃げ出さないから、死徒の格好の標的となる。ノイズの入り混じった出来の悪い見た目のくせに、動きだけは本物さながらで、二人はあっという間に取り囲まれる。
「死んじゃうよ? お兄さん」
わたしが問いかける。私も問う。「死ぬわよ、君」
隣に立った彼は、平然と応えた。
「別にいいさ。惜しむほどの命じゃない。君/先生と一緒なら、むしろ本望だよ」
――え。
映像の中で、幼いわたしが勝手に動く。顔いっぱいの笑顔を浮かべる。だって、それこそずっと言って欲しかったセリフだ。十三年前のあの瞬間から、ずっとずっと待ち望んでいた、文字通り夢の言葉!
「うれしい、うれしい! わたしも、お兄さんと一緒に死にたい!」
どのみち、死の未来は必定だった。もとより、どこにも逃げ場など無かった。ならば後はもう、どうやって死ぬか、選ぶだけ。
ならわたしは大好きな彼と一緒が良かった。そうすれば――下手に生き残ってこの代行者になんてなって欺瞞に満ちた復讐心に煽られ、故郷を滅ぼした醜悪で残酷な悪鬼の下につき、ドブさらいに身をやつすことも無い。
すっきり綺麗さっぱり、物語はここでビターエンド。でもバッドじゃない。大好きな人と一緒なら、どこにいたって、いつだって幸せじゃない?
襲い来る、吸血鬼ども。何の力も持たない二人は揉みくちゃにされ、たちどころに挽肉よりグロテスクな死肉の集合となり果てる。
でもこれが、私/わたしの望んでいた結末だ。十三年前のクリスマスに起こり得た、唯一の救いあるエンディング。
猜疑と嫉妬と汚辱に塗れた、二十七歳のどうしようもない年増女の存在し得ない、とっても明るい末路。
これでいい。これで幸せ。ああ、なんて幸福な――。
「わけ……ない、じゃない」
それを私が、否定した。
「だって、違う。私は望んでない。彼は――君は、死んじゃいけない! 志貴クンは、死んだらダメ!」
巻き戻る。テープはくるくると巻き取られ、シーンがそっくり、一分前に戻される。
教会の門の前に立つ二人。
あれ? でも二人の背丈が変わっている。男の方は、十七歳の少年に。
少女だったはずの彼女は――169センチという、女性にしては長身の、修道服を着た女に。
さらに、女はその背丈よりもずっと長い斧槍を手に構えている。そうだ、それは私だ。代行者ノエル。十三年の時を経て、死徒ともそれなりに戦えるようになった、私。
女は言う。死ぬときは一緒だなんて、ふざけた妄言を吐いた少年を、一喝する。
「ふざけるな! 一般市民がなにバカなこと言ってんの。私がどうにかして、あのクソムシどもを引き付けるから、その隙に君は逃げるの! いい!?」
そうして勇ましい掛け声とともに、女は死徒の軍勢の内へと吶喊していく。閃く斧槍の一撃、死徒の首が飛び、手足が千切れる。吹きすさぶは穢れた血の雨あられ、さながら人肉ミキサー。
この様子はひどく目立って、どこぞに控えていた、より高位の吸血鬼たちが集まってくる。
「面白い。この地は既に封鎖したと聞いていたが、いずこより代行者が紛れ込んだか。いい加減、一方的な殺戮にも飽いたところだ。退屈しのぎに、付き合ってやろう」
誰かも分からぬ、なんだか偉そうな声。たぶん私の夢が、寄せ集めから構築した二十七祖の誰か的な声。
聞き覚えが妙にあるなと思ったら、あのヴローヴとかいう吸血鬼だと思い出す。
同時に、その二十七祖が再現された意味を知った。
「そら、踊れ」
ヴローヴの投げた大槍が、死徒の軍と遣り合っている私に向けて飛来する。頭部にもろ直撃コース。ああ、これは死んだな、と冷静な分析がなされた。
でも、視界の端っこでは、志貴クンが広場の隅から、路地裏へと走りこむ様子が映っている。
彼はきっと、とっても悩んだだろうけど、私の言いつけに従って、ちゃんと逃げてくれたらしい。
それでいい。私は死ぬみたいだけど、彼が生き残ってくれるなら、こんなにうれしい/幸せなことは無い。これが一番、私の望んでいたことなんだなって――。
夢が止まる。映像が消える。その続きは再生されない。
意識は暗闇に放り込まれる。でも、考え続けてはいる。
幼いわたしと、東洋人の彼が浮かぶ。同時に、私と志貴クンがちょうどそこに重なる。
ときおりブレて、ノイズを散らしながらも、二パターンの映像は混ざり合い続ける。回り続ける万華鏡のようで、決して一つの景色に落ち着かない。
なんとなく、それの意味するところに推察が及ぶ。
私が今さっき夢でそうしたように、やっぱり彼も、そうだったんじゃ?
そもそもの話として、よ。
いくら囮にして逃げたいからって、「
それに、だ。あの場面で大きな声を出せば、むしろ自分に注意が向くなんてこと、誰だって予想できた。少なくとも、死体を山にして足場にするなんて、残酷ながらも冷静な判断を下せた彼が、それを見通せなかったとするのは、無理がないか?
じゃあ、じゃあつまり彼は……東洋人の愛しの彼は、幼いわたしを助けるために、わざとあんな事を言ったのでは?
「ここにうまそうな女が」――こう言えば、
そんな薄情者など、さっさと見限って自分の脚で逃げる選択をするはず。
それこそが、彼の本当の狙いだった。
彼はわたしを助ける、その一心で死徒たちの注意を惹き、一人で切り刻まれたのだ。
「は、はは、あははは! なによそれ、じゃあ、なに? わたしは、実際のところ彼に裏切られてなんて、なかったわけ? 彼は本当にわたしが好きになった彼のままで、最後までちゃんと愛されてた?」
黒一色の世界に、私の乾いた笑いがこだまする。これが笑わずにいられようか? 気づくのが遅すぎる。十三年くらい。
笑い続ける。声が枯れるまで。お腹の中の息が全部なくなるまで、筋肉が引き攣るまで笑った。
そうしてやっと、もっと大事なことに気づく。
「逆だったんだ。わたし、私、奪われてなんて、なかった。逆だ……与えられていた。
あの人に、大好きだったあの人に、命を貰ってた。何も失ってなんて、なかったんだ。
家族も、街のみんなも死んだけど、彼が守ってくれたから、私は生き残れたんだ!
なんで今まで気づかなかったの!? 私、ずっと幸せだった。もう十分過ぎるくらい、あの人に貰ってたのに」
――私/わたしの、人生を。
その答えが導かれた瞬間、暗闇だった世界に光が射した。
現実へと繋がる階段が見える。そうだ、早く戻らなくっちゃ。だって今度は私の番だもの。あの時、受けた恩を――十三年もの間、忘れ続けていたこの大切な人生を、少しでも返さなきゃならない。
――さぁ早く。わたしが後ろで、手を振り応援してくれる。
いつの間に現れた東洋人の彼も、あの人好きのする笑顔を湛えている。惜しむらくは、遠い昔ということもあって、今やその彼の名前も思い出せぬことか。
「ごめんね。でも、心配しないで。私もすぐに、そっちに行くから。
でもまだあっちでやらなきゃいけないことがあるの。もう少し、待ってて」
階段を駆け上る。目が覚める。光に包まれて、わたしは消える。