「ちょ……先生!」
突如として、目を覚ました先生は俺に抱き着いてきた。……より正確に言い表すなら、しがみ付いてきた。もっと言うなら、絞め殺そうとしてきた。
「いたっ……苦しいですって」
必死に抵抗しようとするも、あまりに彼女の力が強すぎて、全く引き剥がせない。そのうち二人してバランスを崩し、もつれあうようにしてベッドの上で揉みくちゃになる。
先生の柔らかい部分やら固い部分やらが、しっちゃかめっちゃかに当たってきて、健康的な男子としては耐え難い衝動を覚えなくもない状況だが、それ以前に締め付けがあまりにきつ過ぎて、とても楽しむ余裕なんて無い。
「せ……ノエル先生!」
このままぽっくり逝ったのでは、あまりにも恥ずかしいので、俺はとっさに反撃に出た。
現状では唯一、力の籠る右手でもって、先生の特定の一部を握ってみる。かなり危険度の高い――倫理的に危うい行為だったが、致し方ない。
「つ……て、何するのよ変態!」
反応は劇的で、一瞬にしてノエル先生は正気に戻り、しかるのち俺は強かに頬を張られた。そのまま後方へと倒れ、ベッドから転がり落ちる――あわやのところで、もう一方の先生の腕が、シャツの襟元を掴んで止めてくれる。
「ちゃんと言ってくれれば、そのくらい、いくらでもさせてあげるのに。ほんともう、バカなんだから」
「え? まじですか?」
「色々と片付いた後で、ね。まだやる事があるでしょう、君にも、私にも」
ベッドから降りて、再びちゃぶ台の前へと座ると、互いに気持ちも落ち着いた。
時計を見れば、時刻は既に正午を回って十三時。いつの間に外の天気は陰っていて、窓からはどんよりとした曇り空が見える。朝はあんなに晴れ渡っていたのに。
「そろそろ真面目に決めましょう。志貴クン、あなたはこれからどうするつもり?」
避けようのない質問が、真っ先に飛んできた。
しかし俺も考えナシの阿呆じゃない。彼女が寝ている間に、ある程度は纏めていた。
「俺は……逃げようと思います」
「何から?」
「もちろん、教会の人達からです。
シエル先輩はいったん退いてくれたみたいですが、他の代行者はそうじゃないでしょう。俺はどうあがいても、ロアっていう吸血鬼になる。そしたら、彼らは必ず追ってくる」
「逃げ切れると思うの?」
「まさか。無理だなんて、分かってますよ。シエル先輩みたいな人が、わんさかいるんでしょう? 逃げおおせるだなんて、考えてません」
「や、あいつは教会の中でも別格だから……。けどまぁ、未来予想としてはそれで正解ね。個人が多少抗ったところで、教会っていう巨大な組織の前では無力だわ。すぐにも君は始末される」
ノエル先生はあっさりと断言した。それが逆に心地いい。変に希望を持たされるよりは、ずっと。
「それでも、いいんです。もしかしたら……ほんの少し、0.000……何パーセントかの確率で、あるいは俺は助かるかもしれない。そういう可能性に縋ったって、いいでしょう?」
口にしながらも、そんな宝くじは当たるわけがないと、俺自身、悟っている。
だからより重要なのは、その次。彼女に対しての提案だ。
「そのうえで……先生。お願いがあります。俺と一緒に、逃げてください。
俺はもう、まともに走れもしませんし、物だって箸を持つのがやっとなくらいです。
代行者どころか、その辺を歩いてるお爺さんにだって追いつかれるでしょう。
だから、どうか。俺を助けてください。最期のお願いです」
聞き届けた先生は、へへん、とイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「うわ、情けな。君、自分が今、どれほど無理筋なお願いしてるか分かってる?
かりにも代行者やってた人間に、吸血鬼になっちゃったんで教会から逃げる手伝いしてくださいって、頭下げてるのよ」
「でもそれは先生だって同じでしょう?」
あまりにも正論で返されたものだから、指摘せずにいようと思っていたことを、つい俺は口にしてしまう。そう、先生だって吸血鬼になりかけの身だ。
すると先生は待っていましたとばかりに、破顔した。
「そう、君と私は一緒。これまでも、これからもね。
……話も決まったところで、そろそろ出発しましょうか。着替えは結局、用意できなかったから道中で調達しましょう。駅前でなら、それなりのものが揃うわ」
言うが早いが、すくっと立ち上がると、俺へと手を伸ばした。その力を借りて、俺も立つ。十分休んだおかげか、脚の痛みはずいぶん引いた。ぎりぎり、両脚で歩くことはできそうだ。
「駅前ってことは、まさか電車に?」
「それ以外何があるの。徒歩だと可能性なんて絶無よ。
車があれば良かったんだけど、さすがに持ち込めなかったから。かといってレンタルは立場的に難しいしね」
「けど、めちゃくちゃ人目に付きますよね」
「それが逆にいいの。あいつらだって、神秘の秘匿義務はあるから。一般市民が大勢、同乗している中で、いきなり黒鍵投げてきたりはしないわ」
「そう……でしょうか?」
シエル先輩は暗示を駆使し、全く違和感なく学校に潜り込んでいた。あの魔術を最大限に活用されれば、車内からの人払いなど容易にできそうだ。
「迷ってる暇なんて無いわ。とりあえず動かないと。
だいたい、この家だって全然安全じゃないんだから。むしろ真っ先に爆撃されたっておかしくないのよ?」
さらっと恐ろしい事を言うノエル先生。彼女の迫力に圧されるようにして、俺も腹をくくった。
――――――――――――
注)視点変更、および時間経過
「バカにつける薬はねぇ、とこの国じゃ言うらしいが」
マーリオゥ司祭代行は、そう前置きをして、比較的近くに立っていた代行者の一人に話しかけた。
「言い得て妙だ。頭の芯から腐り切ったカス連中は、何を言っても与えても、どうしようもなく無意味で愚かな行動しか選ばねぇ。
いっぺん、掻っ捌いて中身を見てみてぇよ。蛆が寄生虫かがぎっちり詰まってんじゃねぇか? むしろその方がまだ救いがある。
生まれ持った立派で健康な脳みそで、考えに考えぬいた結果がこれなら、いよいよもって度し難い」
話しかけられた代行者は、司祭代行の演説には答えず、ただ一礼をもって応じた。
そもそも、一般兵に過ぎない代行者と、上級の管理者である司祭代行との間では、文字通り天と地ほどの位の差がある。
なかんずく、マーリオゥは特例だ。
かのラウレンティス枢機卿の実孫であり、業界に広く轟くその才能も、少年は存分に受け継いだ。将来の地位と名誉は、ほとんど確約されているとしても過言ではない。
その証左が、ここに集った代行者の数である。しめて三十人、戦術的に見ても、一つの分隊として成立する規模だ。
しかも、いずれも海千山千のつわものどもを選りすぐっている。
この戦力を一挙に投入するとなると、二十七祖を引き合いに出しても、下級ならば打ち倒すことさえ可能だろう。いわんや、名も無き死徒などはものの相手にもなりはしない。
「しかし、どれほどのバカにも、天のよみしたもう恩恵は平等に注ぐっていうのかね。こっちとしてはクソッタレな偶然ばっかり、重なりやがる。
そのくせ、当人たちは無自覚だから始末に負えねぇ。少しは俺の気苦労を分けてやりたいよ」
終始、発言は控えていたはずの代行者が、ついに堪えきれなくなったように「お言葉ですが」と、それに口を挟んだ。
「今、ここで仕掛けるのは下策かと僭越ながら申し上げます。あまりにも場所が悪すぎるかと」
「うっせぇな、わぁってるっつの、んなことくらい」
無礼を承知で、代行者が諫言を行ったのも無理はない。彼らがぞろぞろと集まっているのは、ごく狭い車内という空間。すなわち……走行中の電車の中だった。
魔術を使った人払いは既に済ませてあり、先に停車した駅で、乗員は全員、下車している。無論、運転手も含めてのこと。代わって操縦を行っているのは、多芸で名を馳せる、とある代行者であった。
「せめて、停車はさせた方がよろしいのでは? 事の次第によっては、脱線の危険もあります。
万が一、民間に甚大な被害の及ぶことなどあれば、猊下にとっても今後の差しさわりとなるやも……」
「いいや、それはできない。さっきも言ったろ。相手の出方を窺う必要があるってな。不用意に停車させれば、アイツはかなり高い公算で、すぐにも強硬手段に及ぶ。
そうなったら、ここまで積み上げてきたものが全部パーだ。てめぇらを招集した甲斐も無くなる。こっちも要らぬ袖は振りたくねぇんだよ」
「ですが、しょせんは死にぞこないが二人でしょう? こちらが早急に対処すれば、あるいは殊更に荒立てることもなく、事態を収束させられるのでは?」
「おいてめぇ」
再三の上奏を行った、勇気ある代行者に、マーリオゥは軽蔑の視線を送った。
哀れな彼は恐れおののき、一歩後ろに引き下がる。だが、無理やり車内に三十人も押し込んでいるせいで、避けるスペースがなく、肘やら肩やらを、めいめいぶつけ合う羽目になった。
そんな下々の苦労など気にも留めず、マーリオゥは流れゆく窓の向こうを仰ぎながら説明する。
「眼が節穴もそこまでいくと憐れみを覚えるよ。代わりにその辺の石ころでも詰めといた方がまだ物の役に立つんじゃねぇか?
元代行者のクソ雌豚と、死にかけのガキなんざ初めから何の計算にも入れてねぇ。
だいいち、んな連中の始末に三十人も呼ぶわけねぇだろ、ちったぁ常識で考えろ」
「ではいったい――」
「上だ。もう来ている」
何の脈絡もなく、マーリオゥは車内の天井を指で示した。正しくは、一枚板の向こう側。電車の屋根の上に、ソレが足をつけている。
「厭な予感はあったんだよ。あれだけご執心だった獲物にまんまと逃げられて、指を咥えてみてるだけってのは、アイツのタマじゃねぇ。
とりわけ、今回は定められているはずの行動の枠組みを、自分から大いに踏み外しまくってやがったからな。ここまで追っかけて来るのは、今となっちゃあ、むしろ自然とすら言っていい」
そこで一呼吸置くと、上を指していた指をゆっくり下ろした。今度は変わって、車内前方、一両先の車両を指す。
乗客は魔術の効果によって、皆降りたはずだったが、その車両には例外が残っている。
同じ座席に身を寄せ合うようにして座る、一組の男女だ。
窓側の席の一人は、市販の安価な服を着こんだ少年。身体に不調をきたしているのか、青ざめた顔で自分の左腕を抱え、じっと俯いている。
そのかたわら、通路側にいるもう一人は修道服の女だった。皮肉にも、マーリオゥの背後に集った代行者たちと、全く同じ装いである。
それもそのはず、女性としてはやや長身の彼女は、つい先日までこの街で任務に励んでいた、代行者その人だった。
しかし現在は師弟関係を結んでいた、その師匠からパートナーの解除通告を受け、かたやマーリオゥからも修道院への謹慎を命じられている身である。
要するに、彼女は代行者としての身分をはく奪されて久しい。もはやその辺の街を歩く通行人と大差ない――むしろそれ以下の単なる無職でしかなかった。
その彼女が、二十歳にも満たない少年と同じ電車に乗って何をしているかと言えば、それがマーリオゥ当人にも分からないのである。
――いったいあのクソ雌豚は何がしたいのか? 修道院行きを回避すべく、高飛びでも決め込んだのか。あの少年は職を失した傷心を癒すべく、適当な奴を見繕ったとか?
それならまぁ、百歩譲って情状を汲み取る余地がある。
修道院行きと聞けば、大したことの無いように多くの市民は思うだろうが、聖職に携わる者にとってのそれは、無期に及ぶ懲役刑と大差が無い。
高い塀に囲まれた狭い敷地の中で、主に捧げる祈りと精神修養にのみ毎日を費やす。
暮らしは質素を超えて極貧で、食事と言えば水分の抜けきった黒パンと、下味すらつけられていない根菜のスープが基本。
糖分と言えば、中庭に生えている樹からとれる果実が関の山だ。それも月に一度、十等分した一欠片が口に入るかどうか、といった頻度である。
聖書の朗読と、讃美歌の歌唱。家事炊事洗濯に、魔術の基礎を学ぶ鍛錬。
おおむね、この四つしかやる事が無いにも関わらず、与えられる睡眠時間はなぜか五時間も無い。そして恐ろしいことに、それと余暇時間はイコールだ。
修道院で暮らす僧侶たちに趣味、娯楽といった概念は無い。なぜならそこで生活することそのものが、主よりの無上の愛を感じられる、最高の幸福だからである。
――と、いったことを四、五年も続けていると大半の奴は気が狂う。ノエルとかいう洗礼名の女ものその一人で、特に五年目の末ごろはそりゃあもう酷い有様だった。
なまじ、中学生になるまでは街に住む一般市民として、普通の生活を送っていたのが悪かったのだろう。
オシャレも遊びも美味しい食事も、家族も友達も取り上げられた挙句、長年の修行で頭のネジが数十本外れた先輩僧侶たちに、時には暴力で、時には言葉で虐げられる。
就寝、起床はおろか、排泄さえも他者の指図を受けねばならない。
言うなれば、あそこは一種の人間牧場だ。年端もいかない少女にとって、いかに絶望的な環境だったか。
他方、吸血鬼との殺し合いをする代わりに、ある程度の行動の自由が与えられる代行者。――その方がまだマシと考えるのは、心情として極めて共感できる。
「だがな。そんなに嫌ってんなら、一人で勝手にくたばれってんだよ。俺も周りも巻き込んでんじゃねぇ。極めつけに、とんでもない地雷を引き込みやがって」
マーリオゥは苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
「予定変更だ。まず上の方を先に片づける。あいつに先を越されれば、さっき言ったよう全てご破算だ。そのリスクは冒せない」
司祭代行より発されたこの指令に、代行者たちは一糸乱れぬ整列で応答する。――しようとしたが、空間的な許容量の少なさはいかんともしがたく、左右合わせて八人ほどは、窓に張り付かざるを得なかった。
その都合、八人の間の抜けた体勢を、マーリオゥはあえて不敵な笑みで褒めた。
「いいね、てめぇらにしちゃあ上出来なクラウチングスタートだ。……さぁ行け!」
司祭代行の合図に応じて、代行者たちは一斉に跳んだ。ステンレス鋼製の構体を容易く突き破り、外側――電車の天井の上側へと移動する。
三十近い数もの人間が、それを同時にやったものだから、マーリオゥの乗っていた車両は一瞬にして半壊状態となった。余波を受けた全面の窓が、三々五々にガラスを散らす。
さながら真冬の吹雪の中に、突如現れるは極光を纏った、美しい女。
真祖、アルクェイド・ブリュンスタッドが迎え撃った。
凄惨としか表しようのない笑みを浮かべて、突撃してきた代行者の第一陣を、片腕一本で薙ぎ払う。
爆発的な衝撃波が、車体を揺らした。
続けざまにマーリオゥが目にするのは、自らの割った窓枠から、車外へと放り出される数名の代行者の姿。彼らは受け身の体勢も取れぬまま、猛スピードで過ぎ去る景色の彼方へと消えていく。
「バカ野郎が! 真っ向から行くな! 回り込め!」
指示を出しながら、自分も鍵盤を使って四名を同時操作する。人間使いの司祭代行の本領発揮。見えざる糸に手繰られた彼らが、全方位から真祖へと迫る。
「無駄ぁ!」
いまだ中空に浮いたままだったはずの女が、今度は空へ向かって落下した。
慣性、重力、エネルギー保存則。この世の法則全てを嘲る、異常な挙動。代行者はもちろん、マーリオゥすらもこの悪ふざけは予測できず、一瞬にして間合いを離される。
「しまっ」
悪態を吐いた時にはもう遅かった。
上空へ舞い上がった女、その手から放たれた真空の弾丸が、立ち止まった代行者の一人を木っ端みじんに粉砕した。ワンテンポ遅れて、周囲にまき散らされる血肉と骨片。
加えて必然、その一発で攻撃が終わるはずもなく、つるべ撃ちの雨あられが、続けざまに降り注いだ。
「こんのぉおお!」
柄にもなく雄たけびを上げて、躊躇なくマーリオゥは車体から身体を躍らせた。途端、体中に吹き付けてくる、強力な風圧。慣性の法則により、相対的には時速100kmを軽く超す嵐が自由を奪おうとする。
だが、このくらいは窮地でも何でもない。蜘蛛糸のように伸ばした人間調律用の糸を今、離れたばかりの車体に結び、それを支点に。
遠心力を活かし、弧を描くようにして走行中の電車へと身体を引き戻す。
かく緊急脱出に成功したマーリオゥと異なり、飛行手段を持たない、もしくは反応の遅れた代行者の末路は悲惨だった。
回避する場もない車内にあっては、襲い来る真空弾をもはや防御するより他に無かったが、真祖の発した空想具現化を、人の身で耐え切ろうなど見込みが甘いに程が有る。
あえなく、前に構えた盾や黒鍵ごと肉体を撃ち抜かれ、大半が刹那のうちに生涯を終えた。
「十、十二……十五!? 五秒で半分やられたか。代行者の練度も落ちたもんだなぁ!?」
振り子運動の要領で、マーリオゥは元いた所の、一つ先の車両の天井部へと着地した。
鍵盤で操っていた四名も、遅れて到着。司祭代行を守るように、四方を囲う。
「へぇ、案外鍛えてるのね。司祭なんて、後ろでふんぞり返るのが仕事だと思ってたけど」
その正面。やっと上空から降りてきた真祖の女は、あっけらかんと言った。ともすれば、今日の天気の具合を尋ねるような気軽さだった。
「おあいにくさま。うちじゃ何事も実践主義で、管理職だろうが多少の腕を披露しねぇと、部下の一人もついて来やしねぇ。
ま、俺の場合はより具体的についてこさせてるんだが、ね!」
喋っている途中で打鍵、卑怯打ちとは言うまいね――の精神で手繰った一人を右側面からぶつける。
黒鍵を三対、合計六本構えた代行者による高速突進。瞬間的な火力だけで言うなら、戦車の砲撃に匹敵する。
これを真祖は後ろに跳んで躱した。正しい判断だ。まともにかち合おうものなら、たとえ体は無事でも、横向きのベクトルまでは殺しきれず、電車の上からは少なくとも弾き飛ばされる。
――もらった! 内心、マーリオゥはほくそ笑んだ。真祖が避けた後方には、先ほどの斉射から辛くも生き残った代行者が待ち構えている。
バカの集まりとはいえ、飛び込んでくる獲物を逃すほど愚かではない。
その見込み通り、女が天井――今は床に脚をつけた瞬間、四方八方に加えて下方、つまり車内側からに、黒鍵が投射された。
ハチの巣もとい剣山にせんと、押し寄せる刃の雨。女は再度、腕を振りかぶり衝撃波をもってこれを迎撃する。
女を中心として、球状に生じた力場により、並み居る黒鍵はことごとく撃ち落された。
――が、結果としてマーリオゥの当初の目的、足止め自体は成功している。
「そこぉ!」
転調、加速、クレッシェンド。一気に激化した打鍵によって、残った三名のうち一名が空から、一名が正面から、さらにもう一名が車内側から、突き上げるようにして真祖を狙う。
同時に三展開、三次元機動、そして後方の集団も、黒鍵掃射こそ防がれたものの、戦力自体は失われていない。
――勝った、確信した。どこにも逃げ場はない。
将棋で言うところの必至。マーリオゥの挑発に乗って、電車という極端に活用スペースの少ない立地で戦闘を開始したことが、真祖の敗因であり、死因だ。
「ねぇ、もしかしてさ」
ほんの一瞬、それと目が合う。あるいは最高潮に達したアドレナリンが見せる幻影、聞かせる幻聴。
「左右には避けられない……とか、思ってない?」
不敵な宣言通り、真祖は横に跳んだ。「な!?」
戦闘中も、真面目な代行者の運転手は、この快速電車を通常と同じ速度で運行させている。こうしている今も、時速にして120kmは下らないだろう。
その車体から、いともあっさり身を投げた。――逃げた? 違う、あいつがそんな生易しい判断をするはずがない。
ではいったい――? あまりに常識外れの行動に、さしものマーリオゥの意識にも、いくらかの空白が発生する。それが命取りだった。
「ただいまーっ!」
元気の良い掛け声とともに、白い真祖が横合いからかっ飛んでくる。棒立ちになっていた代行者一名はその直撃を喰らい、高速で去り行く景色の中に消えた。
「こいつ!」 有り得ない。走行中の電車からいったん地面に降りて、その後また乗り込んできたというのか?
相対速度はどうなっている? ゼロ速度の地面に脚をつけ、そこから電車と同じ……いいやそれ以上にまで加速しなければ、物理運動として成立しない!
うなじを大粒の汗が伝った。初めてでは無いにせよ、久しぶりにマーリオゥはこの真祖という生物が、いかに化け物であるかを思い知らされた。
「ビビってる場合? 今、自分が不利な状況かどうかくらい、あなたなら簡単に分かるよね?
私をここへ追い詰めたんじゃない。あなた達が、追い詰められてたの」
「バカ言え! 俺だってやりたくて仕掛けたわけじゃ――」
言っているうちにも、真祖は殲滅を粛々と進めていく。もはや代行者は彼女にとって、何の脅威とすらなり得なかった。
黒鍵を投げようが魔術の火雷を向けようが、全て横っ飛びに躱される。一瞬で攻守は逆転し、攻撃者であったはずの彼は、あらぬ方角からの痛撃により、全身丸ごと弾け飛んだ。
――昔、お忍びで、近所の貴族の娘と遊びに行ったボーリングという遊戯を思いだした。あれと一緒だ。
彼らはただ、お行儀よくレーンの上で並んで立ってる。それを遊び慣れていないお嬢様が、戯れに一本一本丹念に倒して回る。そのまんま。
ただ唯一、あの貴族の娘と違うのは、真祖はわざと手を抜いているということ。
本気を出せば、お前たちなどスペアどころか、ストライクで蹴散らせるけれど、まぁ今日はこのくらいのペースで、いっか。――そういう魂胆が透けて見える。
「くそっ! おい止めろ! 一時転進だ!」
マーリオゥは恥も外聞もかなぐり捨てて、取り出した端末に向かって怒鳴った。相手はもちろん、電車の運転役である。
真面目で優秀で、ついでに鉄オタだった彼は、迅速にその指示に従った。
耳をつんざくブレーキ音が鳴って、がくんと車体が大きく揺れる。
「あら、もうお終い? こっから面白くなるってのに。私、前にみたゴジ……なんだったかしら? あの怪獣映画の真似がしたかったんだけどなぁ」
「うっせぇ死ね! 二度とてめぇと同じ電車に乗るか!」
捨て台詞を残し、マーリオゥは速度の緩まった車体から、またしても身を投じた。しかし今度は糸を放つことはなく、地面に着くなり、そのまま脱兎の勢いで走り出した。
そしてぼそりと小声で、独り言を付け足す。
「――癪だがアイツを使わざるを得ん。予約はキャンセルだな」 自前の端末を片手に弄った。
あれこれ忙しい上司の後を、忠実な部下たちが追いかけていく。しかし数は悲しいほどに、まばらだ。既に二桁を切っていた。
「あ、ちょっと! もう……せめて運転手は置いて行ってくれないと。電車が走ってくれないじゃない。
……じゃ、仕方ないから私が操縦しよっかな?」
いかにも楽し気に言うと、真祖は両手を天に向け、むーっと伸びをした。
そして前方の、おそらく操縦席のある車両に向かって歩き出す。
しかし、その中途で停車しようとしていたはずの車両に異変が起きた。車輪がまた加速を始めたのだ。
周囲の景色は再び流れ出し、吹き付けた風が、真祖の美しい金髪をいたずらにもてあそぶ。
「あら? おっかしいの。誰だろ」
――今、話題の自動運転かしら。それとも、あの司祭代行が運転手だけは置いていったのかしら?
答えはどっちとも知れない。操縦席まで行けば、一目瞭然だろうとは思ったが、気が変わってそれは止めにした。
走ってくれるなら、それでいい。なんだか気分が高揚してしょうがなかった。
やたら大きな顔をしているパンタグラフは邪魔っけだけれど、ここの景色と風は割と気持ちいい。
「楽しみ、ねぇ……!」
もう一度、ぐーんと伸びをしながら真祖は言った。
視界いっぱいに広がる今日の空は曇天、太陽は厚い雲の向こう側。
昼間だというのに周囲はうす暗く、普通の人間ならきっと、暗澹たる気持ちになるだろう。
けれど、自分たちは違う。
――車内の座席で、その時を待っている、あの少年も同じ。
二人にとって、さんさん日光なんて、邪魔者でしかない。
「志貴? もうすぐ会えるね。どこで会う? 夜には晴れてるといいな。ううん、もし曇ってたら私が晴らすね。
お月様の下、十一時の鐘が鳴る時に、あなたは必ず会いに来る。そう決まってるの」
言葉にすれば一方的でしかなかったけれど、真祖の女にとっては、そうではない。これはれっきとした、双方契約なのだ。
最初、少年の側から切り出したのだから。彼には果たすべき義務がある。
「私は優しいし我慢強いから、昨日の嘘は見逃してあげる。志貴はいっつも忙しそうだし、それに必死だものね。仕方ない時だってあるわ。
だから今夜、あなたはその事を謝るために、時間ぴったり私に会いに来る」
不安定な足場にも関わらず、くるくる回る。全身に風を受ける彼女は、底抜けに楽しそうだ。
まるで、隣の席の気になる彼と、ようやくデートの約束を取り付けた乙女のように。
「なぜって二度目は無いから! 一度目でも危うく街を消し飛ばしそうになったのよ? そんなことされたら、きっと」
――世界だって、滅ぼせる。